本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

進むか・後退するか 止まることはない!

2017-06-23 20:29:47 | 住職の活動日記

宇治鳳凰大学の今日の講座

「高齢者のこころとからだ」

~あなたの大切な「脳」は

  お元気ですか?~

という題で、

京都華頂大学の中村洋子先生の

講義です。

 

とても興味深く身近な問題です。

その中でおもしろかったのは

 

先生も骨折されギブスをはめていた

一月たってギブスを取ったとき

腕が思うように動かない

というのは、

脳の運動野、特に手の部分は

その占めている部分も多く

それだけ手がとても複雑な運動を

しているということです。

ギブスに入れるということは

その運動野に目隠しするのと同じ

するとその部分が壊死していく

しかし、

また運動することによって

神経細胞が情報網を形成していく

それによって

また同じような動きができる

ようになるということです。

 

人間の体はとても微妙で

使わない、動かさないと

とたんに、その部分は壊れていく

ということです。

今まで動かして貯えていた部分は

そのままでいることはできない

 

前に進むか後退するかのどちらか

現状維持はないということです。

脳細胞でも人間の体でも

同じことで、

使わないということは

脳の運動を司る部分に

目隠しするのと同じで

使わないとすぐさまダメになって

働かなくなる

ということです。

 

やはり、

このことはすべてのことにおいて

いえるように思います。

 

仏道修行ということも

一旦やめてしまうと

それまで積み重ねて来たものは

そのままでいるのではなく

元に戻ってしまう。

前進していて現状維持がやっと

現状維持だと思っていると

次第次第、後ずさりしている

ということです。

 

『十地経』でも、

第六地(般若現前地)にたどり着く

修行によって、

そして、般若現前ですから

空の智慧が目の前に見えてきた

よしこれで一段落と

腰を落ち着ける

そして、

さとった空の智慧に愛着してしまう

すると今までやってきたことが

いっぺんに消えてしまう

頑張って六地まで修行したのだから

六地までの分は残っていそうに

思うのですが

全部なくなってしまうというのです

腰かけた瞬間に

元の木阿弥に帰ってしまう

 

さとりということも

腰を落ち着ける所ではなく

一歩一歩の歩みを止めない

ということを知るのが

さとりということでしょう。

無限の歩にふれるということが

さとりということでしょう。

もうここまで

と思うのではなく

道は無限に続くという

その道程を感じることが

大切なのでしょう。

 

仏道の歩みにしても

人間の身体にしても

前進止めたトタンに

後退していく

そしてすべてを失くしてしまう

 

歩み続けるよう

人間の身体が身を持って

証明しているということです。

 

仏道の話も観念論ではなく

身を持って証明していく

そういう実践の話です。

 

なんだか、

医学の話と仏道の話が

一致するとは

とても興味深いことでした。

 

 

 

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

宇治川の流れ

2017-06-22 16:56:53 | 住職の活動日記

宇治橋から眺める山々の景色

とても風情がって好きな場所です。

しかし、

川というと潤沢に流れると

潤いをもたらす

一端荒れ狂うと

全てを押し流してしまう。

 

 

逆光でまっ黒くなりましたが

「宇治橋断碑」の複製です

宇治の歴史資料館にあります。

本物は宇治橋のたもと

「放生院」というお寺にあります

橋を管理していたので

通称「橋寺」とも「橋寺放生院」

ともよばれています。

 

 

断碑ですから、

完全に残っているわけではありません

 

 

それを活字に起こしてあります。

 

「浼浼横流 其疾如箭…」

(べんべんたるおうりゅう 

そのはやきことやのごとし)

という言葉で始まります。

『浼』ベンという聞きなれない文字

水が平らかに流れるさま、

『横流』とは

「洪水横流し天下に氾濫す」

と使うように、

水があふれ流れるという意味

そして、

その流れは矢のように早い

というように書いてあります。

 

大化2年(646年)に宇治橋は

僧・道登(どうと)によって

架けられたと断碑には記して

あります。

日本で一番古い橋ということです

が、この流れのはやい川に

橋を架けたということは

大変な難工事だったのでしょう。

弘法大師もそうですが、

昔のお坊さんはダムは作るし

橋を架けるし医薬には長けているし

井戸や温泉を掘り当てたりと

それはそれは万能な知識と智慧を

兼ね備えた方だったのです。

 

 

 

 

文化会館のホールには

宇治の流れを象徴しているのでしょう

その波の姿を形どった様な

モニュメントが展示してあります。

 

仏教には弁天様(弁財天)

という仏さまがいらっしゃいます。

普通は上半身裸で琵琶を持った姿

しかしながら、

古い時代の弁財天は手は六本あって

それぞれ武器を持った姿です。

川の流れを象徴した姿

琵琶を持っているのは

その流れのせせらぎの音を

象徴しているのでしょう。

その琵琶を持った姿から

芸事の神さまとなったようです。

 

本来は破壊と恵みの神

静かに流れれば豊かな恵みを

もたらしてくれます

そして、命の水ともなり

物を運ぶ大きな手段ともなりました

けれども、

自然の姿は恐ろしいもので

一端、大雨が降ると

河はあふれすべてのものを

押し流し破壊してしまいます。

 

水に関するところには

海でも川でも

弁天様をお祀りしたものです。

 

今では風光明媚な宇治川の流れ

ちょっと前までは

浼浼たる横流の川だったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

いよいよ、島津亜矢コンサートに申し込みました!

2017-06-21 22:28:42 | 住職の活動日記

あれからというもの、

毎晩、島津亜矢さんの歌を聞くのが

日課になってきました。

はじめは  ヨウモノ系から

あの、「エンダー 」という

ホイットニーヒューストンの歌から

次第に、私たちの青春時代の

布施明さんや千昌夫さんとの共演

の歌声

そして、

浪曲ものの長編「俵星玄播」

中村美津子さんとの共演の

「瞼の母」

バッテン荒川さんとの

「帰らんちゃよか」

と、

涙をためながら聞き入っています。

 

コンサートのこともネットで知って

尋ねてみたら今日までが締切

早速、今日申し込みました。

 

10月です

びわ湖ホールでのコンサート

なんだか今から楽しみです。

 

妙にはまってしまいましたが

やはり何度聞いてもいいものはいい

どのジャンルの曲も

完璧に歌いこなされる

素晴らしい才能の持ち主です。

それと、努力の賜でしょう。

往々にして、

演歌の方がヨウモノを歌うと

ちょっとしたところで

こぶしが効いてくる

そういう所が微塵もなく

素直に聞けるものです。

 

しかし、

浪曲系というか股旅物とか

妙にシックリ心に落ちるものです。

 

また、今日の締めくくりに

耳をかたむけて寝ます。

 

 

 

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

災害の歴史 in うじ 地震の歴史

2017-06-20 22:06:39 | 住職の活動日記

先週に引き続き、今回は地震の歴史

先生は同じく加納靖之先生

 

熊本であった地震のこともあり

とても興味深く拝聴しました。

 

案外知らなかったのですが

よく聞く、マグニチュードと震度

「地震」というと、

震源または震央の場所で

大きさはマグニチュードで表現

「地震動」というと、

地震によって発生する地面の揺れ

震度の大きさを表現して

マグニチュードというそうです。

 

宇治の地は

地震は少ないかと思っておりました

歴史を紐解くと

100年に一回の周期で起きている

ようです。

 

よく知っているのは慶長の大地震

慶長元年(1596)7月13日

秀吉が造った「指月城」が倒壊、

 

おもしろいことに

こういう記録はお寺さんの日誌に

記録されています。

お寺では今でもそうですが、

寺務日誌といものを書きとめています

 

その中で面白かったのは、

「地震雷火事親父」

という言葉、近年のものかと

思っておりましたら

こいう記録が残っています。

 

安政元年(1854)6月15日

伊賀上野の地震があります。

興正寺、三室戸寺、万福寺と

その時の様子をそれぞれに

綴っておおられます。

同じ万福寺でも

それぞれの部署によって

日記をつけていたようで、

その一つに、

「世間の評判には20余年来の

ことと申すに御座候、

懼れる(おそれる)べきは

地震雷火事親父と申す事云々」

というようなくだりが出て来ます。

 

また、この年の11月4.5.7日にも

安政東海地震・南海地震が

起きています。

「6月の地震よりは揺り方緩く

少し長方に御座候」

と長期の揺れであったと

記録があります。

これが南海地震の特徴だそうです。

 

まあ、こうやって歴史を紐解きながら

温故知新とでもいうか

古きを訪ねそれにより

これからの心構えを

新たにしてく、

 

この地震の先生方は

古文書も読み解く

そういう力がなかったら

務まらないような気がしました。

 

水害に続き地震のことも

大変勉強になりました。

来週も続くのですが

生憎出席できません。

残念!!

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

学ぶとは 自己を壊すこと

2017-06-19 19:59:32 | 住職の活動日記

ちょっとショッキングなタイトル、

立命館大学準教授の千葉雅也先生

『勉強の哲学』という本の中で、

「勉強とは、

新しい知識やスキルを身につける

行為ではなく、

自己破壊の行為である。」

と、

「勉強とは自己破壊の行為」

 

う~ん!

なるほどと頷けなくもない、

まだ本を手にして読んでないので

勝手なことは言えませんが

ふと思うのは

仏教の修行に通じるものも

あるような、?

 

知識と智慧ということもあります

また、チエにも知恵と智慧があり

おばあさんのチエ袋という場合

この知恵を使います。

仏教でいう智慧とは、

インドの言葉ではハンニャ

般若と書きます。

般若心経のハンニャです。

般若波羅蜜多、直訳すると

「智度」となります。

般若経を解説したっ経典(論)は

『智度論』(ちどろん)といいます。

般若の智慧で彼岸へ渡って行く

その、と渡るのをとって

名づけたのです。

 

その般若心経の中に

「一切顛倒」(いっさいてんどう)

という言葉が出て来ます。

一切は逆さまであると

一瞬、

奇異に聞こえるかもしれませんが

仏の眼から見ると

私たちのやることなすこと

全てが逆さまになっている

というのです。

 

よく師匠から

お前の全部が間違いだと

いわれて、

そうではあるまい

まあちょっとは間違っているかも

でも、なにからなにまで

間違っている

そういうことはあるまいと

思っていたのですが、

今から思いかえしてみると

なるほどそうだったと

思われてなりません。

 

般若の智慧ということは

この一切顛倒であるということを

見抜く智慧のことでしょう。

ですから、

おばあさんの知恵とは根本的に

違うのです。

ものをよく知っている

ということではなく、

自分の煩悩をいかに対治できたか

という智慧なのです。

自分を対治できることを

智慧というのです。

 

ですから、

「学ぶとは自己を破壊すること」

ということは

今まで自分自分と思っていた

自分を破壊することです

一切顛倒を打ち破ることです。

いくら物事を知ったとしても

自分の煩悩を対治する手立てが

わからなければ、

その知識は何の役にも立たない

ものになってしまいます。

 

般若心経でも

繰り返し言っていることは

般若の智慧による解脱

彼岸へ渡るということです。

その中心が般若の智慧ということで

布施波羅蜜、持戒波羅蜜と

六波羅蜜が出て来ますが

その根本は智慧波羅蜜ということ

 

学ぶということは

本当の智慧を学ぶことです

自分を対治してくれる

自分を全否定してくれるような

そういう智慧です

その時、

やはり、そうであったかと

心からの明るさが

めばえてくるのです

 

具体的には、

自分にとって都合の悪い

自分にとって一番嫌なこと

そのことを毛嫌いせずに

自分の身に引きつけて

見続けて、

じっと学んでいくことです。

 

この千葉先生の本の中では、

「不安を前に、安易に悪や敵を

決めつけるのではなく、

粘り強く情報を比較して

考え続ける。

ごく当たり前のことだけれど

大変。

まさに『強いて勉める』勉強が

大切なのです」

と書いておられます。

 

「勉強の哲学」

読んで見たい本のようです。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

宇治市民大学・巨椋池 水辺の暮らしを語り継ぐ

2017-06-18 20:59:07 | 住職の活動日記

646年   飛鳥時代 

      宇治橋が架かる

1052年  平安時代 

       平等院の建立

1594年  安土桃山時代 

              太閤堤の建設

そして、

現代はブランド力としてもお茶

これが宇治にとっても大きな

ターニングポイントでしょう。

 

ということで、17日の土曜日

宇治市民大学がありました

鳳凰大学と違い自由参加で

都合が合えば聴講できます。

今日の講師は

前宇治市歴史博物館館長の

坂本博司先生です。

 

 

 

 

段々と忘れ去られようとしている

巨椋池

今は田園風景が広がっています。

 

 

そこには高速道路も走り

昔そこが大きな池であった

ということが嘘のようです。

 

宇治川も昔はなかなか激しい川

その水は巨椋池へと注ぎ込み

そして、桂川木津川と合流して

淀川へと流れていました。

秀吉もこの流れに心血を注いで

太閤堤を造り

伏見の地に港を造り

物流の拠点にしたようです。

 

 

 

 

昔はこのような満々と水をたたえる

大池

そこには漁場も広がり

 

 

こういう浸木(したき)漁という

木の枝を指して魚の棲家を造り

集まったところで魚を獲るという

方法のようです。

 

 

 

水のところに点々があるのは

その漁場というところです。

 

 

その池には蓮もたくさん咲き

ハス酒を飲みながら

月見を楽しんだという

風流な遊びもあったようです。

 

 

しかしやはり、一旦水が増水すると

このような赤い地点で決壊して

大きな水害が出たのです

 

 

大正時代の図面では

まだこのような大きな池がありました

 

この巨椋池は干拓事業で

大きな田園地帯を生み出したのです

 

 

水色の水路を作り

その水を集めて宇治川に排水する

という方法で干拓しました

 

 

 

池を埋めて作ったのかと

思っていましたが

干拓ですから、干し上げる

水を出して平地を造る

ということです。

この水を抜くのに2年半

もかかっています。

 

 

巨椋池は京都盆地の

一番底に当たるところです。

ということは

ちょっとした増水や大雨による

水の被害には悩まされてきた

という歴史があります。

 

大池という水路でもあり

漁場でもあった

それなりに大きな恵みを

もたらしていた。

それが干拓で大きな水田となり

宅地となって都市化していった

でも、

油断は禁物!!

この地はあくまでも池であって

盆地の底ということを

忘れてはいけない。

と先生は強調しておられました。

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

華籠(けこ)

2017-06-17 19:52:13 | フラワー

花籠(はなかご)と書いて

仏教読みは(けこ)といいます。

花籠と一緒なんですが、

皿とか籠にお花を盛り付けて

仏さまへお供えする

というように使うのですが、

後の時代になると

「散華」(さんげ)といって

雑華荘厳といいますか

花でもって仏を荘厳するために

お花をまくように

次第に、花びらの形をした

紙をまきます。

 

 

 

 

今日のお花、まるでそのような

かごに盛られたような花です。

 

今日は先生が急用でお休みとか

各自、

自習形式で活けられたのでしょう。

 

 

豪華なカトレアとかもあり

艶やかな花に仕上がっています

 

 

 

 

インドではお花はふんだんにあり

今でもそうでしょうが

位の高い方が通られるとき

歩かれる足下に花をまいて

美しさをさらに高めたのでしょう。

 

6月15日は「弘法大師・空海」の

降誕会(お誕生日)でした。

いつも立派な花御堂が作られます

これは豪華で、

たぶん数百本の花を使います

5本くらいの花を一まとめにして

それを半紙でまとめ水引で縛ります

その花束を竹の棒ではさみ

屋根瓦をふくように

一段一段ずつ葺いて花御堂の屋根を

作っていきます

終わったらその花束をご信徒の方々

各自家に持ち帰り

仏壇に飾り一年の無事を祈るという

おもしろいしきたりがありました。

 

 

 

 

まあ、お花は仏さまにとっても

切っても切り離せない存在です

花瓶に活けた荘厳華も普通ですが

もともとはこのように

水盤とか籠に盛られたのが

始まりでしょう。

 

 

 

じっと見ると

花々がそれぞれ笑顔で

話に花が咲いているようにも

見えてくるものです。

 

 

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

島津亜矢さんの歌に聞き惚れてました!

2017-06-17 14:24:42 | 住職の活動日記

昨夜の中居さんの「金スマ」

ゲストは「島津亜矢さん」

しかし、

恥ずかしながら

存じ上げてませんでした。

それも、熊本の植木出身

紅白にも何回も出場され

とても有名な方なのです。

 

その歌声の素晴らしさは

虜になってしまいました。

演歌ご出身のようですが

ポップスも外国の歌も

何でもこなされる

マルチな歌い手さんです。

 

早速、

ネットでCDを注文したり、

たぶん、注文が殺到したのでしょう

到着は6月25日から7月25日という

返信が来ました。

それで、

ネットからダウンロードしたりと

大忙し!

 

You Tube でも見つけて

流れてくる曲に聞き惚れ、

時のたつのも忘れ

これ聞いたら寝ようか!

といいつつ

しかし、これも聞いてみたいと

次々と聞いているうちに

とうとう1時を過ぎてしまいました。

 

もう、何十年も前からデビューして

色々なところで活躍していらっしゃった

本当に疎い私です

全く

名前すら聞き覚えがなかったのです

 

CDが届くのが待ち遠しい

You Tube で楽しみたいと

思っています。

 

 

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

アウフヘーベン

2017-06-15 16:41:25 | 漢字

ニュースでこの言葉が飛び込んで、

やはりと知事ともなると

外国語にもご堪能なようで

「アウフヘーベン」というドイツ語

も駆使して表現されるようです。

 

十地経の講義の中でも

安田先生もこの言葉をよく使われ

言葉自体にはなじみはありました。

 

哲学的には「止揚」というか

ヘーゲルが使った言葉です。

 

もともとは日常語で

「上へあげる」という意味です。

die hand aufuheben 

というように、手を上へあげる

というような使い方です。

しかし、

もっと意味合いも含んでいて、

保管する、保存するという意味もあり

解散するという意味もあります

また、

廃止する、破棄するという意味もあり

相殺する、帳消しにする

というような意味もあります。

 

都知事はどういう意味で

使われたのでしょうか ??

 

こういう日常語を

ヘーゲルという哲学者は

哲学用語まで高め

精神構造を表現されたのでしょう。

 

かの知事さんは

AとBと統合して更に良いものへと

高めていく、

Aの内容を保存しつつ

次のステージを見すえる

というような意味で

使われたのでしょうか?

 

十地経の講義の中でも

十地という内容は

全てが修行ということですが

その段階を歩んでいくということは

歩ませないようにしているものを

見つけないと、歩めない

ということです。

歩めないようにしている自分の煩悩

を見つけないと

本当の歩みは出てこない

 

「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」

ということがあります

「煩悩即涅槃」

といういいかたもあります。

普通は、

煩悩を断じて涅槃を得る

ということです

煩悩を断じなかったら迷いのまま

永遠に悟りはありません

煩悩を捨ててしまえといっても

実際にはできるものではありません

そこに大きな矛盾があります

 

できることをやっていく

というのは実践ではないのです

出来ないことをやる所に実践はある

頭で考えると

矛盾のように思えるのですが

事実スポーツ選手とか見ていると

できることをやってたんでは

絶対に勝てないんです

出来ないことをやる

そこに本当の実践があると思います

 

その一点を経典では

『転』という言葉で表現しています

転じていく

「転捨」ということもあります

ただ何でもかんでも捨ててしまう

ということではなく

捨てるにも転に捨てる

得るのも転に得る

というように

煩悩を転じて菩提を得る

 

そういうことを

アウフヘーベンと表現されてます

矛盾するものを契機として

それを保存する

そして次の歩みへと進んで行く

 

「一即一切」

ということがあります

さとった法の世界には段階はない

のではないかと

一味の世界というくらいですから

ではなぜ、

『十地経』というように

十の位があるのか

法界といえば一つではないかと

十地がなぜ必要か

 

というのは、障りがあるからです

智慧を得ても智慧の中に障りがある

そしてそれを対治していく

そうすると智慧が自分を

アウフヘーベンしていく

そういう意味で十地が成り立つと

 

障りを嫌ってしまうと

(煩悩を断ずる)というように

それは個人の問題で

みんなの問題意識にはならない

反対に、障りを喜んでしまうと

それは煩悩にまみれてしまう

 

そこに

障りというものの意味を見つけ

意義を認め、

障りを駆使していく

障りを恐れずにまた障りに使われず

そこから脱皮していく

障りを止揚していく

アウフヘーベンしていく

欠点を活かしていく

成功しようと思えば失敗を生かす

 

修行でもそうですが

前のものが完成したことが

実は次のものを引き起こしてくる

それが歩みです

ただ

歩(あゆむ)というのではなく

過失を自分の中に見出す

過失を外に見ている間は

自分は歩んでいない

不足を言っているだけです

自分の中に過失が見つかった

それが歩みとなるのです

  

もともとは俗語である

アウフヘーベン

もっぱら日本ではヘーゲルが唱えた

弁証法の止揚ということが

定着しているようですが

一つの考え方として

仏教での修行を行じていく

その段階を乗り越えていく

その段階的に階段を上がっていく

のではなく

前のものを保持しつつ

そこに新たな障りを見つけて

乗り越えていく

というようにも

使えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

蜂の巣を取ってみた!

2017-06-14 21:08:00 | 住職の活動日記

蜂も死んでしまって空き家になった

蜂の巣、

軒下にあったのですが、

もう、必要ないかと取りました。

 

 

案の定、巣の中は

クモの巣に覆われていました。

思っていた通り、

クモが蜂の子を食べてしまった

のですね、

 

一冬、巣の上で寒さに耐えて

頑張った女王蜂でしょうか

やっと春が来て子育てに

と思っていたらクモがやって来て

子どもたちを全部食べてしまった

思うに、

 

 

巣が蜘蛛の糸で一杯になったので

横に新たな

小さな巣を作ったのでしょう

しかし、一匹では

どうすることもできなかった

のではないでしょうか。

 

 

ふと見ると

蜂の巣はとてもよくできた構造です

とても軽くそして丈夫

自然界の中でこのような

複雑な構造物をつくるとは

ちょっと驚きです。

 

 

そういえば

「ハニカム構造」というのが

ありますよね!

蜂の巣構造とでもいうのでしょう

軽くて丈夫

そこから、飛行機の構造にも

ダンボールでハニカムを作り

紙でも丈夫なものにしている

ものも見かけます。

 

そういえば

亀さんの甲羅も六角形

ハニカムの形です

一番合理的で軽くて丈夫

ということになると

蜂の巣のような六角形に

なるのでしょう。

 

今、私たちは

昆虫に見習うべきものが

たくさんあるようです。

そこからのヒントで

色々なものが作られています。

 

しかし、蜂にとっても

この巣をつくるというのは大変な

労力のようで、

口と足だけでこの棲家(巣)を

作り上げているのです。

 

まあ、たくさんになると

厄介な代物ですが

身近にいて死んでしまうとなると

なんだか寂しい気もします。

 

ついでに

伸びてきた山法師の一枝

 

 

花瓶に挿しました

さわやかな緑で部屋の中も

一寸感じがいい

 

 

よくみると葉の裏はやや白く

表の美しい緑との対比が

おもしろいものです。

花はなくても緑の枝だけでも

なにかしら、

アクセントになるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加