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『永遠のゼロ』の歴史的評価は「永遠にゼロ」、近現代史への根本的無知 - 安直なナショナリズムへの諂い

2014-08-15 | いとすぎから見るこの社会-全般
或る作品が爆発的に売れるのは、その作品に価値があるためではない。
その時代の空気に絶妙に合致したから実力を越え「持ち上げられる」のだ。

更に問題なのは、売れる理由が「その社会の大衆心理に媚び、欠点を助長する」ケースである。
実例として真っ先に挙げられるのは、バブル期に売れた日本経済ヨイショ本だ。
この手の本が粗製濫造されるのは明白な「売りサイン」でしかない。

最近の例では2005年に売れた(今では誰も取り上げない)『国家の品格』である。
企業のM&Aを否定する噴飯ものの主張を、産業史を全く知らない数学者が臆面もなく展開していた。
(当時、世界的なカネ余りで成長性や経営面で劣る日本企業が買収の標的になっていた)
そして直近の例は、既に陳腐になり腐臭を放ち始めているアベノミクス太鼓持ち本だ。

『永遠のゼロ』が売れたのも、今の時代の特殊性なくして考えられない。
まず実際の戦争を知っている世代が次々と亡くなってゆき、
太平洋戦争の本当の悲惨さを知る世代がいなくなってきて
小説家が捏造した「ストーリー」を真に受ける者が増えてきた。

宮崎駿氏が『永遠のゼロ』を「嘘八百を書いた架空戦記」と批判したのは当然であるが、
なぜそう言われるのか分からない輩が大勢いること自体が憂うべきことである。
(聞くところによると、情けないことに作者自身がいまだにそれを理解できていないらしい)
個人の矮小な願いや思いを一瞬で粉々に吹き飛ばす戦争の不条理性と暴力性を知らない
戦後生まれが増えてしまったからこそ「嘘八百の架空戦記」が安易にウケるのだ。

また、中国と韓国の国内要因による日本批判が喧しくなり、
戦時中の日本を道徳的に弁護したい欲望が強くなってきていることも一要因だ。
(だから、『永遠のゼロ』が売れたのは中韓のおかげであり作者は感謝すべきである)

そして、長い経済停滞が続いて「経済大国」を語れなくなり、
自らの歴史の真実に向き合うのを避け「修正」を図りたい「自慰史観」のもとに
ミクロの事象でマクロの恥辱を遠ざけるありがちな印象操作を求める性向も根強くある。

「自慰史観」による心理バイアスは軍事的な無知によって増幅される。
特攻は完全に劣勢になり制海権も制空権を奪われた後の
止むに止まれぬ抵抗から出発したが、
米軍に警戒され戦艦や空母の厚い装甲を破ることもできず、
死を賭した攻撃も成果は限定的で、未熟な若いパイロットが練習でも迎撃でもばたばた死ぬ、
不条理で悲惨な作戦だったのである。

愚かな者はインパールやニューギニアの山奥で、何らの名誉もなく
虫けらのように扱われ亡くなっていった日本人と
特攻隊の若者がどう違うかすら考えることができない。


尚、下の作品には、米軍が撮影した特攻機突入の有様が収録されている。
テレビ業界の出身で演出が得意な小説家の妄想のいい加減さが
ありありと分かるので参考にされたい。

▽ 付録映像を見ると、小説家の空想とは完全に迫力の違う現実を知ることができる

『TOKKO-特攻-』(リサ・モリモト監督)


当ウェブログはスポーツの分野におけるナショナリズムが
大衆の動員に政治利用され易いことを警告した。

「よく知られるように、スポーツは愛国心を動員する社会装置であり、
 国内の不満を逸らすために政治家が喜んで用いる安直かつ便利な武器である。
 (韓国大統領がよくやる対日批判と非常に似ている)
 だから、野心の強い政治家はオリンピックや国際大会を利用して
 己の政治力の増大やスタンドプレーに一生懸命になるのである」

「今回のW杯でも保守系メディアは好機到来とばかりに
 国歌斉唱や愛国心の発露を大写しにして、日本国民も見倣えと
 マインドコントロールに精を出し、己の贔屓する政治勢力に大声援を送っている」

「これは、結果的に、ただでさえまともでない議論を更に劣化させかねない」

「そもそも日本の保守派の最大の問題は、議論の質が極めて低いことである。
 加えてお粗末なリベラルも手垢のついた反論を行うので
 いつまで経ってもまともな議論にならない」

これは、広く文化面でも同様である。
強硬な対日批判を続ける中国韓国の双子のような日本国内のナショナリズム原理主義が勢いづくと
それに媚びた小説や映画がウケることになる。所詮は「時代の徒花」であることも知らずに。

 ↓ 参考

フランスの英雄は国歌を歌わず、ドイツの教員は国歌1番を歌うとクビ - 日本の保守論者が語らない現実
http://blog.goo.ne.jp/fleury1929/e/df28d76a69d85e4c61fe550c985c0b39

首相の靖国参拝への賛意は「ゆとり教育」の悪影響、単なる無知と敵愾心 - まず近代史の理解が足りない
http://blog.goo.ne.jp/fleury1929/e/048d33b0c60b40732c69e1cd59104e77‎

▽ 因にレイテ戦記では、「中国戦線で戦っていた師団は上陸してすぐ略奪を始めた」とも明記している

『レイテ戦記 (上巻) 』(大岡昇平,中央公論新社)


フィリピン戦で特攻攻撃を行い、「軍神」として祭り上げられた関行雄大尉は、
生前に「自分のようなパイロットを死なせるようでは日本は終わりだ」と語っている。

事実から虚心に学ぶことが重要なのであり、小説の捏造話に熱中している暇があれば
こざかしい人間によって「加工」されていないありのままの歴史を知るべきである。
そうすれば、『永遠のゼロ』が意図的に歴史を「加工」し「編集」した模造品だとすぐ分かる。


元特攻隊員だけど何か質問ある? 【第2回】江副隆愛さんの場合(週プレNEWS)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140808-00033685-playboyz-soci
”上智大学在学中に学徒動員で海軍に入隊した江副さん。最終階級は海軍中尉
 今年も終戦記念日の暑い夏がやってきた。来年にはあの苦難の記憶から70年ーー。
 ゼロ戦、そしてカミカゼ。現在では神格化されたキーワードだけど、その真っ只中にいた若者たちはちょっとリア充で、ユーモアもあり、いまの若者と変わらない男たちだった。元特攻隊員の生き残りの男たちがリアルな人生を語る、好評シリーズ第二弾!
***
「小さい頃から海軍が好きだった」。そう語る江副隆愛(たかよし)さん(90歳)は、上智大学の1年生だった昭和18(1943)年10月、学徒出陣で土砂降りの東京・明治神宮外苑競技場にいた。祖父はたばこの輸入で財を成し、父親はアメリカへ留学。自宅は現在も高級住宅地である東京・白金三光町。当時、超ド級のセレブだった江副さんの少年時代とは?

〔中略〕

―お父さんは留学やたばこの貿易で海外生活が長かったと聞いています。小さい頃から欧米文化に触れる機会は多かったのですか?

江副 物心ついたときには、東京の家にはアメリカのレコードや雑誌がいっぱいありましたね。

―小さい頃に衝撃的だった海外の文化は?

江副 文化というか、おやじが僕に言ってたことが衝撃的だった。うちのおやじはね、16歳からアメリカに行って、ニューヨークにあった私立の陸軍幼年学校(軍人を養成する全寮制の学校)へ7年間も通ってた。そんなおやじが小学生の僕に言ったの。「日本とアメリカが戦争になったら、僕はアメリカの兵隊になって戦う」って。

―映画とかだと憲兵さんにボコボコにされそうな発言かも!?

江副 僕も小学4、5年生のときにこれを言われたもんだから、おやじが何を言ってるのか意味がわからなかった。でも、おやじはニューヨークの高層ビルを見て、幼年学校でアメリカの兵器にも触れてたから、日本が負けるのはわかりきっていたんだろうね

―そんな話を聞かされていた江副さんが、昭和16(1941)年の12月8日の開戦を知ったときは?

江副 自宅のラジオで開戦を聞いて「やったー!!」って(笑)。すごく興奮した。もし、今の若い人たちがあの瞬間にいたとしても、同じように興奮してたと思う。それぐらい大事件だった。

■映画以上の大迫力!! 海軍の鉄拳制裁

―開戦直後から海軍に入りたいと思ったんですか?

江副 僕の場合はね。親戚や同級生に海軍将官の子たちがいたから、海軍好きだった。よく軍艦の絵も描いてたね。観艦式も行った。軍艦・由良(ゆら)に乗りましたよ。だからずっと海軍には憧れてた。

―当時、海軍は女のコにも人気があったんですか?

江副 カッコいいもん。階級が下の水兵でも、吊り床なのに寝押ししてズボンにビシッとラインが入ってたり、飛行機乗りは白いマフラーをしてる。あのマフラーは私物なの。僕、操縦員になったときマフラーを持ってなくて、代わりに腹巻きを首に巻いて写真撮ってもらったよ(笑)。

〔中略〕

―やはり学生さんは海軍に志願する方が多かったんですか?

江副 よく特攻で生き残った連中が「俺は陸軍の訓練が嫌いだから海軍へ行った」なんてのがいるけど、あれは大ぼら(笑)。上から「海軍は人員がいっぱいだから、おまえは陸軍だ!」と言われれば、それで陸軍入りなんだから。

〔中略〕

―横須賀の後はどちらへ?

江副 茨城県の土浦海軍航空隊へ行ったの。基地に到着してみんな格納庫へ集合した。初めて入った格納庫は薄暗くて、こもったオイルのにおいがね、なんとも緊張感を高めるんですよ。そこで点呼があったんだけど、これが大変。声が小さいと上官にブン殴られるの。

―は!? いきなり体罰!?

江副 上官が「足を開け!! 歯を食いしばれ!! いいかーッ! イクぞー!!」ってアゴにボカン!って殴られてた。平手だと鼓膜が破れるからグーで殴るの。いやー、おっかないとこ来たなと(笑)。これが初日ですよ。

―訓練も厳しかったんですか?

江副 訓練がきついから、薬が支給されてた。

―ヒロポンとか?

江副 まさか! 海軍の“居眠り防止薬”ですよ。でも、まったく効かなかったなー(笑)。みんな薬を飲んだくせに寝ちゃってるんだよ。これはおもしろかったよ。

〔中略〕

江副 ゼロ戦とかの戦闘機も選べたけど、僕は九九式艦上爆撃機の操縦員を選択した。

―どうして艦上爆撃機に?

江副 “艦爆乗りは男の中の男”だもん! 高度3000mから800mまで急降下して、爆弾を落とす。そして一気に機体を引き上げる。

―ちょ、それはキケンすぎ!

江副 だから艦爆は男の中の男の乗り物なの。これを操縦したときはうれしかった。「これで戦える!俺も一人前の兵隊になった」って。

―飛行機の操縦がうまい人とかいましたか?

江副 アメリカのパイロットのほうがうまかった(笑)。戦闘機の性能も上だし、小学生のとき、おやじが「アメリカの兵士になって戦う」と言ってた意味がわかりましたよ。

―空戦を経験されたことは?

江副 ないですよ。爆撃機だから。でも基地にいてアメリカの戦闘機に機銃掃射されたことはあった。

〔中略〕

―機銃掃射にはどのように対応したんですか?

江副 小屋でむしろをかぶって震えてた。それを見た戦友が「おい、江副。それじゃ敵の弾丸は防げないぞ!」って。こんなときなのに冗談言ってる。でも、その戦友も念仏を唱えてるの(笑)。笑い話だけど、そのときはお互い必死だった。

―江副さんの特攻はどのように決定したんですか?

江副 上官から「特攻隊に志願するものは、一歩前へ!」ってあるでしょ。あれですよ。

―映画で見たことあります。

江副 映画だと躊躇(ちゅうちょ)したり震えたりするけど、そうじゃない。「一歩前へ!」と言われたら、みんな一斉に前へ出た。まだ、戦争も景気が良かったんだろうね(笑)。

〔中略〕

―出撃前日でもお酒って飲めたんですか?

江副 飲んでも構わない。だいたい3日前に特攻出撃の通達がある。行く連中だけ黒板に張り出されるの。「3日前 飲んで泣くやつ 笑うやつ」。そういう川柳もあった。前の晩に飲みすぎてフラフラで飛行してくのもいたよ。

―先に出撃する戦友の言葉で印象的だったのは?

江副 「ちょっくら行ってきやす!」って、冗談交じりに出撃したのがいた。そんなの普通は言えないよね。そんな彼らを、『海行かば』を歌って見送る。『君が代』じゃなくて、ほとんど『海行かば』だよ。

―出撃する戦友たちを見送るときの気持ちは?

江副 寂しいし、恥ずかしかった。今でもそれは思ってる。

―出撃後にやることは?

江副 遺書や遺髪とか、出撃した戦友たちの私物の整理をするけど、事務的にやってた。泣くこともないですよ。「次は自分だ」と覚悟してたから、特に自分の家族のことも思い出さなかったな。考えるのは戦友のことだけ。前日までバカ話してたヤツが次の日にいなくなる。それが日常だったんだよ。すごい時代だったな。

〔中略〕

―その後、江副さんは茨城県の百里原へ移動することとなった。

江副 東京大空襲の直後の上野を通ったら“ひぃー、ひぃー”って音が聞こえる。風の音なのか人の声なのかわからない音。ただ焼け野原の暗闇から、その音が聞こえてくる。“ひぃー、ひぃー”って音だけは今でも鮮明に覚えてる。

―百里原から爆撃されている東京って見えるんですか?

江副 東京方面の地平線が真っ赤になってる。B29の爆音も聞こえる。でも迎撃する戦闘機もない。誰も何もできない。「戦争は負けちゃいけない!!」と思ったよ。

―玉音放送はどこで?

江副 百里原だったけど、何言ってるかよく聞き取れなくて、わからなかった(笑)。でも、とりあえず戦争終わったみたいだなと。

―それを聞いた感想は?

江副 神妙な顔してたと思うけど、内心は「やったー!!」だった。ホッとしましたよ、緊張感がなくなって飯がうまかったから、1週間で5kgも太った(笑)。

―戦前と戦後で最も変わったことは?

江副 僕の場合は、戦後は戦前に戻っただけ。そんな感じ。

―最後に、もし再び戦争になったら?

江副 敗戦を経験してるとね、“戦争は勝たなきゃいけない!!”となるんですよ。今後、日本から攻めることはないでしょう。でも、相手が攻めてきたらね、老体にムチ打って、また出かけますよ(笑)。

江副隆愛(えぞえ たかよし)
 1923 (大正12 )年9月10 日生まれ、東京都出身。復員後は上智大学へ復学。その後、外国人向けの日本語学校「学校法人江副学園新宿日本語学校」を開校する。「復員するときにもらったのは、このライフジャケットだけでしたよ(笑)」(江副)
(取材・文/直井裕太 構成/篠塚雅也 撮影/村上庄吾)”

週刊誌の記事だが元のインタビューが良いのでお薦めしたい。
特に、パイロットの腕の戦闘機の性能もアメリカの方が上だったと
はっきり認めているのは全くもって正しい。
熟練のパイロットは殆ど戦死しているし、
零戦も含め戦闘機の性能でも数でも日本は劣勢にあった。

特攻はとかく後世の無責任な人間に政治利用されがちであるが、
実態はこのように単純に語れない混沌としたものである。


元特攻隊員だけど何か質問ある? 【第3回】手塚久四さんの場合(週プレNEWS)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140811-00033818-playboyz-soci
”戦時中はゼロ戦乗りだった元帝国海軍中尉の手塚さん
 あの苦難の記憶から来年には70年ーー。終戦記念日がやってくる真夏になると、思い返すのももはや日本人としてのアイデンティティなのだろうか。
 ゼロ戦、そしてカミカゼ。現在では神格化されたキーワードでもあるが、その真っ只中にいた若者たちはちょっとリア充で、ユーモアもあり、いまの若者と変わらない男たちだった。元特攻隊員の生き残りの男たちがリアルな人生を語る、好評シリーズ第三弾!
***
「特攻に指名されないことを祈っていた」。そう語る手塚久四(ひさし)さん(91歳)は、学徒出陣で海軍に入隊し、ゼロ戦乗りとなった。そんな手塚さんは、どのような学生時代を送っていたのか?

手塚 僕は栃木の中学を卒業して、仙台の旧制高校を受験しました。でも、落ちちゃった(笑)。だから、1年浪人して、昭和15(1940)年に静岡の旧制高校に入りました。田舎から来たのは僕ぐらいだった。

〔中略〕

―戦時色が濃くなったのは、いつぐらいからですか?

手塚 やはり昭和16(1941)年12月8日の開戦ですよ。1時間目が終わって食堂に行ったら、「本日、未明。敵米英と戦闘状態に…」ってすごい金切り声のラジオ放送が流れた。これは、びっくりした。

―開戦を聞いた学生たちが歓声を上げたりは?

手塚 全然。“しーん”と静まり返ってた。僕もショックだったよ。高校も半年繰り上げで卒業することになったしね。

―卒業後は東京大学へ進学。大学ではどんな勉強を?

手塚 経済学部で米国経済交通事情を学んでいました。「アメリカは飛行機が発達して、道路も舗装されている」「経済力、工業力、資源もアメリカが圧倒的に上である」などと勉強していましたから、「アメリカと戦争するなんて、こりゃ負けるんじゃないか」と思いましたよ。だから前へ出て勇ましく戦う気にもなれませんでしたね。

―しかし、手塚さんは昭和18(1943)年の10月に学徒出陣で海軍への入隊が決定する。なぜ、海軍を選んだのですか?

手塚 当時は陸軍と海軍、どちらへ入るかを選べました。僕は兄弟がみんな陸軍に入っていて「陸軍はひどいよ。飯もまともに食べさせてもらえない」と聞いていた。何より海軍のほうがカッコいいから、海軍を選びました。

〔中略〕

―海軍では飛行機の操縦員を目指したんですか?

手塚 僕は経済学部だから、主計(経理をはじめ、被服・食糧などの管理を担当する要員)になりたかった。食糧の管理をするからいいことあるんじゃないかと(笑)。でも、操縦員の適性検査に合格したから主計になれなかった。

―操縦員の適性検査はどんなことをするのですか?

手塚 360度方向に回転するイスに座るんですよ。それをグルグルと全力で1分以上も回転されてガッシャーン!と停止したら、バーン!とイスから弾き飛ばされる。この状態から1分以内に立ち上がらないといけないんです。僕もフラフラだったけどなんとか立ち上がれましたね。なかには吐いている人もいましたよ。

〔中略〕

―体罰もあったんですか?

手塚 すごいですよ。ちょっとミスしたら総員修正ですから。

―総員修正とは?

手塚 連帯責任ですから、ひとりがミスしたら全員が殴られるんです。みんなが一列に並んで、2発ずつバーンッ!と殴られる。ヒドい人は奥歯は折れるし、顔はアザだらけ。これが毎日ですよ。

―パンチを避けたりガードしたりできないんですか?

手塚 もっと殴られるだけ(笑)。

〔中略〕

―練習機の次はどんな飛行機に乗ったのですか?

手塚 ゼロ戦に乗りました。

―なぜゼロ戦に?

手塚 運動神経が優れていたからゼロ戦に乗れたんですよ(笑)。ゼロ戦はひとり乗りの戦闘機です。戦闘機は操縦、航法、戦闘、電信すべてを自分ひとりでやる。優秀じゃないと務まらないんですよ。

―映画『風立ちぬ』や『永遠の0(ゼロ)』で、話題になったのゼロ戦ですが、本当に優秀な機体だったのですか?

手塚 練習機とはまったく違う金属の塊です。でも、旋回性や機動力がすごい。宙返りや反転は簡単にできた。馬力を出してクルッと回るだけ(笑)。機体をわざと失速させて敵機の後ろへ回り込んだり、敵機に被弾したふりをして、きりもみ状態で降下したりできる。きりもみ状態で降下すると、地上がグルグル回っているんです(笑)。ゼロ戦は、なんでもできましたよ。

〔中略〕

―よく映画だと、飛行中のゼロ戦の風防を開け飛行していますけど、実際あのようなことを?

手塚 あれは、やりませんよ。スピードが出なくなるし、何より寒いですから。

―では、特攻隊員に選ばれたのはいつだったのですか?

手塚 昭和20(1945)年の2月20日です。全員が講堂に集合して上官から「現下の戦局が厳しい状態にあるので、特攻をもって戦局の大転換を図る!」と訓示があり、その後に身上書を渡されました。身上書には家族構成、学歴などを書く。そしてもう一枚用紙がありました。

―もう一枚の用紙とは?

手塚 特攻希望調査書です。「熱望」「希望」「否」の3つが書いてあって丸をつけろと言うんですよ。

―みんなどうしたんですか?

手塚 勇ましい人は「熱望」に丸をつけて、「やるぞー!! ウォォォー!」って講堂を飛び出していった。彼らはみんな死んじゃったよ。

―手塚さんはどれを選択?

〔中略〕

手塚 「希望」の「希」にバッテンして、ただ「望む」と書いて出しました(笑)。

―「否」を選んだ人は?

手塚 後で聞いた話だけど、いた。「僕はまだ操縦員として未熟で、特攻作戦に参加できません」と理由を書いていたけど、翌日に大修正ですよ。結局ね、どこ丸つけても無駄だったみたい。

―特攻要員になってからはどんな行動を?

手塚 僕の場合、沖縄戦が終わった昭和20年の6月23日、この2日後に本土決戦用の特攻隊が編成されました。それに僕が選ばれ、北海道の千歳海軍航空隊へ向かうことになりました。

―この間、家族には会えたのでしょうか?

手塚 5日間の休暇をもらいました。「家族へ別れのあいさつをしてこい」ということなんですけど、家族に「特攻で死にます」と言えないから実家に帰るのがいやだった。

―実家へは帰らなかった?

手塚 結局帰ったけど、特攻のことは言えなかった。ただ、お酒を飲んで歌っていましたよ。

―千歳ではどんな訓練を?

手塚 飛行場の真ん中に飛行機を模した木の枠を組んで、それを目標に訓練を行ないます。

―目標に向けて急降下ですか?

手塚 上空3000~4000mぐらいから全速で急降下して、地上400mで一気に機体を引き起こすんです。このような急降下ができるのは、ゼロ戦ならではです。

〔中略〕

手塚 両手で引っ張って、両足も踏ん張るんです。それで、やっと機体の先端が上空を向く。でも、上空を向いた状態のまま、ブワァ~っと機体が沈んでいく。この地上に吸い込まれる感覚が本当に怖い。失神する人もいますからね。

―事故もあったんですか?

手塚 急降下の訓練中に街に突っ込んだ機体がありました。あと、0.2秒でも早く機体を引き上げれば助かったと思いますが無理だった。操縦員と民間人も亡くなりました。けど、当時は何も報道されなかった。

―なぜ?

手塚 ゼロ戦が事故を起こしたなんて報道できませんよ、当時は。

―特攻出撃の命令は、いつ受けたんですか?

手塚 昭和20年の8月13日です。13日の朝に命令されて、香川県の観音寺航空基地へ移動することになりました。香川の基地に、もう爆装されたゼロ戦があるというんですね。死にたくはなかったけど、いよいよ死ぬしかないのかなぁと思いましたよ。
 でも、なぜか香川へは陸路で行くことになったんです。そうしたら14日に仙台に到着しましたけど、そこで足止めされてた。

―もし、香川県へ飛行機での移動だったら?

手塚 死んでたんでしょうね。この移動が生死の分かれ道になった。

〔中略〕

―玉音放送を聞いた感想は?

手塚 天皇陛下の声を聞くのが初めてだった。「もにょ、ごにょ、もにょ」と、何を言ってるかよくわからないですよ。「一時休戦? 負けたのか!?」。それすらもわからなかったから、仙台の駅長に確認したら「戦争が終わった」と。

―その後は、どちらへ?

手塚 原隊の谷田部海軍航空隊へ戻りました。特攻に参加できなかったから怒られると思っていたけど、上官からは「ごくろうであった!」と言われホッとした。

―谷田部に戻ってから混乱はなかったんですか?

手塚 「あれは陛下の意志じゃない!!」という血気盛んな陸軍航空隊がまず決起して、それに同調する海軍の厚木航空隊から、谷田部の上空に戦争継続を訴えるビラをまきに来ましたよ。でも、谷田部では誰も一緒に飛び立つ者はいなかった(笑)。

―最後に、手塚さんの戦争体験から、今の日本に思うことは?

手塚 今の日本の状況は、開戦前に似ていると思っています。うかうかしていると徴兵制が始まり、また若者が戦争に駆り出されるかもしれないと。「歴史に学ばざれば過ちを繰り返す」。若い人たちには僕らの経験から歴史を学んでくれればと思っています。

手塚久四(てづか ひさし)
 1922 (大正11)年1月9日生まれ。91歳。栃木県出身。東京大学2年生に進級後、学徒出陣で海軍へ入隊。ゼロ戦の飛行訓練を受け、特攻隊員に選別される。終戦後は大豆の製油業を行なうビジネスマンを組織して活動した。”

こちらのインタビューも興味深い。
老化するアジアにおいて日本の徴兵制が復活する可能性はほぼゼロであるが。

両者とも何故か戦前と戦後の共通性を感じているものの、
特攻隊員が100人いれば100の歴史があるのである。

ただ少なくとも、小説になるような単純化されたストーリーは、
他人の心理につけ込もうとする思惑に基づく捏造であることは間違いない。
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