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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 65

2024年04月08日 20時40分42秒 | 甲越軍記
 小田井の勢は北表と西の二手より火をかけ旗なびかせ、鬨の声を挙げて攻め寄せた、そして口々に「武田晴信見参」と声高々に呼びかける。
味方は寒さに凍えて休んでいるところに火をかけられて騒然となったが、さすが晴信の軍令は行き届いており、それぞれに具足を身に着けると素早く敵に備得た

特に板垣信形は味方に向かい、大音声で「汝ら慌てることなかれ、敵の夜討ちの勢は僅かなり、合言葉をもって敵味方を探る様に、決して同士討ち無きようにせよ、入ってきた敵を陣から追い払え」と叱咤する。

板垣勢の中より真っ先に突き出でたるは板垣の甥、三科肥前、中間頭広瀬郷右衛門十六歳、曲淵庄左衛門十九歳
また小田井勢の中から板垣勢に突き出し者は、小田井次郎左衛門、岩津鉄右衛門ら七百人、武田晴信の首級を挙げねば引くまいと遮二無二攻め寄せる

三科、広瀬、曲淵三人は獅子奮迅の勇みをなして、三科は三人、広瀬は六人の敵を討ち取り、曲淵庄左衛門は敵将岩津郷右衛門に渡り合い、双方剛毅の者なれば、それぞれの槍を手放し、近寄って組み合い上に下にくんずほぐれつの戦いになり、曲淵が有利となり首搔き切ろうと脇差を探ったが、どこに落としたか見当たらず、腰に挟んだ縄を引き出し、両手に二重三重とたぐって岩津の首に巻き付けて剛力で締め上げれば、岩津は七転八倒して息絶えた。
元来、曲淵は板垣の草履取りで鳥若という者であったが、板垣に従い戦場に出ると都度幾つもの首級を得る活躍で晴信にも、その剛勇、耳に入り直参に取り立てられた
中間五百名の頭となって板垣の与力として加わっている。
曲淵は岩津の首を家来に預けて、再び敵中に入って切って回れば、小田井勢は早くも崩れ出した。
その時、小田井次郎左衛門は馬上から伸び上がり「城中にて死を決して一途に極めんと申した我らである、晴信の首級を取らずして逃げるとは恥を知らぬのか、今一度一同に突いて入り、晴信の首を取らずば泉下の恨み、この時にあり、いざ返せ戻せ」と叫ぶと、流石に死を約束した者どもであるから、力を増して板垣勢に突きかかった。

信形も采配を振り「千騎が一騎になろうとも引くな者ども、死ね死ね」と下知すると、猪原才蔵、荻原興左衛門、広瀬、曲淵と入れ替わり小田井勢に切りかかる
この時、北の方から本陣に向けて攻め寄せた小田井勢は、城将小田井又六郎、従う強者は岩津新七郎、上原市之助、同源右衛門、熱川弥八郎、上和田孫太郎、垣澤森之助、千三百が一丸となって本陣の左より火炎の中へ攻めつける
小田井又六郎、大音声をあげて「ここが晴信の本陣なるぞ、千人の首を取るより、晴信の首一つ討ち取れば莫大な手柄なり」

小田井又六郎のいでたちは黒糸縅しの鎧に、大半月の前立てに、雪を欺く月毛の馬に金の馬甲をかけ晴信本陣に駆け込んだ
元より死を覚悟の城方であるから、その勢いに晴信本陣は色めきだった
このとき晴信は家伝の法性の兜、黒毛の甲斐駒にまたがり、左右には教来石、
民部少輔、小幡織部正、その子孫次郎、原美濃守、横田備中守、諏訪越中守、長坂左衛門尉、小宮山丹後守を引き連れ煙の中から出て戦った。
晴信は合言葉を厳重にするよう下知して、敵のつけ入るを許さない
これに手を焼いた小田井又六郎は自ら槍を持って、逃げ腰の味方の兜を叩くと「汝ら今見苦しく引こうとは、汝ら再び某に会う面あるのか、ここは前に約束した討ち死にの場所なり、いまや義の為の黄泉へのまっしぐらなり、いざ死ねや者ども」と言うと真っ先になって武田陣へ駆け込んだ。