本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

鳥が飛んだという事実はあるが…

2024-04-11 20:56:05 | 十地経

インドでは

プロフェッサーの上に

パンディットという立場が

あるということを

学生時分に

聞いたことがあります

インドでは文字よりも

記憶ということを大切に

するということです

 

憶えるためには

書いて口ずさんでと

繰り返し覚えるのですが

最近では

書いたことすら忘れて

悲しくなります

 

中国では記憶より

書いたものを大切にする

ということですが

インドでは書いたものより

記憶を大切にする

それでパンディット

という方は

古来よりのことを記憶して

いるということで

プロフェッサーよりも

大切だということです

書いたものより

記憶を大切にする

そういうところに何か

面白いものを感じます

 

お釈迦さまの頃

文字はあったようですが

話しを聞いてそのことを

書くということは

禁止されていたようです

それでまずは

お釈迦さまの話を正しく

聞きなさいということです

しかし

涅槃に入られて以後

300年~400年頃になって

文字にするという

ことがなされたようです

 

この講義の時も

三浦先生に

書かなくていい

眼を見て話を聞きなさい

と仰っておられました

聞いて、感動したら

そのことを実践すればいい

ということです。

 

よく、他の会座で

わしの話を聞いて

書き残してそれを薄めて

他所で話しているようだが

わしの話を聞いて

実践しているのは

東寺の三浦君だけでは

ないかと

そういうことを話して

おられました。

 

そういえば、

安田先生は一冊も本を

書かれなかったのです

聞いた人が

声を文字にしていかれた

最初は、テープのない時代

速記という形で

先生の話を書きとどめて

おられました

テープが出来てからは

それを聞きながら文字に

おこしていくという作業で

本になっていったのです

 

「鳥が空を飛んだ

でも、何も残っていない

ではないか」

ということを

話されていました

鳥が飛んだとい事実はある

しかしその後には

何も残っていない

そういうことが大事だと

 

何か少しでもいた事実と

いうことを残そうと

するのですが

そうする必要はないと

事実さえあればそれでいい

何も残す必要はない

 

最近は少し分かるような

気がするのです

 

唯識で

「あなたが死んだら

目の前に見えている比叡山

もなくなる」

ということをいいます

自分が死んでも

比叡山は永遠に残っている

ではないかと

そう思っていたのですが

事実は

自分が見ている比叡山は

自分と共になくなる

ということなのですが

 

話を聞いた

聞いたという事実が大事で

聞いたことをどうしよう

こうしようとか言うことは

必要なく

聞いて感動すれば

動いて聞いたことを

自分が証明すればいい

ということです

 

私も毎日

この『十地経講義』を

書き写しているのですが

私にはただ読むだけでは

頭に入って来ず

一字一句書き写すことで

やっと頭に入ってくる

そういうことで書いている

のです

また、その当時のことが

思い出され

頭の中にその講義が

再現されるという

楽しみがある

ということなのです。

 

 

コメント
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