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「絵を読む」8 ラス・メニーナス どこまで読むか?

2018-10-28 14:36:45 | 日記
A.Sujet
 明治以来、西洋語を日本語に翻訳することで、ぼくたちは近代の哲学も理解可能なものと考えてきたのだが、ひとつの単語でもその意味が文脈や文体で複数あるということは、日本語でも同様だ。日常語と専門用語でかなり違った使い方があることも知っている。しかし、ときにまるきり違うように思われる概念が同じ単語で表わされるような場合がある。母語としてその成り立ちを体感している場合は、あまり考えなくても問題はないが、外来の翻訳語だと誤解してしまうおそれもある。
 Subjectは主体、objectは客体と訳して対義になり、subject to~は他動詞なら服従させるという意味で、object to~だと異議を唱える、反抗するといった意味だが、形容詞だと逆にsubjectは服従する、指示を受けるという意味になる。文法上はsubjectが主語、objectは目的語という関係になり、その限りでとくに混乱はない。とりあえず英和辞典ではこうなっていた。

 Subject:1.a主題、問題;題目;演題:画題:《楽》テーマ;《美術》題材
b《教授すべき》学科、《試験の》科目
c《文法》主語、主部;《論》主語、主辞;《哲》主体、主観、自我、我〈opp, object〉;実体、実質、物自体.
        d起因、たね、対象
        e素質者、患者;本人
      2.臣、家来;臣民《共和国ではcitizen》
      3.解剖[剖検]用死体;被験者.
動詞subject:-a1.服従する、従属する、
       2.受ける、受けやすい、こうむりやすい(…になりやすい)
       3.(承認などを)受けなければならない、ただし…を必要とする (to)  
      —vt 1a服従[従属]させる;(人をいやなめに)あわせる(to)
          b《廃》下に置く
  2さらす、当てる、かける;《まれ》前に置く、提示する

 日本国憲法成立をめぐってこのsubject toを日本のアメリカへの従属と絡める意見もあるが、主体と従属という日本語のうえでは対立のイメージが、同じsubjectという語で語られるのは、なんだかすっきりとは入ってこない。とにかくここでは、スペイン・バロックの巨匠、ベラスケスの名画「ラス・メニーナス」のお話である。

 「おそらくベラスケスのこの絵のなかには、古典的表象の表象、そしてそれが開く空間の定義のようなものがある。実際、そこでは、そのいくつものイメージ、それがみずからに与えるいくつもの眼差し、それが見えるようにしているいくつもの顔、それを生み出しているいくつもの身振りとともに――自分自身を表象しようと企んでいるのだ。ところが、そこでこの表象がそのすべてを取り集め、繰り広げているこの散乱のなかには、ある本質的な空虚が、あらゆる方面から有無を言わせぬ仕方で指し示されているのだ。すなわち、古典的表象を基礎づけるものの消滅―-つまり表象がそれに類似しているものと、その眼に表象が類似でしかないものの必然的な消滅である。この主体そのもの(le sujet même)―-〈同じもの〉(le même)である主体が、省略されてしまったのだ。そのことによって、主体というこの束縛の関係からついに自由になった表象は、とうとうみずからを純粋な表象として提示することができるようになるのである。 (ミシェル・フーコー『言葉と物』1966.小林康夫訳)」

 ここでフーコーのいう「主体そのもの(le sujet même)―-〈同じもの〉(le même)である主体が、省略され」「主体というこの束縛の関係からついに自由になった表象は、みずからを純粋な表象として提示する」とはどういうことなのか?すっきりとは頭に入ってこない。小林康夫はこれにこう説明をつけている。

 「すなわち、フーコーによれば、このタブロー(引用者註:ベラスケスの「ラス・メニーナス(侍女たち)」1656年)は、表象が「それを見る主体の束縛から自由になってみずからを純粋な表象として提示できる」ことを提示している、というか、「表象して」いるというわけです。つまり、「表象の表象」です。そして、そのような「純粋な表象」が生まれるということが、「表象」が、それを生み出したり見たりする人間主体の「秩序」からも、またそれが「似ている」(「同じもの」)とされる対象の「秩序」からも独立した独自の「秩序」を持つようになる歴史的な変動の徴候なのだ、ということです。フーコーはこの変動を、17世紀のフランスのいわゆる古典主義時代の表象システムの完成のうちに見ます。ポール=ロワイヤルの「一般文法」或いは博物学における分類学の完成、つまり「言葉」に関しても「物」に関しても「表象」そのものの「秩序」が「一般性」として確立されるという事態です。一言付け加えておくなら、われわれが知っているような「自然科学」はこのような「純粋な表象」の独自な「秩序」という根本的な基盤なしには成立することはできません。これは、そのくらい決定的な出来事なのです。
 フーコーの『言葉と物』は美術や絵画を対象にしたものではありません。その副題は「人間(人文)科学のアルケオロジー」でした。「人間」を対象とする「科学」すなわち「表象の秩序」の誕生とその「近い将来の死」までの「歴史」を展望することがそこでは目指されていました。
その膨大な仕事のいわば序曲として17世紀スペインの国王フェリーペ4世に仕える宮廷画家ベラスケスが描いた1枚のタブローが、「表象」が持つ「本質的要素のすべて」を内包した「表象の表象」として召喚されたわけです。
 では、われわれも、とても急ぎ足にならざるをえませんが、「本質的要素」とフーコーが呼ぶものをこの作品の画面のなかで確認しておきましょうか。
1) 画面の全体は王宮内の画家のアトリエ。左端のこちらに裏を見せる大きなカンヴァスの前に絵筆をもって立つのが画家ベラスケス。胸の赤い十字章はサンティアーゴ騎士団のもので、画家が最晩年にそれに叙されたときにあとから描き加えられたものであることがわかっている。
2) その画家の姿から右側へと続いていく一連の人物群の中心が、幼いマルガリータ王女。そのまわりの侍女たちや廷臣たち、右端の2人の小人の道化たちと犬、画面奥の階段口にいる(画家の縁者といわれる)執事に至るまで、書かれた人物はすべて同定されて名前も分かっている(なお、ついでに言えば、背後の壁のタブローもピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640年)の《パラスとアラクネ》、ヤーコプ・ヨルダーンス(1593‐1678年)の《アポロンとマルシアス》の模写であることが判明している)。
3) だが、画面の中心を占めるのは、実は、背後の壁の「鏡」。そこにはカンヴァスの前でポーズしている国王と王妃の姿が映りこんでいる。その「鏡」に映った人物たちにこそ、画面の多くの人物の視線が向けられていることは明らかだ。しかも言うまでもなく、それは、同時に、この絵を観る者が位置する場所と同じことになる。

 フーコーの読解のポイントは最終的に、この「王(と王妃)」の場所が「本質的な空虚」なのだということにあります。その場所は、この作品の表象のすべてがそこからはじまる絶対的な出発点でありながら、しかしそれが「省略」され、「不在」化されている。「鏡」によるそのぼんやりとした出現は、むしろその「不在」を「表象」しているのだ、ということです。
 そしてこの議論はすぐさま、観る者へも反転的に適応される。つまり、ここでは、観る者は、この絵の前に立ってそれを見ているのではなく、自らも絵の空間のなかにいると感じる。なかに取り込まれる、と言ったらいいでしょうか。実際、歴史的にも、19世紀のフランスの詩人テオフィル・ゴーティエがこの絵を前にして、「絵はいったいどこにあるのか?」と叫んだという有名なエピソードがあるくらいなのです。
 もちろん、そのためにはこのタブローが大きいということが決定的に重要です。318×276センチメートル――すべての形象はほぼ等身大です。そしてわれわれが決してその「表」の画像を観ることができない画面のなかで裏を見せるタブローもまた、ほぼ同じくらいに大きいのです。」小林康夫『絵画の冒険 表象文化論講義』東京大学出版会、2016.pp.85-87.

 たとえばフーコーのいう「古典的表象」を、ルネサンスの美術は創造主である神こそsubjectだとする世界から、人間を秩序を体現する「主体」の表象として実現したものと考えるなら、ダヴィデ像にせよ「ピエタ」にせよ、神が主体の宗教画から人間のほうに中心が移行し、それは遠近法や比例秩序という形で画面に統一を与えたということになる。そして、この「ラス・メニーナス」がやっていることは、そのような「近代の視線」、現世の秩序を完成させる表象を、あえて拡散し裏返し、この絵の現場である王宮の中心にいる王と王妃を鏡の中に閉じ込めて、「空虚」の中に解き放つ、ということになる。さて、そのように読むのが正解かどうか?
 ぼくもマドリッドのプラド美術館で、この絵の実物は見ている。大きな絵だが、恥ずかしながらこういうことは考えなかった。



B.解説の重要性について
 いまさら言うまでもなく、新聞はいち早くニュースを伝えるという仕事だけではなく、読者にその出来事や人物の背景と意味について正確な情報をつけて解説することに、大きな役割がある。速報性の方は、ネットやテレビにかなわないが、的確にして簡潔な報道とはこの解説の能力にかかっているし、それを書く記者の力量が問われることはいうまでもない。フェイクニュースがまき散らされる状況は、やはり新聞がしっかり確実な情報を提供し、読者の思考をうながすことが重要だ。そしてそのためには、ある事件や問題について書かれた各紙を比較し点検する作業も必要だが、それはある意味プロの仕事でもある。

 「わかりにくい「中距離核」:池上彰の新聞ななめ読み
アメリカのトランプ大統領が「中距離核戦力(INF)全廃条約」を破棄する方針を表明しました。軍拡競争が再開されるのでしょうか。衝撃的なニュースです。当然10月22日朝刊各紙は1面トップで扱っている‥‥‥と思ったら、読売新聞は左肩に押しやられています。被爆国の日本に住む私たちにとって気がかりなニュースを上まわる大ニュースとは、何なのか。
       §    §     §
 それは、北海道地震で起きた広範囲の停電「ブラックアウト」について、「検証委員会の原案が21日、判明した」という記事でした。
 これは、特ダネだという意識なのでしょうね。たしかに他紙には出ていませんから「独自ネタ」ではあるのでしょうが、中間報告ではなく、その「原案」がわかったというもの。こう言っては失礼ですが、読者があっと驚く情報ではありません。
 新聞社として、他紙が知らない情報を得たら大きく扱いたいという気持ちになるのは当然でしょう。私も特ダネ競争をしていた記者経験があるので、よくわかります。でも、核開発競争が再開されそうだというニュースを上回るものでしょうか。
 読売の記事は、扱いが小さいせいでしょうか、中身も薄いものです。問題の条約について、「米国と旧ソ連が、射程500~5500㌔の中距離核ミサイルを全廃し、恒久的に放棄することを定めた条約。1987年、当時のレーガン米大統領とソ連共産党のゴルバチョフ書記長が調印し、東西の緊張緩和や冷戦終結につながった」と説明しています。これはこれでまとまっていますが、そもそも中距離核ミサイルはなぜ「射程500~5500㌔」という定義になっているのか、読者の疑問に十分答えるものになっていません。
       §    §     §
 朝日はどうか。同日朝刊2面にこう記しています。
 〈INF全廃条約は、1970年代にソ連が欧州に照準を合わせた新型の中距離核ミサイル「SS20」を配備し始めたことに端を発する。米国は対抗策として新型の地上発射式巡航ミサイルを欧州に配備し、両陣営の緊張が高まった。転機は85年、中距離核戦力の全廃を決めた画期的な条約を結び、緊張緩和に大きな役割を果たした〉
 この条約が、いかに大きな意味を持つものだったかが、これでわかります。それだけにトランプ大統領の破棄表明は衝撃的だったのです。
 この記事で、なぜ「中距離」の名前がついているのかもわかります。旧ソ連圏から発射してイギリスやフランス、西ドイツに届くミサイルだったからですね。
       §    §     § 
 ちなみに読売の記事で出てくる5500㌔という数字は、5500㌔以上の射程を持つミサイルは、アメリカからソ連、ソ連からアメリカへと大陸を越えて飛ぶ大陸間弾道ミサイルに分類されるからです。
 ただ、なぜアメリカが条約を破棄しようとしているのかは、毎日の記事がわかりやすくなっています。
 〈条約締結当時、条約が禁じる射程500~5500㌔の地上発射型の弾道・巡航ミサイルを保有する国は限られ、米ソ2大国が加入すれば事足りた。だが時代は多極化へと変わった。ミサイル輸出や技術拡散により、現在は中国やインド、パキスタンに加え、北朝鮮やイランもこれらのミサイルを保有する。条約に縛られる米露だけがこの種のミサイルを保有しないという皮肉な状況が続いていた〉
 これでアメリカ側の事情もわかりますが、毎日の記事は続けて、こう書いています。
 〈一方で、米国のINF条約離脱の効果は「限定的」との見方が米専門家に根強い。条約は地上発射型だけを禁止しており、潜水艦を含む海上艦船や航空機から発射するミサイルは対象外。米国はこれらの兵器をすでに大量保有しているため、現状でも十分に危機に対応できると見る向きが多い〉
 なんだ、中距離ミサイルを大量に持っているではないか。軍拡競争は続いていたのです。」朝日新聞2018年10月26日朝刊

 まず、トランプ大統領のINF中距離核全廃条約の破棄というテーマを、記事の扱い(紙面のスペース)から入ってその条約成立の経緯と効果にふれ、次に「中距離(500~5500㌔)」のもつ意味にどういう説明をするか、さらに今回の破棄がどのような影響を今後世界に及ぼすのか?これをちゃんと書いているのは毎日だけという結果である。そこまでいかないと、一般の読者はトランプという乱暴な大統領が勝手に核の歯止めを外し、核戦争の危険が高まったと考える人は多いと思われる。ものごとは単純化した方がわかりやすくなるが、同時に肝心なことが見えなくもなる。INFは地上から発射する中距離ミサイルをやめようというだけの話で、しかも米ソだけが持っていた時代は終わり、あちこちに核兵器があるから、条約の効果は「限定的」だということ、となれば海や空から核兵器が発射される場合は野放しに近いというのが現実だ、ということをここまで読んでぼくも初めて知った。やっぱり新聞の解説の深みというものは重要で、それは記者がどこまで問題の本質と現実を知っているかにかかっている。
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