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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

憎悪=恋慕のメカニズム

2014-07-03 19:30:22 | 日記
A.敵に似てしまうということ
 さっきfacebookを覗いていて、昨日の集団的自衛権閣議決定をめぐる動きに攻撃的な批判を述べている女性の書き込みを読んだ。彼女は、首相安倍晋三のやろうとしていることは、至極まっとうな国際標準に従った政策で、それを集団的自衛権=戦争という図式に結びつけ、平和憲法のお題目で悪辣なチャイナを利する愚かな左翼、朝日新聞的メディアが首相官邸デモをもちあげているのは、馬鹿げていると批判する。彼女がどういう人なのかは「お友だち」ではないので、何も知らない。しかし、彼女のタイムラインを見ると異常に熱心に、安倍批判をする論者への憎悪をこめた言葉を書き連ねている。そこに「いいね!」のコメントを寄せている人たちも、ほぼ同様の意見を寄せている。なるほど、SNSの機能は特定issueをめぐって蝟集する共感の仮想共同体を形成する、という見本のように思えるが、この敵を設定してみんなで攻撃することへの昂揚と執着は、なにによるのだろうと不思議に思った。左翼を情緒的でバカな反日国賊と敵視する構図は、ほぼ同様に右翼をバカな国粋派落ちこぼれと敵視する構図と相似形である。
 彼女の言い分は、『正論』『諸君』『WILL』といったナショナリスト論壇誌の常連が、繰り返し述べていることに依拠していると思われる。渡辺昇一、西尾幹二という大御所から、中西輝政、藤岡信勝、田母神俊雄、若手ということでは中野剛や百田尚樹まで、「美しく誇り高き日本」をすべての至上の価値とし、共産主義・社会主義・リベラリズムを憎み否定するイデオロギーであり、「靖国的なもの」「安倍的なもの」を正しいと考える立場であろう。彼らは、日本国憲法に依拠する「戦後的なもの」を民族の屈辱と堕落とみなしている。民主主義的法治国家の日本国民として、ぼくはそうした思想と意見を表明して、公共の場でフェアに議論することはよいことだと思う。そうした意見を述べたり出版したりすることも認めたい。しかし、この主張のルーツには日本近代史の失敗への暗い屈折があると思うし、そのいきさつを知らない世代が、これを喜んで受け容れるとき、日本の歴史への危うい誤解を導くと思う。
 そこでぼくは別の角度から考えたのだが、人が誰かを激しく憎むとき、必ずそこには恋慕・愛着の感情があると思う。感情的な愛着も親愛もない他者に対しては、人は儀礼と規則で対処できる。人間関係の90%は、そうやって当たり前に処理している。たとえば詐欺に遭って怒り心頭に達した場合でも、騙された自分が相手を少し信用したり、親愛の情を抱いたりしたことが悔やまれると考えられる。
社会的規範が人々の行動や意識をコントロールしているからこそ、社会は円滑に動いている。もちろん人びとの間には日々、些細な行き違いやトラブルは発生するだろうが、そこに生の愛着や憎悪が絡まなければもめごとの解決は規則に沿っていけばいい。厄介なのは、人間は個人として人を好きになったりしてしまうことだ。好きになった相手には、自分という存在を意識してほしいと願う。それが確信できないと、理不尽にも自分はみじめで情けない存在になってしまう。愛着は容易に憎悪に転化し、愛する者を独占し所有するために暴力が発動する。愛を拒否されたとたん、相手を抹殺するまで憎悪の感情は止まらない。
 戦後の日本で、観念的に構築された大日本帝国の栄光の過去を妄想し、インテレクチュアルな世界で自分がみじめで情けない存在に貶められたと思い込んだ人が、一発大逆転に賭けた運動が、60年を経て日の当たる場所に出てきた。日本近代史のリヴィジョニスト、従軍慰安婦も南京大虐殺も、大陸への侵略戦争も、敗戦すら記憶から抹消したいという人々が、「自虐史観」を覆すのだとイデオロギー闘争に意欲を燃やしたのは世紀転換期だった。
 ぼくにはこのように見える。頭に血が昇って感情的に敵を攻撃することで、生き生きしている人々は、実は敵にぞっこん惚れてしまった人ではないか。敵の美女があまりに魅惑的なので、その虜になってしまった自分が、彼女に拒否されたことがどうしても許せない。怒りは一気に攻撃衝動となって暴力的に沸騰する。20世紀の後半、東側の社会主義圏が決してユートピアの理想社会などではないことは、日本人もうすうす感じていた。でも大日本帝国の軍隊がやったあの愚かな戦争の結末は、誰もが人生の教訓として知っていた。しかし、観念的なリビジョニストたちは、国民がひとつの理想的な目的のために一致団結して、心も命も捧げる美学的陶酔に自分自身が酔ってしまった。ああ!こんなに国民が天皇陛下のために命を捨てる国ほど、麗しい国はないだろう、と。これは歴史ではない。ただのファンタジー、夢物語でしかない。
 感情の沸騰が人の心を支配している状態は、強い愛情と憎悪がそこにいる人の行動を同型にする。今の日本で言えば、社会主義・共産主義に郷愁をもつ左翼などもはや絶滅寸前なのに、その亡霊があたかも朝日新聞や岩波書店やリベラルな大学に、昔のように生息しているといい募って、少しでも安倍政権を批判する人間を個別に名を上げて激しく罵倒する。彼女は左翼的な言説を述べる論者が、毎日気になって仕方がないのだ。ほとんど恋人のように。
 右翼を代表する産経新聞・フジテレビの立ち位置を見るたびに、この人たちは実はとっくに滅んだ世界革命センター「コミンテルン」の亡霊が大好きなんじゃないかと思う。喜んで飛びこんだ無謀な戦争に壊滅的に負けた戦後という状況のなかで、保守政党自民党の中心にいた人たちは、日本国憲法という枠の中で何ができるかを考え、共産党・社会党的オールド左翼とやりあいながら同じ形式を引き継いでいたと思う。ところがその自民党に紛れ込んでいた軍国少年は、老年に達するまで密かな野望を抱いて『正論』『諸君』的論者と手を組んで、鎌首をもちあげた。彼らの頭は、世界を20世紀初頭の第1次世界大戦、ロシア革命の時代と変わらない地政学的な領土合戦のままで、現在の世界を19世紀的な帝国主義国家競争の眼でみている。
国際紛争を解決するのはまず武力・軍隊だと固く信じている。したがって彼らの攻撃目標は、老朽化した共産党ではなく、国民にまだ広い影響力を持つ「護憲派リベラル」の朝日・岩波的文化人と、とりあえず海の向こうの中国と韓国になる。どうして中韓を敵にするのかも、あまり論理的根拠はないと思うが、それは彼らの頭にこびりついた、もはや誰にもアピールしない「反共」イデオロギーを塗り替えてみただけで、憎悪に燃えた排外主義さえ唱えれば若者に受けると思い込んでいるからだ。しかもアメリカ製のネオリベ市場原理主義にただ乗りしたものだから、結果的に対米従属半植民地という現実に目をつぶった形の奇妙なナショナリズムになる。これは思考の枠組も状況認識のパターンも、21世紀的グローバリズムとは逆方向の勘違いで、たぶん10年はもたない思想だと思う。本気で中国と戦争などすれば、勝つか負けるか以前に両方とも経済はガタガタになって、経済成長どころではなくなる。戦争で景気が回復したのは、それこそ大昔の帝国主義時代の話である。サッチャーの英国が大西洋でアルゼンチンと数日戦争をしたマルビナス戦争だって、たいした利益は生まずに人が死んだ。火遊びで自滅する愚かさなど、まともな政治家が考えることではない。アメリカに言われて中東の紛争に日本が軍隊で参加すれば、マドリードで起きたようなテロが東京で起こる。国民の安全と幸福が野蛮な暴力で脅かされる危険水域に自分から飛び込むことになる。
 もっとも、ぼく自身20世紀には「憲法9条」を変えてはいけないと思っていたが、よく考えてみると、朝鮮戦争の副作用として自衛隊をもち、専守防衛を「解釈」で合法化したときから、「憲法」はすでに変質していた。ことが起きたときだけ、「憲法を守れ」と騒いでも、結果的にまやかしを放置して現状を追認してきたのは左翼も同罪ではないかと思うようになった。いま、安倍晋三が急に戦争をやりたがる危険な政治家になったわけではなく、軍事力で他国を圧倒する快感に惹かれた愚かな政治家はどの国にもいたし、日本にも昔からいたと思う。憲法はそれを9条で否定したのだが、条文があるからといって政府がそれを守るかどうかは、国民の意思と監視がゆるめば空文化することは、いまさら言うまでもない。さて、どうするか。
 有権者の3割と棄権で多数が取れる選挙制度のおかげで、巨大与党を握れば、憲法を無視してここまでのことがやれちゃう!ことがわかった。だとすれば、次の選挙で安倍的自民党を野党にするのが一番である。その前に些細なことから戦争が起きてしまうことだけは避けたいが。



B.浄土思想の進化
 いまは「末法の世」であるという言説が普及する時代があった。救いはどこからくるか?平安末期から鎌倉時代にかけて、不安に対する救いは個人の信心、国家が行う大プロジェクトでも加持祈祷でもなく、個々の人間の「こゝろ」に訪れると考えた。そして人を浄土に導くのは、あの世から衆生を救ってくれる仏、阿弥陀如来である。仏がそう願ってくれているから、難しい経文を読んだりたいへんな修行などしなくてもよい。念仏を唱えるだけで浄土に行かれる、つまり超越的な価値への「アンガージュマン」こそが救いになるという思想が、日本においてはじめて此岸的・日常的世界しか見ていなかった人々に、新しい地平を開いた、と加藤周一はみている。

「貴族支配体制の腐敗に次ぐ崩壊は、その体制に依存していた個々の貴族にとって、不安感を生みだすと同時に、全くそこに組み込まれていた体制からの解放をも意味したにちがいない。一種の「個人主義」は、新たに貴族外社会から擡頭してきた「在地領主」、地主=武士層においては、さらに著しかった(その意味で、「村落共同体」のなかにいきつづけていた農民の場合は異なる。貴族支配体制の崩壊は、所属集団からの独立の契機ではない)。旧秩序の崩れてゆく不安感の「イデオロギー」的表現は、「末法」思想であった。頼るべきものを失った個人の精神的な支えは、個人の救済を約束する新しい仏教である。「末法」思想は、仏滅後、「正法」「像法」の時期が過ぎ、一二世紀の半ば頃から「末法」の時期に入ったとして、「現世」における救済可能性を否定する。したがって新仏教が約束する個人救済の場は、「来世」でなければならない。禅宗のように、「来世」を認めない場合には、「現世」と「来世」、生と死の区別を超えた世界の絶対性が「浄土」に代わるだろう。いずれにしても一三世紀のいわゆる「鎌倉仏教」は、現世利益的・呪術的な平安時代仏教に鋭く対立し、仏教の彼岸的・超越的な面を強調した。その画期的な意味は、すでに繰り返し述べてきた土着の世界観、その此岸的・日常的な現実主義を遂に打ち破ったという点にある。日常的現実に超越する価値、――その価値への「アンガージュマン」は、日本史上はじめて、またおそらくは最後に、一三世紀において、時代思潮の中核となった(殉教者のカトリシズムは一六世紀後半に、「先王の道」を絶対化する儒教は一八世紀前半に、内村鑑三のプロテスタンティズムは一九世紀末に、軍国主義に抵抗しつづけたマルクス主義は二〇世紀にあらわれたが、このような超越的「イデオロギー」は、それぞれの時代の支配的な思想的背景ではなかった。その意味であきらかに「鎌倉仏教」の場合と異なる)。比喩的にいえば、「鎌倉仏教」は、日本の土着的世界観の幾世紀もの持続に、深くうち込まれた楔であった。その影響がいかに拡り、いかに展開していったかということの裡に、鎌倉時代の、さらに室町時代にまで及ぶところの、もしそれを一括して「中世」と称ぶとすれば、まさに「中世」文化の問題の眼目があるだろう。
 後述するように法然(一一三三~一二一二)に発し、親鸞(一一七三~一二六二)に継承された専修念仏の浄土真宗が、平安仏教、殊に天台教学に対する関係は、多くの点において、一六世紀西欧のプロテスタンティズムが中世教会とカトリシズムに対した関係に酷似している。日蓮(一二二二~八二)の法華宗もまた、絶対的な信仰の立場から社会問題に接近し、宗教国家を理想としたという点で、キリスト教世界におけるカルヴィニズムを想起させる。源信の浄土教が藤原時代の貴族社会に、主として現世的なものとして受け入れられたことには、すでに触れた。法然・親鸞の宗教には、妥協の余地がない。浄土教はここに到って徹底した彼岸信仰となり、既存の教団からの、したがって政治権力の側からの強い圧迫に抗して、鎌倉時代の地方の下級武士・農民上層に浸透していった。日蓮もまた、権力の弾圧に抗しながら、平安仏教の場合とは異なり、主として地方にその信徒を獲得した。新興の教団のなかで、武士支配層とはやくむすびついたのは、禅宗である。道元(一二〇〇~五三)が宋からもたらした曹洞宗。また来朝した宋僧、蘭渓道隆や無学祖元の臨済宗。後に足利氏は臨済宗に帰依し、幕府は京都・鎌倉にそれぞれ五山を建てるようになる。政治権力を獲得した武士階級には「イデオロギー」の上でも、新しい道具があった。」加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫、1999、pp.279-281.

 西欧でキリスト教のなかから宗教改革という運動を実現させたのは一六世紀だが、日本の鎌倉仏教は一三世紀にすでにそれを実現していた、と考えれば、これは確かに画期的なことかもしれない。プロテスタンティズムはやがて近代「モダン」を導く。信仰における個人主義、意志決定における自由主義、そして富を生む力としての資本主義。現世の共同体に足場を置いたまま、近代に向かうことはありえない、とすれば日本の中世は、西洋に先駆けて思想的近代を準備してもおかしくないことになる。親鸞が開いた浄土真宗は、プロテスタンティズムと共通する面が多いことは、しばしば指摘されてきた。しかし、その後の歴史をみれば単純にそうなったとはいえない。まずは親鸞の説いたところを追ってみることになる。

「親鸞(一一七三~一二六二)は下級貴族(日野有範)の子として生まれたといわれる。法然の宗教の彼岸性を襲いて、その考え方をさらに徹底させた。阿弥陀の超越性は、救済の問題に関して、「他力本願」を意味する。救いは救う者の意志によるので、救われる者の救われる者の意志によるのではない。その考え方を徹底させれば、専修念仏といえども一種の「自力」であって、往生が念仏によるということはないはずである。救う者(阿弥陀)と救われる者(衆生)との関係は、上からの働きかけと下からの信仰のほかにはなく、救いを決定するのは前者であって、後者ではない。しかるに絶対者の意志は測り難いから、人間の側からみれば、救いはほとんど決定論的なもの(préterminisme)となる。そこで往生を期待するところの、しかし究極的には往生を保証しえないところの、信心だけが人間の側にのこる。――これが親鸞の体系の要点である。その意味では、法然から親鸞への発展は、「専修念仏」から「信心」へという風に理解することもできる。阿弥陀の超越性は一歩を進めて、絶対的な「他力」に到ると同時に、信仰の内面化はこれ以上先へ行けぬところまでゆく。親鸞の主著『教行信証』(一二二四以前成立)六巻は、『選択集』が「南無阿弥陀仏」を巻頭に置くのに対し、「選択廻向の直心」を強調する(殊に信巻)。ここで「廻向」の概念は、法然の「選択」に相当する基本的なものである。親鸞が引く『無量寿如来会』(信巻)は、次のようである。
 「諸有衆生聞其名号、信心歓喜乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生・・・」
 鈴木大拙(「真宗管見」、『鈴木大拙全集』第六巻、岩波書店、一九六八)によれば、「至心回向」の大乗の普通の読み方は「至心に回向して」である。それはおそらく当然であって、「回向」の主語は前後の文章の主語と同じ衆生である。ところが親鸞はこれを「至心に回向せしめたまへり」(鈴木説によれば「至心に回向したまへり」)と読んだ。あきらかに無理な読み方で、この場合には、主語が阿弥陀となり、文法的には「至心回向」の一句を挿入句とみなければならない。しかし内容的にはこれこそまさに決定的であって、「回向」の主体が、親鸞にとっては、どうしても阿弥陀でなければならなかったということを、示すのである。「廻向」は、絶対者と衆生との関係に係り、その間のはたらきのヴェクトルは、常に絶対者→衆生の方向をもっていなければならない。経文をそう解釈できるから親鸞がそう考えたのではなく、彼があらかじめそう信じたから経文をあえてそう解釈したのだ。かくして「廻向」は、親鸞の体系において、すべてが阿弥陀から衆生へ向かうことを意味する。したがって信仰の内在化は徹底し、したがって有名な「悪人正機」も可能となる。
 親鸞の思想は、今日まで多く残されている書簡やその弟子・唯円が一三世紀末に編したといわれる語録、『歎異抄』にも、よくあらわれている。そこでも繰返し強調されているのは、救いが阿弥陀の人間を救おうという誓(本願)により、人間側の努力(自力作善)によらぬという一点である。
「わがみのわるければ、いかでか如来むかへたまはむ、とおもふべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。またわがこゝろよければ往生すべしとおもふべからず。自力の御はからいにては、真実の報土へむまるべからざるなり」(消息、『末燈鈔』、「かさまの念仏者のうたがひとわれたる事」)
 しかし「自力のはからい」をする人(善人)は、「ひとへに他力をたのむこゝろ」(『歎異抄』)が弱く、悪人は阿弥陀にすがるほかはない。したがって他力の論理を押しつめると、悪人の方が救われる蓋然性が大きいということになる。すなわち、
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』)
 これを阿弥陀の側から表現すれば、
「願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」(同上)
となるであろう。
 ここまでのところはキリスト教の一面とも重なる。人格的な超越者による救いという考え方は、少なくとも一面において(必ずしも全面においてではない)、他力本願を意味し、他力本願は、たとえばシャルル・ペギーもいったように、「キリスト者の中心には罪人がいる」という考えに導かれる。阿弥陀はすべての人間を救おうとして、人間を罰しない。その意味ではキリスト教の神とちがう。また仏教的な「悪人」が、キリスト教的な「罪人」とちがうことはいうまでもない。しかし超越者と人間との関係をつきつめて考えた宗教的天才の結論には、決して単なる言葉の類似ではなく、思想的構造の類似があらわれるのである。」加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫、1999、pp.288-291.

 ぼくの個人的な記憶で恐縮だが、小学校6年生の頃に、学校で読書感想文を書かされた。どんな本を読んでもいい、といわれて、ぼくが選んだのは「親鸞」だった。親鸞の伝記。細かいことはもう忘れてしまったが、小学生が読んだ本だから、難しいものではなかった。ただ、比叡山で学んでいた若い僧・親鸞が、既成仏教に疑問を感じて山を降り、都で法然に出会って弟子になり、会衆のなかで念仏を唱え、師とともに都を追われて北陸、関東と流れながら布教をつづけ、尼僧と結ばれて子をもつ。行く先々で名もない人々に念仏の救済を説いて、信者を獲得していく。最後は京に戻って長い生涯を終える、という物語は強く印象に残り、ぼくは感想文を書いて先生に渡した。「親鸞」という難しい漢字を、いっぱい書いたことだけ覚えているが、先生はこんな本を選んだことに感心した、と言ってくれた。
 ぼくの父はもと真言宗の僧侶だったが、うちで子どもに宗教の話はしなかったし、浄土真宗のことはなにも知らなかった。子どものぼくは、念仏を唱えれば救われる、ということの意味をよく理解していなかったし、仏教のことも歴史のこともまだ無知だった。ただ、人はどうして死ぬんだろう?苦しむ人を救うとはどういうことだろう?僧侶なのに妻帯していいんだろうか?などいろいろ考えた。宗教というものが、この世のあれこれ、目の前の日常というものにだけ生きているぼくたちに、超越的ななにかを提起している、ということはずっと考えてみたいと思ったことは確かだ。
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