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公明党の背信について考えた・・。

2014-07-05 20:01:32 | 日記
A.池田大作氏が生きていたら・・
昨年3月、創価学会名誉会長、池田大作氏(1928-2013)が亡くなった。
いうまでもなく、創価学会は公称800万世帯(日蓮正宗信徒数)ともいわれる会員を擁する宗教法人で、現在はSGI(創価学会インタナショナル)の日本組織というが、国会に議席をもつ与党公明党の実質的支持母体といわれてきた。国政をはじめ各種選挙で、公明党候補の選挙活動を担う人々の大多数は創価学会員とみられ、戦後急速に拡大した新興宗教のうちでももっとも大規模な勢力となり、拡大期にさまざまな軋轢や批判を浴びて、政教分離を謳うに到ったが、その宗教理念のなかには、民間信徒の「法華講」として発足した当初から、政治への指向が強く含まれていた。戦後の創価学会躍進を象徴する人物が、池田大作という人である。
 先日、ぼくは岩手県三陸の被災地を訪れた折、立ち寄った知人のところでたまたま「顕正新聞」なるものを配って歩く女性に出会った。実は数日前も、自宅に訪れた子連れの女性が「顕正新聞」を配っていて、集団的自衛権に反対する記事を是非読んでくれと置いていった。東京でそうした動きがあることは知っていたが、まさか岩手県の被災地で「顕正新聞」を渡されるとは思わなかった。「顕正新聞」は、創価学会が信仰の対象とした日蓮正宗から破門、独立した新宗教団体「冨士大石寺顕正会」が発行する言論機関紙で、内容は大部分が日蓮正宗と創価学会の批判・罵倒である。読んでみると文体も内容も創価学会の「聖教新聞」ととてもよく似ている。しかしその主張は激しく対立している。「聖教新聞」もことあるごとに顕正会を、邪教だと罵っている。「顕正新聞」を配る熱心な女性たちが、今回の集団的自衛権に反対するのは、安倍政権に同調する公明党を批判するというスタンスだけは、はっきりしているとぼくには思えた。
 はっきり言って、創価学会や日蓮正宗というものに拘わったことのない人には、ぼくも含めてもともと同じ信仰をもっていた両派が争う理由、何が対立点なのか、なにを怒っているのかまったくわからない。そこで、今さらではあるが、池田大作氏と創価学会について、ちょっと気になったので調べてみた。池田大作という人は、東京大田区で1928(昭和3)年に生まれている。どちらかといえば貧しい庶民の家の子であったという。以下、wikipedia等より引用。

*1947年:3月、東洋商業学校を卒業。8月14日 小学校時代の同級生の女性から「仏教や哲学のいい話がある」と誘われ座談会に出席。戸田城聖の御書講義を受け、小平芳平の折伏を受け、入信を決意、8月24日、創価学会に入信手続きを行なう。入信したことで、家からは勘当状態になる。
*1951年:5月3日 戸田が創価学会の第2代会長に就任。5月 蒲田支部大森地区の地区委員に任命される。7月 青年部(男子部)が結成され、第1部隊長になる。1952年、創価学会青年部の教育参謀、3月 参謀室長となる。5月3日 白木香峯子と結婚。
*1953年:11月25日 長男博正の誕生を期に、正式に「太作」から「大作」に改名。
*1957年:7月4日 参院大阪選挙区の補欠選挙が行われた際、創価学会員に戸別訪問や日雇い労働者達に候補者名の氏名の入ったタバコを渡すようを指示したとして公職選挙法違反(買収)の疑いで逮捕され、大阪東警察署と大阪拘置所に勾留。7月29日 創価学会幹部45人と共に起訴される。後に検察官より禁固10か月の求刑を受ける。
*1958年:4月2日 戸田が死去(58歳没)。4月20日 戸田の「学会葬」で司会を務める。6月 自ら新設した総務を青年部参謀室長と兼任。
*1959年:6月2日 第5回参議院議員通常選挙において選挙参謀を務める。6月30日 青年部参謀室長を辞任し参謀室の北条浩、龍年光と共に創価学会理事に就任。
*1960年:3月30日 戸田の三回忌法要を前に、会長への就任を正式に要請され、4月14日、正式に会長就任を受諾。5月3日 創価学会第3代会長に就任。戸田の七回忌までに300万世帯の信徒獲得と邪教撲滅を目標に掲げる。
*1961年:11月27日 公明党の前身「公明政治連盟」が発足。
*1962年:1月25日 「大阪事件」で無罪判決。
*1964年:5月3日 第27回本部総会において、政党の創設と衆議院進出、ならびに正本堂の建立・寄進の計画を発表。宗門から法華講総講頭に任命される。11月17日 「公明党」を結成。結党宣言で、日蓮の『立正安国論』を引用し、「『王仏冥合』・『仏法民主主義』を基本理念とする」旨を謳う。
*1965年:1月1日 『聖教新聞』紙上で小説『人間革命』の連載を始める。
*1968年:9月8日 第十一回創価学会学生部総会における講演で、中華人民共和国の正式承認と日中国交正常化、中国の国連加盟などを提言。
*1979年:4月24日 日蓮正宗との問題で創価学会会長を引責辞任。新しく創設したポストである名誉会長に就任。終身制だった会長職を5年の任期と変更、後任の会長には北条浩が就任。
*1991年:TBSの取材に対し日蓮正宗との対立については、「より高い次元に行くための現象」と説明、日蓮正宗からの独立をきっぱりと否定。11月28日 創価学会とSGIが日蓮正宗から破門される。
*1992年:8月11日 池田自身を含む全創価学会員が日蓮正宗から信徒除名処分。
 その後、創価学会・池田大作は巨大教団SGIを率いるトップとして、海外の有名政治家、学者、文化人などと「平和」をめぐる対話を繰り返しては、カリスマ性をアピールしていた。
 とくに注目されるのは、池田は日中国交回復以後、これまで10度訪中し、北京、西安、鄭州、上海、杭州、広州などを訪れ、また、毛沢東、周恩来、小平、江沢民、胡錦濤、温家宝といった政府指導者をはじめとする中国各界の要人と会見するなど、親密な関係にあったことだ。

 もし今、池田大作が生きていたら、安倍政権の政策にどんな態度をとっただろう。「顕正新聞」に批判される以前に、政治権力に迎合する公明党を、日蓮大聖人の教えを受け継ぐ創価学会への裏切りとみたのではないか。創価学会の歴史を振り返れば、国家による迫害弾圧と抵抗の歩みであったことを池田大作はもちろん知っていたはずだ。ついでに初期創価学会について、日蓮信徒団体の歴史として少し調べてみた。
*1928年(昭和3年):東京市立白金尋常小学校(現・港区立白金小学校)校長だった牧口常三郎が「日蓮正宗」に入信。ほぼ同時期に戸田甚一(後の戸田城聖)も折伏され入信。
*1930年(昭和5年):11月18日 - 牧口の『創価教育学体系』第1巻が発行される。戸田は「戸田城外」を名乗る。創価学会ではこの日を創立記念日としている。また「創価教育学支援会」も結成された。
*1937年(昭和12年):12月 - 「創価教育学会」発会式。
*1939年(昭和14年):12月 - 「創価教育学会」第1回総会。
*1940年(昭和15年):5月 - 金融業「日本商手」を設立、創価教育学会事務所を現在の東京都千代田区神田錦町に置かれた同社内に移転。
*1943年(昭和18年):5月 - 創価教育学会第6回総会。直後に神社神道を批判したことで機関誌『新教』が廃刊命令を受ける。6月 - 学会員の陣野という東京のクリーニング屋がお客さんの子供が死亡した理由を邪教に仏罰と主張し、警察は調査を始まる。7月 - 「治安維持法」違反並びに「不敬罪」の容疑で牧口、戸田の他、21名の幹部が逮捕される。
*1944年(昭和19年):11月18日 - 牧口が東京拘置所内で死去。
*1945年(昭和20年):7月 - 戸田が豊多摩刑務所から出獄。9月 - 東京都千代田区西神田にビルを取得。創価教育学会本部を再建。
*1946年(昭和21年):3月 - 「創価教育学会」を「創価学会」に改称し、組織整備を始める。11月17日 - 牧口の三回忌法要および「創価学会」第1回総会を開催。戸田が理事長に就任。
*1949年(昭和24年):7月 - 機関誌「大白蓮華」創刊。
*1951年(昭和26年):4月20日 - 機関紙『聖教新聞』創刊。5月3日 - 戸田が「創価学会」会長に就任。小泉隆が理事長に就任。戸田は就任演説において、7年間で75万世帯を折伏することを目標に掲げる。この発言をきっかけに「折伏大行進」が始まり会員が激増した一方、強引な布教に対する社会的な批判が起こる。7月 - 男子部・女子部など現在のスタイルに近いものを結成。11月 - 『折伏教典』を発刊。12月 - 戸田が宗務院の命により登山し、「宗教法人創価学会」設立に際して3ヶ条遵守を約束。
*1952年(昭和27年):4月 - 「狸祭り事件」。8月27日 - 東京都知事より宗教法人の認証を得て9月8日「宗教法人創価学会」が正式に発足する。

 このような創価学会の歴史は、鎌倉時代の日蓮の思想と行動を、現代日本に実現させようとした宗教運動だったと思う。それは、敗戦の焼土から高度経済成長に向かう戦後社会のなかで、故郷を離れ拠り所を失った地方出身者、孤独な庶民大衆の心を捉えていた。「反戦平和」「仏教による庶民の救済」という原点は、指導者池田大作に体現していたはずだった。宗教活動がそのまま政治活動として、人々の心を駆り立てたメカニズムは、社会学的にもたいへん興味深いことなのだが、公明党の現状はそれを忘れてしまった。



B.日蓮について
 加藤周一『日本文学史序説』のなかで、日蓮に関説した部分を読んでみた。
「法然・親鸞が旧仏教と教義上鋭く対立して、その結果、大寺院と対立せざるをえなくなったとすれば、日蓮(一二二二~八二)は教義上ほとんど全く天台宗に拠り、それにも拘わらず、その自己主張の激しさにより、当時の各宗派(浄土宗、禅、天台・真言、律)の集団と対立し、さらに権力と対立した。いくらか図式的にいえば、日蓮は鎌倉仏教と、教義上、旧仏教の立場から対立し、旧仏教寺院とは、実践上、新しい彼自身の立場から対立した。
 教義上の立場は、そのシナ語による主著『観心本尊抄』(一二七三)にみることができる。その出発点とする基本的な原理は、天台智の『摩訶止観』にいう「一念三千」である。これは三千世界が一念に具わる、すなわち宇宙が各人の心に内在するというもので、己が心をよく観ずれば世界の全体が理解できるということである。この原理と、諸経のなかで『法華経』を最高の教とする立場とが、いささか恣意的な経文の引用と独断的な信仰告白とによって結びつけられ、『観心本尊抄』一巻をつくる。前者は哲学的に「イプシズム」の道へ通じ、後者は宗教的に日蓮における『法華経』の絶対化へ通じる。両者は『撰時抄』(一二七五?)に到ると、末法観を媒介として、融合するだろう。一二七五年は、蒙古の第一回の侵略(文永の役、一二七四)の翌年、第二回の襲来(弘安の役、一二八一)の前である。
 日蓮は「法華経の行者」として、みずから「日本第一の大人」「日本国の棟梁」であるといい、末法の世、国難を救うために、大地より湧出した「上行菩薩」であると壮語するに到る。
 日蓮は安房の漁夫の子として生まれた。「日蓮は今生には貧窮下賤の者と生れ、旃陀羅が家より出でたり。……心は法花経を信ずる故に、梵天・帝釈をも猶恐しと不思。身は畜生の身也。色心不相応の故に愚者のあなづる道理也」(『佐渡御書』)。――これが迫害を受ける理由である。
 他方『法華経』はその経を信じる者が迫害をうけることを語る。迫害の大なれば、大なるほど、「法華経の行者」としての資格はたしかでなければならない。「いまだ日蓮ほど法花経のかたうどして、国土に強敵多くまうけたる者なきなり」(『撰時抄』)。――これが「法華経の行者」として日・中・印三国にならぶ者のない理由である。
 しかるに『法華経』は絶対化されているから、王法に超越しなければならない。天皇も将軍も誤っている者は誤っている。「悪王の正法を破るに、邪僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は、師子王の如く心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮の如し」(『佐渡御書』)。――これが対権力の日蓮の課題である。
 彼はその課題を、『立正安国論』(一二六〇)に典型的なように、政府に対し建白書を奉るという形で解決しようとした。その内容は、要するに、第一、災厄(天才も、戦争も)の多いのは、邪宗(念仏宗その他)が流行し、政府がそれを見逃すからであること、第二、邪宗を禁じ、正宗(日蓮の法華経)を興すべきこと、第三、逆の方策をとれば(日蓮迫害)、災厄はさらに多くなるであろうということ、以上の三点に尽きる。ここで注意すべきことは、その独断や予言ではなく、その国家権力に対する態度である。その態度こそは、日本史上極めて稀な例外であって、彼は、そのいわゆる「法」(『法華経』)があらゆる権威に超越するとし、したがって、国家が法に奉仕すべきで、法が国家に奉仕すべきではない、とした。日蓮と天台の教義上のちがいは、微妙でほとんど技術的なものにすぎない。しかし国家と仏教との関係については、その考え方が全くちがう。天台を含めて、旧仏教は「鎮護国家」をめざした。すなわち国のための仏教である。日蓮においてはあきらかに仏教のための国である。
 法然・親鸞の阿弥陀の絶対性と、日蓮の『法華経』の超越性は相応じる。後に見るように道元の悟りもまた同じ。そこには一三世紀仏教改革に共通の特徴がある。日蓮が独特なのは、法然・親鸞・道元と異なり、旧仏教の教義的枠組の内部でその信仰を貫いたということであり、殊に他の宗教的指導者たちが語らなかった国家と宗教との関係という問題に真っ向から立ち向かったということである。
 しかし国家を問題とした日蓮も、人間関係を調節する新しい原理、倫理的価値の体系を作り上げることはしなかった。日蓮以後、教団が分裂したばかりでなく、「現世利益」的な世俗化の傾向をみせたのは、まさに浄土真宗の場合と同じように、そのことと密接に関係していたろうと思われる。ある意味で、日蓮は日本の土着世界観に楔を打ちこんだ。しかしそのために土着思想の全体が変わったのでは決してなかった。
 散文家としての日蓮は、一種の天才であった。その散文には、舌端火を吐く激しい気性がよくあらわれている。気性と信念。論戦的な日本語の散文は、早くも一三世紀に、日蓮において、殊にその若干の消息文において、ほとんど最高の水準に達していた。」加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫、1999、pp.297-300.

 加藤の言う「イプシズム」が、ちょっとわからなかった。もしそれが劇作家イプセンに関係するとしたら:イプセンの劇は同時代の多くの人にスキャンダラスと考えられた。当時は家庭生活や礼儀についてのヴィクトリア朝的価値観がヨーロッパで大きく広まっており、それらに対するいかなる挑戦も不道徳的で非常識とされていたためである。イプセンは生活状況や道徳問題についての批評的な眼や疑問を紹介するため、主に現代劇に基礎を置いた。ヴィクトリア朝の演劇には、悪の力に立ち向かう高潔な主人公が期待されており、あらゆる劇は善が幸福をもたらし、不道徳は苦痛のみをもたらすという、道徳的にふさわしい結末で終わった。イプセンはこの考えと当時の信仰に挑み、観客の持つ幻想を破壊した。「人形の家」は女性解放の先駆でもあった。日蓮の思想に、ヴィクトリア朝的道徳に対する否定、あるいは絶対者に対する態度において、あるいは虐げられた弱者の支配道徳に対する反抗の視線があるとしたら、それはそれで興味あるところであるが・・・。

「「悪人正機」のキリスト教にとっても基本的な一面であろうことは、すでに述べた。しかし親鸞は、その宗教的一面に徹底し、人間的な価値に触れることが薄かった。道元がその宗教的な面で、内面的な悟りの絶対性を強調しながら、実践的な面では、内面的なものを離れ、歴史的な社会にあたえられた先例へ向かうのは、その基本的な構造において、カトリック教会の伝統主義、すわなち個人の主観に超越する教会とその教義の客観性の強調と、相応じるだろう。「ヨクモアレ、アシクモアレ、仏祖ノ言語行履ニ順行也」(『随聞記』三)といい、また「只専随仏教順祖道行ケバ、人自帰道徳也」(同上)という。「ヨクモアレ、アシクモアレ」は、理論的基礎づけの困難さを示している。「人自帰道徳也」は、伝統への信頼による「道徳」の客観性の回復である。
 道元の禅は、親鸞・日蓮と共に、その宗教体験の超越性において、また文化的・倫理的な態度の保守性において、「鎌倉仏教」の特徴を共有し、殊にその宗教的な面で、16世紀西欧の「宗教改革」に似ながら、倫理的価値の面で、「宗教改革」と異なる。彼らの宗教は、浄土真宗も、日蓮宗も、禅宗も、その後の室町時代に、あるいは制度化され、あるいは世俗化されたが、その過程で、殊に禅宗が、決定的な文化的役割を果たすことになるだろう。そのとき武士階級が完成したのは、「市民社会」ではなく、「封建制社会」であった。」加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫、1999、pp.312-313.

 鎌倉仏教の日本思想における革新的意味、といっても浄土教系、法華教系、禅系がそれぞれ教義においても実践においてもかなり異なるということは、よくわかった。そのなかで、日蓮の思想と行動は、仏教の教義という面では伝統的天台教学を踏襲するもので、ただその「法華経」への情熱的傾倒と、反権力への闘争心という点で、後世に影響を与えた。日蓮宗は現世利益とカリスマ的アジテーションを武器とすることで教勢を伸ばしたが、やがて大衆的であるが故に世俗化の道をたどった。これも納得する。もし創価学会の「理想の世を実現する」という運動を、公明党が原点に立ち戻って襟を糺すならば、連立離脱をしても集団的自衛権などに賛成するはずはない。
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