古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

もう一つの阿蘇山

2009年08月07日 12時12分54秒 | Weblog
 前回、‘ウォッちず’で阿蘇山を検索したところ 阿蘇山(あそやま)も出てきました。
 ● 阿蘇山 (あそやま) / "福岡県朝倉市"
 ● 阿蘇山 (あそさん) / "熊本県阿蘇市"

 そこで阿蘇山が飛鳥に相当するならば、話の流れで、阿蘇山(あそやま)は「近つ飛鳥」にあたるのではないかと推測しました。
どこかというと
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=332106&l=1305037









‘ウォッちず’では名前は出ていませんでしたが、麓?にある神社は阿蘇神社でした。穂坂と書かれているところの近くです。
ただし、この阿蘇神社は1692年に勧請されたものです。

http://www.nponia.com/page40-dorouti.htm
<杷木の泥打の内容説明>
《阿蘇神社は、江戸初期(1692年)頃、穂坂地区の産神として熊本県の阿蘇大明神を勧請した神社である。ここには、俗に「泥打ち祭り」と称され、福岡県が無形民俗文化財に指定した奇祭が、毎年3月28日に行われる。》

 そこで、推測ですが、以前から 阿蘇山(あそやま)という地名が付けられていたのですが、そのつながりで、1692年に阿蘇大明神を勧請できたのではないでしょうか。
 まさか、後から 阿蘇山(あそやま)と名づけるわけにはいかないでしょう。

 ということにして、話を進めます。

 この 阿蘇山(あそやま)の位置は、距離的には近つ飛鳥と同じになります。
 とりあえず、近つ飛鳥の代表として聖徳太子御廟所を採ります。

出雲大社→阿蘇山(あそやま)
 ①217.075度 ②36.0357度 ③283.6263km
 Ⅰ217°12′05.16″  Ⅱ36°09′40.82″ Ⅲ283,568.076(m)
出雲大社→聖徳太子御廟所
 ①109.178度 ②290.871度 ③286.3391km
 Ⅰ109°05′42.28″  Ⅱ290°47′16.81″ Ⅲ286,984.030(m)

 3kmほどの違いがあります。
 これでも良いじゃないかとは思いましたが、それ以前に、近つ飛鳥の範囲を知りません。

http://chikatsu.mediajoy.com/asuka_j.html
《近つ飛鳥とは
「近つ飛鳥」という地名は、712年口述筆記された「古事記」に記載がある。履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというもの。「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさす。
「近つ飛鳥」の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道──竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が広がっている。
 また、南部の磯長谷には、敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の各陵墓指定地など飛鳥時代の大古墳が集まっていて、俗に王陵の谷とも呼ばれている。
「新撰姓氏録」によると、当地周辺には百済系(飛鳥戸造、上曰佐)、新羅系(竹原連)、中国系(下曰佐、田辺史、山代忌寸)の渡来系氏族が居住していたという。》

 はっきりした範囲ではないようですが、出雲大社→阿蘇山(あそやま)の距離にあたる約283kmはこの「近つ飛鳥」の範囲になります。
 距離的には「近つ飛鳥」と「阿蘇山(あそやま)」は結び付けられます。
 しかしそれにしても、この近つ飛鳥には陵が多いです。






応神天皇陵
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343346&l=1353633
ここですと出雲大社から282kmほどです。

 私の勝手な推測では、この近つ飛鳥の近辺に、590年ごろに卑弥呼の子孫が戻ってくる以前の都が在ったのではないか、となります。
 遠つ飛鳥では交易に不便で、卑弥呼の子孫以外に都を造る理由がわかりません。
 大和川の河口は現在と違っていても、中流域は変わっていないでしょうし、また、都が河口付近にあったとした場合は、陵が流域にあれば祭祀の時に交通の便がいいことになります。
 ということはさておき、朝倉市の 阿蘇山(あそやま)には古墳、陵、墓が見当たりません。
‘ウォッちず’でも 阿蘇山(あそやま)とされるところは高台の平らなところで建物があるようです。山となぜついているのか不思議ではないでしょうか。
グーグルアースで、接近しても、なんだかわかりませんし、普通の建物のようです。
 宗教施設でもあれば面白いのですが、どうも果樹園の農家のようです。
《旧杷木町は、筑後川右岸の小沖積低地に水田地帯、水田背後の山麓部に柿、梨、スモモ、ブドウ畑が広がる。ことに柿は「富有(ふゆう)柿」の名で知られる全国ブランドである。》だそうです。
 阿蘇山(あそやま)の上を通っているのは高圧電線です。鉄塔もみえます。
グーグルアースでも‘ウォッちず’でもわかりませんでしたが、ヤフーの地図でわかりました。
 由緒あるところとされているならば、まさかこんな電線を通さないでしょう。

 ですが、 阿蘇山(あそやま)が「近つ飛鳥」に相当するならば、何か墓に当たるものがあってもいいのではないか、となります。
 そこで、大はずれの可能性もありますが、現在は何もわからなくなっているとして、無理やり考えました。
 以前には、わざわざ平らにして、何かあったんではないでしょうか。

 阿蘇山(あそやま)は朝倉市ですし、甘木、うきは市も見えます。
 「うきは」は「浮羽」ですし、壬申の乱の「不破」に当たります。
「壬申の乱」に当たる戦争は、『魏志倭人伝』のように、年代も場所も違い、別の戦争とも混同され、敵味方さえも違って記述されているはずです。

 「磐井の乱」の磐井は豊前の上膳県に逃げその山中で死んだ、という記述も、ウィキペディア(Wikipedia)によれば『筑後国風土記』逸文にはあるそうです。
この記述は私には、壬申の乱の大友皇子を思い出させます。
 磐井の乱は527年ではなく、133年後の660年の百済滅亡に関連して起きていると考えています。
 壬申の乱はなかった、と考えています。
 壬申の乱は磐井の乱と混同させています。
 しかし、阿蘇山(あそやま)の位置をみると、もう一つの戦争も混同させている可能性がありました。
 壬申の乱は、磐井の乱ともう一つの戦争を混同させ、年代も場所も変えて創造された戦争でしょう。(前にも書いたかしら。)

 もう一つの戦争とは247年のスサノヲの奴国への奇襲です。
 正面突破できなかったスサノヲは宇陀ではなく宇佐から上陸し奇襲をかけます。
 てなことは何回も書いてます。
 そこで、難斗米=卑弥弓呼=ナトミ=中臣(藤原)氏ならば、卑弥弓呼がどこで亡くなったのかは、重要なはずです。
 もし、卑弥弓呼が 阿蘇山(あそやま)辺りに逃れて、その後どこで亡くなったかわからないにしろ、阿蘇山(あそやま)でなくとも、その近辺に近つ飛鳥の聖徳太子御廟所に匹敵する場所がなければおかしいはずです。

 壬申の乱では物部連麻呂が最後に大友皇子をみとったことになっています。
 ならば、247年の戦いでは、卑弥弓呼をみとったのは「都市牛利=筑紫のニギ」すなわち物部氏の先祖でなければなりません。
 また、扶桑略記では天智天皇陵は天智天皇が馬で遠乗りをした時に行方不明になり、靴の落ちていた場所に決められたとされていたようです。
 これもなんとなく、卑弥弓呼を暗示しているような気がします。
 阿蘇神社の「泥打ちまつり」も1692年以前に原型があったのではないでしょうか。(一人が犠牲になる人身御供のようなものでしょう。)

 暴走気味の空想です。
 まぁ、阿蘇山(あそやま)が近つ飛鳥に相当するならば、多少許されるでしょうか。
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