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ジャスパー・ジョーンズの影響  日本人はバカか?

2017-10-25 13:10:42 | 日記
A.ジャスパー・ジョーンズの影響
 一人の画家を理解するには、その初期から晩年までの作品を年代順に見ていくことができれば理想的だ。しかし美術作品というものは、作られてからまもなく多くは作家の手を離れて、美術館やコレクターの手に渡ってしまうから、有名な画家ほど作品を一堂に集めるのは簡単ではない。ジャスパー・ジョーンズは20世紀後半の現代美術、アメリカン・アートシーンの立役者のような人だから、作品数も多く世界各地から回顧展に結集するような努力は大変だろうが、1977年にニューヨークのホイットニー美術館で大回顧展(亡くなったわけでもないのに)が開かれ、さらにこの1997年のニューヨーク近代美術館の大展覧会が、ケルンから東京に回ってきた。日本人にはまだジャスパー・ジョーンズといっても一部の愛好家しか作品を知らなかったものが、このあたりから現代美術への関心が高まったのは確かだろう。ニューヨークの近代美術館を目標に開館した東京都現代美術館も1995年に開館したばかりだった。このカタログに付されたカーク・ヴァーネドーの論文は、ジョーンズのアメリカ美術史における位置づけを、同時代の潮流や後続の画家たちに与えた影響を眺めながら広範に論じたもので、1950年代後半から1990年代半ばまでの動きを追っていて、戦後美術のポイントを知ることができる。

「ジョーンズにヒントを得て、大衆文化に皮肉な眼差しを投げかけながら気侭に渉猟するもの、あるいは体験の絶対性を突き詰めようとする者など、種々の傾向に分かれたアーティストたちによって1960年代の扉が開かれたとすれば、やはりジョーンズの作品に見出した強烈な疑念、ニヒリズム、そして負のエネルギーに注目したボックナー等によってこの時代は幕を下ろされたといえるだろう。近代絵画の理想主義のみならず、個人主義や実利主義一般までが酷い批判にさらされたこの時代にあって、深く内に秘めた濃密な情感と知性の発する独特なアウラは、ジョーンズならではのタッチと素材の物質性に対する思い入れに、救いともなる強烈な信憑性を与えた。この時期のジョーンズの芸術は、絵画は過去のものと考えるひとびとと、絵画を支えようとするひとびとのいずれにとっても糧となった。セラがたとえば《2個のボールのある絵》(1960年)を見るとき、色彩を始め絵画的な要素はほとんど度外視し、ただ圧搾の強烈な効果に目を奪われている、この作品はセラにとって、性と心理にまつわる事象の深い隠喩と思われた(Printing with Two Ballsの題名にかけて、ballsyな――睾丸の隠語ballsから派生し、「男らしい」、「精力的な」を意味する――絵という洒落がよくもち出されるが、これとは無縁)。セラはその緊張感が作品の枠を超え、梃の原理や世界の機械化された文化の諸相に関わると考えた、ところがこのように物質性の切実さが彫刻家たちの関心を呼び覚まし、言葉を作品にもちこんだことがコンセプチュアル・アーティストたちの動機づけになる一方で、ジョーンズのイメージに対する持続的な興味はマーレイのような画家の創作意欲をかきたて、イメージを消し去ろうとする絵具の用い方はマーデンのようなひとびとの発想に資することにもなった。
 1960年代にはジョーンズの影響のこうした多様性は、主に初期作品に深くしみついたパラドックスに発しているようであり、副次的には《標的》のアッサンブラージュに見られる彫刻と絵画の接合など作品の表面に現れた分裂に根差す部分もあった。ところが1970年代前半に入ると、状況は複雑の度をくわえる。ジョーンズ自身の作品がより多様で多面的なものになったばかりか、それまでジョーンズの独り舞台だった領分に若手のアーティストが進出してきて、開拓を始めたからである。40歳の坂を超えて画廊巡りや美術雑誌に目を通すうちに、おそらくジョーンズは、自作の様々な側面にヒントを得て、本人も探究するにはいたらなかった方向に進み始めた多種多様な作品を目の当たりにしたことだろう。したがって、たとえば1972年作、4枚のパネルからなる大作《無題》の右端の部分に、身体の一部を型抜きしたオブジェを再び使うことにしたとき、それが自作の《石膏塑型のある標的》や《ウォッチマン》への回帰であったことは当然として、そこに至るまでにはたんに作者の死後、1969年に世に出たデュシャンの《・・が与えられたとせよ》に用いられた身体の複製から得た教訓のみならず、ナウマンが1960年代後半に蠟で生体を型取ったり、身体を型紙代わりに制作した作品も経由していたはずである。影響する側とされる側が入り交じるこうした循環の構図から抜け出し、手垢のついていない領域を見い出そうとおそらくは意図的に努めた結果、1972年作《無題》を構成する残りふたつのモティーフである敷石とクロス・ハッチが、伝統的な美術ともポップの素材となった商業的な大衆文化とも無縁なところ、つまり美術とは別世界に属する作者不明の「ストリート・アート」から導き出されることになった。そしてジョーンズは1973年以降この方向に突き進む。
 とはいえ、ジョーンズがクロス・ハッチの模様を用いたとき、それはポロックの遺産であるオールオーヴァー絵画の抽象性を迎え撃つ方法であったのみならず、1960年代後半のボックナーやソル・ルウィット等による体系に依存する作品への関心を暗示して、数量性や位相幾何学性を潜ませたものとなった。数字や文字を格子に収めた自作に学んだものが、音楽や舞台装置の原理など他分野での経験と結びついて肉付けされ、美術作品がものとしての姿を失おうとしていたこの時期に、ジョーンズの(あきらかに逆説的なかたちでの)絵画への執着を支えた。1970年代に成熟期を迎えた若いアーティストたち、たとえばテリー・ウィンタースの目に、クロス・ハッチ作品は「ポロックの絵のなかにもあった空間を数量化し、測定した」と映る。カラー・フィールドの抽象という装飾性の袋小路にさまよいこんでしまったグリンバーグの唱えるフォーマリズム理論に恩義を受けたわけでもなければ、「個性も逸話(バイオグラフィー)もなく、作品の外の世界とはいっさい無縁な、血の気の失せたコンセプチュアル・アート」に与するものではないことが見てとれた。セラやジャッドを始めとして、じつに多くのアーティストたちが筆を持たず「ポロックの成果の即物化」に没頭している時代にあって、ジョーンズの抽象性こそ精神と身体をともにイメージのなかに維持したままポロックを再生し、抽象絵画を前進させるものとウィンターは感じた。ラウシェンバーグとの長期にわたる双生児のような関係から抜け出したいま、ジョーンズはサイ・トゥオンブリと併せて論じられるべきだろうとウィンタースは考えた。グレーを背景としたトゥオンブリの1970年代初期の傑作、いわゆる「黒板」のシリーズも同じくポロックの遺産に真正面からとりくみ、客観性を求めるミニマリズムの志向性を踏まえたうえで、ポロックの解釈に新しい光を当てていた。1970年以降、ラウシェンバーグが、さまざまな芸術形態を抱合するかのように、マルチメディア作品、パフォーマンス等々の先頭を切っているとの印象がますます深まるなかで、絵画に忠誠を尽くしたいと願いつつも、言語や数量化、ロマン主義的なものを脱却した自己意識など、抽象表現主義の世代とは明らかに異なる関心を抱くアーティストたちにとって、トゥオンブリとジョーンズは、貴重な手本となった。
 ウィンタースの目に、クロス・ハッチ作品の「蒸留と凝縮」は「抽象性と再現性のあらゆる問題を宥和させた」と映った。たとえば《死体と鏡》は模倣によらずに形態への言及を試みた――「フラクタル幾何学が山脈(の輪郭)を描くように」、ジョーンズは「抽象的な情報を注入して、絵をひき出す」方法を提示したとウィンタースは考える。連想をかき立てる題名(《ダッチワイフ》、《泣く女》を付された作品には、それぞれに「物語」があるように思われ、主題は抽象のまま、外部の世界と響き合うものを保っている。ウィンタースはまたこれとは別に、1980年代初めにジョーンズがこの類の抽象作品に別れを告げたのは、内面の水脈が枯渇したことをすすんで認めようとするその心構えと、「署名同然のスタイル」をいつまでもつづけるのは避けようとする気持ちの現れと見て、敬意を抱いている。
 1980年代初めにジョーンズがイリュージョニスティックなイメージに立ち戻ったことは、多くの人に衝撃と驚愕、そして矛盾した行動との印象を与えた。1982年以後の作品と初期作品との間には、ヴィトゲンシュタインの『哲学的探究』(ジョーンズはこの書に深い関心を抱いた)と初期の『論考』の相違にも匹敵するほどの隔たりがあるとウィンタースは感じた。しかし今から振り返ってみると、1980年代のジョーンズの作品は時代の流れと密接にむすばれていたことがわかる。80年代のアメリカ美術は、それに先立つ10年を支配したポスト・ミニマリズムの美意識と競り合おうとするかのように、遅れてやってきた「ポスト・ポップ」の美意識の体験に浸っていた。具象性ばかりではなく、抽象美術と商業文化の相関性がふたたび問題としてとりあげられるようになる一方で、ジョーンズの作品にも現れた既存のイメージやイリュージョンを招く空間性は、若手画家の共通語にもとりこまれて、そこかしこで目立ち始める。「ポスト・ポップ」ならではの要素は、ジョーンズとロイ・リキテンシュタインの作品との関わりのなかにも顔を出した。それまでのおよそ20年間、ふたりはパブロ・ピカソに対する共通の関心に加えて、主題とスタイルの両面で、たとえばモティーフを縞模様のパズル風にあつかったり、旧作を寄せ集めて新しいイメージを創り出すといったように、共通性をいくつか示してきた。1970年代に制作した静物画でリキテンスタインは、ジョーンズも初期作品で参照したことのあるウィリアム・ハーネットやジョン・F・ピート等のアメリカの騙し絵(トロンプ・ルイユ)の伝統をとりいれて、掲示板のカリカチュア――影を落とす釘、偽のテープ、キュビストが得意にした本物紛いの木目――を描いたが、これはジョーンズが1980年代になって手がける作品の前触れのようにも見える(他方、ジョーンズの作品はやや皮肉めいたオマージュとして、リキテンスタインが近年に描いた室内風景のなかに登場している)。
」カーク・ヴァーネドー「火――ジョーンズの作品はアメリカ人アーティストの目にどのように映り、用いられたか」(ニューヨーク近代美術館『ジャスパー・ジョーンズ展』カタログ)日本語版、読売新聞社発行、1996.pp.104-106.



B.選挙が終わって虚脱している場合ではない
 選挙の結果についてあれこれ論評はあるが、フォーカスを引いてみれば安倍首相の意図は改憲を実現したいという悲願達成の手段に解散総選挙をやっておこうということであって、アベノミクスにしろ北朝鮮にしろ、そのほかの政策などハッキリ言って先の見えない手の打ちようもないことを知っているので、有権者にとりあえず受ける話をしておけば選挙は勝てると踏んでいた。結果は思惑通りともいえるが、これは野党とくに民進党の自壊自滅と希望の党などという選挙互助会がポピュリズムの一発イヴェントを狙って失敗したことが大きい。コアな古典的町内会的自民党支持層は実は基盤が老朽化していて、政治に期待をもたない大方の無党派層の心情はどうみても安倍晋三は信用できないと思っているはずだ。だからますます時代錯誤でファナティックなネトウヨ路線に総理大臣が傾くのは、この人の本音が「近代市民社会」とは別のものだからだろう。

「オピニオン&フォーラム:勝ったのは何か
 改憲の機 熟してはいない 元首相 細川護熙さん
 誰が勝ったのか、よくわかりません。そもそも何のための解散だったのかがわからないのですから。森友、加計学園問題の追求から逃れると共に、野党第一党の党首交代などの混乱に乗じ、選挙を有利に運ぼうという安倍晋三首相の魂胆が見え見えの暴挙でした。後世、憲政史の汚点と批判されかねません。
 首相は憲法改正を目指すようですが、改憲に進む環境が整ったわけではないでしょう。公明党もまだ慎重に構えているし、簡単にはいかない。そもそもなぜ今やらなければならないのか。機が熟しているとは全く思いません。安倍さんは本当に用心深くやっていかないと、ここでつまづきかねませんよ。
 大義なき解散は実は野党にとって好機でした。(東京都知事の)小池(百合子)さんが希望の党の代表に就任した直後の一瞬は風が吹いたのですが、その後の混乱が台なしにしてしまいました。小池さんが昨年の知事選で大勝できたのは、彼女が自民党に排除されたことを見て、有権者が味方になってくれたからでした。にもかかわらず、今回自分が排除する側に回ってしましました。それではうまくいくわけがありません。おごりがもたらした結果でしょう。
 そもそも新党を設立する時はまず事務所を立ち上げ、スタッフを集めないと選挙などできません。私が日本新党を立ち上げた当時の状況を、一緒にいた小池さんは見ていたはずなのに、生かされていませんでした。
 民進党や希望の党の騒ぎで、野党は何をごちゃごちゃやっているのかと有権者の失望を招いたことも大きかったでしょう。前から頼りにならないと思っていたところにますます不信感が募った。これは自民党しかない、という空気が強まったのでしょう。
 唯一の救いは、枝野(幸男)さんの立憲民主党が野党第一党の地位を得たことでしょう。安倍自民党がおざなりにしている、個人の権利や自由や平和を大切にする戦後保守の伝統につながっています。中道から寛容な戦後保守までを含みうる幅広さ、包摂力を持っています。1993年の最初の選挙の際に応援に行った時は全く人が集まらず、「この人、大丈夫か」と思いましたが、今回花が開いたのだからこの機に飛躍してもらいたいですね。ただ、政権をとるには自民の穏健な保守中道勢力とも連携する必要があるでしょう。
 今回の自民党の勝利は、細川内閣で導入した小選挙区制によるものでした。政権交代が実現するように小選挙区制があっていいと思いますが、比例区との比率は現在62%対38%。当初案は50%ずつでした。多様な民意を反映させるためにはやはりイーブンが適当で、できるだけ早く改正すべきです。(聞き手・磯貝秀俊)」朝日新聞2017年10月25日朝刊15面、オピニオン欄。

 細川護熙という人が現実的な政治家かどうかは、短命な首相時代に何をやったかでわかるが、そこでできた小選挙区比例代表制のお蔭で、今回も安倍政権は安泰になったことは記憶すべきだろう。米英に見習った健全な二大政党制を謳って、日本にも政権交代可能な野党をつくるといった選挙制度改革は、たしかに日本新党や旧民主党に世間交代の実現を可能にしたが、同時に今の安倍政権のような一党支配の巨大与党に対抗できる野党を破壊してしまった。

 「昭和の利益誘導 なお強固: 社会学者 浜野智史さん
 そこそこ若い世代の一人として、勝ったのは「昭和」だと私は思います。昭和時代に自民党が作り上げた、地元や業界への利益誘導に基づく集票システムを超える政治基盤が、本当に日本にはないんだな、ということがむなしく確認できました。そういう意味では死後なお、田中角栄が勝っているのかもしれません。
 日本はもともと、外圧でもないと変化しにくい島でした。黒船が来たから仕方なく近代化し、形だけ民主主義をやり始めたけれど、革命のあったフランスや南北戦争のあった米国のように、過酷な歴史を経て有権者に根づいた意識もない。だから日本の政治は、「民主主義ごっこ」のような一種の借りものでした。
 戦後、その「民主主義ごっこ」を日本流の利益配分システムに仕立て上げたのが、自民党であり角栄でした。その結果、組織票か、地元でずっと応援しているから、という利害と惰性中心で、政策は二の次という支持基盤が強固になりました。都市型無党派層の私から見ると、今回の結果は既得権益に頼る地方の人々が作り上げた分配システムの勝利にしか見えないのです。
 今回は、それに代わる投票行動の流れをつくりうるインターネット選挙の活用もみられました。結党まもない立憲民主党がツイッターやユーチューブを使って支持を伸ばし、一定の成果はみられた。でも、あれだけ盛り上がっても獲得したのは55議席で、自民の284議席には到底及ばない。そしてネット全体の状況をみれば、批判の応酬や炎上ばかりで、今後まともな言論プラットフォームとして機能する道筋は見通せません。さらに、自民党以外に現実的に政権を担える勢力もなく、「仮に北朝鮮と戦争になっても、日米で連携して負けないで」と思って投票した人も意外に多かったはず。「投票して何かが変わるわけでもないだろう」というニヒリズムから棄権する層が多かったという要素も加わり、自民党が大勝しました。
 少子高齢化が進む日本は、抜本的な手を打たないと、今後は国として国際競争力で「負ける」一方になりかねない下り坂の状況にあります。だから中国は、変わろうとしなかった日本をみて、「勝った」と安堵しているかもしれない。2020年以降は、日本はおそらく今の延命措置のままでは立ちゆかなくなる。
 そうなると若い世代のなかには選挙の危険どころか、日本人をやめようかな、といった感覚が強まりかねないと思います。ネット時代は、英語やプログラミングの能力があれば国籍に関係なく仕事ができる。若者が「変われない昭和のシステム」に切望して日本脱出を始める前に、この政治へのニヒリズムを何とかしないと、本当にまずいと思います。 (聞き手・吉川啓一郎)」朝日新聞2017年10月25日朝刊15面、オピニオン欄。

 この浜野氏のコメントに、ぼくは半分は賛成するが、半分は賛成できない。要するに従来の近代化論者が選挙のたびに言っていた「日本の有権者はバカで、利権や金で簡単に動いてしまう。そしてマジョリティはばかばかしくなって選挙に行かない。その結果ひどいことになるぞ」と警告するという図式に収まってしまう。結局ペシミステイックな現状追認に終わってしまう。ぼくたちの世代はそれで絶望しつつつぶやいていたのだが、浜野氏のような「昭和」という単語で上の世代を切り捨てたい人たちまで、結局日本はダメだ、で次は日本を棄てるか、になるのでは「本当にまずいと思います」。ネット時代で英語やプログラミングの能力のあるエリートは、愚かな大衆が無能な政治家に騙されている世界は捨ててしまえ、みたいな物言いは感心しないな。
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