古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

持統天皇はなぜ頻繁に吉野行幸をしたのか、についての想像

2022年03月01日 11時26分49秒 | Weblog
鸕野讃良皇女(うののさららひめみこ)・持統天皇に対する評価は、一般的に、非常に高いものです。偉大な女帝と見られています。
持統元年(687)~持統4年(690)即位~持統11年(697)文武天皇に譲位
崩御 703年1月13日
①藤原京の建設
②律令の制定〈飛鳥浄御原令・・後の大宝律令につながる律令の編纂〉

持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である〈ウィキペディア〉
大宝律令の制定も701年ということで、持統天皇の業績のようです。
壬申の乱でも、天武天皇を支えたようです。
確かに、すごい。
しかし、前から書いていますが、この持統天皇の時代は高市天皇の時代だったのではないでしょうか。
高市天皇の時代を消すために、鸕野讃良(うののさ)を持統天皇にしたてあげた、と考えます。
中国でも、この時代、女傑・則天武后・武則天が登場していましたので、それにあやかるということもあったように思えます。

https://www3.pref.nara.jp/miryoku/aruku/1169.htm
藤原京から吉野へ。持統天皇行幸の道をたどる
持統は、夫・天武の亡きあとその遺志を継ぎ、行政機能も十分に整っていない時代に、自ら律令による国政を図り、わが国で初めての計画された都市・藤原京を造りあげたスーパーウーマンである。それも尋常でない、清濁をあわせのむ度量があった。

女性で、というつもりはありませんが、すごすぎないでしょうか?

729年「長屋王の変」で、藤原四兄弟が長屋王を倒しますが、その時、もし、長屋王が天皇位についていたとしたら、どうでしょうか?
クーデターを起こしたのは、藤原氏の方になります。
「日本書紀」は、時代の変わり目で、何度も変更が加えられているはずです。

しかし、もし、長屋王の父、高市皇子が天皇であったならば、長屋王も天皇であった可能性は高くなるはずです。
そのために、高市天皇の存在は、徹底して消されたのではないか。
729年長屋天皇ではなかったとするには、まず、高市天皇の存在を消さなければなりません。
高市天皇の存在を消すことが重要でした。
そして、高市天皇の時代を消すための持統天皇ではないか。
天智天皇は存在していなかったと考えています。
しつこく強調します。
645年乙巳の変、672年壬申の乱はありませんでした。
645年~672年の間、日本は百済が権力を握っていて、660年百済滅亡後、663年白村江の戦いに挑んだのは百済の勢力に引っ張られたからだった、ということにしました。
もちろん、想像ですが、
もともと天武天皇(大海人皇子)と百済王豊璋とは、極めて仲がよく、百済滅亡に際し、協力して百済復興にむけ、白村江の戦いに向かいます。
(もちろん、仲がよいというだけでなく、日本は経済的に南朝鮮の資源を必要としていた、ということが一番でしょう。)
しかし、日本軍は敗れ、ほうほうの体で二人は日本に戻ります。
その後、大海人皇子は唐の追求を恐れ、保身のために、すべてを百済の責任にすることとし、百済王豊璋の命を狙うことになります。

さて、その想像の場合、鸕野讃良皇女(うののさららひめみこ・持統天皇)は、百済王豊璋の娘となります。
すると、夫(大海人皇子)と父親(百済王豊璋)とが敵対することになりました。
もともとは、大変仲がよく、本当の兄弟だったならありえないほど、百済王豊璋は娘を何人も嫁がせましたが、娘にすれば、とんでもないことになったはずです。
想像するに、鸕野讃良皇女(うののさららひめみこ)の精神状態は最悪だったでしょう。
百済王豊璋は白村江の戦いで、高句麗に方面に逃亡したとされていますが、戻ってきていたはずです。670年頃、追われたはずみで落馬し、数ヶ月後後遺症で亡くなっていたはずですが、鸕野讃良の心には、わだかまりがずっと残っていたでしょう。
それが、持統天皇の吉野行幸の異常な多さだったのではないでしょうか。
持統天皇はなぜ31回も吉野に行幸したのか、の答え
 精神的に不安定だったから、となります。
 むしろ、ずっと吉野にいた、としても不思議ありません。

https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/77f04f3986788de6c60e2d7c9cf084c0
高市皇子は即位したでしょうか   2008年02月21日

https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/00c311565e98b892f56723a72022984b
高市皇子は即位したでしょうか Ⅱ    2008年02月26日


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