神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

越後 春日山城と高田城 2

2024年02月03日 09時41分14秒 | 日本の城
 豊臣秀吉が死ぬと、まだ幼い息子の豊臣秀頼があとを継いだ
五大老筆頭の徳川家康は得意の狸寝入りをしていたが、唯一目の上のたん瘤、秀吉と若い時からの盟友だった前田利家が死ぬと本性を現した。
秀吉が禁じた大名同士の縁組も勝手に仕切り、五奉行筆頭の石田三成の抗議も無視、
しかし家康が手に入れたい越後は豊臣家の大番頭ともいえる忠臣堀秀政の長男秀治が春日山城30万石で入城、若い秀治を補佐するため家老として入城した堀直政がいる限り手が出せなかった。
秀治の父、堀秀政と堀直政は従兄弟で互いに若い時より羽柴秀吉、織田信長の出世に大いに貢献した猛将であり、家康とて一目置かねばならなかった

秀治は春日山城を廃城にして直江津に福島城を築いた。
しかし、秀治が死に、直政が死ぬと、堀家のお家騒動に乗じて越後国を手に入れた家康は全国の大名に命じて越後高田に防御力が高い高田城を作るよう命じた、完成後に福島城を廃城にした。
高田城には家康の六男、松平忠輝を入れて越後および信州川中島合わせて60万石の大名とした。

1610年の時点で家康の11人いた息子は二代将軍となった三男の徳川秀忠と六男の松平忠輝、大人はこの二人だけ、あとは家康が60歳を過ぎてから作ったまだ幼い九男から十一男、後に御三家(尾張、紀州、水戸)となる三人
あとの6人は皆家康より先に旅立ってしまった。

忠輝が兄の秀忠を立てて大いに忠誠心を見せれば目出度かったのだが、秀忠はのんびりとしてしょっちゅう家康に叱られていたから、それを見て育った忠輝は兄に従う気が無い。
むしろ自分の方が勇敢であり、才能もあると思っているから不満タラタラ
さすがに「おれが天下人にふさわしい」とは言えないが腹の中はわからない
後に大坂城攻めの時には秀忠の家臣を無礼討ちにしたり、家康に「大坂城と100万石をいただきたい」と言ってみたり
さすがの家康も自分が死んだ後で忠輝は秀忠に対してクーデターを起こすのではと疑念を抱く。
更にまずいことに「遅れて来た戦人(いくさびと)」超危険人物伊達政宗の娘が忠輝の奥方、政宗も未だ天下に未練を持つ野心家、しかも今が一番脂がのっている、さらに伊達政宗は南蛮人に近づき家臣をキリスト教徒にしたうえでローマに使節団を送った
正宗の領地の仙台には異国船がたびたび訪れていると言う、軍事面でも異国と手を結べば海上から江戸への砲撃の危険もある。
政宗が南蛮の武器を手に入れ、忠輝と手を組めば秀忠の将軍も危うい。
徳川将軍家が伊達に乗っ取られる危険性は無視できない。
ついに家康、秀忠の親子は決断、家康が忠輝を勘当留置、家康が死ぬと秀忠は家康の言いつけ通り有無を言わせず忠輝から越後の領土を取り上げ、信州諏訪に流罪とした。忠輝は92歳まで流人のまま生きた。

忠輝流罪の後、高田城には譜代大名の酒井家次が10万石で入城、越後領は分割されて、それぞれの小藩主に分け与えられた
その後も高田藩は続き、8家目の榊原家の時に15万石で明治維新を迎えた、高田藩は新政府軍の先頭に立って道案内をしながら奥州征討に向かった。

高田城、復元三層櫓



高田城公園は4月には桜の名所となり、4000本の夜桜は日本三大夜桜に数えられる。

高田城外堀  夏の午前には紅蓮で19ヘクタールの外堀全体が埋め尽くされる
その姿は東洋一と称される。

高田城内堀

まるで浮き城のような江戸時代の高田城



越後 春日山城と高田城 1

2024年02月02日 07時08分15秒 | 日本の城
 新潟県上越市には中世から近世にかけて2つの名城が存在する。
一つは上杉謙信の居城だった春日山城、もう一つは徳川家が天下を支配してからの高田城。

春日山城は新潟県上越市の海岸の直江津と内陸の高田の中間、春日山の西の山塊にあり標高は約180m、城の規模は2km四方と言われている。
別名「鉢ケ峰城」とも言われる、代々越後の守護代(守護の任地を任されて行政を行う代官)である長尾氏の居城。

築城は諸説あるが14世紀の南北朝時代ではないかと思われる、同地にある「春日山神社」の始まりは900年代、1400年代などの研究があるが定かではない。
春日山の名称は奈良の春日大社を分霊勧請したことに由来する。
(越後直江津の居多神社宮司で郷土史家の花ケ前盛明氏の著書「上杉謙信と春日山城」)

上杉謙信の上杉の姓は関東管領上杉氏(足利将軍の室町幕府から任命され関東一円の行政治安を司る役職、幕府の執事である上杉氏が世襲した)が小田原北条氏によって攻撃され越後の長尾氏(謙信)に助けを求めて来た後、管領上杉氏は北条撃退に力を注ぐ謙信と養子縁組を行い、関東管領職と上杉の姓を謙信に与えた、以後、春日山の長尾氏は上杉となる。

上杉謙信は、戦国最強と言われる甲斐(山梨県)の寅「武田信玄」さえ正面衝突を避けたほどの勇猛果敢な武将で「越後の龍」と呼ばれ、武神「毘沙門天」の化身とも言われ「龍」「毘」の旗を押し立てて戦場に臨み、自ら軍の先頭を走る百戦百勝の軍神、生涯に一度も負けたことがないと言われている。
まさに信玄と謙信は戦国一の「龍虎」であった、一回リ以上若い織田信長も、この二人が攻め込むことを恐れて何度も贈り物をして下風に徹したと言う
唯一、加賀の手取川で織田軍は謙信率いる越後勢と戦い、完膚なきまで叩き潰されたことがある。

謙信の父、長尾為景は、勇猛な越後の豪族で春日山城に居を構えて越中(富山)や越後の豪族や関東管領上杉氏や越後守護の上杉氏との戦に明け暮れた。
一時は越中攻の時に守護上杉氏に春日山城を奪われたが、取り戻した。

その為景が亡くなると、嫡男の晴景が跡を継いだが病弱(説)であり、栃尾城にいた弟の景虎(謙信)を呼び戻して春日山城主とした。
*海音寺潮五郎著の「天と地」では、晴景と景虎は米山峠で戦い、景虎が勝って晴景は隠居して景虎に守護代の地位を譲ったことになっている。

謙信は生涯独身で子供もいなかったので同族の長尾氏(六日町)に嫁いだ姉の子供を養子にした(上杉景勝)、更に小田原北条氏と和議を結んだときに人質として送られてきた北条氏の子息をも養子として上杉景虎の名を与えた。

謙信が後継ぎを決めずに突然死んで、後継者争いがおこった(御館の乱)
景勝と景虎の戦いで、いち早く春日山城に入城した景勝方が優勢だったが、直江津の守護屋敷(御館)に籠った景虎方には小田原北条からの援軍、更に北条と同盟を結んでいた甲斐の武田勝頼も景虎に援軍を送ったので、形勢は景勝方に不利になった。
越後国内の豪族たちも二つに分かれて各地で戦が起って、越後動乱の様相となった。

絶体絶命の景勝方だったが、景勝の参謀には直江兼続がいた。
兼続は武田勝頼に手をまわし、越後の黄金と越後糸魚川にある領土を譲ることそして縁組を条件にして武田軍を味方に寝返らせた。
これによって、北条と武田の同盟は瓦解した、のちに武田氏が滅ぶ一因となる。

再び形勢は逆転して、平場の館にいる景虎方は不利になり、ついに景虎は小田原目指して逃げたが、途中で追手に追いつかれて自刃して果てた。
上杉景勝が新しい越後の支配者となった、しかし越後人同士の殺し合いで越後は疲弊し、兵数も大幅に減少、春日山城も双方2万近い兵の戦で大規模な修理が必要となった。 越後の力は大幅に削減されてしまった。

一方で畿内で大きな力を得た織田信長は1582年の春には宿敵だった甲斐の武田勝頼を滅ぼし、越後の上杉景勝を次のターゲットに定め、北越後の豪族に反乱を起こさせ、越中からは佐々成政を魚津城に攻め込ませて落城させ、信州口(長野県)からは森、上州口(群馬県)からは滝川の大軍を越後に侵入させて、越後国境に迫った。
兵数が1万にも満たない上杉勢は味方の反乱、三方からの敵の侵入で風前の灯火であった。

ところが、そんな時、京都の本能寺で織田信長は宿老の明智光秀の謀反であっけなく死んでしまった、しかも嫡男の織田信忠も討ち死にした。
越後に攻め寄せていた織田方は総崩れとなって逃げだし、上杉家は息を吹き返し越中魚津城、信州川中島に兵を進めた。

その後、織田家の内紛を制した豊臣秀吉は上杉景勝に対し、越後の安泰を約束して臣従させた。
天下統一した秀吉は、金の産出量が多い越後を景勝から取り上げた、代りに会津と米沢、従来の領地だった山形の庄内地方を与えて120万石の大大名とした。
そして豊臣政権の大臣と言える五大老の一人に抜擢した。
春日山城には秀吉の天下統一の功臣である堀秀政の息子、堀秀治を30万石で入れた、秀治は直江津に平城の福島城を築城して春日山城を廃城にした。

冬の春日山城 緑に覆われる春から秋にくらべ城の様子がわかりやすい
尾根の、写真中央のやや右の木の中に小さな小屋のようなものが見える
謙信が瞑想や戦勝祈願に籠った「毘沙門堂」である。
尾根の辺りが本丸で、徒歩で行くことができる。





急峻な山城


すぐ隣の春日山神社にも参拝した、商売繁盛の神様だそうだ。
今年に入って四社目の参拝。





神社付近から高田平野と市街地を望む


上杉謙信公の銅像が越後の山並みを見ている


*戦国時代
足利将軍の室町幕府の権威が落ちて、全国で下位の豪族が上位の豪族(大名)を追放や滅ぼす「下剋上」が起った。
ついには将軍さえも部下に追われる時代になり、日本の政治秩序が崩壊して日本中で戦が始まった。
一般的には1467年の応仁の乱が戦国時代の始まりとされている
戦国時代の終結は、1616年に徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼした大坂夏の陣とされ、約150年間を戦国時代と言う。
武田信玄、上杉謙信の最盛期は1550年代、織田信長の最盛期は1570年代
豊臣秀吉の最盛期は信長の死後、徳川家康の最盛期は秀吉の死後。

戦国5大カリスマ通信簿
山梨県 武田信玄 戦闘力90 知謀策略95 拡大実績25 忍耐80 後継者20 人間性35 政治65  人使い80
新潟県 上杉謙信 戦闘力100 知謀策略30 拡大実績10 忍耐30 後継者80 人間性100 政治40 人使い50
名古屋市 織田信長 戦闘力75 知謀策略70 拡大実績75 忍耐50 後継者40 人間性15 政治95 人使い100
名古屋市 豊臣秀吉 戦闘力80 知謀策略100 拡大実績100 忍耐90 後継者10 人間性90~30(晩年の残虐性) 政治80 人使い80
愛知岡崎 徳川家康 戦闘力75 知謀策略80 拡大実績70 忍耐100 後継者100 人間性80 政治100 人使い75

「織田がつき 羽柴(秀吉)がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川」
となれば、「信玄が準備の臼と杵、謙信が届ける餅米を」を頭に持ってくれば、なおよろしかと。

お城巡り(2)

2021年10月03日 19時20分25秒 | 日本の城
朝夕肌寒く、日中は蒸し暑いこの頃の気候、汗が出たりくしゃみが出たり
いよいよわが町でも中学生の接種が始まりましたよ、最近は子供とその親年代の感染が多いので本気モードになったんですかね?

昨日は大都市の解除が始まって初の週末、我が家の食堂にも先週の2倍くらい見えました、今日も若干多めだった
わが店で法事を20人くらいで行う予約が入りだしてきました、これに勢いがつけば少しはやる気も出てきますけどね
宴会はどうなんでしょう? まだまだ年内は大口は無理だと思います

全国のお城を巡るほど今日まで余裕がなかった私は関東甲信越、北陸近畿、南東北をまわったくらいです
先日は初めて新発田城へ行きましたが、もう少し北には村上城がある
、でも新潟県は長すぎて遠くて秋田にでも行ったついででないと無理でしょう
そのわりには会津若松城は何度か行きました、前回は新装なった若松城でびっくりしました
戊辰戦争ではもっとも悲惨な戦争が行われた会津、余力がない日本に原爆が落とされたと同様に会津も最初降参したが政府軍は許さず多くの会津士や市民を殺害した
戦争の終結にはこうした勝者によって非情な見せしめがなされる「俺に逆らえばこうなるぞ」と言いたいのでしょう
会津の支城だった米沢城は秀吉が直江兼続に与えたけれど関が原で敗れた上杉家が4分の一に削られてここに押し込められた
今は天守もなく上杉神社になっていて広い堀と石垣が当時をしのばせている?のかな?

北陸では丸岡城が国宝だったが壊れて補修したために1ランク下がったとか、行ってみたけど小さな天守でした、でも古くて味わい深い
加賀百万石の前田家金沢城は観光名所として100間大廊下などを作った、なんといっても兼六園が素晴らしい、前田家のお庭なのでしょう
100万石なんだから姫路城みたいな天守をど~んと建てたらどうでしょうか
金沢の皆さん頑張ってください
富山城は旧8号沿いにあって天守はなく隅櫓が建っている、でもなんとなく城の雰囲気があって近いから何度も行った
前田家の分家だから辛いこともあったのでしょうね

近くと言えば夜桜の名所100万人の夜桜高田城、石垣と堀だけが大きな規模で残っていて自衛隊も同居するが、三層の櫓を作って観光の目玉になった
夜桜と堀に映る三層櫓は小さいがインスタ映えする

信州だと松本城の他には高島城、そして上田城、小諸の小諸城址と懐古園、天守台しかないが急な崖が落ちている西側には千曲川を望む
都市にある城と違っ小諸城はワイルド感がある、たしか檻に入った小動物園があったと思う
あとは中野だったろうか高梨館も見たことがある、上杉家と親戚だったとか聞いた覚えがあるが?どうだろうか
このごろ記憶力が次第に薄れていく気がする、これはやばい!コロナボケかもしれぬ
東海では家康が生まれた岡崎城に行った、趣があった、ちょっとおせっかいなガイドさんがついて時間が無くなった思い出
これは小田原城でもそんなことがあった

東海道には浜松城など名城がいくつかあるが、静岡県は我らの真裏なので遠くてめったに行くことができない

これから絶対行きたい城は熊本城(新婚旅行で熊本で泊ったのに行かなかった!悔しい)、首里城は壊れる前に行っておいてよかった
四国は高知城、松山城、今治城などいくつもあるし、中国の広島城、松江城も行きたい、岡山城は行った、後楽園も楽しめた、高松の栗林公園もすごく良かった
伊賀上野城も行きたい、浜松城、青森弘前城 伊達政宗の仙台城は行ったことがある
これからこれから お楽しみ  まとまりのないブログになってしまった




それとは逆の名城が松本城です、三度天守まで登りましたが一度は鉄砲や大筒の展示がされていて為になった
日本には江戸時代までのままの天守が残っている城は10だけだとか明治維新までは全国で数百の城があったのでしょうがほとんど破壊された
だから残っている城は現代風に改造したり天守内部が博物館みたいになったりでちょっとがっかりします
名古屋城、大阪城、会津若松城もそんな感じになっていましたね、和歌山城はまだよかったと思います
彦根城は関西に行くと時々立ち寄ります、あの城はいいですね、城下にある殿さまの御殿もとても松などがきれいで天守閣も望めるし規模も大きい
だから天守だけでなく二の丸、三の丸の御殿やお庭、〇〇園とかがあると楽しいですね
姫路城も広くて二の丸の庭園などにも行きましたが途中からゲリラ豪雨にあって大変な目にあいました、初めてだったのに残念
大坂城は内部はともかく規模としてはとても大きくて駐車場から歩いて天守に向かったがなかなか着かない、あれでも戦国時代の規模よりずっと小さいから
(豊臣の大坂城ではないが)攻める側が苦労したのもわかります
岐阜城はケーブルで上がっていくくらい急で高い山の上にある、ケーブル駅からも山道を歩くし険しい山城です、二度行きました
近くの犬山城も二回行ったけど規模は小さいけれど長良川だったか川の景色がとても印象に残っています

お城巡り 越後、越中、信濃の山城中心

2021年10月02日 19時36分39秒 | 日本の城
戦国時代の戦記小説に夢中になったのはいつごろからだろう?
中学、高校までは日米戦争のドキュメンタリーに夢中だった、父が旧日本軍の戦記雑誌「丸」をずっと購読していた影響だ
20代中ごろには日本海軍の艦船プラモデルをずいぶんとたくさん作った、30cm以上の空母、戦艦、そして凡ての艦船200数十隻の500分の一だかのシリーズ
駆逐艦などは10cm程度の大きさであった、それがそろっていくと艦隊を組んだりして楽しんだ、だが結婚してからそれは終わった

だから、そのあたりから戦国時代の国内戦争にシフトした気がする
「歴史読本」という本を購読しだした、早乙女貢「会津士魂」と新田次郎「風林火山」だったろうか?夢中になって呼んだ
武田信玄の北征、村上義清との激闘、川中島で初めて見たまだ20歳そこそこの天才、越後長尾景虎(上杉謙信)の不気味な軍団との初顔合わせ
信濃の武将と違った強敵のオーラを感じただろう、それは長尾景虎も同じで侵略者武田信玄の出現に闘志を燃やしたはずだ
その場面が一番ワクワクするが、そこの心理描写を書いた小説に未だ出会っていない

上杉謙信の居城、春日山城には2度登った、山城は見学ではなくハイキングだ
平城が普通になる前はたいがい山城で、山の尾根や山頂を整備して守りを固め
上越市の北東部頸城郡には上杉家臣の山城がたくさんある、だが山深く熊が怖くて行けない
それで上越の南西、糸魚川西頸城にある山城は海から近いのが多い、上杉一門の山本寺氏の不動山城2回登った
国境親不知の勝山城も2回登った、上杉景勝と豊臣秀吉が会見した城という伝説がある
越中側の最前線宮崎城には3回登った、海が真下に見える本丸跡は最高の眺めだ 能登の七尾城入り口は何度も通ったがやはり熊が怖くて行けない

武田信玄の躑躅崎館は一度行った、宝物館も見てきた、ここは守りが緩そうな平城というより館だ、だが後方に守りの固い山城があったと聞いた
武田氏は常に国外へ攻め込んだので甲府を守る戦争は、織田信長に攻め滅ぼされた最後の戦い以外なかったのだ。

信玄に信濃の大名は領土を奪われ、臣従するか殺されるか逃亡するかだった
松本城の小笠原氏は逃亡し、諏訪氏は臣従したが謀殺されて娘を妾にされた、その子が信玄の4男武田勝頼だ
諏訪湖に面した高島城にも行った

木曽氏は臣従して縁戚となり、上田の剛将村上義清は2度までも武田晴信(信玄)を大敗させたが力尽きて謙信のもとに身を寄せた
糸魚川で山城、根小屋城を与えられた
松本の南、高遠城は武田氏が滅ぶときもっとも華々しく戦い散った城である
武田勝頼の弟、仁科五郎盛信が10万の織田軍と戦い散った
木曽氏や武田の一族、重臣が相次いで裏切った中での忠臣が際立つ
今は桜の名所として観光地になっている、ここも花見で三度行ったが規模の大きな城だ

上田城は3回行った、これは真田氏の城で、ライバル村上氏は葛尾城など複数の城を持っていたが、上田インターの近くの坂城Pからそれらが見える
真田氏の出身地は上田の北東の真田の庄、ここに真田本城跡がある2回行った
山城の姿が見えて面白い
真田というと岩櫃城が面白い、険しい断崖の山に築かれた難攻不落の城、武田の家臣だった真田昌幸が武田勝頼を匿うと言った城である
国道から何度か見たが登った事は無い、テレビで見たような気がする





思い出一人旅 安土城 後編

2021年06月21日 16時04分59秒 | 日本の城
那古屋で生まれ育ち、兄弟や親せきと殺し合いをして尾張一国を手に入れた織田信長
敵があれば味方もある、人間の才能を見極める名人だった信長
貧乏百姓の倅だった秀吉を雇い、忍者か何か得体のしれない滝川一益を雇い
いずれ目の上のたんこぶになる徳川家康を信頼して最後まで同盟関係を維持した
敵対した弟を殺したが、その重臣だった柴田勝家を許し腹心の部下にした
三好長慶と組み京の都で悪事の限りを尽くした松永久秀を取り込み、大和の国内を任せてある筒井順慶と競わせた
戦国武将でありながら革命的、文明的、先進的、商業主義、国際的視野
生きざまは同時代の戦国大名を凌駕している、ほとんどが一次産業を基盤としてのに対し、信長は六次産業化していた
積極的に欧州人を招き、キリスト教布教にも力を貸した、それは国内の小競り合いなどは早く片付けてアジアと言う大きな地図の上で世界と競う目的
秀吉もおそらく信長の影響を受けて大陸の明国を征服する野望に燃えたのだろう
でもよく考えれば信長は450年くらい前の人、そんなに大昔ではない

尾張には海がある、海があり港がある所は全国や外国と交易が盛んだから人なれしていて垢ぬけている
様々な全国の情報や物が入ってくるから知恵もつく、人をだましても騙されない、着るものも華麗になる、お金も動く豊かになる
だから早くに兵農分離を果たした、弱い足軽に鉄砲を持たせて遠くから敵を倒した、個々に鉄砲をもった騎馬中心の武田が敗れたのは必然だ

だが信長はゆったりとした海のような広さを持つ琵琶湖に恋した
琵琶湖を眼下に眺める安土に城を築いた、あの位置だと琵琶湖の向こうに夕日が沈む、そこには明智の坂本城がある
秀吉には安土に近い長浜城を与えた、長浜でも夕陽が見えるだろう

急な坂が終わり本丸に近づいてきた感じがする、石垣と石垣の間が狭まり急角度で敵を誘い込む



常に道の正面に石垣がある、ここには塀や櫓が建っていて敵を狙い撃ちだ



いよいよ心臓部か?

まだまだ奥があるぞ


ここは門か櫓か?

まだ石段が続く

おっ! 天守か?

また石段


広い林の平地 二の丸? 三の丸?





最後の詰めか?

これが天守跡か? 基礎石か?


山頂からの眺め 近江の平野を望む



あの川は何川?だろう
あの山は?




天守の下に何かが見える 行ってみよう




織田信長公霊廟
本能寺で討ち死にした信長公を秀吉か家康が奉ったのだろうか


帰路 二の丸跡に立ち寄った

途中から文化財クラスの寺院跡を通るコースもあったがこれ以上いたら家に着くのは深夜になってしまう
今度また来た時に行ってみよう    おわり

思い出一人旅 「安土城」前編

2021年06月20日 18時31分37秒 | 日本の城
和歌山城-南紀白浜温泉-法隆寺-平城京跡-奈良-唐招提寺-安土城と歩いた数年前の一人旅
今回は、その中から安土城をピックアップしよう
二泊三日の旅だったが最終日は奈良からどう帰ろうかと考えていた
京都に出て北陸道経由で行くのは、もうマンネリで面白くもなんともない、そこで考えたのは伊賀上野から伊勢方面に出るルート
土地勘が無いのでいったいどれだけ時間がかかるか見当がつかない
翌朝出発して、まずは唐招提寺へ向かった、ここは二回目で前回は修繕中で本堂見学ができなかったが今回は国宝の仏像に対面できた
それから薬師寺に向かったが駐車場がわからず何度も回ったが結局、あきらめた
こんな風に時間をとってしまったので、伊賀経由はあきらめた結局安全ルートの北陸道になったのだ、小雨っぽい感じになった
これはもう直行して帰ろう、5時頃には家に着く、そう思って走り出したのにせっかくここまで来て伊賀上野城、大和郡山城を見られなかった無念が
琵琶湖サイドを走っていたら安土城を思い出した、以前安土城の前を二三度通過した記憶があった、ナビを見たらICから30分
かなり無理があったが行くことにした、今を逃すのが一番いやだ
そして到着、雨は降っていない、駐車場に止めて少し歩くと長くて低い石垣と案内看板があった
なんか村の雰囲気



名古屋清州城から始まった織田信長の人生、小牧山に城を築き、そして美濃の斉藤家を追い払って稲葉山城を得て城下町を「岐阜」と改めた
そこで「天下布武」の大望を抱いたと言われている
北近江(滋賀県)の浅井長政に妹のいちを嫁がせて義兄弟となり同盟を結ぶと
南近江の六角氏を追い払って京への道を開いた
ラスト足利将軍、足利義昭を奉じて京の都に進軍、そこで前将軍を暗殺した三好を追い払って天皇の信頼も得た
京により近い琵琶湖のほとりに誰もなしえなかった天守を持つ巨大で華やかな安土城を築いた
信長が、この城で得意満面とした歳月はわずかであった、本能寺で家臣の明智光秀に討たれると同時に安土城天守も焼け落ちたのである

大手門付近


この急な石段を信長の家臣たちは登城したのか? たいへんだあ

左右は要塞化されて強固に見える



信長に与えられた豊臣秀吉の屋敷跡
重臣は城の中に屋敷を与えられていた

大手口に続く高い石垣、まさに要塞堅固


ここにも大きな屋敷の土台が見える

城内の寺


急な石垣はまだまだ始まったばかり、息が切れてきた

上から見たらこんなにも急

まだまだ へばるな!

ここも誰かの屋敷跡

林の中を行く ほとんど登山状態


信長の嫡男、織田信忠の屋敷跡はだいぶ上にあった
総大将となり、秀吉や家康に采配を振って、武田勝頼を攻め滅ぼした
信長の後継者としてかっこたる地位を築いたが信長と共に京で光秀に討たれた

                つづく

昭和史 半藤一利さん逝く

2021年01月13日 17時48分02秒 | 日本の城
昨夜は雨、今、予報より早く青空が見えてきた
屋根雪からの雨だれが、あちらこちらで見られるようになった
屋根雪が落ちてくる
1立方m程度だと、「どっ!」もう少し多いと「どーん!」、地滑り的に落ちてくると「どどどどどどどど~~~ドドド ドタ!」
この下敷きで何名かの犠牲者が出ている

私は毎日の除雪で、腰に違和感、昔小指を骨折した右手が腱鞘炎のように違和感
治るまでに数日かかりそうだ、コルセットとサポーターが離せない
幸いに腰痛などの段階には進んでいない、わりと骨と筋肉は丈夫にできているようだ

半藤一利さんが亡くなられた
私も「昭和史」を二.三度読み返したファンである
「最近の人たちは歴史(昭和史)を知らなさすぎる、丁寧に慎重に教えていかないといけない、だが丁寧過ぎると嫌がられるし...」
と、インタビューに答えていた

わたしもまた、源平合戦、戦国時代と維新前後から日露戦争まではかなり知っているつもりだが
①「奈良飛鳥~平安時代」②「太平記」の鎌倉時代の前後「応仁の大乱」「北条幕府」や③「大正時代から日中戦争(昭和15年頃」までが空白だった
その③の空白を埋めてくれたのが半藤さんの「昭和史」だった
知っていたようで何も知らなかった戦前昭和の歴史を詳しく教えてもらった

ノモンハン事件などソビエトとの局地戦争、名前は聞いたことがあるが詳しい内容を問われるとわからない
2.26事件や5.15事件の原因や内容、軍隊の中にも皇道派、統制派という考え方の違いがあったこと
陸軍と海軍の戦争論の違い、政治家と軍隊との戦争と平和の確執など書かれている
そのひとつ、ひとつの出来事にドラマがあったのだ
最近読んだ「吉田茂」「「山本五十六」「東条英機」「白洲次郎」などとダブるわけで
いろんな角度から一つの歴史の流れを見ると立体的に理解できて面白い
歴史の魅力は年号覚えではなく、一つの時代の一つの出来事を、敵味方双方の人物がそこに至った経緯を知ることだ

どんな事件であれ業績であれ、誰かがきっかけを作り行動、実行をすることでおこる、そしてそれが歴史になる
ユダヤ人を大量虐殺したのはヒットラーと言う一人の人間がドイツを支配したことで起きた
同じように織田信長は比叡山や長島、本願寺相手に僧侶や信者を大勢殺戮した
原爆を開発、投下するように命じた権力者もいたわけで、それが人類の歴史として今に伝えられている

明智光秀が織田信長を殺したことで歴史は変わったのだった、決して日本の王になれなかったはずの羽柴藤吉郎、徳川家康が浮上した
光秀が京都を素通りしたならば、近い将来織田信長が天下を統一し、織田信忠が後を継ぎ。織田幕府が生まれたかも
そして徳川幕府とは全く異なった、海外貿易で世界に乗り出す日本の姿が見られたかもしれない
日本の欧州化、近代化、文明開化は250年早く起きていたかもしれない

脱線したが戦争までの「昭和史」は戦後人の感覚では理解だきないことが多い
まったく正反対の国が出来上がったのだから
その基本は教育であり、その教育は戦前は明治以来の政治家によって、戦中は軍部によって、戦後は占領者によって行われた
この時代を生きたわが父たちの世代は、目まぐるしく変わる指導者たちによって翻弄された

いつの時代も、その時代の政治体制に従順だ、反発しているようでもそんなことは為政者は計算済みだ
いつの時代でも、許される許容範囲までは自由である、民主主義も許容範囲の中から脱出することはできない
許容範囲を打ち破るとしたら、それは革命であり、ヒットラー、レーニン、薩長連合なのである
それは既存の許容範囲が弱まった時に起きる

古今東西、稀に許容範囲が打ち破られる、それが歴史の転換期なのだ、動乱の時代なのだ



さかきパーキングに武田氏の戦場を想う

2019年09月25日 19時34分26秒 | 日本の城

随分前から理屈屋さんの間で話題になったこと

新潟県には上越新幹線が走っていて、それは新潟県上越市を通って居なくて

東京から越後湯沢を通り、長岡市を通り、終点は新潟市、それらの町は新潟県では

中越地方と下越地方であり、上越地方とは反対の方角なのだ

こんなバカな話があるかと上越地方は憤慨したが、上越線の上は「上野の国」すなわち

群馬県で、越は勿論「越後国」新潟県なのだ、だから群馬、新潟を通る「上越線」となり

新潟県を三分割した上越地方とは何ら関係ない。

なんと言っても、開業の頃は新潟県の田中角栄首相、群馬県の福田赳夫、中曽根康弘

という巨頭が日本を支配していた時代だった。

 

さて全く関係ないけれど長野県を走っている「上信道」高速道路だ

これは調べてないから推測になるが起点と終点がよくわからない、北陸道との接点は

上越ジャンクション、関越道との接点は冨岡ジャンクション

結局ジャンクションが基点になるのだろうか?

まあ、そんな理屈はどうでもいい、でも上信道の上と信・・・信は信州、上はやはり上野

が正解なのかも

 

随分長くなったけど、本当はその上信道のさかきPからの景色について書きたかった

さかきPは上田ICの近くにある。 以前は地味なPだったが近年コンビニが開店して

急に人の数が多くなった

ここはちょっとした高台にあるので眺めがとてもいい、眼下には千曲川が蛇行して流れ

坂城の町並み、戸倉上山田温泉へと続いている

ここから見える山や地域を記した案内板を見て驚くのは、見える範囲だけで5~6の

山城があることだ。

戦国時代には、これほど山城が密集していたのかと驚くばかりだ

このあたりは村上義清の縄張りで、そこから近い北には真田一族の縄張りが広がっている

このあたりの主導権争いを両者はしていたらしいが、真田が負けて上州へ逃げ延びた

その後、甲州の武田晴信(信玄)が力をつけて信州を侵略侵略してきた

現在の中央線に沿って信玄の棒道(当時の騎馬用の軍事高速道路)を造って北上し

塩尻峠で諏訪氏らの中信連合軍を破って、諏訪を占領、更に北上して松本平の

信濃守護小笠原氏を駆逐した

そして八ヶ岳の西から北上して佐久を占領、更に上ってついに信濃最強の村上義清と

対峙するに至った

勇猛果敢な村上勢は二度戦って二度、武田晴信を追い払った、最初の上田原の戦では

晴信の参謀板垣信方など有力武将が討ち死にして武田勢は大敗して逃げ帰り

二度目は村上方の砥石城攻めが失敗して、再び武田勢は這々の体で逃げ帰ったのだった

村上義清の居城葛尾城がさかきパーキングの右手に見える、大きな長い尾根が千曲川に

下りて行く、その尾根のピークが葛尾城なのだ

対岸にも三つほど山城があると案内板に書いてある、それらがどの側の城なのかは知らない

左手にも城が案内してある

武田晴信が大敗した砥石城は葛尾城の北にあり、真田の本拠地と川を挟んでにらみ合っている

位置関係だ、もともと真田方の居城だったが当時は村上は武田の先代、信虎と同盟していて

敵の真田(海野一族)を破ってこの城を占拠したのだった

その後、武田晴信は父親の信虎を駿府の今川家に追い払って家督を奪い取り、村上等との

同盟を破棄して信州へ攻め上ったのだった

しかし二度も大敗して意気消沈、「村上強し」がトラウマとなった

ところが武田晴信が大軍で押し寄せても落とせなかった砥石城はいとも簡単に落城してしまった

それは今や武田家の家臣となった真田氏が、かっての居城だった砥石城を調略を用いて

占領してしまったのだ

真田氏が武田のバックアップで追われた故郷を取り戻した瞬間だった、これで武田の勢力は

盛り返して攻勢に出て、村上義清を圧迫、ついに義清は葛尾城も放棄して、越後の長尾景虎

(上杉謙信)を頼って落ち延びていった

以後、善光寺平まで勢力を伸ばした武田信玄は越後の龍、上杉謙信と長い戦いに引き釣り

込まれていくのである(川中島5度の合戦)