goo

一切衆生悉仏性

「一切衆生悉有仏性」

一切の生きとし生けるものは

悉く生まれながらにして仏性あり

と、辞書には出ていました。

同じような言葉で、

「山川草木悉有仏性」

山や川や草木に至るまで

仏性があると説いているのです。

 

このことも自分のこととして

どのように受け止めるか、

そこには、

「悉有」ということが大事ではないかと、

ことごとくある、という

 

人間誰しも劣等感や優越感に

とらわれるものです。

少し調子がいいと優越感になり

物事うまくいかないと劣等感に

なるという具合に、

修行とは劣等感・コンプレックスの

克服だ、と聞いたことがあります。

 

仏教の言葉では、下慢・高慢

という言葉で出てきます。

下慢、卑下慢ともいい、

下劣心という言葉でも出てきます。

今でいうコンプレックス、劣等感です。

反対に、

高慢、高慢ちきという言葉もあるように

威張るということです。

 

価値があって得意になっているのを

優越感ともいえるでしょうし、

価値ばないことにとらわれているのを

劣等感といえるでしょう。

 

この優越感、劣等感を対治する

というか、その心を

超えていくというところに

「悉有」という意味があるのです。

 

誰にも仏性、仏さまの心がある

というのですから、

優越感劣等感を問題にさせない

ということです。

「悉有」ということは「だけ」という

ことを否定するのです。

 

他の人に比べて

だけは偉いとか

反対に、私だけは駄目だということを

言わせないのです。

劣等感も許さんし威張ることも許さん

そこに本当の平等があり

すべての人に平等に仏心がある

ということが言えるのです。

 

修行がきつく

「もう自分は駄目です。

ほっといてください!

もうやめてしまいます。」

といったことがあります。

そのとき、

とても叱られました。

もう目の玉が飛び出るほど!

なぜか、その時はわかりませんでした。

自分のような根性無しは

捨ててしまえばいいのに、

と、思っていたのです。

しかし、

これは本当の激励だったのです。

もう、あかん。

ということを言わせない。

そこが修行のし時だろう!と

しかし、その時はわからないものです。

 

後になって、わかることなんですが、

自分のコンプレックスを克服できる

絶好のチャンスではないか!!

今この時を逃すな、

そういうための叱咤激励だったのです。

 

「悉有仏性」とうことも

みんなに仏さんの心はるんですよ

とは呑気な話で、

みな悉く仏性有り、ということは

優越感に浸ることも許さんし

また、劣等感に陥ることも許さん

という、非常に厳しい言葉です。

 

優越感に浸っている自分に

平等の世界に引き戻してくれる

そのことが智慧ということです。

劣等感に陥っている自分を

叱咤激励してくるということが

智慧ということでしょう。

 

知識と智慧の違いといっても

なかなかわかりませんけど、

 

読めば読むほど奥が深いものです。

他人事ではなく自分のこととして

どのように受け止めていくか

そこが一番肝心要のようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

祇園界隈

「祇園」、むつかしくいうと

「祇樹給孤独園精舎」

(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)

というお釈迦さまが雨季の時に

休まれて説法された場所から

長い名前が略されて

「祇園」となったようです。

祇樹というお金持ちが

孤児のために開いた園

という意味です。

 

来月には「祇園祭り」

新聞では「祇園祭」の記事が

連載されています。

 

 

久しぶりに友人たちを案内して

祇園へ繰り出しました。

 

好きな場所で祇園白川の界隈

 

 

「辰巳神社」です。

芸事の神様でしょうか??

 

 

井上八千代さんとかの名前も、

今の代の方がまだ若い頃

よく東寺へ御祈願にお見えになり

顔なじみで、

晴れの舞台とかでは

存じ上げないのですが、…

 

 

こういうところが風情があります。

舞妓さんでも歩いていたら

それこそ画になる風景です。

 

 

「花街健康保険組合」という看板

やはり舞妓さんたちも

健康保険に入っていらっしゃるようです。

 

 

そして授業に日程表がありました。

 

 

白川橋のほとりでは

シラサギが獲物を探しています。

 

 

近くにはこういうお店も

なんともこの雰囲気に合ったお店です。

 

 

こういう昭和レトロなお店も

中は上手に改造して

現代的な店になっているようです。

 

 

そして、今日のお食事場所

一見町屋風、

町屋を改造してレストランに、

かと思いきや、

 

 

中の様子から

一緒にいた設計の方が

これは民家風に一から建てた

ということです。

やはり規制があり

作るにしても外観はその場所に

合うように作らなければいけない

ということのようです。

 

久しぶりの祇園界隈

たまたま人も少なく

少しの間ですがその風情を

愉しみました。

 

 

 

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

泥沼の泥に染まらぬ蓮の花

美しいハスの花に出会いました。

 

 

白いハスは清楚な感じがします。

 

 

上からのぞくと

黄色い台(うてな)が見えています。

 

「蜘蛛の糸」の話にも出てきます

お釈迦さまが蓮池のほとりを

散歩されていました。

ふと池の底をのぞくと

そこには地獄の罪人たちが

うようよいます。

  …

そのようなくだりで始まります。

 

不思議なもので蓮の花は

きれいな土では育たないのです。

以前、三室戸寺でハスの実を求め

そのままでは芽を出さないので

ヤスリを買って種に傷をつけ

植えてみました。

運よくその傷のところから

小さな芽を出してくれました。

次の年、

ハス用の肥料というものを

買って入れたのですが

そのまま種は腐って芽を出さず

残念ながらハスの栽培は

終わってしまいました。

 

やはりきれいな鹿沼土では

だめだったのです。

泥沼の、とあるように

汚れた泥が必要だったのでしょう。

 

仏教では「蓮の花」というと

とても大切な花の一つです。

仏さまはみな蓮の台に座っておられます。

今は、きれいな蓮の花と仏さまですが

その下の様子は表現はされていません。

古い仏像を見ると

ハスの花の下は茎があって

その下は泥沼があるという

そういう表現をしています。

 

 

私もついつい美しい花にとらわれて

泥の中までは見ませんでしたが、

大きな鉢には泥沼が一杯入っている

 

 

だからこそ、こういう美しい花が咲く、

 

私たちも上ばかり見とれてしまいます。

仏教では

「十界」(じゅっかい)ということを

説いています。

下から、

地獄・餓鬼・畜生・阿修羅

そして、人間・天人

それから仏の世界が始まり

声聞・縁覚・菩薩・仏

という具合です。

ハスの花ということは

この十界の世界を表現しています。

だから、仏さまといっても

地獄餓鬼畜生の泥沼から

生まれてきているということです。

 

 

汚れた泥沼があればこそ

こういう美しい花が咲き誇る

ということでしょう。

 

きれいなものばかりに

目を奪われがちですが

泥沼があればこそ美しい花を

ささえているということです。

 

花ばかりに目を奪われずに

たまにはそれを支えている

土にも思いをはせてみると

さらに花の美しさが見えてきて

また、愛おしくも

思えるのではないでしょうか。

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

公と個人の分水嶺

「公と個人の分水嶺」

ふと思い出す言葉です。

三浦先生の口癖でした。

京都から熊本へ帰る時にも

お寺を運営していくうえで

最も重要なのは、

「公と個人の分水嶺をはっきり

させることですよ。」

どんなに信仰があるといっても

お寺の財布がごちゃごちゃになっては

それは信仰ではありません。

 

信仰の具体的実践は

公と個人の分水嶺が

しっかり守れることです。

事務がしっかりできれば

お寺は発展します。

ということも教えていただきました。

 

熊本へ帰ってから

公認会計士の方に相談しても

まず、金銭出納帳が元です。

ということを最初に言われました。

これからはますます

こういう事が問われてくるでしょう。

 

このことで問題になり

知事を辞職された方もおられるようです。

わかっていても

ついついこれくらいはと

財布がごちゃ混ぜになってくるようです。

 

そういえば、

信仰心ということも

一点のごまかしのない心

ということができるでしょう。

人は誤魔化せても

自分は誤魔化したことをしても

誤魔化したことを自分自身が

ちゃんと見抜いているのです。

 

経典といっても

そういう人間の細かい心のひだまで

見抜いて書きとめているのです。

それはそのことで悩み苦しんで

克服してきたことの歴史でしょう。

ほっとけば人間とは

何をしでかすかわからない

生き物であるともいえます。

 

お経には

お釈迦さまの説かれた教えがあり

それを解釈した論というものがあり、

さらに、戒律があって

人間の心を厳しく諌めているのです。

 

公明正大な一点の誤魔化しのない

心を持つということが

私たちの修行の根幹かもしれません。

 

 

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

新緑の背割提

さくらで有名な「背割提」

この時期は大変な人出です。

さくらも終り、

この堤も今は緑で覆われています。

 

ちょっとお散歩 

というのも、日中でも

さくらの緑がちょうどいい日陰を

作ってくれています。

そして、宇治川と木津川の両方から

吹いてくる風がなんとも心地よく

暑い日でも絶好のお散歩コースのようです。

 

 

右に宇治川、左に流れているのは

木津川、

昨日は夕方ということもあって

人影もまばら、

この堤を独占して川風と森林浴を

楽しむことができました。

 

 

この緑の木陰は素晴らしい!!

 

 

このソメイヨシノも見事な

けどもう老木のようです。

何れは植え替える時期が来るのでは、

 

 

その桜にまじりところどころ

ケヤキの大木も見うけられます。

 

 

淀川という石の目印、

この地点から宇治川が淀川になるのでしょう。

 

 

もうすぐ行き止まりのようです。

この先が三川合流地点、

どんなになってるのだろう 

気持も逸るのですが…

 

 

やはり三つの川が流れ込んでいる

所を見ることはできません。

時折、ゴーッという音がします。

川向うを新幹線が走っているようです。

 

 

この合流地点の道には

ここの主でしょうか??

黒猫が悠々と座っています。

 

ここは5時が閉門

もうすぐ閉門です。

カラスもたくさん舞い降りてきています。

これからの時間は

この堤も動物たちの天国になるのでしょう。

 

 

標識には三川合流点から

0.0Kmとあります。

 

ゆっくりのんびり歩いて

往復小一時間

リハビリ兼ねた足には丁度いい

距離かもしれません。

まあ、駐車場も無料、

少々の晴れの日でもOK

とてもいい散歩コースのようです。

 

 

 

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

熊本銘菓「香梅」自天翔臨ス!!

「風信雲書 銘菓香梅

自天翔臨 之開是食

如接甘露味…」

思いがけなくも熊本銘菓香梅の

お菓子の数々が届きました。

これを開いて食するに

本当に甘露の味に接するようでした。

と、空海の風信帖の一文をもじって

みました。

 

 

いつも親しくして頂いている方から

思いがけなくも、

昨日やっと工場も稼働して

お菓子ができました。

と、お送りいただいたのです。

 

今回の地震でお菓子を作る

行程がストップしてしまい

お店に伺ってもショーケースの中は

寂しいかぎりでした。

熊本を帰るときお土産に

買っていたのですが、

先日来、駅にしても空港にしても

店員さんは居られるものの

工場が再開してないので

すいません、と

申し訳なさそうにしておられました。

 

工場も動き出来ましたと

いの一番にお送りいただいたのです。

そのお心づかいに感謝です。

それにしても、

なによりも工場が動き出し

これからお菓子が頂けるということが

なによりも有り難いことです。

 

熊本にお見えになる方でも

心待ちに

しておられたのではないでしょうか

また、熊本からのお土産も

絶対の人気を誇る「陣太鼓」も

なかったことは寂しいかぎりでした。

 

熊本銘菓が食べられなかった

あれば当たり前に思っていたのですが

ないとなると本当に

なんだか熊本の

大切なものが一つなくなったようで

とても寂しくもあり悲しいものでした。

 

なによりも再稼動できたこと

心よりお喜び申し上げます。

 

 

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

目やみ地蔵

南座を少し東へ行ったところ

雑踏にまみれて足を進めると

通り過ぎてしまうほどの入り口

 

 

小さなお堂が立っています。

最近は味もなくなり、耳も聞こえづらく

目も小さい字が眼鏡をかけても

見えにくい、

眼・耳・鼻・舌・身と五根が

不調になってきました。

ということもあり、

ここのお地蔵さま「目疾地蔵」と

早速目のことをお参りしなくては、

 

 

入り口にはかわいいお地蔵さまも、

聞くところによると、

もともとのお地蔵さまは

「雨やみ地蔵」というのが

本当の働きだったようです。

ameyami が meyami に

そしてそのハタラキを変えてきた。

ということのようでもあります。

 

鴨川にも近く、

雨が降るたびに氾濫を起し、

白河法皇も天下の三不如意として

「賀茂川の水・双六の賽・山法師」

といわれたように、

この賀茂川を治めることは

大変だったのです。

そこで、「雨やみ地蔵」さまが

建立されたとか、

 

反対に昔から、

雨乞いのお勤めはよく務められました。

雨が降りすぎても困るし、

降らなくても困る。

今も東京では取水制限とか

ダムの水もカラカラの状態です。

 

弘法大師の頃

京都の町に雨が降らなくて

雨乞いの依頼があり

弘法大師が天の竜神さまを

探してみると、

どこにもいらっしゃらなくて

調べてみると、

西寺の守敏というお坊さんが

全部の竜を封じ込めていた。

そこで、弘法大師は

中国から

「善女竜王」という竜神さまを

呼び寄せて雨を降らせた、

という話が残っています。

 

その雨乞いをした場所が

二条城の隣の

「神泉苑」という場所なのです。

二条城もこの神泉苑の池を埋めて

作ったということです。

 

それだけ大きな敷地を有していた

神泉苑です。

祇園祭の発祥もこの神泉苑が

始まりといわれています。

 

京都新聞の日曜版

英語でいろいろな神社仏閣を

説明した紙面があります。

19日は「神泉苑」でした。

興味深かったのは、

弘法大師が雨乞いをしたという

ことを英語では?

the monk Kukai performed

a rain-making prayer

雨乞いも、レインメーキング・プレイヤー

なんとも簡単になるものです。

 

今日は梅雨の晴れ間

また明日からは雨が続くようです。

東京にもどっさり雨が降ってくれる

ことを願うばかりです。

反対に、被災地の熊本では

たくさんの雨が降らないように

人間の御都合で申し訳ないのですが

そこのところなにとぞ

よろしくお願い申し上げます。

 

※目やみ地蔵、お堂に似合わず

とても大きなお地蔵さまです。

ガラス越しに見ると、

あまりの大きさにびっくりします。

また隣の「千手観音」も

指定を受けている立派な観音さま

是非お参りしてください。

   ですよ

 

 

 

  

 

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

五陰盛苦

「四苦八苦」の五陰盛苦も

なかなかわからない苦しみの一つです。

自分にとって

都合の悪いものがやって来た、

反対に、

自分にとって

都合の良いものが去っていく

という事はわかるのですが、

四苦八苦も

「三苦」に分けて見るということを

しないとはっきり見えてきません。

「苦苦」「壊苦」「行苦」という

このなかで、

「苦苦」(くく)と「壊苦」(えく)は

誰でもすぐに苦しいと

感じる苦しみです。

「行苦」というのがわからない。

「行」とは「諸行無常」の行です。

 

先日、はたと 

頷けた一文に出遭いました。

京都新聞に『楽吉左衛門』の投稿です。

「昨年末、これから始まる老後を、

山あいの小村・久多に生活の基本を

置くことにしました。

…略…

自然と自分の間に何が違うのか、

どのような隔たりがあるのか

考えてみる。

自然には「私」という主語がない。

ススキは「私は」とは言わないし、

ハトもカラスも、

ちっちゃなアリに至るまで、

私というものがなく、

互いに命を与え合う。

長い命のやりとり、

循環の中で共生しているんだよね。」

 

このなかで、

自然には私という主語がない、

ということです。

五蘊とは色というフィジカルな面と

受・想・行・識というメンタルな部分

このすべてにおいて

俺が自分が私がと固執してしまいます。

なかなか主語がない自分とは

なりにくいものです。

 

住職も譲り一切の肩書から

離れて見たものの、

「愛欲の広海に沈没し

名利の大山に迷惑して…」

と親鸞の述懐にもあるように、

なかなか捨て難いものです。

 どうしても執着してしまう。

 

人間には妙な癖があって、

すべてのものを言語化する。

言葉として考え、

考えたことに固執してしまう。

「無我」という事を言われるんですけど

五蘊皆空と、

五蘊とは実体のないものだと、

けれども、

言えば言ったことに固執して

考えれば考えたことに固執する。

 

十地経ではよく智慧という事を

やかましく、

というか中心に考えられます。

智慧、智慧と言っても

わからないのですが

固執を破るという事が

智慧のはたらきなのです。

破るというと何か力ずくで

打ち破るような気がするのですが

固執の構造をよく見ていくという事です。

 

だから「五陰盛苦」ということも

人間ほったらかしておけば

何にでも固執してそれに執着し

大変なことになっていきます。

先日のM氏も最初の時点で

すんなり謝っておけばよかった

なんだかんだ屁理屈を述べ

それに固執しだしたものだから

大変なことになってしまった。

それに加え、

自分の得た名利は捨てがたく

なおさら火に油を注いだのでしょう。

 

それこそ、

自分をよく見抜く第三者の目、

自分の都合を通すための目ではなく

明らかに見ぬく知恵があれば

大切なポストまで捨ててしまう

ことにはならなかったのかもしれません。

 

執着するものだという

智慧があれば、

何でも自分中心に考えるような

人間根性を破って智慧に立つ

智慧が主人だという意味で

「十地経」では智慧ということを

さかんに述べてあるのだと思います。

自分の分別で生きるのではなく

智慧を主人として生きる。

だからして自分の心で生きちゃいかん

自分の心を絶えず批判して

自分の心に妥協したりしてしまう

だから、転落してしまうと

でないと持ったものに支配されてしまう

金をもてばお金に、

地位や権力をもてば

持ったものに支配されてしまうと、

そこに自分をどこまでも批判できる

智慧がないと、…

 

だから、「五陰盛苦」がなぜ苦であるか

ということは、

フィジカル面でも、メンタル面でも

それがほっておけば燃え上がり

それに執着して

自分を見失い

転落してしまうと、

そこにそれを見抜く知恵がいかに必要であるか 

 

というようなことを

「十地経講義」では述べてあるようです。

 

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

Step by Step

遅々として進まないことに

少しの焦りを感じながらも、

読み続けている中で、

 

「到達点なんかありません。

無限に一歩一歩の道程なんだ。

すべてがプロセス、

道程以外にないんだと。

一歩一歩が無限であるのみならず、

その一歩一歩が

無限の一歩一歩なんだと。

人間は腰を落ち着けるところなんか

ないのだと。」

 

励まされる言葉です。

道程しかない、

到達点を目指していたつもりが

到達点はあるけど、

そこに着くつかないは問題ではなく

歩み続けることが、

それしかないというのが

人生のようです。

 

到達点にたどり着いて一服したい

早く楽になりたい、

と思うものですが、

どうも、さとりとか、ほとけさま

というのはそういうものでなく、

一歩一歩のその道程を

言っているのではないでしょうか。

 

先日の、

「アズナブール」の歌にも

そういう感じがします。

彼の舞台も完成されたものです。

でも彼から見れば

まだまだと思っているのでは

まだ自分は修行の道程なのだと、

完成されたものと思ってしまえば

あの様な歌は披露できない

と思います。

未完成であればこそ

その時その時はそれで十分に

完成されているのでは、

人から見れば

完成されたものかもしれませんが

その人にとったら

まだまだ、未完成の修行の道程

なのでしょう。

 

人は突然に去ってゆきます。

6月24日は母の命日、

91歳でした。

10月の発表会を目前に控え

日々踊りの稽古に

打ち込んでいたのです。

正直、

そのような母の姿を

知りませんでした。

ですから、今回だけは発表会へ

行こうと心に決めていたのですが、

本当に突然

去ってゆきました。

今思えば残念なことばかりですが、

母にしてみれば

幼いころから踊りが好きで

ずっと続けてきた

日々練習し、

前日も婦人会で披露するなど

どなたかの句にありましたが、

 

「まだたりぬ、

踊り踊りてあの世まで」

 

そのような母の姿でした。

一歩一歩の道程がすべてであれば

母は母として

それなりに完成されていたのでしょう。

発表会で披露することもなく

孫の結婚式で披露することを

楽しみにしていたのですが

それも果たすことなく

行ってしまいました。

 

しかし、

その踊りに打ち込んでいる

その時その時は

母として完成されていたのでは

ないかと思います。

 

いつどうなるかは分かりませんが

その時その時の一歩を

大切に歩み続けなければと思います。

 

 

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

思い出の歌

誰にでも思い出の歌はあるものです。

聞けば、その時のことを思い出し

なつかしくもその当時の思い出が

よみがえってくるものです。

 

今は便利なツールがありまして、

YouTubeとやらいうもので

昔の映像やら歌が出てきます。

そんなことがあるのは数日前

知ったのです。

 

高校生時代の思い出の曲

「トリオロス・パンチョス」

歌声に聞き惚れて

レコードを買ったのですが

そのジャケットに映っている写真

なんだか、メキシコの普通のおじさん

には驚きました。

その当時はあまり買うこともできず、

一枚のレコードを繰り返し聞き

ついには

レコード全部覚えてしまうほどでした。

 

彼女にとっては、

「シャルル・アズナブール」

やはりよく聞いたようです。

題名もわからず身にしみるほど

聞き惚れていたのでしょう。

彼の歌声は、

フランス語の響きが

語りかけるように

それが自然に歌になっている

フランス語は歌なのかと

思いたくなるような流です。

 

不思議なご縁、

もう50年以上過ぎているでしょう

そのアズナブールが

日本にやって来たのです。

 

 

中の島フェスティバルホール

三々五々それらしき人たちの群れが

集まって来ておられるようです。

私たちと同じくらいか

それよりもっと上の方か

杖をたよりに腰の曲がったご老人

体の不自由な方

やはり青春の一ページを

もう一回開くためにおみえになって

いるのではないでしょうか。

 

 

ワクワクした気持ちをおさえ

ホール前の待合で、

 

 

パンフレットを眺めながら、

しばし時間を過ごします。

 

92歳とは思えない姿で

歌い始めると、

その声は衰えることなく

昔の声にもまして重厚さというか

訴える力は以前にもまして

迫力をもって迫ってきます。

 

1時間半の公演

休憩を取ることもなく

歌い続けられる

 

歌の紹介なのか

合間にフランス語の話が

「コンバンワ」とか

挨拶するわけでもなく、

フランス語で語りフランス語で歌う

それがいい、

下手にお客に媚びることなく

自分の歌を精一杯歌う

 

まるで、魂の叫びのようにも

聞こえてくる。

北斎でしたか、

「70までの絵は焼いてしまえ

これから本物が出てくる」

と言っていたように覚えていますが

アズナブールにしても

これからがほんまもんの歌

さらに磨きがかかった歌のように

迫ってくるものがあります。

 

終わっても拍手は鳴りやまず

何回も舞台に出てこられる

もう、歌いきった

全力を出し尽くした

その姿にはアンコールは

必要無いようにも思えました。

 

杖をついていた方は

杖を忘れてしまうような

そのような姿に映りました。

後ろ姿は元気いっぱいのような

再び青春の頃を

思い出されたのではないでしょうか。

 

思えば千載一遇のチャンス

もう二度と日本公演はないのでは??

100歳記念公演があるかも…

青春時代に憧れたその歌手が

いまだ現役で昔と変わらない

歌声を披露される

本当に不思議な出会いに感謝です。

 

東京では15・16日と

NHKホールであるようです。

東京での雰囲気も味わってみたい

追っかけたい気分です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ