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明治維新150年は祝うのではなく、よく考えよう。 色川大吉健在 

2017-12-20 16:56:52 | 日記
A.丸山真男の「近代」
 今の日本では「戦後民主主義」とか「近代主義者」とかというレッテルは、ほとんどからかいや軽蔑のニュアンスを含む単語になっている。いわゆる旧左翼を敵とみなす論者は、ある時期までこの戦後民主主義派から、愚かで時代遅れのナショナリストと呼ばれて虐められたという記憶を持つ人が多く、戦後左翼を攻撃するときの情緒的憎悪を滲ませていた。戦後しばらく、丸山真男、大塚久雄、川島武宜、加藤周一といった人たちは「知のヒーロー」のように見られていた。そういう時代を知らない若い世代の政治家や評論者も、なんとなくナショナリストのその恨みを込めた侮蔑的言辞を引き継いで、「戦後民主主義」なんてとっくに終わっている時代遅れな思想だと信じてものを言っている。それはずっと昔からいわゆる「近代の超克」で語られたことの延長上にある。しかし、そこで出てくる「近代」をそもそもぼくたちはどこまで理解しているのだろう?

「いうまでもなく戦後民主主義派と一口で言ってみても、その範囲は広く、また多様である。その活動分野は文学から経済学、社会学、哲学、さらには市民運動の現場にまで及び、思想内容も漠然としたリベラル派から穏健マルクス派や草の根派とさまざまであるし、そもそもがこうした多様な内容や方向性をもった人々を「戦後民主主義派」などという言葉で一括することが許されるのかさえあやしいほどである。したがってそういう実情をも鑑み、ここでは論議の拡散を防ぐべく、こうした戦後民主主義を思想的にリードした一人丸山真男に焦点を当てて、その「近代」観を見ておくことにしたい。
 戦前戦中の日本政治やそのナショナリズムを根本的に批判しようとした丸山の業績はよく知られているが、私の関心が向くのは、その丸山がどのような「近代」観をベースに出てきているかということにある。論敵からしばしば「近代主義者」のレッテルを貼られた丸山であれば、なおさらこの問題は重要と言わなければならない。その手がかりとなる一文をあげておこう。一九四六年復員した丸山が最初に書いた短文の一節である。

 「私はこれまでも私の学問的関心の最も切実な対象であったところの、日本における近代的思惟の成熟過程の究明にいよいよ腰を据えて取り組んで行きたいと考える。従って客観的情勢の激変にも拘らず私の問題意識には何ら変化がないと言っていい。ただ近代的精神なるものがすこぶるノトーリアス〔悪名高い=著者〕で、恰もそれが現代諸悪の究極的根源であるかの様な言辞、或はそれ程でなくても「近代」に単なる過去の歴史的役割を容認し、もはや――この国においてすら、いなこの国であるだけに――その「超克」のみが問題であるかの様な言辞が、我が尊敬すべき学者、文学者、評論家の間でも支配的であった茲数年の時代的雰囲気をば、ダグラス・マッカーサー元帥から近代文明ABCの手ほどきを受けている現代日本とをひき比べて見ると、自ら悲惨さと滑稽さのうち交じった感慨がこみ上げて来るのを如何ともなし難い。(「近代的思惟」『丸山真男集』三 三頁)」

 この文章の含意は明らかであろう。ここにはその直前まで勢いのよかった「近代の超克」座談会参加者たちに対する恨みにも似た批判意識と、同時にそうしたものに振り回された日本知識人の脆弱ぶりをなかば自戒的に回顧するという姿勢が見える。そしてこの丸山の感慨は終戦直後のインテリたちの大半の気持ちを代弁するものであっただろうことは想像にかたくない。じじつ丸山はこの年雑誌『世界』に発表する「超国家主義の論理と心理」という有名な論文で一躍論壇の脚光を浴びたのでもあった。だが、われわれの関心は先の引用につづく次のような「近代」認識の方に向かう。

 「我が国に於て近代的思惟は「超克」どころか、真に獲得されたことすらないと云う事実はかくて漸く何人の目にも明かになった。従って嘗てのように我が近代精神史の研究に当たって先ずこの基本命題を口を酸っぱくして説明する必要はさしあたり大いに減少したと云える。しかし他方に於て、過去の日本に近代思想の自生的成長が全く見られなかったというような見解も決して正当とは云えない。斯うした「超克」説と正反対のいわば「無縁」説にとって現在の様な打ちひしがれた惨澹たる境涯は絶好の温床であるが、それは国民みずからの思想する力についての自信を喪失させ、結果に於て嘗ての近代思想即西欧思想という安易な等式化へ逆戻りする危険を包蔵している。(同書 四頁)」

 私はこの丸山の「基本命題」は、その後の戦後思想をかなりの間規定したと思うし、その余波はある意味で今日でも依然として消えていないと思う。これはまた、丸山と並んで戦後の批判的日本近代論をリードした大塚久雄や川島武宜などにも共通する「基本命題」と言っておいてもよい。ところで、日本において近代的思惟が真に獲得されたことがないと断定するとき、丸山の頭にあるのは、むろんあの京都学派がネガティヴに描いたイデオロギーとしての「西洋近代」ではない。このとき丸山の頭にあった「近代」とは、もはや出生地の特殊性に還元することのできない普遍的理念としての「近代」であった。それは地球上のどこかにすでに存在しているような既成の体制や制度ではなく、いまある現実を不断に改良することを通して目指される目標である。だから丸山は「日本的近代」の起源を求めて、江戸期の儒学や国学にまで遡ったりするのである。丸山の近代観に関して、ひとまずそういっておくことに、だれも異存はないであろう。
 こうした丸山の近代観を、丸山にはめずらしく、非常にわかりやすく述べた文章がある。それは丸山が一九五三年に郵政省研修所教官の講習会で行った講演記録「現代文明と政治の動向」であるが、この文章には京都学派や廣松の近代観と見比べてみるのに都合のよい内容が扱われているので、まずその内容を紹介しておこう。丸山はこの中で現代政治の底にある基本的な動向として「テクノロジーの飛躍的発達」「大衆の勃興」「アジアの覚醒」の三点を挙げ、これらについてそれぞれ以下のような説明を加えている。
 まず「テクノロジーの飛躍的発達」だが、丸山によれば、ここで言う「テクノロジー」とは「機械文明」ないし「技術文明」のことであり、これが飛躍的に発達することによって「巨大な組織体」が生まれ、「人間社会がますます官僚化し、合理化して」きた。そしてこれが進行するにつれて、実権が少数の者に集中し、デモクラシーの空洞化としてのいわゆる官僚主義が生まれてくる。こういう観点から見ると「近代資本、企業の内部ほど、非民主的な組織はない」。また人間と人間の関係も「非人格的な関係」となって、個々人は「原子的」となり、「総合的な人格がますます解体して」「部分人(パーシャルマン)が大量に生産され」、ついには目的を忘れた能率中心主義的な「テクノロジカル・ニヒリズム」が生まれてしまう。
 第二の「大衆の勃興」は産業革命すなわち資本主義成立以降の現象で、大衆が政治的社会的に大規模に登場してきたことを指すが、ここで丸山が杞憂を示しているのは、今日言われるポピュリズム(大衆迎合主義)の問題である。つまり、丸山によれば、大衆というのは合理的に制度化されない形で増大するため、指導者は自分が煽っておいた世論にやがて自分自身が引きずられることになり、自らの政治能力の喪失を結果してしまう。これは非民主主義体制下では特に危険なものとなる。現代の広告技術と独裁者の政治的宣伝が似てくるのも、そういう大衆の存在とつながっており、「反民主的な政治家が、まさに大衆の名において登場してくる」という「病理」も生まれてくるということになる。
 第三の「アジアの覚醒」とは西欧の帝国主義的な植民地体制が崩壊して出てきた普遍的現象で、「何百年に亘る界史の不均衡を補填、是正しようという、大きな天秤の平行運動」である。これはいうまでもなくアジアだけに限られたことではないのだが、この点に関連して丸山は次のような注目すべき発言もしている。

 「しかしながら極東の日本が、ヨーロッパ勢力の天馬空を行くような侵蝕に対して最初に大手を拡げてこれを阻止した国家であった、というこの歴史的重要性というものは何人にも否定出来ません。
 明治維新以来の日本の近代国家としての発展は、アジアの抵抗を代表するという側面と、自らが帝国主義国家としてアジア大陸に進出してゆく側面とが、あざなう縄のようにからみ合っている。(『丸山真男集』 四八頁)

 あのアジア・太平洋戦争を経験した日本に、アジア的抵抗の代表者という面と帝国主義的侵略者の面を認める見解は、戦後の竹内好などにもはっきりと見られるが、それを言うなら、この見解は丸山の嫌悪した京都学派にもあった見解であることは知っておいてよい事実である。
 見られるように、丸山の挙げる三点は、予期に反して、われわれがこれまでに見てきた廣松や京都学派の近代観とかなり重なりあうところをもっている。つまり、丸山の指摘する機械文明、合理化、原子化した個人、官僚主義、資本主義という現代(近代)政治の基本動向に加えて、ヨーロッパの帝国主義的侵略とそれに対するアジアの抵抗およびそれに伴うナショナリズムの台頭といった観点は、丸山がこと近代認識ないし現状認識においては京都学派とそれほど異なったものを見ているわけではないことを示しているのである。またこれを、座談会「近代の超克」のメンバーで、しかもマルクス主義から転向して日本浪漫派の近代の超克論に接近し「近代文明のもたらした精神の疾病」を訴えた亀井勝一郎が戦後になっても依然として抱きつづけた次のような近代観と見比べてみてもよい。

 「近代化」とは日本にとって何であったか。第一次大戦後の国内の精神状況に即して言うなら、一九一七年革命の影響、左右双方からきた日本革命の胎動、ジャーナリズムの異常発達による「大衆社会」の成立、メカニズムの進展、知的混乱の増大、主要な点についてはこんな風に言えるのではなかろうか。(『現代詩の課題』七六頁)

丸山の近代観がなぜこれほどまでにその論敵たちの論調と似てくるか。それはこの間、子安宣邦や今井弘道などが明らかにしてきたように、「丸山の『近代』主義的言説」が、「彼が意外に思われるほど多くの箇所で批判的に言及しているように、『近代の超克』的言説への抗争的ディスクールとして形成されたという側面をもっている」(子安『日本近代思想批判』二四四頁)からにほかならないのだが、さらに根本的な原因を探って言うならば、私の眼には処女作『日本政治思想史研究』に始まる丸山の思想形成に、先に述べたような「ヘーゲル主義」の強いバイアスがかかっているからでもあるように見えてならない。だからその意味で、丸山の思想形成と戦時下の総力戦体制との関連を徹底的に追求した中野敏男の以下のような指摘は私には貴重に思えてくる。

 「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」と題されたこの助手論文を手にする読者が、おそらく誰しも始めにちょっと驚かされるのは、ヘーゲルの『歴史哲学』を冒頭に据えたその問題設定の広大さ、別の言い方をすれば、その大仰さではないだろうか。江戸時代の儒教について論ずるのに世界史を語るヘーゲルを前面に持ち出し、徂徠学の性格を描き出すのに「シナ歴史の停滞性」という世界史的認識を対照項にするということ。丸山ほどの人物がやったことなので誰もそうは言わないが、このような枠組みの設定は一論文としては明らかに過大であり、篤実な研究者ならば眉をひそめるほどの「大風呂敷」だとさえ言えるのではないか。(『大塚久雄と丸山真男』 一四二頁)

 私はこの「驚き」を超えて、さらにこうしたヘーゲル的歴史観が日本思想の上に刻印することになった近代観なるものに対して、われわれはもう少し自覚的であってよいと思う(この問題についてはさらに吉本隆明『柳田国男論・丸山真男論』二四一-二四二頁を参照。また今井は一連の著作で丸山が一時期ヘーゲル弁証法を発展させた田辺元の「種の論理」に共感を寄せていたことも指摘している。たとえば『丸山真男研究序説』など)。つまり超克派であれ、のちの近代主義者であれ、その「近代」像にある共通の時代的思想的バイアスがかかっていたということである。」小林敏明『廣松渉――近代の超克』講談社、2007.pp.136-144.

 ヘーゲルの翳が、昭和戦前の旧制高校的教養の貯水池で育ったインテリには、意識的にせよ無意識的にせよあったのだ、ということでもあるか。ただ、丸山の「近代」観と現代社会への視線には、ヘーゲルよりはマックス・ヴェーバーも大きな背景になっていたと、社会学をやったぼくとしては言ってみたい。



B.明治の精神?
 明治維新を150年経ったから、どうみるか、という話が来年はいっぱい出てくるだろう。そんな話は、これまでもさんざっぱら語られてきたのだが、大筋でそれは輝かしい民族の成功神話に練り上げられてきた。社会革命は多くの勝者と敗者(そして犠牲者としての死者)を作り出すのだが、明治維新は敗者である幕府側も、白虎隊や五稜郭の悲劇がその後の反政府運動につながったわけでもなく、勝者の側にあった西郷の西南戦争での悲劇も、それに連なる人々が歴史的に粛清されたりせず、いつしか美しい物語として敗者も復活してくるのが明治維新である。
 これを「上からの近代化」開発独裁とみるか、「下からの変革のエネルギー」に注意を向けるかは、日本の近代史への視点の大きな相違になる。色川大吉氏はまだご健在のようだが、いうまでもなく「民衆のエネルギー」を明治維新以後の歴史に追い求めた代表歴な歴史家だ。

「耕論 明治維新150年 
 来年は明治元年から数えて150年。政府は施策を数々用意し、「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」とうたう。NHK大河ドラマの主役は西郷隆盛だ。だがしかし。私たちは維新の何を知っているだろう。歴史家2人に維新の実像を問い、現代人にとっての意味を聞く。
民衆のエネルギーが原動力:東京経済大学名誉教授 色川 大吉さん
1968年の「明治100年」を、当時の佐藤栄作首相は政府主催の式典で祝いました。「近代国家発展の源になった明治の国民エネルギーを再認識し」「日本の第二の飛躍に役立たせたい」と、政府は意義をうたいました。
だが、そのころ国内外の情勢は、大学紛争やベトナム反戦、パリ五月革命など、近代化・合理化を至上価値とする現代の資本主義や管理社会への反発が若者の間に噴出し、大荒れでした。
長州騎兵隊を作った高杉晋作のような維新の志士たちも、同様に幕藩体制に抵抗し、新しい日本の近代化の道を開こうと悪戦苦闘し斃れた若者です。その志士たちの成果を、近代の負の側面に無反省な首相らが横取りする。「むかし晋作、いま栄作」と並称して。
それは許せないと私たちは、自由民権運動時代に西多摩の青年らがつくった五日市憲法草案をあの年に見つけ、対抗的にぶつけた。
草案は、国民や議会の権利を重視し、個人の権利保護の仕組みを詳しく定めた実に優れたものです。美智子皇后も草案の人権規定を称賛し、話題になりました。
この草案こそ、草の根の民衆が生み出したものです。そんな民衆の力がなかったら、明治維新のような一連の社会変革を起こしえなかったと私は考えています。維新期には、幕末の未曽有の農村危機に負けず、寺子屋などで知識を積み、生活打開の姿勢を打ち出してきた民衆、とりわけ中農以上の層が大きな役割を果たしました。
これら民衆が自分たちの幸福を実現してくれる歴史の発展方向へと動く。その中で幕末の打ち壊しや世直し一揆の運動も起きる。そうした民衆のエネルギーと、倒幕の志士たちが結びつき、明治の新政府を作ることができました。
しかし、新政府ができてもその後の歴史は民衆の望んだ方向に進まなかった。富国や強兵は強調されたが、政治の民主化や個人の解放といった近代の重要な課題は取り残された。そこで明治10年代になって豪農層を中心に、自由民権運動が強力に展開されたのです。
明治の為政者たちは、西欧列強の植民地政策に対峙するために強力な中央集権国家を作り出すことに全力を注いでいた。当然、民権勢力と激しく対立し、加波山や秩父のような民衆によるすさまじい武装蜂起事件を引き起こした。
とはいえ伊藤博文や大久保利通らは、歴史の渦の中で鍛えられている。幕藩体制を倒す過程で同志らと死線を乗り越えてきた。変革や民衆のエネルギーがどういうものか、身にしみていました。
だから権力を握っても、ある程度自分にブレーキがかけられた。西欧まで行って勉強し、議会を開いて皆の意見を聞こうと、その根本的な法として憲法も必要だと考えた。民のエネルギーをくみ取る仕組みを、それなりにつくったんです。
だが、その後の日本は結局、民衆の幸福を実現する方向ではなく、「富国強兵」という軍国主義の道を歩んで1945年の敗戦に至りました。
敗戦後、日本は軍国主義を完全に否定する平和憲法を持ち、70年以上も、戦争で一人も死なない平和な時代を保ち続けてきた。それと、市民生活がどれだけ内面的にも豊かになったか、社会福祉が充実したものになったかを誇るべきではないかと思います。
それでも先の総選挙では、改憲を唱えて戦後の平和の誓いを怪しくしている安倍晋三首相が大勝しました。その彼らが「明治150年」を祝う官製の行事をやるのなら、私たちは断固反対したい。安倍首相も大叔父の佐藤栄作にならって「むかし晋作、いま晋三」と言いたいところかもしれませんが、仮にもそんなことを言えば、歴史を歪曲するようなもので、許されません。高杉晋作は革命に命を懸けたのですから。 (聞き手・大野正美)」朝日新聞2017年12月20日朝刊、15面オピニオン欄。

 坂本竜馬、高杉晋作、西郷隆盛など非業に倒れた「維新の志士」を英雄として、描くドラマは繰り返し彼らのおかげで維新が成り、日本は統一国家ができて近代化をすすめたと説く。しかし、それはかなり作為的な歴史解釈であり、実際に明治国家を設計したのは、大久保利通・伊藤博文の線だった、というのも有力な説明だと思う。そして色川氏のように実は民衆の「下からの変革欲求」が歴史を動かしていたのだ、というのもぼくらはずいぶん聞かされた話だった。かりにNHK大河ドラマでいえば、山田太一の書いた『獅子の時代』は、敗者である会津の側から維新と明治の変革をみて最後に秩父の暴動までいく「民衆のエネルギー」史観が滲んでいた。しかし、現代日本では、もはやそんなドラマは作られず、竜馬や晋作は先覚者のヒーロー像だけに祭り上げられている。
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