神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

聖子ちゃん

2024年03月08日 09時21分40秒 | 音楽
日本人の歌好きは戦後から多くの歌を聞いて熱狂してきたのは「ブギウギ」の通りで、戦争も終わり、敵国音楽も今や口ずさみ楽しんだ。
本格的ないぶし銀の技というのではなく、大衆向けで10年20年続くヒットメーカーと言えば、プレスリー、美空ひばり、三波春夫、ビートルズ、タイガースと和洋入り乱れ、さらに松田聖子、キャンディズが登場してくる
未だに「聖子ぶりっこ」の面影を残して時々テレビで見かける。

私は正直なところ聖子ちゃんは作られたアイドルと思って、少しも興味が無かった、ところが昨日聞き直してみれば、たちまちはつらつとした歌声に引きずり込まれて、あの昭和の華やかさが蘇って来た。
松田聖子が、こんなに歌がうまかったとはしらなかった、「聖子ちゃんごめんね」

今の日本は株式だけが「日本経済最高!」と喝采だが、多くの庶民は白けている、現実に生活保護を受けている世帯が約165万世帯、この一年で申請したのは25万5千件だという、いずれも調査開始の2013年以降最多だという。
しかも若年層にまで広がってきているということだ
原料費(仕入れ)の高騰に経営が圧迫されている新潟県の企業は9割にのぼるそうで、解決策は値上げしかなく、すでに動き始めているという
そうなればますます物価が上がる、政府は高収入企業に賃金値上げを要請し、景気の良い賃上げが新聞をにぎわしている。
しかし地方の零細企業は上げれば経営圧迫、上げなければ社員の貧困の板挟みだ、当然ながら年金生活者の暮らしの貧しくなることは労働世帯の比ではない
老人は「食べない、出かけない」から大丈夫などと言ってほしくないが、辛抱強さで我慢しているうちにお迎えが来るか・・・。

という暗い世相ではありますが、聖子ちゃんの歌は元気づけてくれます、いまや聖子ちゃんは私のアイドルです。
聖子ちゃんも10日で62歳になるがさすがは芸能人若々しい、もと亭主の神田正輝は私と同年生まれだから、それほど違和感はない。
気持ちが落ち込んだ日は聖子ちゃんと拓郎くんの歌を聞いて元気を出します。










天性のバイオリニスト「HIMARI」

2024年02月06日 09時03分54秒 | 音楽
 夜が寂しい・・・「年甲斐もなく」とおっしゃるなかれ、意味が違う
私の部屋にはまったく音が無いのだ
テレビもオーディオもなく、DVD機器とモニターテレビ、それとパソコンとラジオがあるだけ。
自分の部屋のテレビが故障して以来、テレビは居間、オーディオもそれぞれ別の部屋にあって、「ながら族」の私にはつかえない部屋になっている。
それで近いうちにラジカセを買おうと思った、しかし近頃は退屈な夜は解消されつつある、ブログに時間を割くのも解決法の一つだが、音楽を聴くことを覚えたからだ。
「youtube」がそれである、今までもyoutubeは見ていたが、日本を褒めたたえる記事、ヘイトに関する記事、戦争の記事、そんな語り系ばかり見ていた。

ところが「HIMARI」のバイオリン演奏を見てから急に音楽系のyoutubeに目覚めた、とうぜんながら今までも60年代のサウンズなどは時々見ていたが、クラシックは年末の「第九」以外見たことがない。
それが心を洗われるような「HIMARI」の演奏に夢中になっている
毎日30分~2時間も聴いている。

「HIMARI」=吉村妃鞠 今は12歳だろうか? 5歳でデビュー世界の音楽コンクールに出て、常に優勝をしている国際的な少女バイオリニスト
7歳ころの動画が一番好きで、同じ動画をもう10数回見ている。
外国人の審査員が全員満点をつけて「この上の点数があれば、それをつけたい」と言ったり、審査員がアンコールを求めるなど信じがたいことが起きている。
感激した前澤友作氏が所有する最高級バイオリン、「ストラディバリウス Hamma」を貸してあげたそうだ。

小学校で言えば1~2年生が15分から25分もの間、子供らしからぬ高度なテクニックを用いて、しかも譜面もなく延々とパートを一度の間違いもなく弾きこなしていく姿には感動以外ない。
細い腕、小さな手ですばらしい演奏をする、いままで退屈だったクラシック(だからじっくり聴いたことがない)、それがHIMARIを知ってから、毎日聴いている。
表情が良い、空気の中に溶け込んでいるような無表情に見えて素晴らしい生き生きとした表情がある
あんなに小さいのにプロのオーケストラの中で淑女となって立派に堂々とふるまう、礼儀正しく、そのくせ子供のままなのだ、感動せずにいられない。
今は多分12歳と思うが、欧州の世界の中でも一流になりうるクラシック子弟が学ぶ大学に留学して18歳以上の大人学生に混じって毎日猛練習をしているという。

中学校や高校の勉強はどうするのか?などと野暮な考えは持たなくても良い
その道で彼女はもう大人以上の大人に成長している。
我々凡人は、その道を見つけるために小学校から大学まで学び続けるが、彼女は小学生の時点で自分の人生を見つけたのだ。

同じ年代の小、中、高校生クラスのバイオリニストよりも明らかに勝っている
クラシック演奏に全く素人の私でも伸びのある音色、高音、低音、タップ、ピッキング、強弱、激しさ、やさしさ、スピードの遅速、指先の動き、さらに表現不可能なテクニックがわかる。(以上の言葉は、無知な私が知っている言葉を羅列しただけである)

彼女はもう大人のプロ奏者並みなのだろうか? そんな疑問を持って大人のプロ演奏も5人ほど聴いてみた
彼女との違いで一番感じたのは、大人の力強さと自信だった
音が力強く走っている、HIMARIはまだまだこの域には達していない
野球でも高校野球のトップ選手と一流プロ選手に大きな差があるのと同じだ
気づいたのは、やはり体ができているか、いないかの違いだ
センスや技術は子供であっても天性の部分では変わりないと思う、しかし野太い音や、力強い音が筋肉量の少ない子供には出せない

やはり大人のプロは大人のプロだ、HIMARIにはまだ目指すところがいっぱいある、だからこそ今、学んでいる。
体もこれからは大人になっていく、楽器のサイズも変わるかもしれない、今まで使えなかった楽器が使えるかもしれない
精神的にも、感情面でも変化が起こるかもしれない、とてつもない音楽家になるかもしれないし、平凡な音楽家で止まってしまうかもしれない
けれど彼女が20歳になった頃に今のままの成長を続ければ、プロの中でも際立った世界的な存在になることは間違いない。
これから先もずっと注目していきたい演奏家だ。

大谷選手が世界一クラスの選手として今活躍しているが、彼女もバイオリン界の大谷クラスになれることを祈る。

興味がある方はyoutubeでご覧ください。
彼女のおかげでクラシック音楽に目覚めそうです、それと「さよならマエストロ」の影響も大きい
今年はクラシック音楽に目覚めてしまうかもしれない。




最近の音楽事情

2023年12月15日 11時08分06秒 | 音楽
 近年の暮らしでもっとも不足しているのは読書量と音楽鑑賞だろう
読書の減少は視力の変化が原因と思われる、本当は毎日何かしらの本を読んでいるが、時間が短くて10分から長くても30分といったところだ。

音楽鑑賞はレコード、CDを聞く時間が極端に減った、車もカーオーディオの故障でCDが聞けなくなってラジオばかり聞いている、おかげでラジオ番組はBSN(新潟)KBS(富山)SBC(長野)を比較できるくらい詳しくなった。
そのかわり聞きたくなるとYoutubeで聞くことが増えた、長い時は2時間近く聞いている。
それと吹奏楽団のコンサートを聞きに行く回数が増えた、もちろん田舎だから地方のアマチュア楽団や小ユニットの演奏だ。
ロックライブは見に行くことがなくなった、最初から椅子席が無くて立って熱狂する歳ではなくなったからだ。
今は家で映画音楽やジャズボーカルを静かに聴いているのが良くなった

先日の夜、知り合いの事務所の前を通ったらまだ明かりがついていたので寄って見たら、事務仕事をしていた。
彼は以前は市民オーケストラの団長をしてトランペット吹きでもあったが、最近退団して、今は隣町のジャズバンドに入ってトランペットを吹いているそうだ、女性歌手のボーカルもあるというから興味津々。
今度演奏会があったらチケットを欲しいと頼んできた
プロは当然ながら素晴らしい演奏だが、アマチュアバンドでも、アマチュアの耳しか持たない私には十分楽しむことができる。

昔はビートルズだストーンズだと一理屈こねたりして楽しんでいたが、今は理屈抜きで曲を楽しむだけになった。
道具に凝ることも音響環境を考えることもない
そこにある身の丈に合った道具を使って聞くだけだ、当然音質など良いはずもなく、それはライブで楽しめばよいと思っている。

聞くのも良いが、やはり歌うのが楽しい
年金暮らしになって、仲間と飲みに出ても二次会に行く回数も極端に減って1年に3~4回になったから、(現役の時は3次会は当たり前で月4~5回は行ったものだが)カラオケを歌うことも無くなった。
これからは歌いたいときにカラオケボックスで歌うことを覚えたいと思うが、これがなかなか出不精で(カラオケに関しては)思い切りが必要だ。

人生に音楽は切り離せない、カニを外している時も頭の中でリズムを聞いている。
録画したテレビドラマはオープニングに流れるタイトル曲は全て聞くか、早送りで飛ばすかどちらかだ。
最近のドラマで聞きほれてしまうタイトル曲は「コタツのない部屋」の石川さゆりさんの「ダメ男数え唄」、思わず腰を振ってしまう。
このドラマの為に作った曲なのだそうだ。
もう一つは「うちの弁護士は手がかかる」のテーマ曲、ローリングストーンズの新曲「アングリー」、リズムも良く、ミックジャガーの齢を感じさせないセクシーな腰ふりには参ってしまう。
                         以上







レコードの虫干し

2023年07月06日 10時15分08秒 | 音楽
エンジェルスお疲れ様 3連敗スィープでドジャース戦突入
大谷もお疲れ気味で、打撃も精彩が無い 力ない二塁ゴロばかり
ネビン監督もイラついて今期4回目の退場だ


同じルーティンが続くようになると新たな刺激を求めるようになる
そんなに行動範囲を広げたり、資金投入することはできないから、、身近なところから探し始める。
それで思い立ったのは「レコードSP盤の虫干し&チェック」
なにしろ中一から成人後までの50~60年前のレコードばかり、放置していけば、だいたいゆがみがでたり、カビが生えたりして捨てざるを得ない。

何年かに一度ずつ盤の手入れをしてきたので、状態の良いレコードが多い
チェックは盤面の傷、音飛び、雑音、ゆがみ、汚れ、レコードジャケットの状態
盤の色などである。
裏表を聴いて、状態をメモ紙に書いてレコードの中に入れる。

何年も聴いていないと、やはりイメージと違った聴こえ方がしてくる
同じ曲を聴いても、年齢によって感じ方も違ってくる

運動不足もあるから、音楽に合わせて体操したり、その時代、その曲に合った踊りをするのも良い運動になる
70過ぎのおっさんが踊っている姿など誰にも見せられないが、なかなか良い汗をかく、フローリングなので裸足で踊っていると音もしないしgood !

ツィスト ゴーゴー モンキーダンス ブガルー スネークダンス シェイク
色んなのが時代ごとに流行した
白馬のスキー場では、ホテルのダンスホールでターンだとか教えてもらって、一晩霧のダンス教室、20代はまさに花が咲いていた時代だった
50年前を思いながら、虫干し&健康ダンスを頑張ります。


今日の虫干しSPレコード
夢のマリーナ号、クルーエルシー、青い渚をぶっとばせ、君といつまでも
以上(ベンチャーズ ) ゴールドフィンガー(ジョンバリー楽団)
真っ赤な太陽(Tボーンズ) 恋の終列車、霧のカレリア 以上(スプートニクス)

ウィーン少年合唱団

2023年06月07日 10時15分08秒 | 音楽
1498年に神聖ローマ皇帝が創設した聖歌隊が始まりだそうだから、もう520年以上の歴史がある少年合唱団だと言うことです。
ブルックナー、シューベルト、ハイドン、モーッアルトの4組に分かれていて、今年はハイドン組が来日公演です。

富山県には黒部と砺波で公演、私も昨日の夜、行ってきました
全員がマスク、観客の9割が女性でした、半そで姿は私以外に一人しか見ませんでしたが、少しも寒くなかった。
休憩時間は20分でしたが女性トイレは数十人の列、男子はがら空き、男に生まれて良かったとおもう一瞬です。

「天使の歌声」の通り、ボーイソプラノの美しい声が響きます
アカペラでのハーモニーの美しは、映画で見る聖歌隊のあれのままです。
子供の頃、映画か何かで一度ウィーン少年合唱団の合唱を見たことがあり
あれ以来、一度は本物を見たいと思っていましたが、こんな近くで公演がありさっそくネットで申し込みをしたのでした。

二階席、三階席、それぞれにウィング席もあり、高い天井で音響も良いかと想像させます。
私は一階席の15列目くらいの一番右端で?と思いましたが、右が通路で、その隣が壁、人に挟まれるより右に通路分の余裕があって楽でした。
二階席、三階席も見てきましたが、やはりステージは遠い、まあまあ良い席に当たったと思います。 約750席満員です。


拍手と共に現れた指揮者ピアニスト(カペルマイスター)JimmyChiang氏と25名の少年たち
思ったより少年でした(当たり前だが)10歳から14歳だとのこと
中には小さな子もいて(だいじょうぶかなあ)なんて思ったり
でも彼らは少年期4年間に世界を駆け巡って歌い続けると言う貴重な体験をしているわけで、人生に大きな影響を受けた国際人としてはばたくのだろう
メンバーには、Manabu Nobutaka Rentaro と言った、日本人か日系人のような名前も見える

第一部はモーツアルト、ハイドン、シューベルトなどのクラシック音楽や讃美歌のような聖歌隊らしい曲目
第二部は日本語での荒城の月、ふるさと、旅愁なども含め、ポルカや世界各地の心の歌、そして最後はウィーンを象徴する「美しく青きドナウ」
その後も疲れているにもかかわらず、2曲アンコールにこたえてくれました。
最後の曲は観客も一体となって手拍子で参加、大盛り上がりで楽しく過ごさせてもらいました。
指揮者先生のピアノ伴奏も白熱の演奏で力が入ります、素晴らしいの一言に尽きる

人口が少ない過疎の町に、こうした有名な合唱団が来ることは滅多にありませんから、こういう機会を行政に作ってもらいたいと思います。
文化に触れることが少ない地方、いろいろな若者定着方法を考えているが、相変わらず減るばかり
田舎にいても、こんな大きなイベント、こんな立派なエンターティナーや文化公演を頻繁にみられる、こういったことも定着のための一助ではないかと思う私は、こんなコンサートがあれば必ず見に行こうと思いました。





私と音楽 最終回

2023年04月12日 14時10分19秒 | 音楽
 私にとっての音楽は、何のこだわりも執念もない楽に聴ける音楽である
日記の断捨離の為、一日一行転記作業を続けていて、今は20歳の誕生日を迎えた
ここまで転記して気づいたことは、高校入学前に私の人生設計は決まっていたということである、父と同化して二人三脚で「無から有、有から安定」という二世代で安定した家庭を築く、そのような設計を高校時代から結婚までの間、語り合ったのだった、それは日記に記してあった。

 進む道が決まっていたということは、それだけに集中して努力すれば良いと言うことであり、それ以外はほとんど流して生きていけば良いと言うことにもなる
学校の勉強、試験勉強、受験勉強も必要なことだけに集中すれば良かった
高校のレベルもそれほど高いわけでもなく、勉強しなくても入れるレベルだったから受験日の前の日まで、ラジオのポップスランキング番組を聞いていたのだった。

 音楽もバンドはやったけれどミュージシャンを目指すわけでもなく、集まって各楽器の音程を併せて曲を演奏することが楽しかっただけで、テクニックがどうとかのレベルではなかたった。
むしろ、バンドについて回る、エピソードの方がよほど面白かった
ただバンドをやったことで、学校で受験のために頑張るだけの日常よりは、少しだけ広い世界が見られた、それは何の糧にもならなかったが青春の1ページとして今も記憶に残っているのだ。

 バンドというのは面白いもので、メンバーだけというわけではなく、メンバーの彼女を通じて、女子が集まってくる
するとグループ的になって演奏会以外でも遊びまわるようになる、二年生まで特定の友達としか付き合っていなかった私だが、三年生はバラ色の人生だったと言って良い、音楽を通して楽しい学校生活が送れたのだ
今でも、そのメンバーの男女とは連絡を取り合って遠方の者でも2年に1~2回は会っている。

 社会人になって料理人修行に出たが、車の運転、配達も業務だった
配達に出てカーラジオを聞くのは緊張の板場からの解放だったが、1970年、吉田拓郎のデビュー曲「イメージの詩」は衝撃だった
それで吉田拓郎を知ったが、1972年には「結婚しようよ」がでて、まさに私にはエールに聞こえたのだった

 この頃、新潟で4歳年下の17歳のA子と付き合っていた
陰のある子で訳ありそうな高校中退女子、でも性格は明るかった
古町でデートした時、商店街では「結婚しようよ」が流れていた
「兄貴の彼女が、そこのレコード店に勤めているんだ、ちょっと顔を見てくる」と駆けだしたので、ついて入った
勢いで「結婚しようよ」のLPを買ったが、自分が盤を手に取る前に彼女が
「わあ、これ聴きたかったんだ、貸してもらえる」「いいよ」
二度と、このレコードは帰ってこなかった

 それでもタイトル通り、田舎者の私はマジでA子と結婚したい気分になっていた、そしてある冬の夜、それを言ったこともあるが軽くかわされた
本当に純朴な田舎坊主だったのだ、A子は若いのに百戦錬磨だった
彼女の家に遊びに行ったこともある、両親とも話したこともある
彼女の父は地元大手企業の労働組合長だったから家もしっかりしていると思っていたが・・・
 それから半年の間に事態は刻々と変化して、最期は思いがけない結末となった、私はとんだ三枚目だったが、彼女も幸福に見放されたし、周りの男たちもみな残ったのは苦い思い出だけだった。
吉田拓郎をテレビやラジオ、ネットで見るたびに必ず、これを思い出す
あの時の、古町の景色は、まさに花咲く街角に見えたのだった。





私と音楽 3

2023年04月11日 09時36分32秒 | 音楽

 創立7年でプロ野球選手を5人ほど輩出した(一軍実績を残したのは一人だけ)野球部をはじめ、スポーツ優先の硬派校だったから(私は硬派ではなかったが)校則で丸刈りだった、当時最先端のビートルズのマッシュルームカットを目指す我々は髪型でまず挫折感を味わったのだ、まさに「青春デケデケデン」の世界だった
普通科高は長髪OK!だったから、そんな理由だけで普通高へ行けばよかったと思ったくらいだった。
私の高校時代にはエレキバンド(エレキギターは最初電気ギターと言っていた)かフォークギターのどちらかをやる子が結構いた。
学校へギターを持って行って昼休みに弾くと、男女何人か集まって一緒に歌った

 エレキの校内演奏はもちろん、持ち込みも禁止という「ガチ頭」の校長だったが、まだ24歳くらいだった美人教師と正義感強い若手美術教師が運動してくれて、文化祭で演奏できることになった,
それで美人教師に片思いの恋をしてしまった
ところが学校の教室でバンド7組が上記2教師の前でリハーサルまでやったのに一週間くらい前になって校長に潰されてしまった。

 血気さかんなわがバンドのリーダーは校長に掛け合いに行ったが中止は覆せなかった。 それで頭を使って運動会の時にクラス対抗仮装大会を利用して、サーカス団の楽団という「合法的名目」で学校創立以来初めて学校のグラウンドの真ん中でエレキギターが鳴り響いた、アンプまで200mもコードをひっぱった努力の結晶だった、さすがの校長も何も言えなかった

 結局素人学生バンドは一時の気まぐれで終わった、演奏者としては下の下の腕前だったから未練はなかった。
 我らの同世代には、南こうせつ、小田和正、寺尾聡、武田鉄矢、上田正樹、つのだひろ、矢沢永吉、堀内孝雄、松崎しげる、萩原健一、岡本信、森山良子、財津和夫、泉谷しげる、沢田研二、井上陽水、谷村新司、細野晴臣、坂本龍一、南義孝、ばんばひろふみ、白鳥恵美子、舘ひろし、イルカ、昭和23年~25年生まれのロック、ポップス系、フォーク系だけでも主だったところこれだけいる、田舎坊主の我々でさえやっていたのだから底辺は広かった
演歌でも今や大御所と呼ばれる歌手も続々誕生した、細川たかし、八代亜紀、都はるみ、和田アキ子、梅沢富美男など、まだまだ書ききれない。
戦後派の登場で音楽スタイルががらりと変わったのだった。

 洋楽ではビートルズを代表にリバプールサウンズとかブリテッシュロックとかで60年代前半まで席巻していたアメリカンポップスをイギリス勢が追い越してしまった
この他にも私が特に夢中になったのはイタリアのカンツォーネで、チンクエッティやボビーソロが特に好きだった、またフランスではシルビィバルタンが好きだった。

 ビートルズは60年代中盤からステージ公演を辞めて、スタジオ録音に徹するようになり、曲のスタイルががらりと変わった
前期のシャウトスタイルから変わり、クラシックスタイル、トリップ、オーケストラ、複雑なキー進行と音源を複雑に組み合わせた音、マニアックで美しい曲になった。
多くの人が後期のビートルズの曲を芸術だ、クラシックだと讃える
だが私はビートルズの単調なロックンロールから進歩することが出来なかったので、続々と出て来た爆発前の62年頃のクラブでの演奏とかハンブルグ公演テープからの編集レコードとか、トニーシェリダンのバックコーラスの曲とか、そんなのばかり集めるようになった
「Let It Be」を買った後、ビートルズレコードは買っていないし、ソロアルバムもポールの「Ram」を買っただけだ。










私と音楽 2

2023年04月10日 12時53分17秒 | 音楽
菊地6失点、大谷3号
見ている方も疲れた試合だった。


 年代は1961年ころ、小学校高学年になると少しはオマセになった年頃で、大人の真似をしたい。
歌謡曲も橋幸夫が「潮来笠」で華々しくデビュー、同級生に歌がうまいTというのが居て、教室のだるまストーブを囲んで、この歌を同級生の前で歌って見せた。
子供ながらちゃんとコピーしているので、みんな感心して聞いていた
Tはいつごろからか知らないが民謡歌手になると言って、その世界に飛び込んだらしい、再会したのは23歳ころだった、体を壊して田舎に帰ってきて、それから数年後に亡くなった。 潮来笠には、そんな思い出がある。

 小学校に戻すと、当時はプレスリー、ニールセダカ、ポールアンカ、パットブーンや、ロカビリーだとかポップスだとかカントリーなどアメリカのヒット曲のカバーが日本語で歌われていて、同級生のマセガキたちは「ジェニジェニジェニ、イカした名前だぜ ふ~ジェニ」だとか「ドンチュノ~・・・あまいレモンのキッスう~うよ~」なんて腰を振って歌っていた。
掃除の時間にはホウキをギター代わりにして、机に飛び乗ってロカビリーの真似をする奴もいた、テレビの普及で田舎でも都会の情報が入ってくるようになったのだ。

 クラシック音楽は無関心というよりレベルが違いすぎて理解できなかった
だが学校で音楽の時間にクラシックのレコードを聴いて目が覚めた
はるか遠くの存在だったのが急に身近になった、まるで歴史上の人物が目の前に現れたような感じがした。

小学校から高校まで通して学校の勉強の「音楽」は苦手だった、歌は下手だし、音符は読めないし、クラシックはからっきし、楽器もカスタネットとハーモニカしか使えない、ただハーモニカは上手だった。

 時間を戻すと小学校の時、学校には鼓笛隊があって、私はその他大勢の「縦笛」だった
適当に吹いていて、隣にいたまじめな同級生に叱られたこともあった
ただ、学校レベルでは、隣町の鼓笛隊にはとてもかなわなかった、我々の方が市の中心なのに、田舎のその学校には歯がたたなかった
音楽に興味薄い私でもレベルの差はわかった

 時間は、また戻る、中学生になると父は「電蓄」を買ってきた、すなわち電動式蓄音機だ
これをテレビにつないで、テレビのスピーカーで音楽を聴くのだ
中二の時、風呂焚きをしながらパナソニックのトランジスタラジオを聞いていたら衝撃的なコーラスが流れて来た
ビートルズの「プリーズミスターポストマン」だった、一撃で参ってしまった
レコード店に走って、LP「Meet the Beatles」を買ってきた。
同級生を呼んで毎日のように一緒に聞いた「I Saw Her Standing There」が一番のお気に入りだった。中高の6年間はビートルズまみれだった

 この頃は僅かな小遣いであったから、1500円のLPを買うにはお年玉でもなければ難しかった、SPレコードでも和盤300円、洋盤330円だったから、最初はビニールレコードのソノシートで我慢した。
「じゃりじゃり」言うので、レコード針が減るのではと聞くたびに心配していた。

 この頃の針は鉄針、サフィア針、ダイヤ針とあったが、ダイヤは買えなかった
 高校生になったとき、ナショナルから「憩」「宴」「飛鳥」の和家具調シリーズのステレオが発売された、父は一番安い「憩」を買ったが、私が不満顔をしているのを見て、母が「宴」に買い替えてくれた思い出がある
あの時程、母に感謝したことはない

 高校生になると小遣いも増えてレコードも月に何枚かは買えるようになり、映画も良く見るようになった。 2年生の時には5人でバンドも結成して公民館で有料で1回行った 観客は同級生10人くらいだった。

同級生バンドなのに、3人は一つ年上だった、偶然にしてはできすぎだ
三人三様の事情で普通に入学した私と同級生になったのだ
その中の一人は野球バカで落第して同級生になった男だった、同級生にはプロで活躍した選手もいた
中学時代にはガタイも大きくて乱暴なイメージがあったから、入学時には同級生と聞いて震えあがった・・・「そんなバカな」である、一気にブルーな高校生活になった・・それなのに、その男とバンドを組んで遊びまわることになるとは・・・彼は卒業後、航空自衛隊に入って六本木にいたが帰郷、70過ぎた今でも付き合っているのだから人生はわからないものだ

 因みに映画は洋画ばかり見ていたが、邦画では舟木一夫と和泉雅子の共演が好きで「哀愁の夜」が一番印象に残っている
あんな映画を見て、丸刈りの田舎坊主もLoveを夢見たのだった。


 




私と音楽 1

2023年04月09日 11時49分39秒 | 音楽
 昨日、プリンターインクを取り換えようと、片手にインクを持って上のプリンターを見ながら椅子に登った。
ところが足元に注意しなかったので左足を踏み外し、小指にダメージを受けた
痛かった、夜になっても軽い痛みがあり、少し腫れている感じ
骨折はないが打撲か捻挫といったところか、最近は距離感が微妙にずれる、これが歳ということなのか

 自然、学問、旅、友情、読書、映画、音楽・・・
人間の心を豊かにしてくれる要素はいろいろあるが、もっとも簡単なのは音楽だ
CD、レコードをセットしてスイッチを押したら、あとは椅子に座っているだけで良い、ラジオのスイッチを入れておけばランダムで曲が流れてくる。

 昭和25年(1950年)生まれの私の記憶にある最初の歌は、春日八郎の「お富さん」だ
ほぼそのあたりの時期だろう「銀座かんかん娘」「泣くな小鳩よ」「りんどう峠」「ゆうやけとんび」「弁天小僧菊之助」「野球小僧」などを覚えている
昭和30年ころ、戦争が終わってまだ10年、東京は復興の真っ最中だが、田舎は戦争前と何も変わっていなかった。

 23歳の父は昭和23年に東京から一人空身で、この町にやって来た、初めて足を踏み入れた土地だった
よそ者を無条件で受け入れる会社もなく、自転車で10km、そこから標高差400mの山の集落まで歩いて魚の行商をした

 ここへ来るまでは上野、浅草界隈で遊びまわり、戦争中は亀戸、品川田町、調布を生活基盤にしていた父
小学生の時は御徒町に住んでいて、悪友と二人で上野松坂屋で悪戯の限りを尽くして立ち入り禁止になった悪ガキだったそうだ
青年期は灰田勝彦似だと言われて、東京では結構モテたらしい
それが一転して繁華街もなく、娯楽といえば映画館とパチンコやだけの田舎町
どんな気持ちで暮らしていただろうか?

 そんな楽しみの無い日々だが翌年結婚して、一年後に私が産まれ、借家を出て家を建てることに、たった二間の平屋だが、ますます稼ぐ必要があって趣味どころではなかった。
それでもリコーの二眼カメラを買って家族写真を撮ることから始めた

 戦争が無ければ電気屋をやりたいと思っていた父は、家が貧しい故、小学校卒で働き、精密機械部品の製造工場で機械工をやり、電気通信学校で学んだ
だが戦争は運命を変えた、電気屋の夢は、その日暮らしの魚の行商人からリ・スタートとなった。

 そんな過去があるから、新たな生きがいとして自分で蓄音機(手動レコードプレーヤー)を自作した
小豆色の板で囲まれた蓄音機は手動のハンドルがついている、理屈はオルゴールのようなものだ、回転が遅くなればハンドルを回してフル回転まで戻す
スピーカーは覚えていないが内臓だったと思う、なんせ私は5~6歳ころだから

 どこからかレコード盤を数十枚集めていた、78回転30cmシングル盤
神戸一郎、岡晴夫、灰田勝彦、春日八郎、島倉千代子、美空ひばりなどがあった
岡晴夫の「泣くな小鳩よ」にはドリルで、もう一つ穴を開けてあって、そこを中心に入れると曲が揺れて「な~~く~うなあ~~こばとお~~よお~」なんて歪んだ曲になって、子供たちに人気があった。
この頃は日本の歌謡曲の全盛時代だった。

 都会では進駐米軍の影響で、ジャズやポピュラー音楽、映画音楽も歌謡曲に負けじと流れていたのだろうが、田舎はまだまだのようだった。
ただ1枚映画音楽があったA面「シェーン」B面は「アンナ」だと覚えている
映画「シェーン」の主題曲「遥かなる山の呼び声」
ラストシーン「シェーン  ケ~ムバック!」と少年が叫ぶ、その映画を見たのは高校生になってからだった。

 

 



 人生初めて のんびり大晦日は「第九」

2023年01月01日 09時05分46秒 | 音楽
謹賀新年2023 今年も皆さまよろしくお願いいたします

大晦日の楽しみと言えば「紅白歌合戦」だった、それが年齢のせいなのか10数年前からぜんぜんみたい気が起こらなくなった。
だが私ばかりではなく、若い世代はもともと関心がなかったようだったし、「紅白視聴」を支えてきた中高年も次第に離れていったようだ。
それなのにNHK様は若い世代を取り込もうとして、一気に内容を替えていった
アサヒに抜かれたキリンラガーがイメチェンして大失敗したのに匹敵する愚行を犯してしまった
若者受けするために出場歌手の基準を変えてしまった、その若者の視聴は伸びもしなかったが
襟を正してみる感じの緊張感ある紅白が、横になってチップスを食べながら見るような紅白に変わり、中高年の紅白離れが始まった
眠くてもトリ、オオトリの美空ひばり、三波春夫を見たいために起きていたのが、「眠くなったら寝た方がいいや」になってしまった。
私が若いころの紅白は、初出場の若い歌手が緊張から失敗することもあった、それが紅白だった
今の紅白は悪いけど大騒ぎのバラエティか学芸会みたいだ
昨日は初めて最初から紅白チャンネルにしなかった

私は昨夜は、なんと「第九」を見ていたのだ、第二楽章から見ている、もちろん初めての経験だ、心が落ち着く、かって紅白にはこんな雰囲気があったのだ、紅白を家族で見ながら暮れ行く大晦日を静かに楽しむ。
なぜ突然、第九を見たんだろうか? それは景色の良い、空気の良いところに行って見たい気持ちと同じだとわかった。
心の中の、どこかに波長が合っているのだろう、30~1時間か?時間も忘れて最後まで見てしまった
「そんな歌ではなく、心に響く喜びの歌を歌ってくれ」みたいな歌詞をバスの外人歌手が歌うところから始まる「歓びの歌」初めて見た
今まで私が見た「歓びの歌」はほんの僅かな切り取った部分だったことも知った、心が洗われたおおみそかだった・

 こんな静かな年末は初めてだ、去年までは年末は、50組ほどの出前のおせちづくりで帰宅すれば20時を過ぎていた
それから大急ぎですき焼きを作って食べていたのだった、もうくたびれ果てていた、それが毎年続いていた。
今年はどうだ、30日の日中から神棚の飾り付けが終わり、今日はあきらめていた旧宅の神棚も新年に合わせて、飾り付けをした
神社へ行って、神主さんの自宅を訪ねて、お札を貰って来た
今住んでいる家と、旧宅は地域が違い神社も違うから初詣も異なる
今の神社は徒歩2分、この町の一の宮で歴史も延喜式(約1300年前)までさかのぼる、旧宅の神社は車で5分ほどの小山の中にある
「空き家にしているから、神棚も閉鎖しようと思ったが、やはり何十年も住んだ家だから、それを思ったら急に愛着が出てきて、飾り付けをすることにした
誰もいないから、電気も水も止めてあるけど」と言ったら
「そういう方は、たまにおられますよ」と巫女さんが言った
結婚式で長い付き合いをした巫女さんである、彼女も私ももう70代だものなあ
先代の神主さんは、酔いどれ神主で面白い人だった、いつも鼻の頭を赤くしていたのだった、もう亡くなって20年はたつのだろうか
先祖は能登からやって来たと言っていた、あああれこれ思い出す
また新しい年が始まる。

父も作るのに参加した稲荷神社、寂びれてきました

まだ誰もいない31日の昼過ぎ