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「日本近代美術史論」を読む 11  横山大観  徴兵逃れの脱出?

2024-05-07 16:31:07 | 日記
A.新しい日本画の旗手
 岡倉天心の腹心の弟子として、日本美術院の期待の星となったのは、横山大観と菱田春草だった。まず、大観について確認すると……横山大観(1868[慶応4年/明治元]年-1958[昭和33]年89歳没)は、本名を横山修麿、旧姓は(酒井秀松)。水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれた。東京府立一中、および私立の東京英語学校に学び、1888(明治21)年、母方の縁戚である横山家の養子となる。1889(明治22)年、東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦、黒川真頼らに学ぶ。同期生には下村観山、西郷孤月、第2期生には菱田春草などがいた。美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。この頃より「大観(旧字大觀)」を使い始める。1896(明治29)年、職を辞し、母校・東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。
春草と共に線描を否定する没線画法で「朦朧体」と揶揄され、保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、大観は春草と共に海外に渡った。インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。欧米外遊での経験から、西洋画の鮮やかな色彩が琳派との共通性がある事を見出し、大正時代における琳派ブームを牽引した。1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を、下村観山、木村武山等と共に再興した。1934年、第1回文化勲章を受章し、第二次大戦後も、日本画の巨匠として長く作品を描き続けた。

「明治末年における大観の「新しさ」は、二つの面にこれを見ることができる。ひとつは絵画技法の革新であり、他は画面の構成、いやその構成の奥にある基本的な構想、つまり、絵画そのものについての考え方の革新である。
 明治三十年代に、大観が春草とあい携えて没線描法を主張し、そのために世人から「朦朧体」と嘲られたことは、広く知られている通りである。「朦朧体」とは、ひと口に言って輪郭線の否定である。従来の日本画、特にフェノロサが傾倒していた狩野派においては、線描は、対象把握のためにも、また画面構成のためにも、どうしても不可欠のものであった。フェノロサの指導によってさまざまの「洋画的」表現をとり入れたと言われる狩野芳崖ですら、最後まで線描表現を棄てなかったこと、いやそれどころか、東洋古来の正統な線描に戻っていったことは、すでにわれわれの見た通りである。その意味で、大観春草の「朦朧体」の試みは、文字通り従来の日本画の美学に対する正面切った挑戦であり、対決であった。
 画面から線描を斥けるとすれば、対象表現も構図のまとめも、すべて色彩の濃淡の変化に頼るほかはない。いわゆる空刷毛の使用や顔料を具にして用いることが広く一般的になったのは、大観春草が朦朧画時代に思い切ってこれを試みてからのことである。空刷毛というのは、画面に雲烟や大気の表情を表現するため、絹素の目的の部分にまず水刷毛を施して湿りを与え、その上に墨または色を点下し、それを何もつけていない空刷毛で拡げていって、必要な効果を出す遣り方で、在来の日本画にはなかったものである。絵具を具にするというのは、すべての顔料に胡粉をまぜて質感を出そうとするもので、これも、伝統的な画法では行われていなかった。従来の画法から見れば、邪道ともいうべきこのような新しい技法を用いて、大観春草は、油絵に劣らぬ豊かな表現力を持った新しい日本画を造ろうとしたのである。今でこそ少しも珍しいことではなくなったが、、画面全部に色を塗って紙や絹の生地を少しも残さないという遣り方も、油絵の効果と同じようなものを求める「朦朧体」によって一般化させられたのである。
 このような「朦朧体」の技法の登場を促したものが、当時黒田清輝の帰国や美術学校における洋画科開設等によってようやく再び活気を取り戻してきた西欧式油絵の表現法であったことは疑いを容れない。線描に対する色彩の優位、画面を隈なく埋めて余白を否定する構成、絵具の持っている質感の強調等は、いずれも油絵本来の特色であり、従来の日本画に欠けていたところのものである。ここでわれわれは、フェノロサが明治十五年に行なった講演「美術真説」のなかで説いていた洋画と日本画の比較を思い出してもよい。フェノロサによれば、輪郭線の使用による線描の優位、余白の利用による主題の強調、繁雑な構成よりも簡潔な表現に対する好み等が、洋画と比較した場合の日本画の特徴であり、またそれ故に洋画に対する日本画の優越している点でもあった(この場合、フェノロサの頭の中にあった「洋画」というのが、西欧の油彩画一般ではなく、特に十九世紀の写実主義絵画であったことは、すでにわれわれの見たところである)。大観や春草の「朦朧体」はかつてフェノロサが排斥した洋画的特色を日本画の中に持ち込むことによって、フェノロサの目指した古画復興運動とはまさに正反対の方向に進もうとするものであった。フェノロサの美学が容易に狩野派の伝統と結びついたのに対し、「朦朧体」が当時の「旧派」の人々から激しい嘲罵を浴びせかけられたのも、また当然のことであった。
 もちろん、大観や春草は、彼らの新しい技法が単なる「西洋かぶれ」ではなく、むしろ東洋画の伝統のなかにあるものの論理的発展だということを折あるごとに説いている。たとえば明治三十八年(1905年)、足掛け二年にわたるアメリカ、ヨーロッパ旅行から帰って後、大観春草のふたりが連名で発表した「絵画について」と団するパンフレットのなかには、次のような一節がある。

 「輪郭は絵画発達史上の残礎にして物象の観察愈〻精緻なる今日に及んでは寧ろ一種の緊縛ならざるを得ず是を以て古人既に色線を利用し後世の無線描法のために早くも一段階を設けしものと存候。又一方には東洋画中没骨描法の発現あり。亦是れ墨描輪郭の全局面に展開せるものたるに外ならず候へば、今更に之に加ふるに色的没骨の一段を以てせば、今日描写の術に於ては則ち至れるものかと存候。
 つまり、「朦朧体」の試みは東洋の墨絵の没骨描法を発展させたものにほかならないというわけである。これだけ読むと、なるほど彼らの新しい試みは、いかにも東洋画の伝統の中から生まれてきたものであるかのように見える。しかし、上記の一節に先立って、次のように述べられているのを見れば、彼らの考え方の根底に西欧の美学がはっきりと影を落としていることが容易に推察できるであろう。

 「……抑〻線は説明し叙述し而して理解に訴ふるものに候へば、線画の迂曲なるは殆ど文学的なりとも可申歟。然るに色は刺戟として専ら直覚に訴ふるものに候へば、彩画は忘我の快感を与ふるものに候へば、彩画は忘我の快感を与ふるの最捷径と存候。実に文学に非ず、音楽に非ず、彫刻、建築にも非ずして別に自ら絵画の絵画たるべき本領は専ら此色調の上に存するものと存候」

 ここに宣言されているのは、理知的な線描よりも感覚的な色彩こそが絵画の本質をなすものであり、色彩によって絵画は絵画としての自律性を獲得するという主張であって、これこそロマン派以来、西欧の十九世紀が一貫してそのために闘い続けて来たものにほかならない。事実われわれは、「絵画について」のこの数行の宣言のなかに、「随類傳彩」を「骨法用筆」の下位に置いた東洋の美学の伝統よりも、むしろ、「線描家は哲学者で色彩化は詩人だ」と喝破して、新しい芸術のために「強力な色彩家」の出現を待望したボードレールの思想を読み取ることができるのである。もともと、国際人天心の指導の許にあって西洋の事情にも決して暗くなかった上に、実際に欧米各地を歴訪して戻ってきたばかりの若い大観春草に、西欧的美学が強い影響の跡を残しているとしても少しも不思議はない。その彼らが、わざわざ自分たちのやっている「朦朧体」を東洋古来の伝統と結びつけて論じたのは、吉沢正氏が正当に指摘している通り、「かれらの行っている無線描法が、単に西洋画の影響ではなく、東洋画発展の歴史の上から、必然的に起こらなければならなかった描法であることを、証明してみせなければならなかった」という戦術的配慮によるところが大きかったのであろう(吉沢正「横山大観の芸術」1964年 美術出版社刊)。
 吉沢氏は、同じ著書のなかで、大観春草ふたりの連名によるこのパンフレット「絵画について」が、これほどまではっきりと西欧的美学を背景としているところから、その筆者は大観ではなくて春草ではなかったかという興味深い仮説を提出しておられる。というのは、例えば大観が外遊中ボストンから故国に書き送った手紙や、帰国後まもなく美術院の絵画研究会員の開いた歓迎会の席上で行なった演説などを見てみると、かならずしもそれほど西欧に傾倒しているわけではなく、むしろ後年の東洋的精神主義を思わせるような面が強くうかがわれるからというのである。明治三十八年というこの時点において、大観がはたして後年そうであると思われていたような東洋的精神主義者であったかどうかは別として、吉沢氏のこの推測は、おそらく正鵠を射た者であろうと私も思う。少なくとも、実際の執筆が誰であったにせよ、「絵画について」のなかに表明されている考え方は、大観のものであるよりも春草のものである。事実、「朦朧体」の実験においても、春草は大観より一歩も二歩も先んじていた。明治の画壇に彗星のように登場して不滅の光芒を放ち、わずか三十七歳で世を去った天才春草については、いずれ章を改めて検討することとしたいが、絵画様式の上から言えばずっと派手であり、世間的にも美術院の主将格として目立つ存在であった大観が、実際には六歳も年少のこの早熟の友人に引きずられた面が決して少なくないのである。
 むろん、そうは言っても、大観自身工夫を重ねて新しい技法を生み出した事例も多い。というよりも、その長い生涯を通じて、大観はつねに「新しさ」を求め続けていたとさえ言ってよいかもしれない。
 明治三十五年秋の日本絵画協会第十三回共進会に出品されて話題を呼んだ有名な「迷児」について、後に大観は、自ら次のように語っている。

 「……これは檜の炭で描いたものです。檜を細く一尺五分くらゐの長さにし、自分で竈の中で燃し炭にしてそれで絹の上に描きました。絹に描いても檜の木炭ですからみな飛んでしまひ、何度もやりましたがいけませんので、膠で止めてしまひました。日本の画で、檜の炭で描いたのはあれがはじめてなんです。西洋画の人は笑つてをつたやうですが……」(『大観画談』より)

 つまり大観はこの作品で、ちょうど西洋のフュザン(木炭画)に似たような効果を求めて、いろいろ苦心している。前に誰もやったことがないような技法をあえて試みるというのは、大観においてはその後もしばしば見られるところである。
 第二回院展に出品した「漁樵問答」と「竹雨」の二点の水墨画において、大観はすべての描線の一方の側をぼかすという前例のない試みを行った。これが世に言う「片ぼかし」で、その後彼の畢生の傑作「生々流転」で縦横に駆使されたため広く世に知られるようになったが、最初は人びとは吃驚させられたものである。
 また、大観と親しかった斎藤隆三氏の『横山大観』(1958年 中央公論美術出版刊)によれば、絹や紙に裏から金箔を押したものを用いて制作したのも、大観が最初であるという。大正五、六年頃のことで、例えば大正六年の「帰去来」「雲来去」等がいずれも裏箔である。空刷毛にしても片ぼかしにしても、大観が始めた新しい技法は、いずれも最初は世の失笑を買い、画檀の非難を浴びたが、いつのまにかその効果が認められて多くの追随者を持つようになっている。この裏箔の場合も、画壇に一時裏箔時代をもたらしたほど皆こぞってその技法を模倣し、最初から金銀箔を漉き込んだ金箋紙銀箋紙が売り出されたりしたほどであったという。
 さらに、花鳥画において、花や果実の周囲をその色と同じ色で薄くぼかして柔らかい特殊な情趣を漂わせるという遣り方も、裏箔に続いて大観が初めて試みたもので、これまた大いに流行したものであるという。
 このように大観は、新しい技法を思いつくと次から次へとそれを試みずにはいられない性格であった。その意味では彼は、きわめて好奇心の強い「新しがりや」である。日常生活においても、人から薦められたことは何でも一度はやって見ないと気がすまないというたちであった。例えば、元来病弱であることを気にしていた大観は、指圧療法とか、整体術とか、漢方薬とか、いろいろな養生法を次から次へと試みて、いつの間にかやめてしまうという具合であった。漢方薬に凝っていた時には、書生に百円札を渡して山ほど買って来させ、自分ばかりでなく来る人来る人に飲ませるというほど熱中していたが、そのうちけろりと忘れてしまう。またある時は、毎日生ま水を飲まなければいけないと言われて、わざわざ邸内に井戸を掘らせ足り間でしたが、これも長くは続かなかった。中村溪男氏は、大観の思い出として、大観が薬が好きで、新薬と名のつくものはほとんど使っており、また注射などもいろいろ試みたということを語っておられる(平凡社世界名画全集『横山大観』月報)が、ここにも、大観の「新しがりや」の一面がうかがわれる。少くともこの点では、東洋的精神主義どころではなかったのである。
 もともと大観は、明治元年に水戸に生まれたが、早くから東京に移り御一新の空気を存分に吸って育っただけあって、子供の時から新しいものに対する好奇心が強かった。早くから英語の勉強をしたことなどもそのあらわれであるが、東京府立中学在学中は、当時日本にはいって来たばかりの野球をやったりもしたという。つまり当時としては、かなりハイカラな少年であったのである。
 中学を出てからも、彼には画家になどなろうという気は全然なかった。当時の秀才コースにしたがって東京帝国大学の予備門にはいり、将来は工学士にでもなる気でいたのである。ところがこの予備門の入学試験の際、手続き上の不備があって受験を取り消され、しかたなく東京英語学校で学んでいるうちに美術学校創立の話が起り、父親の友人であった今泉雄作の勧めでようやく画家を志すようになるのである。
 したがって、大観は、美術学校にはいるまでは、鉛筆画を少し稽古したぐらいで、絵をほとんどやったことがなかった。入学試験に必要だというので慌てて狩野派の画家結城正明について毛筆画を習ったのが絵筆を手にした最初だったというから、芳崖門下の四天王とか誰それ門の三羽烏などという年季の入った連中がこぞってやって来た美術学校の学生のあいだでは、まったく素人同然であった。もっとも、そう言えばその点は春草も同じで、彼も受験勉強ではじめて絵筆を手にした方であった。
 大観春草という明治の日本画壇を支えるニ巨匠が、いずれも美術学校へはいるまでは絵の素人であったということは、考えてみればいささか皮肉なことであるかもしれない。しかし実は、おそらくそれなればこそふたりは、あれほどまで自由ない新しい道に進むことができたのである。このふたりとは対照的に、先祖代々能楽の小鼓で紀州徳川藩に仕え、親兄弟親類一門にいたるまでことごとく芸術にたずさわっているという芸術家としては恵まれた家に生まれた下村観山が、そのためにかえって大観春草ほど大胆になりきれなかったことを思えば、大観が美術学校にはいるまで絵の素養がなかったというのは、近代の日本画にとってむしろ喜ばしいことであったと言わねばならない。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980年、pp.234-243.

 絵を描くのは誰にでもできそうだが、本人固有の才能のようなものが必要だと誰もが思う。大観は、美術学校の受験に際して、鉛筆画か毛筆画かどちらかを選ぶ実技試験で、鉛筆画の準備をしていたが、受験者300人中200人が鉛筆画を選んで修練を積んできたことを聞き、急遽あまり練習もしていない毛筆画に変更して合格したという。大観はその後、次々と奇抜ともいえる技法の開発を実験して、新しい日本画の流れを作り出した。これはやはり並外れた才能があった、ということになる。だが、菱田春草も大観を凌ぐ才能の持ち主だったという。


B.徴兵逃れ
 国家の権力を握る指導者は、自分の体制を固めるために軍を整備し、必要とあれば軍事作戦で死をも厭わない若者を兵士にしようとする。仮想敵国や国内の反対派を黙らせるには、軍隊武器がものをいうはずだと考える。しかし、軍隊に入って前線で命を落とすような仕事をする若者は、国家を賛美するイデオロギーに凝り固まった青年か、軍隊に入るしか外に生きる道がないような追い詰められた生活にある青年しかいないのが普通だから、兵隊の数は十分に集まらない。そこで、徴兵制をしいて半強制的に兵隊を作ろうとする。自分が所属する国家が安定して紛争や戦争などしていなければ、実際に戦場で死に直面することはないと思えるが、現に戦争をやっているロシアやウクライナ、イスラエルとパレスチナなどでは、徴兵制かそれに近い徴募を強いられる。ミャンマーの場合、軍事政権が強権的に政権を維持しようとして国内反乱状態になっているとすれば、国家の命令で兵士になどされたくないと考える若者は多いと考えられる。徴兵逃れを考える若者が増えれば、出稼ぎなど国外への出国を禁止する措置もとられる。

「国軍 男性の出国を禁止 ミャンマー 若者の徴兵逃れ阻止か
 2021年のクーデターで全権を握ったミャンマー国軍が、男性の就労目的での出国を今月から禁止した。複数の独立系メディアが3日までに報じた。ミャンマーでは国軍の徴兵から逃れようとする若者の出国が急増しており、国軍にはその流れを制限する狙いがあると見られている。
 米政府系放送局ラジオ・フリー・アジア(RFA)などは国軍統制下の労同省高官の話として、「男性は国外で働くための登録を認められなくなった」と報道。措置は今月1日から始まったといい、高官は「あくまで一時的だ」とした。
 国軍の広報担当者はメディアの取材に、「労働者の出国に関して検証が必要」と述べた。この措置の解禁時期については明らかにしていない。国軍の徴兵のための人員確保策だと広く受け止められ、市民の間で反発が広がっている。
 国軍と武装勢力との戦闘が続くミャンマーでは、国軍が2月、18歳以上の男女を対象に徴兵制の導入を発表。国外に逃げたり、武装勢力側に加わったりする若者が増えている。
 一方、国連は3日、紛争に巻き込まれ、自宅などを追われたミャンマーの国内避難民が300万人に達したと発表した。
 クーデター後、抵抗する一部の市民が武装化し、国軍への武力闘争を開始。昨秋以降は複数の少数民族武装勢力と国軍の衝突も激化し、避難民の増加に拍車をかけている。クーデター以降に発生した避難民が270万人を占める。全体の3分の1が子どもと見られ、国連は「子どもたちの未来が覆されている:と危惧する。(ヤンゴン=笠原真)」朝日新聞2024年5月5日朝刊5面国際欄。

 300万人の避難民が出ているミャンマーは、どうなるのだろう。20世紀の紛争は、アメリカやソ連という大国が軍事的に介入して軍事政権の支配を強化するような例が多かった。しかし、21世紀のいまは、もう大国が直接紛争に軍事介入することは難しくなったし、それだけの力もない。だとすれば、内戦状態が長引いて混乱と破壊が収まらないまま血が流れるばかりだ。殺し合いはやめてほしいが、ことは簡単ではない。
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