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お不動さま大祭雑感

雨とはいうものの、

大勢のお参りの方で賑わいました。

一本一本護摩木を焚きながら

名前と願い事を念じていると

始めて見るような方々のお名前が

多くなったことです。

住職も変わり、お参りの方も

日々新しい方が増えているようです。

 

護摩法要も終り、

片付けをしていると、

顔なじみの方、

なにかしら小さくなられたような??

寄る年波、

そういう私ももうすぐ70、

お互い老けていくものです。

 

「部屋でころんで腕を骨折しました。

でも、お不動さんだけには

お参りしたくて、

こんな体でご迷惑かけますが、…」

と、外には

大きな歩行器が置いてあります。

もう90歳を超えておられます。

自分の家の檀家寺はあるのに

お不動さまには決まって

身を運んでこられます。

「いつまでお参りできるか

わかりませんが、

身体が動く限りは必ず参ります。」

歩行器を押しながら

たどたどしい足でタクシーまで、

後ろ姿を見ながら

本当に頭が下がります。

 

一服して、

宗良君の話を伺いました。

休みを利用しては

被災地へボランティアに

行っているそうです。

作業着と作務衣と持って、

行くときは雨の日が多く、

雨の日はボランティアは中止になります。

作務衣姿を見て、

「お坊さんですか?

よかったら、話を聞いてあげてください」

ということで、

中に入ってお話を聞くうち、

やはり、家の仏壇が気になるとか

お祓いもしてほしい、

ということで、

車にいつも乗せている衣に着替え

お祓いに行ったそうです。

大変喜ばれ、

「本当に安心しました!」

ということだったようです。

 

この話を聞きながら

「宗良君」随分と成長したものだと

感心しておりました。

この子の成長を見ていると

お坊さんになるために生まれてきた

そのような姿になったのです。

今までいろいろあったと思いますが

今までの苦労が

少しずつ花開いていくようです。

 

午前中の勉強会に臨み、

後は新幹線で一路京都へ

 

 

コーヒーを一服、

ホッと一息、なんとも美味しい

カップを見ると

「相互直通5周年記念」と

書かれています。

そう、九州新幹線が走って

もう5年も経つのです。

熊本を出て、地震の影響でしょうか

スピードはやや遅めのような感じがします。

車中はずっと雨で、

近づくにつれて雨も上がるかと

思われたのですが、

京都も小雨が降っています。

 

いよいよ梅雨入りでしょうか   

もうすぐ6月です。

月日の早さを感じます。

もう今年も半ばです。

時は早く過ぎていきます。

一日一日を大切に  

というより、

その時その時を大切に

全力で臨みましょう。

 

そういえば、こういう話も

大切に仕舞っておいた

「ワイン」

地震で割れてしまった。

大切に取っておくのも大事ですが

美味しいものは先に飲まないと

何が起きるかわからない

 

確かに、

頷ける話です。

私も頂もののウイスキー

大事に取っておいて

先に焼酎を飲んでいたのですが

この話を聞いて、

先に美味しいものから飲もうっと 

 

 

 

 

 

 

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五月春の大祭 風景

正月・五月・九月は本蔵院の大祭です。

この日はお不動さまの内拝ができ、

気持ちを込めてご自身で護摩木を

お不動さまの炉に投入できます。

生憎の雨となりましたが、

 

 

 

あじさいは色とりどりの

 

 

花を咲かせています。

 

 

今年もこの色の濃い花が咲き、

 

 

お参りの方々の目を

楽しませてくれることでしょう。

 

暫し時間があったので

さわちゃんと「シャボン玉」で、

 

 

大きな玉を作っては遊びに没頭

なかなか面白いショットが撮れ、

 

 

ちょうど木の葉に止まりました。

 

本堂ではそろそろ

百万遍のお数珠繰りが始まりました。

 

 

光明真言を百万遍唱えようと

毎回唱える方のお名前を記念帳に

記していくということです。

長い道のりになると思いますが

これも一つの大きな事業です。

 

 

今回も「小山盟央さん」も出仕、

法螺の音もすばらしいのですが

なんといっても太鼓の響きは抜群です。

 

素晴らしいお勤めになりました。

 

 

 

 

 

 

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身を運ぶ

いつも乗っている「さくら号」

今日の席は最後尾の車両、

 

 

何気なく見ている「さくら号」なのですが、

この流れるような線のライン

とても美しく感じます。

 

 

「さくら557」鹿児島中央となっていますが

やはり地震の関係で間引き運転で

この「さくら」も熊本止まりです。

 

一応、順調に定刻に出発

この車両はやけに外人さんが多い

外国の方には「さくら」は周遊券のような

サービスがあって何回も乗れるようです。

この日は「オバマ大統領」が広島訪問

ということで、駅構内も車内も

警備の警察官の姿をよく見かけます。

そして、車内のゴミ箱も封鎖、

ちょうど広島に着くと外国の方は

ほとんど下車

 

「オバマ大統領」もようこそ広島へ

お見えになったと思います。

なにはともあれ、その場に身を運ぶ

そのことが重要だと思います。

 

先日は「天皇陛下」も日帰りで

熊本の被災地を訪問されました。

お気持ちとしては居ても立っても

いられないということだったのでは

ないでしょうか。

ほんの少しの間でも

その場に行ってお見舞いしたい

身を運ばれることの大切さ

そのことをよくよくご存知なのでしょう。

 

今回は身を運んでくれるものは

「さくら557」

「オバマ大統領」の身を運ぶものは

『エアホースワン』に『マリンワン』

 

 

「さくら557」の美しいライン

いつもお世話になっているのですが

しばし見惚れて

 

 

この長い鼻先、

しかし、鼻っ面には

 

 

たくさんの虫のぶつかった後が残っています。

 

心と身(み)ということがありますが

心は結構ウソついたりごまかしたりと

でも、身は正直です。

心では、

「武士は食わねど高楊枝」

ということもできますが、

事実、身からすれば

「食べなかったら腹減った」

という事が本当です。

 

心は好き勝手にあそびます。

その事実を限定するものは「身」です

「心境冥会して」

ということがありますが、

私たちが居るということは

「心」を持ち「環境」を持っている

ということです。

いくら心の中で好きだ好きだと思っても

今自分が居る「身」ということを

忘れると大きな過ちをしてしまいます。

 

だから、「身」ということの

大切さを忘れてはならないと思います。

心は

「ころころかわるからこころ」

というんですよ、

とは師匠の三浦先生の言葉です。

 

 

 

愛用のバッグを肩に掛けて

いざ、熊本です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幸せの黄色い花!?

孫たちがいると、

なかなか気楽にあちこちいけない、

ご近所をうろうろする

(徘徊ではありませんよ ?)

 

近鉄小倉駅、

その線路沿いに

 

 

この黄色い花が目に付きます。

視線を感じたのです。

 

 

そのなかの一輪が

風に揺れながらも

こちらを見ているような

やおらカメラを取だし、

 

しばし足を止めて

じっと眺めていました。

 

 

蕾でしょう。

枝の下の方にはどんどん

出てきているようです。

 

 

また、咲ききっている花も

もう散っていく寸前でしょう

中の雌蕊(めしべ)?

とても美しく開いています。

 

 

丁度、近鉄特急が走り去って

京都へ向かっています。

 

美しさに見とれていたのですが

ちょっと気になる匂いが

漂ってきます。

駅のホームのトイレが

花の向かい側にあるのです。

 

もうそろそろ私の好きな

「アジサイ」の季節、

 

 

となりには「額アジサイ」が

モクモクと成長している。

 

あまり手入れされていない

自然のままに咲いている

ほったらかしの花壇のようですが

次々といろいろな花を

咲かせているようです。

 

ここ最近は「黄色い花」が

目にとまります。

きっと幸せを運んでくるのでしょう。

 

 

 

 

 

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人生は苦なり !!

新聞に目を通しておりますと、

「四苦について」と小学校5年生

感想を投稿しています。

やはり京都ならでは !?

学校で習われたのでしょうか

しかし、

こういう事を取り上げること自体

宗教感覚というものが

根付いているのでしょうか?

 

お釈迦さまの悟りの内容

一言で言ったら

「人生は苦なり」

ということです。

 

普通考えると、

苦しいこともあるけど

楽しいこともあるではないか、

歌にも

「人生楽ありゃ苦もあるさ」

とあります。

 

普通には「四苦八苦」と

いわれるように、

「生・老・病・死」の四苦

「愛別離苦」

「怨憎会苦」

「求不得苦」(ぐふとっく)

「五蘊盛苦」(ごおんじょうく)

の四つを加えて八苦とします。

 

お釈迦さまもお生まれになると

すぐにお母さまが亡くなられます。

そこからがお釈迦さまの

人生に対する苦が始まるのでしょう

なぜ僕を生んだのか

生んですぐに亡くなってしまう位

なら、生まなければよかったのに

と思われたのかもしれません。

 

お釈迦さまは王子さまです

世間的には物質的にも

とても恵まれた環境だったのです。

しかし、

国も捨て、奥さんも捨て、

子供まで捨てて出家された

それほどまでして求めたものは

 

四苦八苦も一面的に見れば

わかったような

しかし、よく考えてみると

わからないところもあります。

そこで、

四苦八苦を「三苦」という

分け方をして見直してみる

 

三苦とは

「苦苦」(くく)

「壊苦」(えく)

「行苦」(ぎょうく)

ということです。

私たちが分かるのは

「苦苦」と「壊苦」です。

「行苦」というのがわかりません。

 

苦苦とは自分にとって好ましくない

対象から感じる苦、

病苦と死苦と怨憎会苦が

これにあたります。

病気になるのも、死んでしまうのも

いやな人と一緒にいるのも

好ましいことではありません。

 

壊苦とは好ましいものが壊れていく

ということから受ける苦しみ

(つまり都合のいいものが去っていく

ということです)

老苦と愛別離苦、求不得苦が

これにあたります。

若さが去って年取っていく

愛する人と別れる

欲しいものが思うように

手に入らないという求不得苦

 

ここまでは誰にでもわかる

普通苦しいと感じるのは

この「苦苦」と「壊苦」です。

しかし、「行苦」がわからない。

四苦八苦の中の

「生苦」と「五蘊盛苦」です。

「行苦」の「行」は

「諸行無常」の「行」です。

 

仏教では「生死」と書いて

(しょうじ)と読みます。

生死(せいし)ではないのです。

生死は「生と死」と分けて考えます。

今は「生」の方は歓迎し

「死」の方は忌み嫌います。

しかし、

仏教では「生死」(しょうじ)です。

「生」だけが独立してあるのではなく、

その裏にはちゃんと

「死」が一緒にある。

生と死ではなく、生死という一つのモノ

ということです。

 

お釈迦さまの出家は

この「行苦」ということが問題になった

このことを考え出したら

いままでのすべてのものが

空しくなってしまった。

どんなに地位があろうと、

どんなにお金があろうと、

死ということを前にしたら

すべてが空虚になっていく、

 

こういう問題を考えることを

仏教では

「第一義諦」(だいいちぎたい)

といいます。

まず何よりも

何をさておいても考えなければ

いけない問題ということです。

 

熊本に帰って、お寺のため

一生懸命頑張っていました。

時折、師匠の三浦先生から

お電話を頂く、

「どうですか??」

「はい、お寺の方が忙しくて」

と答えたら、

「呑気な話やね!!」

(ドッキ)

「聞法しているか、

人生のこと一番に考えなければ

いけないでしょう!」

 

忙しい、忙しいと

仕事をしているつもりになって

一番肝心なことをないがしろに

してしまっている。

そのうち、そのうちと一段落したら

そう思っているうちに

人生の幕が下りてしまうかもしれない。

 

だから、「第一義諦」というのです。

そこから、

「アンパンマンの歌」も

もう一度じっくりと

読み返してみると

以外な真実が書かれているようです

 

 

 

 

 

 

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宇治鳳凰大学オリエンテーション

いよいよ始まります!

講義に先立ち、オリエンテーション

講義の受け方、

出席の確認、

学級委員の選出と、

 

 

 

今日に限っては歓迎の演奏というより

みんなで歌いましょう     と、

なつかしい歌を歌うという

しかし、団塊の世代が集中する

ということならば、

もう少し歌の選曲が若くてもいいのでは

 

ここ、宇治の中央公民館は

文化ホールと図書館とが

一緒に造られており、

地名も「折居台」というところ、

宇治の地名も結構

市役所のある「琵琶台」

というように台の付く名前も多く

起伏のあるところ切り開いて

建てられているようです。

 

 

 

 

何気ない斜面にも

 

 

黄色の花たちが風に揺られ

なんとも可愛く風に任せて

笑顔をふりまいているようです。

 

日程表を頂いたのですが

月に一回というものの

その一回の授業が

どうも重なりそうな気配、

しょっぱなからお休みか 

こちらも月一回の勤め、

皆勤賞は無理のようです。

 

まあ、クラブ活動もあるので

出来る限り出席して、

愉しまなければと思っております。

 

 

 

 

 

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8時だよ 全員集合 !!

昨夜は初めて孫6人

全員集合です。

 

一番上の紗和ちゃんを筆頭に

熊本地震のさなかに生まれた

長男の長女

そのあと、5月6日には

次女にまたまた次女が生まれ、

1男5女の孫たち

 

まあ、にぎやかなこと

仲良く遊ぶかと思えば

突然一つのおもちゃを取り合い

ケンカが始まります。

 

それぞれ個性があるものです。

顔もどちらかの血筋を受けたような

似ていたり、

意外なところを受け継いでいるようにも

これからそれぞれ6人の人格が

育っていくのです。

 

ジイの役目で公園へ子守りに

最初はおとなしく

滑り台で仲良く遊んでいたのですが

次第に、靴を脱ぎ

裸足で駆けずり回り、

砂場で靴に砂を入れては

それを運んで持っていくと

やりたい放題!!

 

怪我だけはしないように

そばでじっと見守りながら、

昔は自分も泥まみれになって遊ぶのが

なによりも面白かったことを思い出し

親が見たら、たぶん怒るであろうと

思いながらも、

自由気ままに遊ばせていました。

 

おおかた1時間もたったので

「そろそろ、かえるよ!!」

といっても聞きません。

「ジュースを飲もう!」

と、好きなジュースで吊っても

「かえらない!」

よっぽどおもしろいのでしょう。

しまいには頭から砂をかぶり

もう、全身泥まみれ

 

そこへ、あまり遅いものだから

心配になったのでしょう

母親登場

まああ、とあきれ顔ながら

「普段はこんなことがしたかったのね」

とあきらめ顔で

やっと母親が来て

帰るということになりました。

 

帰り道でも

してやったり顔で

なにかしら自信満々、

普段の帰り道では

「だっこ!!」

とおねだりするのが

今日は意気揚々と

足もとも軽く家へ向かいます。

 

お経にも

「園林遊戯」(おんりゆうぎ)

ということがでてきます。

これはエンジョイというようなものでなく

もっと深い、一番真剣になれる

それが遊びであると

お経には出てくるのです。

煩悩の林の中に遊戯すると

このすみにくい娑婆に遊戯すると

 

それに比べ大人の意識は

情けないもので、

すぐ目的と手段が出てくるのです

ソロバンをはじいている

なんなんのためにとか、

泥んこの子供を見ていると

何の目的もなく

ただそこに没頭している

 

ニーチェという方も

子供の心にならないと

神の世界には入れないと、

かといって、

そうならなければと、

子供のおもちゃを取り出して

遊んだという大人がいた

という話もありますが、

子供のようにならなければ

神の国には入れないということで

笑い話のような

笑えない話ですけど、

 

「園林遊戯」

仏さんというと

なにかしら私たちからは

遠い存在のように感じる

かもしれませんが、

そうではなく、

子供が林で遊ぶような

そういう心だといいます。

 

「この里に 手鞠つきつつ

 こどもらと あそぶ春日は

 暮れずともよし」

 

と詠まれた良寛さんのような

心ではないかと思います。

 

 

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究極の掃除機は… ??

最近は家電芸人という方も

いらっしゃるようですが、

男は何かと機械ものが好きで、

私もなんだかわかりませんが

掃除機には興味がって

いろいろな種類の掃除機を

使ってきました。

 

30年位前

ダイソン掃除機の前身である

「Gフォース」という

一見すると掃除機には見えない

なんとも不思議なデザインが好きで

吸引力も強力で愛用していました。

そのあと、「ダイソン」の掃除機を

そして今お寺では、

「ダイソン」の充電式の掃除機が

大活躍中です。

 

 

これもゴミはよく取れる

目に見えないゴミまでも、

しかし、

そのごみ処理が問題です。

 

 

細かいゴミまでとれるので

そのごみを捨てる際に

上手にしないと周りに飛び散って

 

 

この微細なゴミを

どう処理したらいいのやら、

分解して水洗いするのが一番、

 

 

以前の「Gフォース」は月に一回は

分解して水洗い、

まる一日乾燥させるという

まあ、それも

苦にはなりませんでしたが、

 

今、わが家では

 

 

外出するときには「ルンバ」君が

活躍しています。

ただ難点はルンバ君が動く範囲は

整理して何も無いようにしておかないと

紐が絡まったり、

ハンカチとか食い込んで

止まってしまいます。

また、

物を倒したりすると、

警報が作動して

「セコム」さんが駆けつける

ということになりかねません。

 

 

「ルンバ君」はこの回転ブラシで

込みを吸い込んでいくのですが、

 

 

これも掃除となると

ゴミ収集するところ外して

捨てるのですが、

 

 

やはり最後はフィルター部分や

ゴミパックのところは

別の掃除機で掃除するという具合、

 

 

今は主に、

 

 

頂いた充電式の簡単な掃除機が

日々活躍中、

子の掃除機も、

 

 

このゴミパックのところを外し

捨てたらいいのですが、

 

 

やはりフィルター部分は

別の掃除機で掃除をするという

ことに相成ります。

 

 

 

 

だから、最終的な出番は

 

 

昔ながらの「紙パックの掃除機」

ということになります。

掃除機を掃除するという

手間もありませんし、

溜まったごみを

なんの手を汚すことなく

パックごと捨てればいいという

 

年ということで

面倒がってはいけませんが、

毎回、掃除機を分解して

掃除するという手間を考えたら

     …

 

私にとって究極的掃除機とは

「紙パックの掃除機」

という結論になりました。     

 

 

(吸引力の変わらない、という

うたい文句の掃除機もありますが

そのごみの処理を

手を汚さずにする方法を

考えていただければ

それこそが

究極的掃除機ではないでしょうか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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泰斗

世の中知らないことばかりで、

今まで知らなかった

新しい言葉に出会ったり、

勉強することばかりです。

ソクラテスは『無知の知』という

すべて知らないことだけは

知っている、と

あらゆることに対して疑問を

投げかけていきました。

 

仏教では、仏さまのことを

「一切智智」といいます。

あらゆることを知り尽くしている。

だから、「無学」ともいいます。

もはや、学ぶことは無いということで

何も知らないということで

無学というのではありません。

 

弘法大師は日本最初の私学を

「綜芸種智院」と名づけられました。

仏教だけでなくありとあらゆる学問の

種を植えつけ智慧を生産する

という意味でしょう。

綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)

最初に聞いたころはなんと変な名前

と思ったのですが、

弘法大師の深い思いが

込められてるのですね。

 

「泰斗」(たいと)

新聞の中で知ったのですが、

「このフランス文学と評論の

泰斗は終始表情を変えず」

とあったのですが、

調べてみると、

「泰山北斗」の略で、

泰山と北斗星のことで、

人の仰ぎ尊ぶべきもののたとえ、

人々の尊敬する優れた人物、

ということのようです。

 

この記事の内容は

第29回三島由紀夫賞に決まった

蓮実重彦さん、

「喜んではいません。

はた迷惑な話です」

と述べ、

「選考委員が暴挙に出た」

とも語っておられます。

まあ、

記者とのやり取りを見てみても

どうもかみ合わない、

「バカな質問はやめてください」

と、

記者たちの質問を次々却下する

場面もあったようです。

 

蓮実先生の心を推し量ることは

できませんが、

以前、師匠のことを褒めたら

えらく叱られたことがあります。

師匠が認めて弟子を誉める

というのであればその通りですが、

下の者が目上の先輩のことを

褒めるということは筋違い

ということでしょう。

 

一休さんも、

悟りを開いたという「印可状」

を破り捨てたということがあります。

びっくりして弟子達が拾い集めて

大切に仕舞っておいたら

それを見つけ、烈火のごとく

叱りつけて、

その「印可状」を火にくべてしまった

という話が残っています。

 

その当時のお寺の世界では

悟ったという「印可状」をもらうのが

最大の目的だったのです。

しかし、一休にとっては

悟ったか悟らないかは

自分の問題であって

人がとやかく言うものではない

ということでしょう。

極力、権威に対しては

反骨の精神をみせたようです。

 

泰斗といわれるような人であれば

はたから賞をあげて

喜んでもらおうなんて気持ち

そのようなものは通じなかった

のではないでしょうか。

先生の心はどうか知ることは

できませんが、…

 

そういえば、

最近の記者たちの質問の

貧弱さにはあきれるばかり、

たまにはこういう骨太の

筋の通った答えをする方を見ると

なんだか痛快さを感じます!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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数数修習(さくさくしゅうしゅう)

「数数修習」、

略して「数習」(さくしゅう)(さくじゅう)

ともいいます。

初めて聞いたのは『十地経』の

安田先生の講義のなかです。

やはり、とても感動した言葉です。

 

本蔵院も先先代の『力の泉』

というハガキ伝道に始まり、

『不動の光』という隔月発刊の新聞

そして、

この度、新しく『数数修習』として

本蔵院の伝道紙が始められます。

 

 

「数」を(さく)と読むのも面白い、

この字も読み方で意味も違ってくる

「数数」サクサクと読めば、何度も、

しばしば、たびたび、という意味になり、

「数数」をソクソクと読めば、

いそがしい、という意味になります。

「修」という字は、彡(サン)と攸(ユウ)から

出来ています。

「攸」は身に降りかかった塵を払う

「彡」は飾りという意味、

そこで、「修」という意味は

塵を払って飾るということから

事をおさめる、という意味になります。

「習」は、ならうということですが

成り立ちは鳥が繰り返し羽を動かし

飛ぶ練習をする、という意味です。

 

「数数修習」は

何度も何度も繰り返し繰り返し

修行をしていくということです。

 

今読んでいる『十地経講義』も

全30巻ほどありますが、

十地経の中でも特に「第七地」

について何度も何度も

講義をされているのです。

修行とか勉強というものは

直線的に階段を上るように

ステージがアップしていくという

のではなく、

行きつ戻りつしながら

円を描くように進んでいくのです。

 

先日のテレビで「東大」に行くには

小さい頃の勉強法は、

というような特集をしていました。

なるほどと頷く点もあれば

ちょっとさびしく思うこともありました。

「東大に行って、社長さんになって

金儲けをしたい」

と、小学生の子供さんが言っていたのです。

 

「フィロソフィー」ということがあります。

『哲学』というように訳されますが

もともとは、

「知を愛する」ということが

語源です。

ですから、

学生という身分であるということは

職を免除されているのです。

昔は制服制帽があったのは

そういう意味だったのです。

学生という時間は短い

ソロバンを外し、

学問を愛してほしいと思います。

 

今は、

十地経に日々浸かっていますので、

一つの講義が終わって

また翌月になると

前月のところから始まる、

一向に進んでいない

ということがわかるのですが、

当時聞いている時は

毎回新しいことを聞くような

毎回感動するような

そういう講義だったのです。

 

今思うと、

安田先生という方

本当に経典を愛し、

繰り返し、前からも後ろからも

横からも、いろいろな角度から

経典を愛して読んでいかれた

一つの言葉でも、

それだけで一つの講義が

完成するというような、

 

「アビダルマ」『阿毘達磨』という

ことがあります。

直訳すれば「対法」ということです。

法に向かうという

仏教学研究というような意味に

なるかと思いますが、

このアビダルマということと

フィロソフィーということは

同じような意味ではないかと

法を愛し、知を愛する

ということでは、

 

以前、水前寺清子さんの歌に

「三歩進んで二歩下がる」

という歌詞がありましたが

そういう進み方かもしれませんが

そこには

頑張って努力する

という意味合いがありますが、

 

数数修習となると

努力の向こう側になる

もはや努力ではなくなり

努力することが楽しくなってくる

繰り返していくことが

愉しみなっていく

経典が身に添いいつもいつも

心の中に浮かんでくる、

 

なんだか観念論のような

気もするのですが

そうではなくやってみると

実践してきた人には

分かる話ではないかと

おもうのです。

 

人生の修行は

「数数修習」

しかないように思います。

死ぬまで「数数修習」です。

 

 

 

 

 

 

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