本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

罪の意識

2024-03-20 20:07:10 | 十地経

暑さ寒さも彼岸まで

というものの

彼岸の中日は

各地で荒れ模様の様子です

ある面

迷いから覚める

ということは雲が晴れて

すっきりとした天気

ということではなく

雨かもしれないし

風の強い荒れ模様かも

知れないのです

 

ですから、覚める

ということはそういうこと

が分かるということです

晴れとは限らない

雨嵐かも知れない

迷いといのは

今晴れなのか雨なのか

そういうことが分からない

ということです

 

彼岸、彼の岸

つまり憧れの安心できる

そういう世界のことで

その反対は此岸・此の岸

という迷いの世界を

表しています

 

宗教の世界も考え方で

浅い宗教もあれば

深い宗教というものも

あります

その区別ということは、

講義では

 

「宗教の意識ということを

もってくると、罪という

ことがある。

罪の意識というような

ことがある。

宗教の意識というものの

深さは、どれだけ

深く罪ということを

とらえているかと

いうことにある。

 

そういうことがないと

いつでも一番深いものが

一番浅いものに堕落して

いくということがある。」

 

というように、

 

「そこでキリスト教では

信仰上の罪を神話的に

説いている。

アダムとイブがエデンの園

で食べてはならないという

林檎を食べた。

その智慧の実を食べた

ことから罪がはじまった

という。

 

果実を食べたということが

なぜ罪か。

罪とは何か。

罪とはどこにできるか

ということが問題になった

ルターが精読したという

『ゲルマニカ』という書物

がある。

神秘主義的なもので

禅に近いものである。

 

林檎を食べてよいか

わるいかは分別である。

善悪の分別がなければ

林檎をどれだけ食べた

からといって

罪ということはない。

しかし、

分別があるならば、

エデンの園にいても地獄

であるというのである。」

 

なかなか面白い問題です

林檎を食べたら

良いか悪いかと考える

分別が罪というのです

ですから、

仏教では

「人間は自分の分別で

生きていると考える、

それが最高の罪である」

といいます。

 

煩悩が罪ではなく

分別が罪であるという

そしてまた

罪は量ではない質である

ともいいます。

 

私たちの不安は

本当の世界から離れている

からである。

しかしまた、

自分の力が及ばない

という自覚を通して

本来の世界に呼び戻される。

 

ですから、ある面では

私たちが不安をもつ

ということは

私たちを本当の世界に

呼び戻そうとする

微かな呼びかけかも

しれません。

 

罪の意識ということも

そういうことを

感じなかったら

それはそれでいいのかも

しれません

ただ、気になる

自分自身の罪ということを

 

そういう感じ取る意識が

深いということでしょう

そこに

彼岸という(浄土)も

感じ取ることができるし

此岸という迷いの世界も

嫌な世界ではなく

浄土へ導く

手掛かりとなる

大きなチャンスを持った

世界に変わってくると

思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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