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「日本近代美術史論」を読む 12  菱田春草  唐十郎の遺産

2024-05-10 15:44:46 | 日記
A.美校の俊才
 明治の日本美術界を新しい時代のアート作品として、日本画の伝統と西洋美術の刺激を受け止めて、創作を続けた画家の双璧は、大観と春草だった、というのが高階秀爾先生の評価である。先に見た大観と同様、東京美術学校で岡倉天心に学んだ春草について、ざっと略歴を見てみよう。
 菱田 春草(1874(明治7)年- 1911(明治44)年)は、本名は三男治(みおじ)、1874年、長野県伊那郡飯田町に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。飯田学校で学んだ後に上京し、狩野派の結城正明の画塾で学ぶ。1890(明治23)年、東京美術学校に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦だった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあり、1895(明治28)年21歳で卒業すると、同年の秋から翌年にかけて帝国博物館の委嘱を受けて、大規模な古画模写事業に参加、京都や奈良をめぐった。1898年(明治31年)、岡倉は反対派に追われるように東京美術学校校長を辞任した(反対派のまいた怪文書が原因だったとされる)。これに伴って、当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も学校を去り、在野の美術団体である日本美術院の創設に参加。
 その後、春草は1903年(明治36年)には大観とともにインドへ渡航。1904年(明治37年)には岡倉、大観とともにアメリカへ渡り、ヨーロッパを経て翌年帰国した。1906年(明治39年)には日本美術院の五浦(いづら、茨城県北茨城市)移転とともに同地へ移り住み、大観、観山らとともに制作に励んだ。しかし、春草は腎臓病による眼病(網膜炎)治療のため、1908年(明治41年)には東京へ戻り、代々木に住んだ。代表作『落葉』は、当時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林がモチーフになっている。1911年(明治44年)、満37歳の誕生日を目前にして腎臓疾患(腎臓炎)のため死去した。その才能と気概は、惜しまれて余りある。

「現在では重要文化財に指定されている春草畢生の名作「落葉」が世に発表されたのは、明治四十二年秋、第三回文展であった。この歳、審査員の出品としては大観の「流燈」、竹内栖鳳の「アレ夕立に」、寺崎広業の「渓四題」等の名作があったが、一般に応募作品はどちらかというと低調であり、一人春草の作品のみ、群を抜いて見事であったという。そして「落葉」は、一般作品のなかでは最高の賞である二等賞第一席を受賞したのである。(もっとも、この受賞については、旧派の審査員たちからは、強い反対があった)。
 その翌年、明治四十三年三月八日付の『時事新報』紙上の「画界漫言」のなかで、春草は、この「落葉」について、謎のような言葉を残している。この「漫言」は、晩年の春草の考え方を端多岐に示すものとしてきわめて貴重な証言であり、いわば彼の信条告白とも言うべきものである。
 
 「現今洋画といはれてゐる油画も水彩画も又現に吾々が描いている日本画なるものも、共に将来に於ては――勿論近いことではあるまいが、兎に角日本人の頭で構想し、日本人の手で製作したものとして、凡て一様に日本画として見られるゝ時代が確かに来ることゝ信じてゐる。でこの時代に至らば、今日の洋画とか日本画とかいふ如く、絵そのものが差別的ではなくなって、皆な一様に統一されて了い只其処に使用さゝ材料の差異のみが存することゝ思ふ。自分は元来この確信とそれからどうも従来の日本画には慊らぬところから、那辺までも新しい絵を作って見たい〽と思つて居つたので、以前に描いた小幅の『落葉』『杉木立』などを参考して、それに代々木附近の自然の景色から材料を蒐集して漸く出来上がつたのが昨年出品した『落葉』であつたのだ。処が、寺崎君の『渓四題』同様保守的の人々は非日本画として排し、又た洋画家の連中は洋画カブレのしたものとして評言区々、其甚だしきは全然日本画でない、一種の洋画だとまで云はれた。併し自分の考ふるところでは今日の日本画が尠くともその残骸を打破し、新時代に適応するものたるべく、どうしても現代の総ての要求を取り入れなくてはならぬ。総ての要求を取り入るゝには自然形式に於ても構想に於ても自然と洋画に接近したものになつて来るのは止むを得ない、また避け得べからざることだと思ふ。で自分はこれ等の批評を甘受する覚悟で、洋画なら洋画で苦しからぬこと、要するに日本画の発展向上にはドノ途此の方針を取らねばならぬことゝ信じてゐるのだ。前にも云った如く現代の日本画と洋画とが共に将来は一つの日本画として渾成統一せらるゝ以上、今日の洋画の方面から謂つてもさうだが、現代の洋画は未だ所謂洋画に過ぎないもので、仏国美術の跡を慕ふて居るばかり、決して純日本化しては居らぬ。洋画も全然日本的なものとなつて、始めて我が国民的感情に一致するは論なきことだ。
 然るに世間多くの人々はまだ、さう考へてをらぬ。乃ち洋画は洋画、日本画は日本画といふやうに、到底調和が出来ないものと思つて、更に恁うした方面には注意せぬ。けれど、現代にありても遣り方一つでは油絵でも日本の古代の建物に適応する装飾とならぬことはない。現に光琳の画などには油絵の如くネツ〻したものが尠方布を見ても、それは解る話だ。といつて河村清男君の遣り方には余り感服しかねる。これと同様日本画も書き方如何により、随分洋式建物にあてはまるのは疑ひのないことだ。兎に角自分は前述したやうな考えからしてドコまでも、あの行き方で行つて今後とも前進して見たいと思ふ。尤も『落葉』とは異なつた現はし方を試みる心算だが、それでもゆき方は彼の通りだ。それにつけても速かに改善すべきは従来ゴッチャにされて居た距離といふことで、これは日本画も洋画と同様大いに攷へねばなるまい。自分も是れまで始終この555事は注意してゐた積りだが、この大切な法則が動もすると画の面白味といふことゝ矛盾衝突するところから、遂ひそれの犠牲になつて了ふ。『落葉』にもさうした場合が多かつた。決して頭からこの法則を無視した訳ではなかつたのであるが‥‥‥」

 この一文は春草芸術を語る時しばしば引用される有名なものであり、いずれあらためて検討する必要があるが、さしあたり私が「謎のような」と言ったのは、その最後の部分で、春草が「それにつけても速やかに改善すべきは従来ゴッチャにされて居た距離といふことで‥‥‥」と語っているところである。この「距離」ということは、いったい具体的にアどういうことを意味するのだろうか。春草によれば、それはややもすれば画面の面白さと矛盾することが多く、そのため「落葉」の場合ですら、「この大切な法則」が犠牲にされているという。「決して頭から此の法則を無視した訳ではなかつたのであるが‥‥‥」と、春草にしては珍しくいささか弁解がましい口調すら見られる。だが、この名作の画面で、いったい何が「犠牲」にされているというのだろうか。
 今日あらためて「落葉」の画面を見てみると、その構成は厳として非の打ちどころがないもののように思われる。私はかつて、明治期の日本画は日本美術院さえあれば、あとはなくても良い、日本美術院は春草ひとりいれば他の人はいなくてもいい、そして春草は「落葉」一双あればあとは何もいらないというような、はなはだ乱暴なことを書いたことがある。今では、それほど極端なことを言おうとは思わないが、しかし、基本的には私のその考えは変わってはいない。少なくとも「落葉」が、洋画をも含めて、明治の日本近代絵画を代表する最も優れた句品のひとつであることは、誰しも異論のないところであろう。
 ところが、当の作者の春草自身は、この作品に対して、かならずしも満足してはいなかったようである。もともと、春草は、一見女性かと見まごうほどおとなしいもの静かな風貌の持ち主でありながら、自己の作品に対しては、他人が何と言おうと絶対に譲らない強い態度を持っていた。その点では、あるいは春草は、大観よりももっと自信家であったかもしれない。例の朦朧体の運動の時代。その新奇さの故にふたりが「殆んど悪魔の如く看做され」(『大観自叙伝』)、世を挙げての嘲罵の的となって絵がまったく売れず、ほとんど乞食同然に近い生活をするようになった時でも、平然として自己の信ずる道を進んでいったということは、陰に陽に与えられた天心の理解と励ましがあったにせよ、自己の作品に強い自信がなければ到底できないことである。しかも、大観の場合は、天心に対する絶対的な畏敬の念があったから、天心の言うことには無条件で従うという傾向があったが、春草は、後に天心自身が春草の死に際して『朝日新聞』に発表した追憶談の中で回顧している通り、自分で納得がいかなければ、たとえ師の訓えといえどもただちにこれに雷同するというこのない「頑固強情」な一面を持っていた。それだけに、いったんこうと信じて自ら選び取った道に対しては、何と言われても動じない強い自信があったようである。
 春草が見かけによらず「頑固強情」で、強い自信家であったということは、多くの人々によって伝えられている。
 明治四十年、初めて文展が開設された時、日本美術院からは天心のほかに二名の審査員が出ることになった。天心としては、美術院には、大観、観山、春草といういずれも劣らぬ三人の高弟がいるので、極力三名の審査員を主張したが、結局通らなかった。しかし、この三人のうち誰か一人をはずすということは、人情家の天心にはとてもできないことだったので、天心は三人に事情を説明して、自分たちで決めるよう指示した。こうなると、親しい仲間といっても、三人のあいだではきわめて微妙である。結局春草が、年齢がいちばん若いということで遠慮して、大観、観山のふたりが審査員になったが、その時春草は、家に帰って、「俺は審査員以上の絵を描いてやる」と語ったという。歳は若いけれど腕は上だという自信があったのであろう。その結果生まれたのが、有名な「賢首菩薩」である。ところが、この「賢首菩薩」が審査の際問題となって、危うく落選させられそうになり、天心、観山が極力主張してようやく入選となったといういきさつがあった。この話を伝え聞いた時の春草の態度を、後に木村武山が、次のように回顧している。

 「春草が文展第一回に『賢首菩薩』を出してゐるが、実はあの作品が監査の際に、疑問の部に入れられたものである。その時私と二人で広小路に出て晩飯を食つてゐると、『賢首菩薩』が疑問の部に這入つたと云ふことを知った春草君が、悲観でもするかと思ふと、私に対して云つた言葉が振つたものである。「よしッ。来年はもつと程度を下げて審査員に解る絵を描いてやらう」と云ふことだった。賢首菩薩が如何に春草氏の鏤身彫骨の傑作であるかを知ってゐた私は、実にその壮語を聞いて溜飲三斗の思ひあらしめたか知れない‥‥‥」(木村武山『菱田春草君と死の前後』より)
 
 事実、この『賢首菩薩』は、従来の没線描法にさらに点描式の細密描写を加えたきわめて大胆な技法によるも
のであり、ただでさえ評判の悪かった春草のこの苦心は、旧派の審査員には通ずるはずがなかった。そしておそらく春草自身も、そのことをよく知っていたのである。「よしッ。来年はもつと程度を下げて審査員に解る絵を描いてやらう」という彼の言葉は、単なる負け惜しみではなくて、むしろ正直な感想だったと言ってよいのである。
 しかし、もちろん春草は、審査員に解らせるために「程度を下げて」描くような真似はしなかった。それができるぐらいなら、朦朧体時代のあの苦労は最初からなかったはずである。それどころか、たとえ審査員の気に入れらても、自分の意に満たない作品は自分で破棄してしまうのが春草である。明治三十五年秋、日本絵画共進会日本美術院聯合展に出品された春草の大作「再諾二尊」は、銀杯第四席を与えられたが、春草未亡人の談によると、これはその後春草自身の手によって洗い去られ、廃棄されてしまっている。春草にとっては、何よりも自分自身の判断が最も大切なものだったのである。
 それだけに、あの名作「落葉」について、春草自身が疑問を述べているとすれば、われわれにとってもそれは大いに気にかかるところである。むろん、新聞紙上に自作についての見解を発表する以上、謙虚な口調になるのは当然のことだが、しかし春草は、単に卑下しているだけではなく、あの作品には「距離」という「大切な法則」が犠牲にされていると明言しているのである。それほどまで大切な「距離」というのは、具体的にはいったい何を指すのだろうか。おそらくそこには、日本画というものの持つ根本的な問題がひそんでいるに相違ない。
 春草の語る「従来ゴッチャにされていた距離」というのは、常識的に言えば、ないしは奥行き、なわち、画面の空間構成ということと考えてよいであろう。従来の伝統的日本画において、明確な奥行きの表現法が確立していなかったことは事実である。少くとも西欧の透視画法的表現は日本の伝統絵画の知らないところであり、それなればこそ、例えば高橋由一の透視画法的表現は三流の舶載石版画に驚嘆したのである。しかしながら、それでは春草の「落葉」に奥行きの表現がないかというと、決してそんなことはない。そこには、明らかに明確な空間の意識があり、奥行きの表現もある。ただそれは、普通の西欧絵画に見られるいわゆる遠近法的表現とは違う。ルネッサンス期に完成された西欧の遠近法表現では、画面と向かい合って一定の場所に画家の視点を想定して、世界はすべてその視点から眺められる。その画家の視点に対応して、画面には消失点と呼ばれる中心点があり、画面構成はすべてその消失点を中心に展開される。すなわち、世界はひとりの画家の一定の視点から見た統一像を持っており、画面はその正確な反映となる。したがって、厳密に遠近法を適用した絵画の場合、その画面構成から画家の視点を逆算することが論理的に可能であり、その絵を見る者は、原則としてその画家の視点の位置から見ることを期待される。つまり、作品と観者の「距離」があらかじめ論理的に決定されている。このような画面の統一原理としての遠近法は、春草の「落葉」には見られないのである。
 事実、「落葉」の構図は、やや高いところから眺め下したもので、画面全体は、樹木の根元の部分および地面だけで埋められている。もっとも、地面は、実際には描かれてなくて、樹木の根や落ち散った枯葉などから、それと推察されるのみである。春草は、前年の秋に描かれた「秋木立」においても、同じような俯瞰構図を試みているが、この種の構図法は、画面に地平線が登場して来ないため、空の部分がまったく描かれず、画面すべては地上のもので覆われる。すなわち、きわめて平面的、装飾的画面を作り上げるのに適した構図法なのである。
 平面的、装飾的構成を好む従来の伝統的な日本画は、むろん、この俯瞰構図をしばしば利用している。「落葉」の場合は、やや高いところから斜め前方を見下ろすという視点になっているが、それをいっそう徹底させれば、真上から下を見下ろすという構図になる。こうなれば、画面は完全に地面と平行になり、平面化が完成するわけである。例えば、光琳の有名な「八ツ橋図屏風」において、かきつばたの花は真横から見たように描いてあるが、かきつばたの咲いている池に架けられた八ッ橋は、完全に真上から見下ろされたものとなっている。
 「落葉」は、一部の人々から「洋画カブレ」と非難されながら、その構図においては、はっきりと在来の日本画の伝統を踏襲していた。そのため、画面が平面的過ぎるという批評もあったほどで、春草が「画界漫言」のな
かでわざわざ「落葉」に触れているのは、おそらくそのような批評に対する返答の意味もあったのである。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980年、pp.266-275.

 高階秀爾先生が「日本美術院は春草ひとりいれば他の人はいなくてもいい、そして春草は「落葉」一双あればあとは何もいらない」という最高の評価を与えたのは、確かに「落葉」の画面を見れば納得される。屏風絵という伝統と全面に展開する自然の空気感を、このように表現した作品の近代性は俊才の個性が滲んでいる。


B.紅テントの鬼才
 唐十郎を最初に知ったのは、大島渚の「新宿泥棒日記」だったと思う。そのなかで新宿東口の交差点でふんどし一丁で状況劇場の仲間と暴れ回る鬼のような男、それが唐十郎だった。花園神社で紅テントの公演をやっていることは知っていたが、見に行ったことはなかった。今思えば、一度は行っておけばよかった。その唐十郎とは縁もゆかりもなさそうな三谷幸喜が、日本戦後演劇史概説みたいなことを書いている。

「唐十郎さんと現代演劇史 三谷幸喜のありふれた生活1181
 唐十郎さんが亡くなった。日本の現代演劇史を語る時には、欠かすことの出来ない人。きっと読者の皆さんも様々なところで追悼記事を読まれると思うので、唐さんの業績についてここでは触れない。
 今回は、唐さんの世代から始まったと言われる、小劇場演劇の歴史について、僕なりにおさらいします。紙面も限られているし、最近レイアウトが変わって、文字数も少し減っているので、あくまでざっくりと。名前が出ない演劇人の方々、どうかお許し下さい。
 明治時代、歌舞伎に対して生まれたのが新派であり、新劇。つまり新劇の新とは、歌舞伎に対しての新。そして戦後、その新劇に対して、もっと自由な題材を自由な演出でやりたいと、若者たちが始めたのが、いわゆるアングラ演劇。早稲田小劇場の鈴木忠志さん、紅テントの唐十郎さん、天井桟敷の寺山修司さん、黒テントの佐藤信さんや串田和美さんら、錚々たる名前がここに並ぶ。これが「小劇場第一世代」。
 劇作家の別役実さん、清水邦夫さん、演出家の蜷川幸雄さんもそう。井上ひさしさんも世代で言えばここなんだけど、あまり「第一世代」の印象はない。まずテレビや小説で活躍し始め、活動が多岐にわたっていたからか。
 次がつかこうへいさんを代表とする「第二世代」。他にどんな人がいるか考えると、劇作家のイメージが強い北村想さんや山崎哲さんがそうなのか。アングラの暗い闇から笑いとエンタメの世界へ、演劇を連れて行ってくれたのがつかさんだけれど、北村さんや山崎さんはちょっと違う。多様化の時代ということなのだろうか。
 そして「第三世代」。夢の遊民社の野田秀樹さん、第三舞台の鴻上尚史さん、劇団3○○の渡辺えりさんたち。他にもたくさんいるけど、とても書ききれない。まさに小劇場ブームのピークで、ここにきて笑いは演劇の必須アイテムとなる。
 それに対して「第四世代」は、平田オリザさん、(年はちょっと上だけど)岩松了さんらによる「静かな演劇」が注目された。ストーリーにも役者の演技にもリアイリティ―を重視する作風。そのあたりの変化を汲み取りつつも、先人たちが築いた笑いのエッセンスを重視したのがケラリーノ・サンドロヴィッチさんや松尾スズキさん。それから「第五世代」の長塚圭史さん、宮藤官九郎さんと来て、今は「第六世代」になるのだろう。
 あまりにも大雑把で、解釈の違いもあるだろうが、現代演劇史をざっとたどるとこんな感じだ。
 さて、僕はどこに入るのかということだが、これが非常に難しい。世代的には第三と第四の間くらいなんだけど、自分の立ち位置を客観的に眺めると、そのどちらでもないような気がする。
 そもそもぼくは演劇人なのか。ドラマや映画も並行してやってきたので、純然たる演劇人ではないのは間違いなく、現代演劇史を語る上で、真っ先に弾かれる存在なのかもしれない。
残念なようだけど、そこに自分の存在意義があるような気もするので、まあ、いいでしょう。」朝日新聞2024年5月9日夕刊4面。

 亡くなった扇田昭彦の『日本演劇史』(岩波新書)や『唐十郎の劇世界』(右文書院)を読んでいれば、この現代日本演劇史要約はやや乱暴に見えるが、自分がそのどこにも位置づけが難しいという自己評価は、いちおう謙虚に納得される。そして、笑いとエンタメこそ演劇の命だと考える三谷氏の立場こそ、安倍晋三が娯楽として見に行きたいと語った本性だと思う。
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