本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

春寒料峭の砌、ご法体大切に

2017-03-29 10:43:15 | 住職の活動日記

28日のお不動さまも終り

もうすぐ4月というのに

まだまだ、寒い日が続きます。

ところや種類によっては

もう見頃の桜もお見受けします。

 

 

この桜「陽光さくら」というそうです

 

 

見事に、また色もピンクで

とても華やいで見えます。

 

なんだか、気持ちは春なのに

吹く風には冷たさを感じます。

 

「春」とは草木が萌え出る様子を

漢字にしたものです。

 

 

アジサイの新芽も美しく

瑞々しい、

 

 

隣にある木犀の若葉も

初々しいものを感じます。

 

 

サツキも小さな花芽を付けています

 

 

もう、紅葉の新緑は

うす緑の葉を広げています

これから大きくはを伸ばし色づいて

秋の紅葉を迎えます。

 

「春寒料峭」の「料」という字

普通には「料理」という言葉が

浮かんできますが、

ととのえるという意味もあり、

護摩壇の荘厳ができたことを

料理と書いて(しつらえ)と、

こういう使い方もするようです。

 

春寒料峭の場合は

料という言葉はなでていく

という意味になります。

春とはいえまだ厳し寒さ

冷たい風が頬を撫でていく

そういうことでしょう。

 

気持はウキウキするのに

まだ余寒が残る

そういう肌に寒さが堪える

時期です。

風邪もひきやすく

体調も壊しやすい時でもあります

どうぞ、ご法体大切に

お過ごしください。

 

草花や木々にとっては

この春寒料峭に季節が

命を芽生えさす糧になるのでしょう。

 

 

 

 

 

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投機

2017-03-27 18:22:53 | 漢字

「投機」という言葉、

投機買いとか投機的な目的で

というようにもっぱら経済の

問題として取り扱われますが

れっきとした仏教用語です。

 

「機」ということも

仏教の大変重要な問題です。

普通には「機関車」とか「機械」

のような言葉が浮かびますが、

「機縁」という言葉も

そして「機根」も「機嫌」も

仏教の言葉です。

 

仏教の中では

「機」と相対して「法」

ということがいわれます。

ですから、「機」というのは

教え(法)を聞く私達のこと

になります。

教えを聞く私たちの素質・能力

ということで、「機根」と、

根はハタラキということです。

 

私たち人間に法が顕れる

その機になる、人間が機になる

ということです。

 

しかし、

ここに微妙な問題があって

私たちが偉いと思っていると

法は隠れてしまう、

というのです。

私が間違いであったと気がつく

そこに法が顕れる、

ということがあります。

 

今の世の中

自分が、自分がと

自己主張の強い時代です。

機と法という問題になると

自我が強くて、自分が絶対だと

思っている心には

法は顕れないという問題があります

謙虚に自分の間違いを

素直に認める

 

般若心経に出て来る

「一切顛倒」(いっさいてんどう)

ということは

ちょっとだけ間違ってました

ということではなく

すべてが、一切が間違いであった

と気がつくということでしょう。

 

師匠から、

「あなたの全部が間違いです」

と言われた時には

にわかには受け入れがたいものが

ありました。

このごろ、少しだけ

自分が間違いであると

気がつくことがあります。

それほど、人間の心は

剛情我慢のものでしょう。

 

「投機」ということも

「投」は単純には、なげる

ですが、

会う、とかぴったり合う

「意気投合」という言葉もあります

だから、

機にピッタリと合った

ということが「投機」ということ

この言葉は

おもに禅宗で用いられるようで

さとりの世界が師から弟子に

ピッタリと受け継がれる

「機」という言葉を使うのは

言葉では言い尽くせない

「離言の法性」ということも

あるように、

本当に法の世界は言葉を断つ

「言語道断」の世界ということで

「投機」という言葉で

表したのでしょう。

 

ごきげんさん、機嫌

根気、機根ということも

仏教用語で、

知らず知らずのうちに

私たちの生活になじんでいるのです

時代とともに少しずつ変化して

意味合いも違ってきますが

元をたどってみるのも

おもしろいものです。

 

 

 

 

 

 

 

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浄信寺のハクモクレン

2017-03-26 17:29:24 | 住職の活動日記

益城町の「浄信寺」

ハクモクレンが見事という記事

早速出かけました。

やはり益城町はまだ震災の傷跡が

残っています。

道も波打ったように

車もよく揺れながら進みます。

のどかな美しい田園風景の中を

走ると、

大きなハクモクレンが見えてきます

 

 

まあ、見上げるほどの大木

 

 

想像していた以上の大きさで

幹の太さからすると

かなりの古木のようです。

震災にもめげず

見事な花を咲かせています。

 

 

下から見上げても美しい

 

 

太い幹のところからも

一輪、二輪と花が吹き出しています。

 

 

青空との対比もいいものです。

 

 

白い花の波が流れ落ちるような

そのような表情です。

 

ここのお寺さんも地震の被害が

大きかったようです。

 

 

鐘楼度は倒壊したのでしょう、

基礎の石垣の上にぽつんと

梵鐘だけが置かれています。

 

 

けれども、

我ここにありという

存在感で鎮座ましましていました。

 

 

本堂にあったであろう

半鐘も落ちたのでしょうか

仮設の足場に吊るしてあります。

 

そのハクモクレンの隣には

 

 

真っ赤な椿が

紅白の対比よろしく

見事に咲き誇っています。

 

 

なんとも重厚感のある花です。

 

 

その下には、

「吾唯足るを知る」の

蹲踞(つくばい)が置かれています

 

 

この蹲踞は獅子脅しになっていて

コーンといういい音を響かせています

 

参道の桜も咲きかけています

 

 

 

これからが見ごろでしょう

 

 

さくらと木蓮のツーショット

 

 

そして、柳の新緑とも

一緒に写しました。

 

 

 

震災が起きてもうすぐ1年

まだまだ復興半ばです。

掲示板の言葉に

なにかしら勇気と光を感じます。

 

 

 

 

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言語道断(ごんごどうだん)

2017-03-25 17:12:59 | 漢字

「言語道断」

意外や、仏教語

「言語道断の行い」とか

「そういうするとは言語道断」と、

なにかしら、叱られるときに

こういう言葉を聞いたような

気がしてたのですが、

 

お経に出てくる言葉で

「言語道断、心行処滅」

(ごんごどうだん、しんぎょうしょめつ)

言葉によっていいあらわすことも、

思慮によって思いはかることもできない

という、

さとりの世界を表現した言葉です。

 

言語の道を断つ、

言葉では言い尽くせない

心行、は言葉に対して

心のはたらき、で

心行処滅とは

こころで思いはかることも

出来ないということでしょう。

 

「如来」、とか「一如」とか

『如』ということは

本来考えがおよばない

人間では考えられないという

人間の考え、

何でも言葉で考えてしまう

人間の考えを否定したこたが

「如」ということです。

 

最近のコマーシャルでは

「ONEミズホ」とか聞きます

また、ONEワールドとか

「一」ということがありますが

この「一」ということも

おもしろい問題です。

西洋の哲学者ではシェリング

でしたか、

「同一哲学」を唱えた方も

いらっしゃいます。

 

仏教では「一」とはいわずに

「一如」という具合に

また、「不二」ともいいます。

一とは言わずに二に非ず、と

ここがおもしろいところです。

「不二の法門」ということを

天台の教学の方では

説いています。

 

「富士山」ということも

昔は「不二山」といったのでしょう。

日本一の山ですから、

一と言えばいいものを

あえて、二ではないと

「不二」といったところに

何か意味を感じるのです。

 

また、別な表現では

「離言」(りごん)

ということもいいます。

仏の境界をあらわすのに

「離言の境界」と

言語道断と同じことです。

 

「法華経は寝乱れ髪に

さも似たり、言うに言われず

説くに説かれず」、と

髪を結う、と言うをかけて

髪を梳く、を説くにかけて

昔の方は言ったのです。

そのように、

仏の悟りの世界は

言うに言われず説くに説かれず

ということです。

 

言語道断ということも

今あらためて、

仏教語だと知りました。

 

「けしからん」

というような意味でも使いますが

ほんとに深い意味があって

驚きです!!

 

 

 

 

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春が来た 春が来た どこに来た ‥‥

2017-03-24 17:28:27 | 住職の活動日記

「春が来た 春が来た どこに来た

山にきた 里にきた 野にもきた」

と口ずさみたくなるような

 

奥村歯科医院にも

春が来ていました。 

 

 

子どもたちが楽しそうに

桜の木の下で遊んでいます。

 

 

 

たぶん、

「かごめ、かごめ」の歌を

歌っているのでしょう。

 

 

子どもたちの表情が

とても可愛く表現されています。

 

 

桜の花びらを集めえて遊ぶ子

 

 

かごを片手に額に花びらをのせて

遊ぶ子、

実に楽しそうです。

 

 

かごめかごめの子供たちも

それぞれがとてもいい表情です

 

 

こういう子どもたちの

無邪気な姿を見ていると

良寛さんの歌を思い出します。

 

「この里に 手鞠つきつつ

子どもらと 遊ぶ春日は

暮れずともよし」

 

貧しい子供たちと

日が暮れるのも忘れて

一緒に遊んだのでしょう。

 

 

もうここには桜が咲いています

 

 

 

その下で遊ぶ子どもたち

見ているとこちらの心まで

温かくなってきます。

 

先生ご夫妻のイメージで

こういう作品が作られた

ということです。

先生ご夫妻のお心が

ほのぼのと伝わってくるような

「さくらまつり」です。

 

歯の治療だけでなく

是非、「拝見」と

見るだけでも、

お訪ねされたらと思います。

 

 

「くまモン」も

お出迎えしていますよ  

 

 

 

 

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三昧(さんまい)

2017-03-23 20:55:03 | 十地経

ちょうど読んでいる『十地経』にも

よく出てくる言葉、「三昧」

また、この言葉は日常語としても

よく使われる言葉です。

「すし三昧」とか、

今まさに「野球三昧」とか

今晩はサッカー、UAEとの対戦

「サッカー三昧」に入ります。

 

集中というようなことですけど、

訳すると

等持とか定というような言葉に

「等持院」というお寺もあります。

等しく持つ、という

この等持という訳は言い当てている

ように思います。

人間の心はどちらかに偏りがちです

その偏る心を

一つには「掉挙」(じょうこ)

心がウキウキする

一つには「惛沈」(こんちん)

反対に心が沈む

どちらの心も集中力を切らし

正しい判断もできないし

智慧も生み出しません

その二つの心を離れて平等に

というところから、(等しい)

「持」ということは

心を一つの対象に止める

ということのようです。

 

今、十地経の講義録を書写し

分からない言葉を調べ、

と、単純な作業ですが、

不思議と心が落ち着いてくるのです

論理だって諄々と説かれた

ということではなく、

話しもあちこちととびとびに

しかし、

経典を切り開いていかれる

物事の思考方法を学ぶ

そういうことで、

書いているうちに自然と

三昧の世界に入れるのでは、

 

講義のときも

今思うと、講義を通して

三昧という世界を学んだような

そういう気がします。

 

老人ホームヘ行くとき

必ずこの講義録を持参して

早めに着いて駐車場で

ほんの少しの時間ですが

この十地経の講義録を読むのです

この話をするわけではありませんが

しかし、

頭が整理されてくるというか

不思議と閃きが起こるのです。

 

一日、一回は必ず

本を紐解き、書写する

ただ読むだけでは物足りない

ような?

書き写したからといって

頭に入っているわけではなく

ただ安心するというか

一字一句見落としなく読めるのは

有り難い気がします。

 

「三昧」という世界というか

三昧の味を知るというか

物事この三昧がないと

成り立たないような気がします。

勝負の世界でも

三昧が切れてしまった方が

負けるのでしょう。

 

今読んでいるところでは、

「そのものになりきる」

「ものそのものと一つになる」

というように出てきます。

 

小僧時代叱られたのは

「ほうきと体がバラバラだ!」

掃除になってない。と

掃除をしているときは

遊びたい心が出て来るし

遊んでいると

掃除のことが気にかかる

アフター5が近くなると

家に帰って一杯やりたいと

また、日曜の昼過ぎになると

明日からの仕事のことで鬱陶しく

なってきます。

 

そのときそのとき

そのものになりきる

それこそが三昧のように思うのです。

その味を覚えたら

仕事も遊びも大変楽しく

なってくるのではないでしょうか

 

 

 

 

 

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時分の花、まことの花

2017-03-22 21:02:35 | 住職の活動日記

遺品整理で困るものの一つに

アルバムがあるようです。

写真整理、

遺された人にとって

結構手間がかかるもので

どれを捨てたらよいのか

どれを残すべきか、

いっそみな捨ててしまうか、

それも寂しいような

悩むところです。

 

ちょうど、時間もあり

写真整理に

懐かしくもあり

子供の成長に驚かされます。

一番華やいでいた

そして可愛かった子供も

もう二人の子を持つ父と母に

なりました。

 

若かりし頃の写真

それなりに輝いているものです。

今では写真程嫌なものはありません

あまりにも現実というか

老け込んだ姿にゾッとします。

 

済生会病院で定期検診

今では予防医療というか

病気になる前に検査して

未然に病気の対策を立てようと

病気を治すというより

前もって、検診をしようという

ことなのです。

 

待合で、雑誌を見ていると

 

「時分の花とまことの花」

 

という言葉が

目に飛び込んできました。

ちょうど

写真の整理をしていたこともあり

なるほどと!

頷く言葉です。

若い時はそれなりに何をしても

美しい、

しかし本当の美しさは

やはり年を重ねてから出て来る

いぶし銀のような

美しさなのでしょう。

 

世阿弥の「風姿花伝」に

出て来る言葉で

時分の花をまことの花と

思い違いするところに

真実の花から遠ざかる

だからこそ初心を忘れてはいけない

というような内容のようです。

 

葛飾北斎でしたか

70歳までの画は捨ててしまえ

と言っています。

70過ぎてからの画が本物だと

 

これからが本物になるか

ええ頃加減に生きてしまうか

正念場のようです。

 

まずは、車検もあるように

人間の体も検査が必要で

事故を起こす前に前もって

検査が大切です。

 

 

済生会病院も検査センターは

とても設備が美しく

お昼はカルーナというレストランで

美味しいランチを頂けます。

 

 

今日のメニューです

3種類ほどあるのですが

お肉のフライと鮭の煮物です。

 

心身ともに健康で

与えられた時間と体でもって

人生の意味を考え続けなくては

生れてきた甲斐が

無いように思います。

 

今こうやって

元気に過ごせることに感謝!!

 

 

 

 

 

 

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信仰と鉄道

2017-03-21 18:07:32 | 住職の活動日記

信仰と鉄道、一見関係ないような??

JR小倉駅でふと駅名を見ていると

 

 

 

京都から東福寺、稲荷と

駅名がお寺や神社の地名が

付いています。

 

私がいつも利用するJR小倉駅

面白いことに

「じぇいあーるおぐら」と

ひらがなの表示があります。

 

 

 

JRくらいはカタカナの方が

いいのではないかと思うのですが、

 

 

この小倉という、まあ宇治の地ですが

このように段差というか

勾配のある所を切り開いて

線路を敷設しています。

「タモリさん」でしたら

とても魅力ある所かも

あの方は段差マニアというか

段差に歴史を読み解く方です。

 

この宇治という地は

段差がたくさんあります

そして、宇治川の水

「お茶」もこの段差による気候風土と

水のお陰で美味しくなるのでは

と思うのですが…

 

 

線路も町に添って作られたものと

線路を引いてその線路に沿って

町を作っていく

という二つの方法があるのでは?

大阪と京都を結ぶ京阪電車

乗ってみると分かるのですが

電車はくねくねと町にそって走り

その度にキーキーと車輪と線路の

摩擦音が響きます。

そこで、京阪電車が

もっと直線で結べないかと引いたのが

今の阪急電車です。

 

このJRは信仰に添ってというか

町に添って敷設されたのでは?

今でも、東福寺(紅葉のときは)

多くの人が乗り降りします。

そして、稲荷大社

この神社も日本で一番外国の方に

人気のある所、

藤の森神社も勝負の神さま

「桃山」は近鉄では「桃山御陵」と

明治天皇をお祀りした御陵さん、

「六地蔵」

何気ない地名になっていますが

地蔵というやはりお寺に関係あります

「黄檗」は

黄檗山萬福寺があり

とても人気のお寺です。

 

高野山には

南海電車が「高野号」を引いています

阪急宝塚線には

安産祈願の中山寺、清荒神清澄寺、

それから門戸厄神と

四国には〇△☐と書いた

ロープウェイの会社があり

やはり、

まず人を沢山運ぶというと

お参りという

信仰が一番だったのでしょう。

 

今ではいろいろなところに

出かけますが、

以前は信仰で旅に出るということが

大きな目的だったように思います。

 

案外と信仰と鉄道ということは

切っても切り離せないものが

有るように思うのですが…??

 

 

 

 

 

 

 

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彼岸の風景

2017-03-20 20:51:57 | 住職の活動日記

曇り空、

お彼岸の法要が終わる頃より

雨が落ちてきました。

 

 

準備もできて、

 

 

本堂も荘厳が出来ています。

 

 

外では宗良さんが庭のお浄め

今、ちょっと電話が入ったようです

 

 

庭のもみじも若々しい新芽を

膨らませはじめています。

 

庫裏の方では

 

 

お接待のバラ寿司、護摩豆腐

菜の花のお浸し、人参の和え物

着々と準備が整っています。

 

 

牡丹餅のお供えも、

春は牡丹餅、夏は夜船、

秋はおはぎ、冬は北窓と

同じものでも季節によって

呼び方が違うと、

宗良さんから教えていただきました。

 

法要も終り

衣をたたんでいると

そういえば、

五条袈裟の重たさに気がつきました

 

 

この袈裟年期ものです。

私が東寺を去る時に頂いた

もうかれこれ30年は使い込んでいる

それで修理をしながらということで

修理の度に布を重ねていくせいか

段々と重くなってきたようです

 

 

結ぶ紐のところが繰り返し使うので

一番痛んでくるところです

 

 

そこで新調した五条袈裟

しなやかで軽く扱いやすい

 

 

やはり手織り本金製とあるように

本金は衣になじむ感じで

とても着やすいものです。

 

衣大事に使うと、

今きている衣は祖父の衣

おおかた100年も使っています

洗い張りをして染め直し

仕立て直すとやはり使えるものです

古いものは大事に使うと

なんだかとてもシックリくるようです

 

木造建築でも

色々な修理の仕方があって

古い木材は何百年も持つものです。

しかし、

段々と修理する技術も

廃れていくようで、

やはり、

残すべきものは残す

新調するものは新調する

そのメリハリも大切なようです。

 

お寺も行事が続き

28日はお不動さま

30日は加藤神社・阿蘇神社に

植樹した醍醐の桜の花見

4月2.3日は梵鐘の開眼法要と

なかなか休まる時がないようです。

 

ガンバレ!!

 

 

 

 

 

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春彼岸 菩提の種をまく日かな

2017-03-20 08:26:57 | 住職の活動日記

お彼岸のお中日

曇り空、少し肌寒い空気

 

昔から、

「春彼岸 菩提の種をまく日かな」

という歌があります。

 

菩提の種をまくという

私たち迷っている人間には

菩提そのものを蒔くことはできない

しかし、

その菩提の種となる、

なにか、因になる要素は

蒔けるのではないか

ということではないでしょうか。

 

「お彼岸」

「彼の岸」と書きます。

私たちがいるこの世界

迷い悩んでいる苦しんでいる

この世界を「此岸」(しがん)

此の岸(このきし)といったのです。

 

彼岸への憧憬と言いますか

やはり苦しいこの世界から

仏様のいらっしゃる彼の岸を

憧れの世界と見たのでしょう。

 

暑からず寒からず

ちょうどいい気候のこの時期を

お浄土の世界に見立てたのでしょう

寒かった冬からやっと

温かくなってくるこの時期

待ち望んだ春の温かさを

お浄土と感じとったのでしょう。

 

彼の岸という「彼岸」がある

ということではなく

心境の世界だと思います。

 

此の岸、

私たちはどうかというと

自分本位で自分勝手で

自分の都合しか考えない

それが私たちのあり方です。

反対に、彼の岸というと

相手のことを考える

他人の立場に立って物事を考える

他人の喜ぶことを自分の喜びと

感じるような

そういう心境

そこに彼岸の世界が開けてくる

ように思います。

 

「忘己利他」(もうこりた)

『己を忘れ他を利するは

慈悲の極みなり』

ということを伝教大師は

仰っておられます。

 

私よりもあなた

此れよりも彼のことを

考えるのが(思いやるのが)

お彼岸の意味ではないでしょうか。

そこには、ただ思うのではなく

一つの行として実践すると

六波羅蜜の行になってきます。

 

布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧

という、

どの一つを取ってみても

自分本位の心を克服する

他のために尽くすという

行になってきます。

 

お墓参りもそういう意味があり

お寺へ先祖供養へ行くのも

そのことの一つの実践になるのです

 

長いことついて付いてきた

癖というものは

一気には直りません

他人のことを先にといっても

なかなかすぐにできることでは

ありませんが、

薄皮を剥ぐように

何か一つでも

身近なことから始めるのが

行(実践)の

肝心要なところです。

 

一歩を踏み出すことが

お彼岸の大切な意味では

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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