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逃げる人 高野長英5 鳴滝塾へ! 「出生前診断」という名称は欺瞞。

2019-02-05 14:53:15 | 日記
A.向学心について
 多くの子どもは親に「はやく勉強しなさい!」と言われて「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞いたことがあるはずだ。ぼくも、小学生の時そう言って、口をとんがらせたことがある。母は勉強しとけば大人になったときにいいことがあるのだ、というような答えをしたのだが、どんないいことがあるのかぼくには想像できなかった。中学生になると、勉強というのはテストで良い点をとるということで、それはやがて高校受験のためにどうしてもやらなければならない道だ、ということをみんな言うようになった。勉強しないと良い点は取れず、行きたい高校にも入れない。ああ「勉強すればいいことがある」と母が言ったのは、こういうことなのか、言い換えてみれば、「勉強しないといいことにはありつけない」ということが「常識」として信じられているのだ、とわかった。
  もっと昔なら「立身出世」とか「成功したエリート」とかへの道を歩む子どもは、生まれつき才能とお金のある一部の恵まれた「よい家のぼっちゃん」の話で、一般庶民の子どもはそんなことは考えていなかった。したがって読み書きそろばん以上の面倒な勉強は必要もないし、そんな余裕もなかった。しかし、平和と民主主義をうたう戦後の日本社会では、誰もが学校で勉強し頑張って高校へ行き、うまくいけば大学にも行って、よい仕事に就けるだろうし、そのために子どものときから勤勉に勉強に励むのが親も喜ぶし、みんなが褒めてくれる生きかたなのだ、と誰もが思うようになった。
  しかし、もっと昔の江戸時代末期はどうだったのだろう?と『評伝高野長英』を読んでいて思った。長英は「向学心」にかられて故郷を離れて江戸に出、貧しい生活をアルバイトでしのぎながら蘭方医の勉強をして、20歳でとにかく医者を開業する。彼の勉強は、親や人からやれといわれて始めたものではなく、地位や金銭を求めてするものでもなかった。武士の生まれで立身出世を考えていなかったわけではないだろうが、まだ医師としても駆け出しでこの先どうなるのか、自分でもよくわかっていなかったのではないか。とにかく「知的好奇心」と勉学への意欲は溢れていた。

 「こうしてようやく、長英は、文政七年(1824)閏八月二日に因州侯屋敷での中間奉公をやめて、京橋鈴木町の武右衛門という人から店をかりうけて、医業を開始した。これは路地裏にあるいわゆる裏店であって、いつかは大道に面した表店に医院をつくりたいというのが彼の望みだった。
 そこにもう一つ、災難がふりかかって来た。八月二〇日に飛脚が江戸について、恩師吉田長叔が旅先で病死したという。
 「誠(まことに) 先生も微運之質 跡に是と申 養子も無之 実に大変之事共 絶言語(ごんごにぜっして)驚入候(おどろきいりそろう)訳(わけ) 私も誠に力相折(あいおり)候心特に御座候」と長英は、文政七年閏八月一七日付の手紙の後半に書いている。
 文政七年(1824)八月一〇日、吉田長叔は金沢の旅館で病死した。歳は四五歳。
 吉田長叔は、かねて蘭学研究を助成してくれた前田老侯が病気となって彼を呼んでいるときいて、七月はじめに金沢にむかった。途中、高田で吉田自身が病気になりしばらく動けなかったが、病気をおして是非ともゆくというので、寝たまま駕籠をしたてて昼夜いそいで金沢にむかった。七月一三日に殿様がなくなり、その翌日の一四日に先生がついた。それから先生の病気も重くなり、死去の知らせが江戸についたのは、八月二〇日であった。金沢上鷹匠町の棟岳寺に葬られ、吉田塾の門人はたがいに計って、中条言善をあとつぎとしておすことにきめた。
 吉田塾は、高名な先生のなくなった直後だから、今までの繁盛はもちろん期待できないが、他の医者たちにくらべて相応の患者もついており、先生死去後もそれほど著しい衰弱を見せてはいない。長英にとっても「まずは安心の姿」であった。
 長英自身も、裏店の医院をつくりかえるめどがつき、ここに一ノ関御家中の米谷茂平治をまねき、自分の暮らしぶりを見てもらって、故郷にしらせてもらうつもりでいた。
 吉田塾の社中では、先生の死後、社中が衰微したなどとうわさされては恥辱であるので、毎月一・六・三・八の日の夜を共同研究の時間と決めて、一の日の夜には『内科選要』、六の日の夜には『熱病論』、三の日の夜には諸外科書、八の日の夜には『医範提綱』について輪講のようにして、たがいに論弁をつくし、社中一同おもしろいほど出精してたがいにはげんだ。約束の夜には社中は他の仕事は放りだして塾に出てくるので、いつも大きな集まりになっている。
  〔中略〕
 前の手紙を書いてからわずか五カ月後の文政八年七月、長英は突然に、長崎にむかって旅立った。シーボルトの門下で学びたいと思ったからである。いささか策略を用いて、養父には前もって相談することさえなかった。
 文政八年七月十九日付の高野玄斎あての手紙には、天気の具合を見て、両三日中に出立するつもりだと知らせている。
 長英の知り合いに今村甫庵という人がいた。この人は長崎生れで前に小通詞をしていたこともあり、その兄は今村直四郎といって大通詞である。彼は今度、長崎にもどることになったが、多病であるため、よい道づれを求めている。今やシーボルトが来たという知らせで、江戸の蘭学書生はわきかえっており、みな長崎に行きたいところだから、今村甫庵に同行したいと申しでるものは数十人もいた。しかし甫庵は、よく知っている人でなければ、彼が道中で病気にでもなった時に不安心であるから、数年来のつきあいで気心も知れている高野長英に同行を申し入れた。もし同行してくれるなら、長崎到着後、大通詞の宅である実家に泊めてくれるという。
 この話をもって、長英は、蘭学社中の先輩である駒留正見、吉田道碩の二人をたずねてその意見をきいた。〔自分の望みに適う意見を言ってくれそうな二人だけを選ぶところが長英らしい〕
 すると駒留正見の言うには、
 「江戸で一年学ぶのは、これ世にいう畳の上の兵法、長崎で学ぶのは真剣勝負。どちらが早く学問がすすむか」
 「長崎でのほうが、上達します」〔このあたりは八百長の問答のようだ〕
 「今は長崎に遊学するために縁故を求め、大金をついやす時代である。貧しい書生は途中であんまをしたり、誰かの下男となったりしてでも行くというではないか。長崎に行っても甫庵の実家に食客としておいてくれるなどというのは天のあたえためぐみと言うべきである。
 それに今度のオランダ人は、名高い人らしい。町家での治療を許されたというからには、患者を多く診るということであり、おもしろい療術や手術もあるだろう。それをおぼえるのは、君ひとりの役にたつだけでなく、吉田塾の社中にとっての大きなしあわせである。私も行きたいのはやまやまなのだが、家事にさまたげられて行けない。ここにとどまっているのは口惜しいことである。
 今までのところ吉田社中よりは、一人も長崎の欄医について習ったものはいないのだから、来年の春になってオランダ人一行が江戸にきても、いろいろ尋ねるつてがない。そんなところに君が一年も蘭医について勉強してあれば、なじみになって、いくらかは言葉も通じるだろうし、諸事手軽に社中のものの質問も述べられるというものだから、ぜひぜひ行ってもらいたい。
 若い者は無益のことに三両や四両の金子を使うことがあるけれども、このたびのことは一生涯の業の発達の場所であり、かつまた稽古のためのことなのだから、国もとでも悪くおぼしめさることはあるまい。神崎屋で借金をして旅行をしなさい。今、三両や四両のもとでを借りたところで、来年の春オランダ人一行が江戸に来るということになれば、神崎屋は長英の手びきで彼等となじみになれるのだから、商売の品物でも、旅費としてあててもらえば、きっとまにあうだろう。ぜひ出立なさい」〔ここで長英は註を書きいれて「以上はすべて駒留のすすめ」とことわっている。もし養父玄斎がユーモアのわかる人であったなら、ここで苦笑したであろう〕
 次に長英は吉田道碩をたずねて、その意見をたたいたが、これも駒留と同じだったから、了見をきめて「発足之趣に罷成候(まかりなりそうろう)」と書いている。
 長英の心づもりでは、来年の春には江戸にもどり、来年の夏には水沢にもどって、養父に会い、母に会うつもりだから、母に余計な心配をかけぬために、長崎行のことはかくしておいてほしいと頼んでいる。ただし、母の弟の家、茂木家のほうにはつたえておいてほしいと書いた。
 長英は、長崎行のために旅費四両を調達した。そのうち一両は神崎屋から借り、三両は駒留正見から借りた。駒留は他人から借りてこの三両を用だててくれたので、養父から駒留あてに、この金をかえしておいてくれと頼んでいる。養父に相談せずに出発をきめておき、この旅行の費用も結局はそのおおかたを養父から出してもらうようにもってゆくところに、長英の養父に対する甘えがうかがえる。
 長崎に旅立つより二年前の文政六年春、養父にあてた手紙の中で、長英は、すでにオランダの書物の翻訳にかかっている。ただし、「翻訳に便なる書」(つまり字引き)がなくて大いに難儀をしているが、さいわいに『訳鍵』(藤林泰助著)の写本があったので、三歩二朱のところ、前金として一歩二朱いれた。申しあげかねるけれども、二歩ほどおくってほしいと書いている。
 江戸に出てきて三年目の十九歳の少年が、蘭和辞書を片手に、オランダ語の原書をひとりで訳すことができるようになったのだから、杉田玄白たちが『ターヘル=アナトミア』を訳しはじめた五〇年前にくらべると、蘭学社中のオランダ語読解力のレヴェルは大いにあがったことがわかる。
 玄白の『蘭学事始』によれば、「眉といふものは目の上に生じたる毛なり」という一句さえ長き春の一日をついやして一座の知恵をしぼってもわからなかったとある。それが、今では荒っぽいものながらも蘭和辞書があって、それをひきながら10代の貧しい少年が原書を読むことができる。この読書力が長英にすでにあったからこそ、長崎到着後ただちに、長英はシーボルトから多くを引きだすことができ、またシーボルトに多くをあたえることができたのだった。
 西方の人 1825-31
 文政八年(1825)八月、21歳の高野長英は長崎について、同行の今村甫庵の家に滞在し、甫庵の兄で大通詞の今村直四郎の紹介で、シーボルトの主宰する鳴滝塾に入った。
 文政八年十月二七日付の高野玄斎あての手紙によれば、先々月、つまり八月のうちに和蘭シーボルト塾に入ったという。
 わずかのあいだに彼は予定をかえ、今までは来春オランダ人一行に同道して江戸にもどるつもりでいたけれども、せっかく長崎まで来たのだから来年いっぱいここにいて勉強するのを許してほしいと言いだした。一年ほどのひまをいただければ、「佐々木仲沢には、屈膝(ひざくっし)候事は有之間敷(これあるまじく) 左候(さそうら)はゝ御地(水沢)に罷下候ても是迄(これまで)之恥辱相雪可(そそぎ)申(もうすべし)」と書いている。
 佐々木仲沢は、大槻玄沢の門人で仙台藩の蘭方医学の代表であり、この人に膝を屈しないようになることが、当時の長英の目標だった。学問に限定されているとはいえ、なお世俗的な功名心である。この功名心は、積年の恥辱をすすぐためという動機に根差していた。恥辱とは、中間奉公時代に江戸で上級武士からうけた屈辱とだけ考えることはできない。それももちろんあると思うが、生母が転々として他家に身をよせ、三界に家なき身分におかれていることが、彼の心の上に重くのしかかっていたのではないだろうか。
  熟思仕(つかまつり)候に 金銀の望は万人不望者(のぞまざるもの)も無(これなく)之候(そうろえ)得共(ども) 小生の如き貧性 望福(ふくをのぞみ)候事 逆天道(てんどうにさからう)之道理 譬(たとえ) 弊衣垢面にても 勤学而已成就仕 帰国候存念(ぞんねん)に御座候 兼て左様御思召可被下置候
 豊かに暮らすという世間並の幸福は断念し、ただ学問の領域でだけ功業をなしとげて、故郷での恥をすすぎたいというのが、この当時の高野長英の人生の目標だった。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、pp.102-110. 

 長崎のシーボルト「鳴滝塾」での勉学は、長英にとって最高の「大学」での勉強だった。当時の日本で西洋の文献知識をほんものの西洋の知識人から直接学べる場所は、ここ以外にはなかった。オランダ語を辞書なしで読めるようになり、先生の求めに応じて日本の諸事情をオランダ語で書きあらわす。シーボルトにとっても、この若い学生はじつに優秀で「使える人間」に思っただろう。



B.優生思想のこわさ
 少子化対策といいながら、障害のある子どもを産むのは親にも社会にも負担になるという「暗黙の了解」があって、生命の価値に生れるときから差があると考える優生思想は、なかなか克服できない。出生前診断という技術は、このことを端的に現実化してしまった。

 「時代を読む 出生前診断の是非を超えて:貴戸 理恵 
 新型出生前診断NIPTのスタートから五年が経過した。六万人以上の妊婦が利用し、異常が確定した九割が中絶した。採血という簡単で安全な方法と99%の高い精度が利点とされ、今後の実施拡大が見込まれている。
 出生前診断を巡ってはさまざまな意見がある。「命の選別であり望ましくない」「カップルの選択肢が増え望ましい」「技術が進歩したのだから仕方ない」「諸外国ではすでに一般化している」などだ。
 「仕方がない」「他もやっている」と現状肯定し「障害者や妊婦という特定の人に関わる話」とやり過ごすなら、何も考えないのと同じだろう。難しさを受け止め、この社会を構成する個々の問題として考えていかねばならない。
 認識すべきなのは、出生前診断という中立的な名称は欺瞞であり、実際には「中絶のための検査」になっていることだ。「特別なニーズを事前に把握しておくため」などの理由が挙げられることがあるが、異常が見つかった後の中絶率は日本だけでなく欧州や米国などでも九割以上とされる。そもそも、胎児の染色体疾患を判定する狭義の出生前診断は、中絶が可能である妊娠初期にしか行われていない。
 背後には、優生思想に基づく医療・保険制度を通じた国家管理がある。これまで障害者の生活支援に割かれる予算を大幅に上回る金額が、出生前診断の開発に充てられてきたとされる。すべての妊婦に母体血清マーカーが無料配布されている英国をはじめ、出生前診断が公費で幅広い妊婦に利用可能になっている国は少なくない。出征前に個々の判断で中絶してもらった方が、出生後のために医療・福祉を整備するよりも「安くつく」という考えが根底にある。
 一方現場では、こうした構造よりも、個人の選択や倫理が問われる。命の選別の責任は、国家ではなく、ひとりひとりの妊婦に負わされているのだ。これはおかしい。
 そう考えれば、障害者との共生環境が整備されておらず「人に迷惑をかけるな」と暗黙裡に威圧される状況を放置したまま「出生前診断に賛成か、反対か」を問うても不毛である。それは本当の問題を見えなくしてしまう。
 何より優先されるべきなのは「安心して障害児を産み育てうる社会」の実現である。いくら精密な出生前診断が整備されても、多くが「中絶するしかない」と思うなら、自由が増えたことには決してならない。
 さらに重要なのは、「安心して障害児を産み育てうる社会」は、多様な生を包摂する点で、多くの人にとって生きやすいということだ。
 現代社会では、「妊活」「終活」など、生を巡るさまざまな局面での計画的な振る舞いが推奨される。子育てにおいて「将来のリスク」に備えて習い事や受験に駆り立てる親は一般的であり、胎児の「質」の管理はそれと一続きといえる。だが、個人による計画・統御は自己責任と表裏一体であり、望ましくない結果は個人の失敗として引き受けさせられる。それは苦しくはないか。
 人生にコントロールできない局面は多い。いま健常な人も予期せぬ事情で障害がある人になる可能性はあるし、どんなに備えても老いれば誰もが人の手を必要とする。支え合って生きることが当たり前とされる社会は、誰にとっても必要なはずなのだ。 (関西学院大学准教授)」東京新聞2019年2月3日朝刊5面社説・意見欄

 「出生前診断という中立的な名称は欺瞞であり、実際には「中絶のための検査」になっている」現状は、望ましいものではないと思うけれど、その判断を産む人個人の選択と責任に帰している一方で、政府や国家が障害者への援助保護への予算を減らすために、先天性の障害児を「出生前診断」によって抹殺することを奨励しているととられかねない。貴戸氏の指摘は正論だと思うが、ではそれを防ぐにはどうすればよいか。財務大臣ほか権力にある政治家たちが、しばしばうっかり口にする言葉をきくと、役に立つ優秀な子どもは大事にするが、障害のある子どもや役に立ちそうもない子どもは、生きていても無駄だという優生思想が生き延びているとしか思えない。嘆かわしいけど…。
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