富士山つながりで、写真家岡田紅陽さんのこと。
富士山を撮る写真家はプロアマたくさんいるけど
元祖とでもいうべき人(1895-1972)。
生涯40万枚の富士山を撮ったそうだし、彼の死後
夫人の智恵子さんを会長とする「紅陽会」は全国
組織だそうだ。でも、なんといっても一般の人に
馴染みとなったのは、旧5000円札に絵柄が採用さ
れたこと。
本栖湖畔から撮影「湖畔の春」 1935年
1984年(昭和59年)~2007年(平成19年)に発行され
た5000円札の新渡戸稲造だったけど、裏は本栖湖の湖面
に富士山が映る逆さ富士の図案。この元写真が岡田紅陽
さんの写真。
続いて2004年に発行された現1000円札の裏も岡田紅陽
さんの写真がベースにデザインされる。大蔵省の富士山
好きというか、岡田紅陽さんへの敬意が続いている。
今回知ったんだけど、この逆さ富士が本栖湖に映るのは
年に1~2回だそうで、そのチャンスをずっと待つしか手
がないとか。
この2004年には撮影した富士山の写真や、愛用のカ
メラなどを展示した「岡田紅陽写真美術館」が開館。
関係者の念願だったそうだけど、紙幣への採用が大き
かったにちがいあるまい。
その写真を撮った産屋ヶ崎には生前記念碑が建てら
れている。題字は横山大観(頌紅陽)、像製作・朝倉
文夫、詩文・徳富蘇峰(好漢紅陽子探奇抜入神乾坤
不二岳 面目依君新)と豪華な顔ぶれ。
記念碑の写真はここより
富士山は崇めるものという風潮の強い時代の頃から
「富士子」とまるで自分の娘か恋人のように呼んで
いたそうだ。合掌。
略歴は岡田紅陽写真美術館の学芸員 一瀬一浩さんが
詳しく書いてはる。
富士山を撮る写真家はプロアマたくさんいるけど
元祖とでもいうべき人(1895-1972)。
生涯40万枚の富士山を撮ったそうだし、彼の死後
夫人の智恵子さんを会長とする「紅陽会」は全国
組織だそうだ。でも、なんといっても一般の人に
馴染みとなったのは、旧5000円札に絵柄が採用さ
れたこと。
本栖湖畔から撮影「湖畔の春」 1935年
1984年(昭和59年)~2007年(平成19年)に発行され
た5000円札の新渡戸稲造だったけど、裏は本栖湖の湖面
に富士山が映る逆さ富士の図案。この元写真が岡田紅陽
さんの写真。
続いて2004年に発行された現1000円札の裏も岡田紅陽
さんの写真がベースにデザインされる。大蔵省の富士山
好きというか、岡田紅陽さんへの敬意が続いている。
今回知ったんだけど、この逆さ富士が本栖湖に映るのは
年に1~2回だそうで、そのチャンスをずっと待つしか手
がないとか。
この2004年には撮影した富士山の写真や、愛用のカ
メラなどを展示した「岡田紅陽写真美術館」が開館。
関係者の念願だったそうだけど、紙幣への採用が大き
かったにちがいあるまい。
その写真を撮った産屋ヶ崎には生前記念碑が建てら
れている。題字は横山大観(頌紅陽)、像製作・朝倉
文夫、詩文・徳富蘇峰(好漢紅陽子探奇抜入神乾坤
不二岳 面目依君新)と豪華な顔ぶれ。
記念碑の写真はここより
富士山と私のめぐり会いは、大正三年の春。彼女を
写し五十数年、富士に魅了され、今も尚限りない情
愛を注ぎこむ。
はじめて私が彼女に接したころはとかくその形の美
しさのみにこだわっていたが、富士にはいのちがあ
った。彼女には血も通い、息吹も躍動していた。
私は彼女の気持ちの内容をつかむに悩んだ。いま私の
富士は生きている。そして愛の鼓動が脈打っている
顕彰碑完成記念誌《燦紅陽》より
写し五十数年、富士に魅了され、今も尚限りない情
愛を注ぎこむ。
はじめて私が彼女に接したころはとかくその形の美
しさのみにこだわっていたが、富士にはいのちがあ
った。彼女には血も通い、息吹も躍動していた。
私は彼女の気持ちの内容をつかむに悩んだ。いま私の
富士は生きている。そして愛の鼓動が脈打っている
顕彰碑完成記念誌《燦紅陽》より
富士山は崇めるものという風潮の強い時代の頃から
「富士子」とまるで自分の娘か恋人のように呼んで
いたそうだ。合掌。
略歴は岡田紅陽写真美術館の学芸員 一瀬一浩さんが
詳しく書いてはる。