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状況劇場の紅テント・行けばよかった!

2014-10-27 03:20:55 | 日記
A.大震災の異常について
 加藤直樹著『九月、東京の路上で1923年関東大震災ジェノサイドの残響』という本があって、たまたまamazonでこの本のカスタマーレビューを見たら、「最も参考になったカスタマーレビュー」が「事実とは異なる創作小説」なる投稿だった。これを読んでしまったら、ひどく暗澹たる気分に襲われた。ここには、事実の確認というより、論理の顚倒がある。日本人による朝鮮人の殺害は、治安維持のための正当防衛であり、むしろ本性邪悪な朝鮮人が震災をチャンスに暴動を企んで、日本人を殺害したので自衛のために市民が立ち上がった、という被害者は日本人で、何も悪いことはしていないのに、あたかも日本人が虐殺したかに言い立てる虚偽であると主張している。今の日本では、ドミノ崩しの裏返し、歴史認識の大逆転を試みる文化大革命、いや文化反革命が進行している。胸が苦しいが引用してみる。

「関東大虐殺と呼ばれる集団リンチ殺人事件では騒動の拡大を恐れた日本政府が早期に朝鮮人を隔離した為、朝鮮人の被害者は意外に少なく言葉が不自由な日本人が朝鮮人に間違われて殺されており、事件の被害者の半数は日本人だった事が記録に残っています。
Wikiなどでは韓国側が被害者数を数十万人と主張していますが、当時日本国内に滞在していた朝鮮人は全部合わせても8万2千人で関東地方に限ると2万人程度でした。
また、自警団による殺傷事件は裁判記録から見ると火事場泥棒の証拠隠滅の為に放火したり、震災で負傷して動けなくなった婦女子をレイプしていたところを現行犯逮捕されたにも関わらず自分の家だと嘘をつき民衆の怒りからリンチされた事が記されており、容疑者も日本人を殺した一部を除いて不起訴処分や実刑は無しで保釈されています。
この本に書かれている事が事実であれば韓国外交部が日本への賠償を要求してくる筈ですが、実際に去年の年末頃に在日韓国領事館から当時の記録が見つかり、それを元に日本政府に賠償請求しようと検討していた事が韓国の新聞で報道されていました。
しかし日本人が殺した朝鮮人の数より朝鮮人の放火による死傷者や建造物の損害の方がはるかに多く、関東大震災では地震による家屋倒壊で圧死した人は3割程度なのに対して、その後に発生した火災で焼死した人が7割だった事から朝鮮人の放火により被害が拡大した為、逆に日本政府から請求される賠償金額の方が天文学的な額になりやむなく断念して現在はロビー活動により歴史歪曲でこの件を既成事実化する方向でいく事を決定したと朝鮮日報の記事で読みました。
最近、韓国の新聞やネットニュースでこの本がよく取り上げられていますが、これも第二の吉田清治を作り出そうというロビー活動の一環だと思われます。

 この本に書かれている「事実」と称されるものは自称被害者とされる証言を元に構成されており、証言の裏付け調査や行政機関の記録との照合もされていない為、歴史上の記録と時系列的な乖離が見られます。
また、実際にあった事実であっても歪曲して日本人の残虐さを強調する記述も目立ちます。
ちなみにこの事件の容疑者はすべて処罰されて刑期も終えており政府の朝鮮人保護対策も不備はなかったので、日本政府や今の日本人に損害賠償を要求するというのはかなり困難だと思われますし、従軍慰安婦問題とは異なり国内で起きた大災害・事件なだけに記録も多く、ロビー活動だけで日本側の反論を押さえる事は出来ないでしょう。
日本人の恥だというレビューもありますが発端は朝鮮人の犯罪から自衛する為の正当防衛であり、警察の対応も適切に行われていた事と政府の事件への関与は無く民間人の犯行でしかなく現代でも日常的に起きている単なる刑事・民事事件の範疇ですので今の日本人がなんら恥じる必要性はありませんので安心してください。
これが大虐殺だと言うのなら、バージニア工科大学銃乱射事件は韓国人による「バージニア大虐殺」になってしまいます。

 この本の主旨である日本人がこんなに酷いことをしたという論調は無視していいと思いますが、大きな災害に見舞われたときに今後どういう行動を日本人はとるべきかという事は震災対応の面でも災害の多い国で生きる日本人は考えておく必要はあると思います。
しかし、その教訓は東日本大震災での日本人の行動を見る限り活かされていましたので単なる杞憂でしかないのかもしれません。
どちらかというと、東日本大震災でも放射能で閉鎖されている地域に検問を突破してまで火事場泥棒に入っていた朝鮮人たちに100年経ってもまったく進歩が無かったのにはがっかりさせられましたが。」

 昔、清水幾太郎の名著といわれる『流言蜚語』という本があって、アメリカの社会心理学を日本に導入して、非常時の集団的パニック行動を論じたものだが、清水幾太郎は、関東大震災を実際に東京で経験している。大震災のような情報通信が途絶えた状況で、「不逞鮮人が井戸に毒を投入」「朝鮮人が放火した」というデマが、たちまち自警団的な暴力的な殺害行動を呼び込んでしまう心理が、他ならぬ大震災の東京で起ったことは歴史的な事実。この投稿者は、すべて公的記録や裁判で処理されたことで、異常時の行動はむしろ悪辣な朝鮮人の放火・強姦・略奪を防ごうとした市民の正当な防衛であり、間違って日本人まで殺したのは罪を問われるだろうが、それを今頃になって、根拠も定かでない人々の証言だけをもとに、日本人が悪事を行ったというのは、朝日新聞と同じ悪意の捏造だ、と主張している。
 これにいちいち反論するのも徒労だが、論理は慰安婦問題や南京虐殺などなかったと言う極右言説とみな同じ。まず、出発点が、朝鮮人・中国人は劣等民族で隙を見せれば悪事を企む連中、という民族蔑視。こういう観念を持つ人は、出来事をすべてこの枠組みで解釈する。そして非常時には「流言蜚語」をいったん生み出してしまうと、一気に過激な行動を誘発する。それは人間の社会心理学的な行動説明で、実によくあてはまる。だから、日本人のしたことは全部正しく、朝鮮人のしたことは全面的に犯罪だという無理矢理の屁理屈でなく、事実は素直に認めた方がいい。日本人だって、海外移民で暮らす人が、いかに厳しい偏見や差別のなかで頑張って生き延びたかを思えば、日本で暮らす朝鮮人を頭から軽蔑などできないでしょ、というのはナショナリストだからこそ認める真理のはず。



B.状況劇場の黎明
 1960年代の終り、新宿の花園神社で、紅テントの状況劇場という妙な劇団がへんな芝居をやっている、ということは高校生の頃、なんとなく聞いていた。浪人して新大久保の予備校に通い出した頃も、ぼくはすぐ近くの花園神社や歌舞伎町には歩いていった。しかし、この怪しい芝居を見るのはちょっと怖かった。結局、テントは外から見たが、入ることはなかった。やがて、その明治通りに沿った「新宿文化」で上映された寺山修二の「書を捨てよ街へ出よう」や大島渚の「新宿泥棒日記」で、リアルタイムのアングラ前衛演劇というものの片鱗を知って、唐十郎と状況劇場のことも興味をもった。しかし、それでもまだテントに行って芝居を見るという勇気はなかった。

「唐十郎が率いる劇団「状況劇場」(現・「唐組」)の「紅テント」の公演を、私が初めて見た夏の夜のことは忘れられない。
 一九六七年の八月と九月の毎週土曜日、状況劇場は東京・新宿の花園神社の境内に初めて紅テントを張って、唐十郎作、村尾国士演出『月笛お仙・義理人情いろはにほへと篇』を上演したのである。状況劇場の機関誌には「演劇史上初のテント劇場 新宿花園神社に出現す!」という見出しが躍っていた。それまでにもテントを使ったサーカスや見世物小屋は多くあったが、実験劇の公演にテントを使ったのは、たぶん日本では状況劇場が初めてだったろう。
 状況劇場はその五年前(一九六二年)に結成されていた。六六年には東京・新大久保の戸山ハイツで、「灰かぐら劇場」と銘打って唐十郎の『腰巻お仙・忘却篇』を野外で上演し一部から注目されていたが、この劇団を一躍有名にしたのは紅テント公演である。
 当時、私は朝日新聞横浜支局の記者だった。演劇が好きで、週末にはよく東京で芝居を見た。この夜は学生時代の友人と一緒の観劇だった。その翌年秋から、私は学芸部に移り、演劇を担当することになる。
 この公演の本来の題名は『腰巻お仙』だった。だが、『腰巻』は「下品」だと神社側からクレームがついたため、劇団では『月笛お仙』に変更して上演にこぎつけたいきさつがあった。やがて黒テントなどを使った実験劇が増えるが、これはその先駆となったテント興業である。
 その夜は開演前から思いがけないことがあった。たたきつけるような夕立が襲い、境内のテントの中とまわりにたちまち大きな泥水の池ができてしまったのだ。そのため、劇団員と観客が協力してテントを境内の別の場所に移し、予定の七時より一時間あまり遅れて開演となった。劇的な導入部つきの観劇という点でも、この夜の印象は強い。
 当時、新宿の街には開放的な雰囲気が漂い、花園神社にもフーテン族と呼ばれるヒッピー風の若者たちがたむろしていた。その中にあって八角形の紅テントは煽情的に赤く、毒花のように挑発的だった。だが、大きさは意外にこぢんまりとしていて、収容人員は百五十人程度、背も低く、地にへばりついた大きなヒトデを連想させた。
 テントの入口では、頭をつるつるに剃った海坊主のような異様な風貌の俳優・麿赤児が「ヒャラリヒャラリコ、ヒャリコヒャラレロ、誰が吹くのか、不思議な笛だ」と往年のNHKラジオドラマ『笛吹童子』の主題歌の歌詞を使って、すごみのある声で呼び込みをしていた。麿は状況劇場の初期を代表するスターだったが、やがて退団し(七一年)、舞踏集団「大駱駝艦」(七二年結成)の主宰者となった。
 テントの入口付近に張ってある状況劇場の大きなポスターも目を奪った。これはその前年(六六年)、美術家の横尾忠則が唐十郎の『腰巻お仙・忘却篇』のために作ったポスターだったが、けばけばしくキッチュな感覚にあふれたデザインだった。昇る朝日を背景にスーパーマンのように飛ぶ裸女、からみあうはげ頭の男と女装の男、巨大な桃の実、東海道新幹線(六四年に開通したばかりだった)、大きな波しぶき、さらに状況劇場に寄せた澁澤龍彦の文章……といったまるで異質なものが組み合わされているのだ。土俗的なもの、類型的なものをぬけぬけと使いながら、それを喜劇的な笑いに転化してしまう図柄は出色だった。このポスターは七〇年にニューヨーク近代美術館で開かれた世界ポスター展で、六〇年代を代表するポスターのベストワンに選ばれ、横尾の代表作になった。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995.pp.2-4.

 あの1970年前後の新宿は、確かに東京でも他のどこにもないぎらぎらした熱気が溢れていたように思う。演劇の世界は、それまでは西洋直輸入のカッコつけた「新劇」か、大劇場で有名俳優中心の「歌舞伎」「新派」「宝塚」の大袈裟なショーだった。しかし、状況劇場は確かにそういう演劇の既成概念を塗り替えた。そこには野性的なスタイルと、反抗的なメッセージがあった。

「幼い時に別れた「母さん」を探す「忠太郎」という若者が登場する。つまり、彼は長谷川伸の名作劇『瞼の母』の「番場の忠太郎」の昭和版なのだ。だが、彼の前に現れるのは母親ではなく、生まれる前に母に捨てられ、流されてしまった堕胎児たちの群だ。唐の妻の李麗仙(当時は礼仙)が男装で演じる「美少年」が登場するが、堕胎児たちの怨念を体現しているらしいこの少年は、終幕では神話的な女性「腰巻お仙」に変身する。
 ここに描かれたのは、日常的な現実の底からせり上がってくるアンダーワールドである。母親や社会から切り捨てられ、葬られたものたちが息をふきかえし、舞台で生き生きと活躍を始める。しかも興味深いのは、美少年・堕胎児たちと母親の間に複雑な愛憎関係があることだ。捨てられた子どもたちは母親を憎み、母親に反逆しながらも、母親を慕っているのだ。この母親を日本の社会や伝統と読み換えるなら、作者の唐十郎は日本の社会と伝統から切離された自分を自覚しながらも、同時に強い愛憎でそれらと結びついている両義的な自分を告白しているように思われた。この公演を紹介した当時の朝日新聞の記事には、「母はボクらを生んだ日本の土壌、その日本の土壌からはじき出されてさすらうボクら堕胎児の美的コスモスの追求です」という唐十郎の談話がのっていた。
 とくに面白かったのは、新劇の演技とはまるで違う俳優たちの破天荒な演技だった。うまいと言える演技ではなかったが、型破りで痛快だった。とくに「ドクター袋小路」を演じた麿赤児の怪演でコミカルな演技は強烈だった。床屋に扮した大久保鷹も異常で、唐十郎が演じる頭に星形のハゲがある「永遠の客」を相手に、ハゲを軽石で磨いたり、バケツ一杯の水を唐の頭からかけたり、およそ馬鹿馬鹿しいことを延々と続けるおかしさは忘れられない。少女「かおる」を演じた中嶋夏はやがて女優から舞踏家に転身する。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995.pp.5-6.

 今考えてみると、あの神社の庭でテントを張って、ほそぼそ始めた芝居に出ていた人たちは、やがて日本の芸能の中核を担うことになる。それが切り拓いた道は広大なものだったが、あの時はそのことの意味が多くの人にわかっていなかった。ぼくも、わかっていれば、無理をしても紅テントに入っていたのに、と思う。
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