古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

阿閇皇女は宮子やかぐや姫のように自失になったのではないか

2007年03月27日 15時34分47秒 | Weblog
草壁皇子の没後、阿閇皇女(あへのひめみこ・元明)は高市皇子の妃になったと考えてみます。
想像に想像を重ねますが、それがあったとしたならば、それは草壁皇子の頼みだったのではないでしょうか。
皇極三年、軽皇子(孝徳天皇)は鎌足を寵妃・阿倍氏にもてなさせた、とありました。
この鎌足をすっかり持統三年の不比等と勘違いさせられました。
日本書紀はそのように勘違いさせるように記述されていました。

しかし、病床の草壁皇子がその時の不比等に妻子の将来を頼むというのは変でした。書紀には、軽皇子(孝徳天皇)と鎌足が親しかったとあります。
このことから、草壁皇子と不比等が親しかったと推理してしまいました。
ですが、草壁皇子と親しかったのは高市皇子だったのではないでしょうか。
持統三年という状況では、持統が天智天皇系列だとしても、持統が力を持ったのは、天武の皇子の草壁皇子の母ということからのはずです。
草壁皇子が亡くなり、軽皇子(文武天皇)が皇位につく可能性がもし消えたとしたならば、鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・持統)の力もなくなります。
ですから、この時は天智系よりも天武系のほうが主流のはずです。
ということで、草壁皇子がもし妻子の将来を頼むとしても、天智系で地位の低い不比等よりも、高市皇子のはずです。
持統としても、軽皇子(文武)を皇位につけるためには、高市皇子の協力が必要と考えたに違いありません。

突然ですが、女性天皇の最初は元明天皇(阿閉皇女)だったのではないでしょうか。
今まで、推古、皇極(斉明)天皇という女性天皇は、持統天皇を生み出すための、不比等たちの戦略だったのではないか、と考えてきました。
しかし、もしかすると、持統天皇即位も元明天皇を生みだすための策略で、書紀の編纂の段階で作り出したものかもしれません。
天武崩御後、すぐに大津皇子が殺されましたが、草壁皇子は天皇に即位していません。
天武天皇の殯が三年もの長きにわたりながら、草壁は即位していません。
持統三年(689)に即位せずに亡くなっています。
これには以下のことが考えられます。
①実は、草壁皇子は天皇に即位していた。
②大津皇子が母・持統に殺されたために、自分が天皇になるというのが嫌で、辞退・固辞していた。

病弱だったともいわれていますが、子供が阿閉皇女との間に3人もいることになっていますから、いかがでしょうか。
固辞したのではないかと考えられますが、わかりません。

天武崩御後、持統称制と称し、持統元年は687年になっています。
そして、持統四年(690)持統天皇は即位していることになっています。

この時、本当は、高市皇子が即位したのではないか、と考えてみます。

高市皇子は696年に亡くなっていることになっていますが、この前は706年まで生きていたと考えました。

一つには、垂仁天皇の御代の沙本毘売、沙本毘古の話があります。
(垂仁天皇陵と高市皇子墓の所在地の地名は似ています。3/2に書いたように御立野と三立岡でした。高松塚古墳の所在地の地名は平田ですが、ごく近く・隣に立部と野口があります。)

沙本毘売、沙本毘古の話は、生まれた本牟智和気御子が、垂仁天皇と沙本毘古のどちらが父親なのかスッキリしない書き方です。
確かに垂仁天皇の御子である、と書かれていますが、古事記では奥歯に物が挟まったような書き方です。わざと疑われるような雰囲気を残しているような気がします。
源氏物語では、光源氏は父・桐壺帝の妃・藤壺と密通し、子をなし、その御子は天皇になってしまいます。
さて、聖武天皇は701年の生まれということになっています。
もし高市皇子が天皇になっていて、阿閉皇女を妃に迎えていたとし、706年まで生存していたとすると、不比等は天皇の妃の阿閉皇女と密通し首皇子(聖武天皇)が生まれたことになります。
これだと物語には合うことになりますが、その場合、光源氏は殺されなくとも、不比等は殺されなくてはおかしいと思えます。
(その時、不比等はおめおめ殺されるよりはということで逆襲したとすると、つじつまは合います。しかし、聖武天皇の生まれたときから5、6年後のことになりますから、やっぱり変かもしれません)

高市皇子が、書紀に書かれているとおり696年に亡くなっていたとすると、首皇子は誰の子なのかということになります。文武天皇の御子に仕立て上げても、今度は生母は誰かになります。そして架空の宮子を創ります。
宮子は海人出身です。
そこで、阿閉皇女が阿倍氏の娘だとします。
海人部AMABE→安部AMBE→阿倍・阿部ABEという風に音韻が変化したとすると、阿閉皇女を海人出身の宮子に変化させてもいいわけです。

もし、かぐや姫や宮子のモデルが阿閇皇女(元明天皇)ならば、かぐや姫に見られた記憶を失うことや、宮子の自失の状態は阿閇皇女にも起きたはずだと考えました。
阿閇皇女がそうなったであろうという推測は成立します。
というのは、阿閉皇女は我が子・軽皇子(文武天皇)を殺されただけではなく、近い将来におこる惨劇が見えてしまっていたからです。
姉・御名部皇女(みなべのひめみこ)と高市皇子の子の長屋王がいます。(もしかすると、この方も阿閉皇女の子かもしれないと疑っています。伝えられる長屋王の生年・684年からは常識的にはありえませんが)
また不比等と阿閇皇女(元明)にも首皇子(聖武天皇)がいます。
そして、この長屋王と首皇子は必ず殺しあうことになるということは、阿閉皇女には自明のことだったのです。
気が変になって当たり前です。
(あくまで空想です)

追記
御名部皇女(みなべのひめみこ)の名前にも阿倍が含まれていました。
MINABEからMIとNを取るとABEになります。
みなべ、みなべと何回か繰り返していて気がつきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2015・3/25 追記
この後、すぐに見解が変わっているかと思いますが、ともかく、
現在では、草壁皇子=高市皇子で草壁皇子は祟りを受けさせるために創られた架空の存在と考えています。
また、不比等と氷高皇女(元正)の子が首皇子(聖武)と考えています。
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