本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

古典を読むということ

2024-03-26 20:33:54 | 十地経

講義はここのところ

ヨーロッパの文化特に

キリスト教の話が

続くのですが

哲学とかやってないので

難しい問題が続きます

学生の頃、

勉強してなかったことが

悔やまれます

 

「ああいう古い文化、

この『十地経』でも

同じことだけど、

現代人の考えを輸入する

のは、非常に、

現代人の考えで古典を読む

のなら読まんのと同じこと

なんです。

 

何も別に古いものを

読まんで新しいものを

読んだ方がいいんです。

我々、

古いものを読むのは

現代人というものが

そこから教えを見出そうと

するから。

 

だから我々は

無になって見なければ

いけないんです、古典は。

自分を空にしてね。

 

自分の予定概念で、

現代人の頭に合うように

読んどった日には、

読まんのと同じことです

 

我々が無になるという

ことは、

現代が行き詰まるという

ところに立つからです。

現代人が、

真に現代のために、

耳を澄ませると。

 

自分の主張をやめてね。

それでないと古典は

読めんのじゃないかと

思いますね。」

 

簡単そうでなかなか難しい

どうしても自分の考えで

読み、理解して、

考えてしまいます。

この講義でも

安田先生は

よく政治のことを話され

るのですが

私たちの見方と違って

どちらにも偏ることなく

見ていかれます

 

ちょうど講義の頃も

石油問題で田中角栄さんも

困っておられたようですが

そのことも

ただ政治の話ではなく

宗教という立場に立って

話していかれます

アジアの寛容性と

アラブの非寛容性という

表面的でなく

その宗教の起こる起源から

見ていかれるという。

 

私たちの好き嫌いの

立場では

ものごとの真の姿は

見えてこないのです。

 

よく、「人間釈迦」

というような話があります

けれど、どうもそれでは

本当のお釈迦さまの姿は

分からないような

気がします。

 

人間ではあるけど

人間を超えて仏になった

人間として釈迦を見ても

分からないし

まして、

自分の悩みを解く課題

にもならないのです。

 

先日もテレビで

釈迦涅槃像を見て

寝仏(ねぼとけ)とか

死んだ仏の姿とか

なんとも、

宗教性の微塵も

感じられない説明で

悲しくなります。

 

古典を読むときには

自分を無にして空になって

読んでいくという

ことが大事なのです

ですから、案外

読み下しを読むというより

原文をそのまま

漢字のまま読んでいく

繰り返し

先生の読み方をみると

舐めまわすというか

言葉を一つ一つ大切に

読んでいかれます。

 

この『十地経』も

第七地を約10年にも

渡り読んでいかれるのは

そういうことなのでしょう

読むたびに感動しながら

そういう根気強さ

まるで原生林を開墾する

そういう読み方です。

 

いまや、

この『十地経講義』も

現代の人にとっては

古典になりつつあるのかも

しれませんが。

 

 

 

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