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真珠湾攻撃と吉良邸討ち入り 12月?

2017-12-10 22:15:10 | 日記
A.開戦記念日の興奮
 1941(昭和16)年12月8日は、日本軍がハワイ真珠湾を攻撃し、対米英に宣戦布告した日として歴史に残っている。当時の日本に生きていたさまざまな人の証言などがあるが、ほとんどは「やったぞ!ついに戦争だ!」それは昂った興奮状態で、そこにあったのは戦争への不安や恐怖ではなく、胸のつかえが一気に晴れた、我慢していた鬱屈状態が解消されて爽快感にあふれる、といったものだったという。日中戦争がこじれて国際的非難を浴び、ABCD(米英中蘭)包囲網で経済封鎖され、日本人の多くは西洋白人に理不尽なイジメにあっている、と感じていたとされる。でも、当時を知る人はもうほとんどこの世にいないのだから、実際はそのとき人々は何を考えていたのだろう?一般庶民は、制約された情報のなかで国際情勢も軍事作戦の成否も知る立場にはなかったとして、少なくとも指導的な位置にいた言論人や学者知識人は、事態をどのように考えていたのかは気になる。
 1933年生まれの日本思想史研究者、大阪大学名誉教授の子安宣邦先生の「現代思想」に連載された(2007・4~2008・3)『「近代の超克」とは何か』のなかにある「宣戦になぜかくも感動したのか」を読んでみた。

「一二月八日: 例によって古書市で昭和一〇年代の雑誌などを渉猟していた私は、住谷悦治の『大東亜共栄圏植民論』という本をみつけた。その著者名とともに大東亜共栄圏を植民論として論じる視点が気になって購入した。しばらく放っておいたこの本を、この稿を構想しながらあらためて取出して見て私は驚くとともに、考え込んだ。開巻の第一頁から「宣戦の大詔」奉戴の感動を記した言葉が連ねられているのだ。昭和一七年というその本の刊行年からすれば、それは当たり前のことだといわれるかもしれない。しかし吉野作造の門下で、戦後日本の民主主義・平和主義の有力な発言者として私などもその名を知る住谷が、米英に対する宣戦に接して「恐懼感激に堪へぬ」と感動の文章を記していることを知って、あらためて考えさせられた。昭和一六年一二月八日とは日本人にとって何であったのかを。

 宣戦の大詔が渙発せられるとともに、一億国民の向かふべき処は炳として天日の如く明らかになり、すでにそこには寸毫の狐疑もあるべき筈がなくなった。満州事変以後十年間、支那事変を経て大東亜の黎明を感じたわれら日本人は、十二月八日の大詔を拝するに及んで、新東亜誕生への光明に、痛きまで身心に感激を覚えたのである。

 住谷は第一章「宣戦大詔と大東亜建設の意義」でこのように描き、その章末に宣戦の詔勅を戴して詠まれた歌を、「われわれの感激をもつとも如実・率直に表現し、繰り返し読むも尚ほ感激を新にするものをば、心打たるるままに」掲げるとして、三人の歌人の二十数種の歌を記している。そのいくつかをここに引いてみよう。

 「耐えに耐へこらへ来ましし大み心のらせ給へば涙落ちにけり」
 「創造の戦(いくさ)をわれら戦へり大東亜遂に一つに挙(こぞ)らむ」
 吉植庄亮(代議士・歌人)
 「輝かし大東亜生るる胎動は今し極り対米英開戦す」
 「太平洋に血(ち)飛沫(しぶき)しぶく今日の日に脈博(う)つをきく民族の魂」
 八代かのえ(医院婦長・歌人)
 「南の洋(うみ)に大き御(み)軍(いくさ)進むとき富士が嶺(ね)白く光りてしづもる」
 「ひたぶるの命たぎちて突き進む皇軍のまへにABCD陣空し」
 南原繁(東大法学部教授・歌人)

 皇国の大事に当たって歌人たるもの必ずこのように詠んでしまう、日本歌人のこの宿命ともいうべき性格を考えながらも、ここに南原繁の名前を見出して私は、南原にもこれらの歌を詠ませるような深い感動をもたらしていたのである。だが私がここに住谷や南原の名前を挙げていうのは、戦時の彼らの言動によって戦後の彼らの活躍にケチをつけたりするためでは決してない。一二月八日の開戦の報道は、ほとんどの日本人を大きな感動の渦のなかに置いたという事実をいいたいためである。そのことは、戦後日本の民主主義・平和主義のリーダーたちにおいても例外ではなかったのである。しかし一二月八日の何が彼らをかくも感動させ、このような歌や文章を書かせたのか。

 住谷が一二月八日の開戦の感動とともに記した言葉も、また上に挙げたような歌人たちがやはり宣戦の感動とともに詠んだ歌の言葉も、あたかも木霊のように、宣戦の詔勅や政府声明の言葉に響き反しているようである。それはここに引く住谷や南原たちのわずかな例がいっていることではない。一二月八日の宣戦布告が日本人の全体を包んでいった感動を言葉や歌にすれば、ほとんどが同じようなものだったのである。リメンバー・パールハーバーがアメリカ国民を対日戦に向けての感情の統一をもたらしたが、一二月八日の宣戦そのものが日本国民を一つの激しい感動の渦のなかに置いたのである。
 もし八日の開戦が一週間でも後にずれたなら、「ドイツ依存の開戦論は後退したはずである」と現代史家藤村道生はいっている。一九四一年一二月八日という真珠湾攻撃のその日に、東部戦線のドイツ軍はモスクワを目前にしながら猛吹雪のなかで後退を開始したのである。ドイツのリッペントロップ外相は日本の真珠湾攻撃のニュースを敵の謀略として当初信じなかったという。ドイツにとってこの攻撃は信じたくない事態であったのである。日本の攻撃は、アメリカにヨーロッパ戦線への参戦の正当な理由を与えたのである。チャーチルも蒋介石も日本の宣戦によってかえって最終的勝利を確信したという。「皮肉にも日本は真珠湾で大戦果をあげたまさにそのことにより、枢軸国の敗北を決定したのである」と藤村は書いている。
 もちろんこれははるか事後からする歴史認識であり、歴史記述である。昭和一六年一二月八日の日本において、真珠湾攻撃とドイツ東部戦線における独軍の後退とを結びつけて世界大戦の推移を考えたものはいないだろう。だが私たちはいまそれらを結びつけて考えることができる。それらを結びつけてする事後の歴史認識から、私たちは何を考えたらよいのか。そこから当時の日本外交の拙劣や軍部の無謀を導くことはやさしいことだ。むろんそうした指摘が不要だというわけではない。しかしいま昭和日本の当時の言説のあり方に日本人の自己理解を辿ろうとする昭和イデオロギー史にとって肝要なことは、一二月八日の開戦をめぐる事後の歴史的推理とその時点での国民的感動との間の大きな開きに注目することである。日本国民はこの開戦になぜかくも感動したのか。後世からすでに敗北の終わりをも推理させる戦争の開始が、その時南原などの最高の知識人をも含む国民の全体を深い感動に包み込んでしまった事態がそこにあるのである。ここには米英を向こうにして開戦するという無謀な事実よりも、その理念なり目的が強く国民をとらえ、動かしてしまった事態があるのである。日本は事実よりも理念の戦争をし、負けるべくして負けたのだといえるかもしれない。
 一二月八日、「皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠武勇に信倚(しんい)し、祖宗の遺業を恢弘し、速やかに禍根を芟除(さんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し、もつて帝国の光栄を保全せんことを期す」という宣戦の大詔を内外に明らかにするとともに、帝国政府はこの戦争の建設的意義を次のように声明した。

 惟ふに世界万邦をして各々その処を得しむるの大詔は、炳として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を画し、新秩序の建設に邁進するの決意は、益々牢固たるものあり。而して、今次帝国が南方地域に対し新に行動を起すの已むを得ざるに至る、何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只英米の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復(かえ)し、相携へて共栄の楽を頒(わか)たんと冀念(きねん)するに外ならず、帝国は之等住民が我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑はざるなり。

 これは帝国政府が「大東亜戦争」と名づけたこの戦争の理念とその建設的な意義とを語るものである。もちろんこれは南方にまで戦線を拡大する今次の戦争を正当化し、理由づける言葉からなるものである。しかしそれだからいまこれを欺瞞の言語として片づけていいわけではない。なぜならこれは詔勅とともに多くの日本人の言語に木霊しながら、国民の感動の言語をもなしているからである。「只英米の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を頒たんと冀念するに外ならず」と政府声明は戦争の目的と理念とをいっている。この言葉に、さきに引いた住谷の文章も歌人たちの歌も見事に木霊しているではないか。たしかに米英に対する開戦そのものが、それまで日本人が抑えてきた鬱屈した感情を一気に晴らすような爽快感を与えたのである。同時に新東亜の建設という戦争目的は、開戦の感動を新たな決意の言葉にし、歌ともなしていったのである。さきに挙げた歌をもう一度見てみよう。

 「創造の戦をわれら戦へり大東亜遂に一つに挙らむ」
 「輝し大東亜生るる胎動は今し極り対米英開戦す」

一二月八日の開戦に先立って、いまや世界史的日本の時であることを華々しく座談会でしゃべりあった京都学派の四人は、開戦の翌年、昭和一七年の三月に二回目の座談会「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」を開いている。対米英戦の開戦とその初戦における華々しい戦果を前にして開かれたこの座談会は、過去四年にわたって先行きも見えずに戦われた「支那事変」という戦争にとって、いま始まった「大東亜戦争」とは何かを当然問うことになる。高山岩男はこの二つの戦争の間を端的に次のように結びつけていっている。「過去の日支関係をジャスティファイするものが、今日の大東亜戦のイデーだと思ふ」と。「支那事変」の正当性は、「大東亜戦争」の理念と遂行とによっていまはじめて実証されたというのである。
だが「支那事変」が実際に戦われていたその時、南京を攻略したあの昭和一二年一二月一三日に、日本はまさしく「聖戦」を遂行していたのであって、正当化しえない戦いをしていたのではない。「聖戦」の名のもとに虐殺が行われても、日本はいま正当化しえない戦いをしていると誰れもいいはしなかった。ところが「大東亜戦争」が始まったいまになって、「支那事変」には不透明なものがあったといい始めたのである。

西谷「今までの支那に対する行動が、ある程度やはり帝国主義的に誤り見られる外形で動いでゐた。政策的にもさういふ風に誤り見られる形をとつてゐたかも知れないが……。」
鈴木「つまり不透明さがあつたんですね。」
西谷「一種の不透明さがあつたと思ふ。しかしそれにある意味で当時の世界状況、歴史発展の段階では免れ得ないところだったと思ふ。ところが、外から帝国主義と誤り言われた行動でも現在から振り返って現在との連続で考へてみると、もつと奥に別の意義があったわけだね。……現在では日本人はそれをハッキリ自覚して、過去の意識の不透明を清算し……。」
高坂「さう、過去の不透明の意識を清算しなければならぬ。」
鈴木「同感ですね。」
西谷「日本の対支行動がそのやうに誤り見られた外形をとつて現れたといふことは、当時の世界秩序から歴史的に制約されてゐた。併しその行動が現在、大東亜の建設といふような、或る意味で帝国主義を理念的に克服した行動に、必然的に繋つて来てゐる。そこから振返つてみると、過去の行動にも、帝国主義的としては説明出来ない隠れた意義が潜んでゐたといふところが解つて来る。」 

 ここに長く引いたのは、高山の「過去の日支関係をジャスティファイするものが、今日の大東亜戦のイデーだと思ふ」という発言にいたる座談会の議論の経過を見るためである。「支那事変」が簡単にジャスティファイできない不透明さをもっていたのは、それが少なくとも外形的には帝国主義と見誤られる軍事行動であったからだと彼らはいっているのである。そう見誤ったのは日本の外部の人たちだけではない。内部の彼ら自身もその疑いを内心にもっていたのである。「支那事変」の不透明さ、それは帝国主義かもしれないという疑いは、「事変」の本当の意義が隠れていて、日本人自身にも見えなかったからである。「事変」の本当の意義が隠れていて、日本人自身にも見えなかったからである。「事変」の本当の意義とは何か。それは「事変」が秘かになっていた世界史的意義である。すなわちこの「事変」は世界の新秩序の形成という世界史的転換の意義を担っていたのである。さらに敷衍すれば、欧米帝国主義の干渉を排除し、中国における真の民族的自立を導き、日中相携えて東亜の新体制を建設するという意義である。ここで「中国」とあるのを「東亜」あるいは「アジア」に置き換えてみれば、「事変」の隠れた意義として語られるこの言葉は、まさしく「大東亜戦争」の理念に外ならないことは明らかだろう。「大東亜戦争」とは、「支那事変」が秘かにもった意義を実現するものであったのである。かくて高山の言葉が導かれることになるのだ。彼はいうのである。「支那事変」が正しい戦争であったとするものは、「大東亜戦争」の理念であり、その理念を掲げて遂行されるこの戦争である、と。
 「支那事変」の正しさを「大東亜戦争」の理念が実証したという見方、あるいは「支那事変」の不透明さを「大東亜戦争」が晴らしたという見方は、京都学派のこの四人だけのものではない。さきに挙げた住谷や南原の宣戦に接しての感動のうちにあるものであり、開戦に爽快感をもった多くの日本人が自覚することなくもっていたものであるだろう。「支那事変」は日本人にとって不透明であったのである。多くの日本人にとっては相次ぐ戦勝の報道にもかかわらず、先行きがまったく見えないという意味で「事変」は不透明であった。知識人たちは、これは帝国主義ではないかという疑いを簡単に消すことはできなかった。たしかに「大陸政策」という近代日本の国策が、中国大陸における日本の軍事行動への日本人による批判を基本的に封じていた。批判が封じられているその分だけ、「事変」に対する不透明感は日本人にいっそう内攻していたのである。だから一二月八日の宣戦は、この内攻していた不透明感を一気に晴らすものであった。だがこれは錯誤をうちにもった、あるいは錯誤を引きずった感動であった。錯誤とは、「過去の日支関係をジャスティファイするものが、今日の大東亜戦のイデーだと思ふ」というように、分けられた二つの戦争をめぐる錯誤である。」子安宣邦『「近代の超克」とは何か』青土社、2008. pp.121-130.

 現実に起こっていること、この場合は「日支事変」(と呼ぶ日中戦争)だが、それを能動的にやっている側にいる日本の知識人たちは、帝国・皇軍が倫理的・道徳的に褒められない悪事をやっているなどとは思わないし思いたくないわけだ。主観的には正義の戦いをしているのだ、と思いたい。しかし、昭和16年の時点で、帝国はいくら戦っても敵の中国は屈せずに抵抗を続け、英米が裏から援助するせいもあるが、国際的に非難され出口がない日本の状態に苛立ち、もしかしたら支那事変って「白人帝国主義」がやったことと同じ略奪的侵略戦争なんじゃないか、と口には出せないが疑問を感じていたところ、ついに「大東亜の西洋支配からの解放」、「近代の超克」としての歴史的意義のある「大東亜戦争」(事変ではない!)が始まった。これは文句なく大義のある聖戦だ、と思ったら嬉しくなっちゃったんだろうな。主観的に肥大しまくった自己像に酔っていたわけだが、後付けで笑って済ませることではないと思う。



B.赤穂事件の真実
 先日、ゼミの学生たちと「東京散歩」として、白金高輪から泉岳寺まで裏道を歩いて行った。もと細川藩邸だった高松中学のあたりにある、大石内蔵助らの切腹した場所をみてから、泉岳寺に行ったがもう夕刻になってしまったから、門を閉じて中には入れなかった。前に来た時は、まだ明るい時間で、奥にある浅野内匠頭の墓地にも参った。今の大学生は「忠臣蔵」といっても、なんかそんな時代劇あるんですよね、くらいの知識しかない人が多い。でも、昔の武士がここで集団で腹を切った場所ということで、面白がってはいた。すぐ後ろは、皇族の旧高松宮邸で、いまは誰もいないが間もなく現天皇ご夫妻が隠居したらとりあえずここに移ってくるという場所である。昔は、この年末の季節は「忠臣蔵」の討ち入りがテレビや映画で盛んに描かれていたから、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」を通し狂言で見たことなどないぼくらも、物語は一通り知っていた。でも、史実はどうも違うらしい。

「切腹させられた主君・浅野内匠頭の敵を討つべく、47人の浪士たちが吉良邸に討ち入た赤穂事件。歌舞伎「忠臣蔵」の題材になり、雪降る中での陣太鼓の場面などは時代劇でもおなじみだ。だが、事実は歌舞伎とは大きく異なっていた。
*私たちが描く「忠臣蔵」のイメージは以下のようだ。
 1701年(元禄14)年3月、江戸城松の廊下で、勅使の接待役だった赤穂藩主・浅野内匠頭が、指南役の高家を束ねる吉良上野介に斬りかかった。
 浅野が吉良から要求された賄賂を渡さなかったり、赤穂の特産品である塩の製法を教えなかったりしたため、いやがらせをされたからなどと言われる。
 吉良は逃げおおせたが、幕府はその日のうちに、浅野に切腹を命じ、弟で養嗣子でもある浅野大学を閉門(謹慎)に処す。一方、無抵抗だった吉良は「お構いなし」となった。
 「喧嘩両成敗に反する」と憤った赤穂藩家老・大石内蔵助は、02年12月14日、旧赤穂藩の浪士たちと終結、翌日に江戸・本所にあった吉良邸に討ち入る。首をとると、高輪にある泉岳寺の内匠頭の墓前に捧げた。
 03年2月、大石らは切腹に処されるが、浅野大学は10年にお預けを解かれ、500国の旗本として再興を果たした。
*だが、このような「通説」は再検討した方がよさそうだ。早稲田大学の谷口眞子教授(日本近世史)は著書『赤穂浪士の実像』で、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』と実際の赤穂事件が混同されていると指摘する。
 谷口教授によると、「忠臣蔵」は「時代や登場人物の名前を変えているばかりでなく、演じられる場面のほとんどが創作によるもので、史実とはほど遠い」という。
 たとえば、高師直(モデルは吉良)が塩谷判官(浅野)に罵詈雑言を浴びせ、我慢できなくなった判官が斬りかかる名シーンは完全な創作。また、討ち入りを当初から決意していたのは、史実では堀部安兵衛だが、「忠臣蔵」は異なる。主君切腹の場を見ていた大星由良之助(モデルは大石)が、最初から家臣団の中心となって計画したことになっている。
 なぜ混同が起きたのか。谷口教授の研究によると、赤穂浪士の吉良邸襲撃は人々の耳目を集めた大事件で、老子切腹の2日後には早くも「曙曽我夜討」という歌舞伎が上演され、奉行所から中止命令が出されている。
 さらに討ち入りから47年目の1748年には浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が上演され、その翌年には歌舞伎となって、芝居や映画でも上演されるうちに、赤穂事件が「忠臣蔵」として記憶されるようになった、とみる。
*これら以外にも、史実と「忠臣蔵」の相違点は少なくない。まず、事件の原因自体、よくわかっていない。浅野は聴取に「私的な遺恨から」と述べたものの、遺恨の内容についてまったく話さなかったからだ。
 また、四十七士と言うものの、切腹したのは46人。残る1人の寺坂吉右衛門は討ち入り後に逃亡したとも、広島藩お預けの浅野大学のもとに赴いたとも言われる。そろいのダンダラ模様の衣装も後世の演出だ。
 それにしても、浪士たちはなぜ、討ち入りに固執したのか。
 東京大学の山本博文教授(日本近世史)は著書『これが本当の「忠臣蔵」』などで、その背景には「かぶき者」的心性があったと説く。
 徳川綱吉が将軍だった元禄期は、仲間のためには命も投げ出す「かぶき者」の倫理や気風がいまだ強く残っていた。斬りかかられたら、理由を問わず、刀を抜いて応戦する。斬りかかった以上は相手を斬り殺す。それが当時の武士道であり、討ち入りは、武士たちの面子をかけた戦いだったというのだ。
 実際、討ち入りは庶民の喝采を博し、その後、史実を超えたエンターテインメントとしての「忠臣蔵」が定着する。当時すでに、登場人物にちなんだ名前の食べ物などがはやった。
 谷口教授によると、身を捨てて主君の敵討ちをした浪士たちの評価は、明治以降、時代によって揺れ動いてきた。国家主義・国粋主義の昂揚期には自己犠牲の精神が国威発揚のためにもてはやされ、逆に大正デモクラシー期には否定された。今はどの時代にあたるのだろうか。(編集委員・宮代栄一)」朝日新聞2017年12月10日朝刊、35面扉欄。

 「「殊勝」とされた吉良:浅野を切腹、吉良を「お構いなし」とした幕府の措置は「喧嘩両成敗」の原則に反していたのだろうか。
 喧嘩両成敗は、喧嘩に際し、理由を問わず、双方とも処罰するという原則のことだ。ここで問題になるのは、事件当時、吉良が刀に手をかけず、手向かいもせずにその場から逃げようとしていたこと。
 2人が口論したあげく、浅野が斬りつけたのであれば喧嘩口論禁止の法に触れるが、口論や喧嘩が起きていないのに、ただ一方的に切りつけたとすれば、その限りではない。
 殿中(城中)で刃を抜くことは厳禁とされていたため、むしろ吉良の行為は幕府から「殊勝」と賞された。」同誌記事註。

 あれはぼくが中学生の頃だったろうか、当時購読していた「サンケイ新聞」に、大宅壮一の「日本人の忠誠心」という連載評論が載っていて、ぼくは毎回切り抜いて保存していた。最初はずっと「赤穂浪士」「忠臣蔵」の話で、日本人の忠誠心の原型というかモデルとして「忠臣蔵」があるのだ、ということを資料を交えて描いているのがとても興味深かったのだ。戦後の日本でもたぶん高度経済成長が終わる頃までは、「忠臣蔵」は誰もが「忠義」というような観念を、もう遠い過去の武士の道徳でありながら、なにか現代でもひとつの価値として生きているような気がしていたのだ。でも、それは一種のフィクションとして時代に合わせて変形され刷り込まれた物語だったと思う。
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