本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

モーゼの十戒と仏教の十戒

2024-03-24 20:54:27 | 十地経

昔の映画で『十戒』という

ものがありました

その時、海が割れて

そこをモーゼに率いられた

民が渡っていくという場面

が話題でした。

ただその映画で気になった

のは、シナイ山でモーゼが

神から十戒を賜るという

場面です。

 

神をどのように表現する

のかということが、…

やはり光として表現し

声だけが響いてきました

「Ⅰam who Ⅰ am」

という声です

ずっと意味が分かりません

でした。

題字では

「我は在りて

   あるものなり」

と出てきましたのです。

神ということを

このように表現したのです

 

そこで、モーゼが

十戒を授かります

光が飛んできてその光が

石に刻むという場面です。

 

その内容は

1.主が唯一の神である

2.偶像を作ってはならない

3.神の名をみだりに

 唱えてはならない

4.安息日を守ること

5.父母を敬うこと

6.殺人をしてはならない

7.姦淫をしてはならない

8.盗んではいけない

9.隣人について偽証しては

 いけない

10.隣人の家や財産を

 むさぼってはいけない

 

ということです

仏教と似ているところも

あるのですが

根本的に違うのは

Ten Commandments

というように英語では

いいます

command は命令という

意味ですから、

十戒は神からの命令

という意味あいがある

ように思います。

 

仏教の十戒は

身と口と心という三つの

グループに分けて考えます

身に関わるものに

1.不殺生

2.不偸盗

3.不邪淫

の三つがあります。

ここの所はモーゼの十戒と

同じです

 

ただもう少し内面的に

捉えます

殺人ではなく不殺生です

仏教の場合は

一切の命を取っては

ならないということです。

 

ここに大きな矛盾が

出てきます

すべての命というと

食べることが出来なく

なります

食べれば殺生をしてしまい

ます

では、食べないというと

自分を殺生してしまいます

 

この矛盾をどうするのか

 

一つのヒントとして

鎌倉時代に真言宗中興の祖

といわれる覚鑁(かくばん)

という密厳院懺悔発露の文

(ミツゴンインサンゲホツロノモン)

の中に

「我等懺悔(さんげ)す 

無始よりこのかた妄想に

纏われて衆罪を造る」

という一文があります

 

「無始よりこのかた」

人が生まれる以前から

無明という妄想によって

罪を造っていたのだ

という深い懺悔です

 

仏教では「さんげ」と読み

「ざんげ」とは濁りません

これは、インドの

クシャマという言葉を

そのまま音写したのです

ですから、懺悔には

懺悔したからそれで罪は

なくなるというのではなく

 

罪という意識をずっと

重たく受け止めて

引き受けていくという

罪を背負って生きていく

という

そこに深い自重が出てくる

そこに何か重たいものが

あるのです

 

神の言葉を守るという

コマンド(命令)と

受け止めるのですから

そこには神との約束が

重要なポイントです

 

神との契約による戒と

自分の問題として受け止め

守れないことを知りつつ

守れない自分を重く

受け止める

というところに

罪というものの受け止め方

戒律の受け止めかた

の違いがあるようです。

 

まあ、ええ加減な

捉え方ですので、

自分なりに考えてみるのも

面白いと思います。

 

 

 

 

 

 

コメント
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