酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「シャーロック・ホームズの冒険」~罪を照らす孤独な蒼い焔

2017-05-22 22:22:03 | 映画、ドラマ
 一昨日(20日)のWBAミドル級王座決定戦は、不可解な判定で村田諒太がアッサン・エンダムに敗れた。マッチメーカー、トレーナー、解説者として活躍するジョー小泉氏は「エキサイトマッチ」(WOWOW)で毎回、採点基準を明示している。リングゼネラルシップ(試合を支配すること)、ダメージの大きさ、手数(有効なパンチ)の3点で、いずれの点でも村田が上回っていた。

 贔屓目でないことは、WBAメンドサ会長のコメントからも明らかだ。「私の採点では117対110で村田が勝っていた。ファンの皆さんに謝罪したい」とツイッターにアップし、ダイレクト・リマッチを指示する。グローバルスタンダードが確立し、ジャッジの質も上がっているはずだ。今回の結末に至った〝裏の事情〟に興味がある。

 イマジカBSとAXNミステリー(ともにスカパー!)が、同時並行で「シャーロック・ホームズの冒険」(1984~94年、英グラナダTV、全41話)を放映中だ。世界中のシャーロキアンから絶大なる支持を得ているシリーズで、ジェレミー・ブレットの名は〝理想のホームズ俳優〟として未来永劫、語り継がれていくだろう。俺が見たのは30話弱だが、感想を以下に記したい。

 NHK放映時、30代だった俺は「女優が奇麗じゃない」と友人に話した記憶があるが、今回は正反対の印象を受けた。ホームズにとってのファム・ファテール、エレーネ・アドラーを演じたゲイル・ハニカットを筆頭に、女優たちに魅了される。還暦を過ぎると、女性の好みが変わるのだろうか。

 細部に至るまで歴史考証が行き届いており、ビクトリア朝のロンドンが忠実に再現されている。だが、コナン・ドイルは〝日が沈まない大英帝国の栄光〟ではなく、植民地支配の影、収奪による荒みと淀みを見逃さない。典型は「四つの署名」だが、宿敵モリアーティ教授の腹心というべきモラン大佐(「空き家の怪事件」)、ロイロット博士(「まだらの紐」)など、植民地で人生を踏み外した男たちが登場する。

 ドイルは大英帝国の地位を脅かしかねないアメリカの勃興に気付いていた。「ソア橋の謎」にはアメリカで成功を収めた後、英国に移り住んだ大富豪ギブソンが登場する。トランプ的世界観の持ち主であるギブソンが、被疑者になった女性の欧州的価値観(公正と平等)に影響されという設定が興味深い。「踊る人形」ではマフィアの家系であることを嫌って渡英した女性が描かれている。粗野、強欲、暴力的が、当時のアメリカ人のパブリックイメージだったのか。

 作品の肝はホームズとワトソンの友情だ。二人は時に死を覚悟して、〝鉄火場〟に赴く。ホームズが射撃の名手ワトソンに銃の所持を頼むシーンも度々だ。日常のまったりした両者の会話にはユーモアが溢れている。「常に肝心なことを見逃す」だの「女性に甘い」だのホームズにネチネチいびられても、ワトソンは怒る様子もない。

 ワトソンは医者としてジャンキーのホームズを案じている。NHK放映時にはカットされていたかもしれないが、薬物に関する会話は以下の通りだ。

ワトソン「今日は何を打った? コカインかモルヒネか」
ホームズ「コカインなら7%の溶液がお勧めだよ。精神が研ぎ澄まされ高揚するんだ」        

 ワトソンが阿片窟からホームズを担ぎ上げて救出するシーンもあった。「僕の人生はただひたすら、平凡な存在から逃れる努力に費やされている」と語るホームズは、難事件の間の退屈しのぎに薬物を嗜んだ。 

 頭脳明晰であらゆる事象に精通しているホームズをモデルにしたのは、「相棒」の杉下右京だが、両者には決定的な違いがある。現役警察官である杉下は<法の下の正義>を第一に考えるが、ホームズは以下のように語っている。

 「これまでにも、僕が犯人を発見したために、その犯罪以上の悲劇を生んだ苦い経験がある。それからは慎重になったよ。わが良心を欺くより、イギリスの法をごまかす方がましだと」

 「悪魔の足」、「ウィステリア荘」、「銀星号事件」、「修道院屋敷の怪」などに、<人間としての正義>を追求するホームズの姿勢が反映している。軍医として従軍したワトソンは<法の下の正義>にこだわるが、議論でホームズには勝てない。  

 記憶に残るエピソードを五つ選べば「ノーウッドの建築業者」、「赤毛連盟」、「もうひとつの顔」、「ソア橋の謎」、「瀕死の探偵」となる、いずれもラストがドラマチックな作品だ。罪をかたどる欲望や憎しみを照らし出すのは、孤独なホームズの蒼い焔である。

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共謀罪に至る道程~歳月をかけて摘まれた自由

2017-05-19 12:11:38 | 社会、政治
 昨日は「柳家小三治独演会」(調布グリーンホール)に足を運んだ。「長短」と「粗忽長屋」を演じたが、名人も77歳、以前と比べ声の艶がなくなった気がする。それでも芸術的な間は健在で、満員の会場から笑いの渦が起きていた。話芸だけでなく〝人間小三治〟をファンは愛しているのだろう。枕で安倍首相に触れようとしたが、「皆さんも私も腹が立つだけなので、やめておきます」と短く結んだ。
 
 老若男女が皇族の婚約を喜んでいるなんて虚構に過ぎない。インタビューに冷ややかに答えた人の映像はカットされているからだ。<みんなが……>という空気を蔓延させるメディアのレベルは、北朝鮮やタイと大差ない。<放射能はアンダーコントロール>という大嘘を前提に東京五輪開催が決まった時も、祝賀ムード一色だった。

 秘密保護法、戦争法との3点セットというべき共謀罪が衆院本会議を通過する。自身が深く関わる森友&加計問題で新事実が続々明らかになり、安倍首相が目指す憲法改悪が頓挫する可能性も出てきた。麻生副総理を軸にした派閥合流、旧経世会の動きなど〝1強〟を揺さぶる動きの陰に、財務省の意向を指摘する声もある。安倍首相の国家私物化、利益誘導は甚だしいが、<ポスト安倍=麻生副総理>という漫画チックな予想に愕然とする。

 共謀罪については、<オリンピックを無事に開催するため>という刷り込みが功を奏したのか、肯定的な国民も多い。安倍首相の「パレルモ条約批准のため共謀罪は必要」との答弁は、十八番の詭弁である。同条約の立法ガイドを書いたニコス・パッサス教授は「報道ステーション」(16日放映)のインタビューで、「パレルモ条約はテロ対策ではなく、利益を追求する組織犯罪を対象にしたもの。共謀罪は同条約と無関係」と断言していた。

 「こんな時、おまえは何をしている」というお叱りに返す言葉もない。仲間や知人は共謀罪への抗議に取り組んでいるが、俺は変わらぬ日常を享受している。<共謀罪成立で監視社会がスタートする>との声に、俺は自問自答している。「日本はこの間、本当に自由だったのか」と……。

 1970年代後半、学生だった俺の目に、クラスメートが〝見えない力〟に怯えていると映った。社会の矛盾に敏感だった俺は、といっても典型的スキゾゆえ、自由で縛られないことが前提だったが、政治に向き合い、硬軟取り混ぜ署名を集めることもあった。反応はといえば、「趣旨には賛同するけど、署名したことが警察に漏れたら、確実に企業に流れる。絶対に就職できない」という冷淡なものだった。大学、そして社会は40年前から自由ではなかったのである。

 引きこもり気味のフリ-ターを経て1984年、メディアの端くれに潜り込んだ。会社(平均年齢30歳前後)で研修が企画され、数十人が三々五々、徒歩数分の区民館に向かう。すると会社に翌日、警察から確認の電話が入った。反核か何かの集会を間近に控えていたことも理由だろうが、言論の自由を脅かす共謀罪は30年前に〝施行〟されていた。

 1998年、江沢民中国主席が早大・大隈講堂で講演した際、参加者の名簿が大学当局から警察に流れていたことが世間を賑わせた。たまたま発覚しただけで、同様のチェックは全国津々浦々で起きていたに違いない。高村薫の「マークスの山」(93年)では、主人公(合田刑事)の妻が反原発運動に加わったことで招いた事態が描かれている。

 監視社会の雛型を作ったのは〝日本のアンドロポフ〟こと後藤田正晴だ。田中角栄に引き立てられた後藤田は徳島で、日本の政治家で最も自由に理解が深かった三木武夫元首相と三角代理戦争を展開する。落選した参院選では史上最悪の選挙違反を引き起こした後藤田が晩年、〝護憲派のシンボル〟として崇められた点に納得がいかない。

 30代、40代を悔いても仕方ないが、俺は約20年、集団に埋没していた。俺だけでなく、所属する職場やコミュニティーで抑圧が進行していても、抗議の声を上げたり、改善策を提示したりする人は少数だった。看過し沈黙することで、自由は削られ、摘み取られてきた。その積み重ねが共謀罪といえる。

 憲法9条はどうか。この四半世紀、PKO法、周辺事態法、テロ特措法、有事3法&イラク特措法、そして小泉元首相によるイラク派兵と段階を経て、関連する法律も整備され、憲法9条は蝕まれてきた。安倍政権下による戦争法→憲法改悪は、流れに沿った必然の帰結に見えてくる。星野智幸は「戦争を必要とする私たち」(01年発表、「未来の記憶は繭のなかで作られる」収録で、<国旗国歌法が誕生し、通信傍受法が成立し、日米防衛のためのガイドラインが改訂された1999年を右傾化元年と捉えている>と記している。

 自分の殻にこもり、ペシミスティックに風雨を避けたい気分になるが、まだ希望を捨てていない。都議選では、自由の気風が社会に浸潤するための〝蟻の一穴〟に期待し、全選挙区で唯一の市民派候補を支援する。おいおいブログでも記していきたい。
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「ライオン~25年目のただいま」が提示する<過去-現在-未来>を繋ぐ環

2017-05-16 19:59:28 | 映画、ドラマ
 終活というとオーバーだが、CDの整理に取りかかった。回収用(恐らくブックオフに依頼)の段ボールを用意して、〝積聴〟状態のアルバムを聴いているうち、メランコリックでダウナーな気分が心に溶けてきた。〝俺の青春時代は長くて暗く、ギザギザしてたんだな〟と独りごちながら、それゆえのロックとの深い絆を再認識する。終活どころか、延々と続く回春の日々になりそうだ。

 藤井聡大四段がNHK杯将棋トーナメント(14日放映)で、俺一押しの千田翔太六段を破った。俺がこの間、怒りを禁じ得なかったのは、メディア(スポーツ紙)が将棋界の不文律<テレビ対局では放映時まで結果を伏せておく>を蔑ろにしたからである。俺だけでなく、NHK杯や銀河戦(囲碁・将棋チャンネル)を〝疑似リアルタイム〟で楽しみにしているファンは多い。

 将棋に関心の薄い知人の女性も14日は見たという。藤井関連でワイドショーに出演した香川愛生女流三段の美貌にノックアウトされた同世代のおっさんもいる。〝藤井効果〟はかくも絶大なのだ。肝心の対局は、千田の空回り→自爆→戦意喪失といった感じか。藤井は自然体で、感想戦でも遠慮気味に話していた。藤井の次の対戦相手は森内俊之九段(永世名人位保持者)だ。メディアのルール遵守に期待したい。  

 角川シネマ新宿で「ライオン~25年目のただいま」(16年、ガース・デイヴィス監督/オーストラリア)を見た。実話をベースに世界の映画祭で絶賛された作品だが、その割に上映規模は小さい。タイトル「ライオン」の意味はラストに明かされる。

 1987年、インドの貧しい村……。5歳のサルー(サニー・パワール)は兄グドゥとともに、重労働に従事する母を助けている。ある日、グドゥとはぐれたサルーは回送列車に閉じ込められてカルカッタ(現コルカタ)に着く。貧困と暴力が渦巻く大都会でストリートチルドレンになったサルーだが、善意の出会いに恵まれる。ジョン(デヴィッド・ウエンハム)とスー(ニコール・キッドマン)夫婦の養子になってオーストラリアに渡った。

 インドでのシーンに重なったのが「駆ける少年」(85年、アミール・ナデリ監督だ。同作の主人公アミルは孤児だが、本作のサルーのように瞳を輝かせて走っていた。絶望も孤独も希望を失わなければ克服出来ると言いたげに……。

 青年期のサルーを演じるのは「スラムドッグ$ミリオネア」で鮮烈なデビューを飾ったデヴ・パテルで、役柄にもインドの光景にもマッチしていた。同じくインドからの養子で弟のマントッシュは少年期、癒えることのない傷を負ったのだろう。成長してもトラウマから逃れられず、クスリに依存している。一方のサルーは過去の扉に吸い込まれ、時を溯る旅人になる。

 映画館に足を運ぶ方は多くないだろうが、レンタルDVDやテレビ(WOWOW)でご覧になる方もいると思うので、ストーリーの紹介は最小限にとどめ、肝と感じた点を以下に記したい。 
 
 サルーの二人の母親に心を打たれた。息子が生きていると信じて捜し続けた生母、慈善のレベルを超えた高邁な意志でサルーとマントッシュを育てたスー……。ラストでシンクロした思いに、ハナをすする音が前後左右から漏れていた。〝母〟への強い情は国境、年齢、性別を超えて普遍なのだ。
 
 拗ね者として、ケチをつけたい点もある。本作で重要な役割を果たしているGoogle Earthは、確かに使い勝手はいい。だが、CIAら諜報機関とグーグルの蜜月は多くの人が指摘している通りだ。小泉元首相のブレーンだった岸博幸慶大教授は、「皆殺しの発想を仮面で隠しながら自由を説き、アメリカによる一元化に寄与している」とグーグルの危険性に警鐘を鳴らしていた。

 エドワード・スノーデンやジュリアン・アサンジなら、秘密保護法や共謀罪とグーグルの関係を明快に展開するだろうが、俺が何を言っても屁理屈にしか聞こえないだろうから、この辺で止めておこう。実在するサルーが効果的にGoogle Earthを使ったことで感動的な結末に至ったことは、本作に描かれている通りである。

 順風満帆だったサルーにとって、過去が突然、意味を持ち始める。自分を愛してくれた母と兄に再会しなければ、生きている意味はなく、そして未来に進めないと直感するのだ。人は誰しも<過去-現在-未来>の環に繋がれている。「人」を「国」に置き換えてもいい。歴史修正主義が蔓延る現在は、残念ながら真理と程遠い。

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人生と愛の迷路を辿る「僕とカミンスキーの旅」

2017-05-13 16:05:00 | 映画、ドラマ
 今回は二人の画家について記したい。一人は波瀾万丈の至高の表現者、もう一人は架空のポップアートの巨人である。

 先日、「ミュシャ展」(国立新美術館)に足を運んだ。売りはアルフォンス・ミュシャが16年かけて創作した20作からなる「スラブ叙事詩」だ。いずれも見上げるほどの壮大なスケールで、3~20世紀のチェコ史をモチーフにしている。

 農民、労働者、戦争で斃れた者が描き込まれ、怒り、哀しみ、諦念、恐怖をこちらに訴えているような目力を感じる。靄がかかったような柔らかな色調で、透明な衝立を通してコミュニケーションを取っている気になる。鑑賞する側と異界を結びたいというミュシャの作意が窺え、<過去-現在-未来>を繋ぐリアリティーを感じた。

 ミュシャはアールヌーボーの旗手としてパリで成功する。グラフィックデザイナーとして一世を風靡し、50歳で故郷に帰った。パリ時代のポスターも展示されていたが、金銭的な成功に背を向け、「スラブ叙事詩」に没頭する。パリ以前と以降は同じ画家の作品とは思えない。途轍もない転回が人生に起きたのだろう。

 「スラブ叙事詩」を制作する際、ミュシャは村人たちの写真を撮り、忠実に反映させたという。<歴史の主役は名もなき民>という信念の表れだったのではないか。ミュシャの愛国心は侵攻したナチスドイツに警戒され、獄に繋がれた。解放され、間もなく死亡する。社会主義政権でも黙殺され、プラハの春で再評価された。

 恵比寿ガーデンシネマで「僕とカミンスキーの旅」(15年)を見た。監督=ヴォルフガング・ベッカー、主演=ダニエル・ブリュールの「グッバイ、レーニン!」(13年)以来のコンビが謳い文句である。鮮烈なデビューを飾ったブリュールは「ベルリン、僕らの革命」、「サルバドールの朝」、「コッホ先生と僕らの革命」などに主演し、「ラッシュ/プライドと友情」ではニキ・ラウダを演じるなどハリウッドでも地歩を固めている。

 本作でブリュールが演じたのは、芽の出ないドイツ人の美術評論家だ。名声とお金を求める野心家のセバスティアンは盲目の画家、マヌエル・カミンスキー(イェスパー・クリステンセン)の伝記を書くため、隠遁しているスイスの山奥を訪ねる。カミンスキーは本当に盲目なのか? 視力をなくしてから描いた作品はあるのか? セバスティアンカミンスキーの娘ミリアム(アミラ・カサール)に接近しながら取材を進めていく。

 フェイクニュース、メタフィクションっぽい、虚実ない混ぜのムードでスタートする。ピカソ、マチス、アリ、ビートルズ、ウディ・アレンら時代の寵児とカミンスキーがコラージュされた写真と記事、映像が流れる。カミンスキーは芸術家やムーヴメントを辛辣に斬って捨てる。セバスティアンの心の声と妄想が頻繁にインサートされるなど、ユーモアと遊び心に溢れた作品である。セバスティアンの元恋人宅には、日本文化や黒澤明へのオマージュを窺わせるポスターが飾られていた。

 奔放なカミンスキー、そして煩悩の塊のセバスティアン……。年齢も個性も異なる二人だが、魂は次第に相寄っていく。ブレーク直前、カミンスキーの心の支えだったテレーゼ(ジェラルディン・チャップリン)が生きていることを知ったカミンスキーは、セバスティアンを伴い再会の旅に出る。

 レオン・カラックス監督作で注目を浴びたカール・ルードヴィヒがコソ泥役で登場するなど、道中はエピソード、ハプニングの連続だった。辿り着いた目的地で、カミンスキーとセバスティアンは絶望と孤独を共有する。形と手触りのあるものは得られなかったが、それ以上の価値にセバスティアンは気付いた。エンドロールの絵は、カミンスキーの心象風景そのものだ。本作は人生と愛の迷路を彷徨う温かなロードムービーである。

 最後に、ヴィクトリアマイルの予想を。雨で波乱を期待したいが、重でも実績のあるミッキークイーンが馬券から外れることはなさそうだ。先行できそうな②スマートレイアーと③ジュールボヌール、いまだに成長している⑭レッツゴードンキをミッキーに絡めて買うことにする。

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「オペレーション・ノア」~36年後を見据えた野坂昭如のペシミスティックな預言

2017-05-10 22:34:13 | 読書
 一昨日(8日)、紀伊國屋寄席に足を運んだ。柳亭市江「熊の皮」→古今亭文菊「笠碁」→三遊亭圓窓「そば清」→仲入→春風亭一之輔「蜘蛛駕籠」→柳家さん喬「寝床」と高座は進む。ビートと毒が臨界点に達した〝ホール落語〟に慣れていたが、年齢層の高い「紀伊國屋寄席」は空気が異なる。手練れの芸をまったり楽しんだ。

 フランスと韓国で対話を掲げたマクロン、文氏が新大統領に決まった。俺の感想は「隣の芝は青い」……。マクロン候補はメランション支持の若者票を取り込み、文候補の選挙戦を支えたのは10~20代の若者たちである。翻って日本はどうか。意思表示を忌避するどころか嗤う傾向は、とりわけ若い世代に顕著だ。変革への思いが芽吹くことなく枯れてしまった時、この国は脳死を至るだろう。

 野坂昭如の訃報に接した時、「オペレーション・ノア」(1981年)を再読しようと手に取ったが、活字の小ささ(2段組み)にたちまち放り出す。仕事先でS君にその旨を話したところ、「文庫は大きめだから、アマゾンで注文しましょうか」と提案してくれた。確かにその通りで、帰省を挟んで上下巻(文春文庫、計600㌻)を読了した。36年前の〝衝撃の感触〟が肉付きされて甦り、当時は気付かなかった野坂の巨視に感嘆した。

 高度成長期が一段落した1970年代、ペシミスティックな空気が世間を覆っていた。人口増と資源枯渇に警鐘を鳴らした「成長の限界」(72年、ローマクラブ刊)は、脱成長、脱GDP、ミニマリズム、循環型社会と再生可能エネルギーへの志向の原点となった。「非情のライセンス」最終話(80年末オンエア)のテーマになった<人間の小型化>にも同書の影響が窺える。

 70年代の日本は公害問題を抱えていた。「オペレーション・ノア」でも、公害の影響で健常な状態で生まれてこない新生児の激増が伏線になっていた。公害とファシズムが重なる展開を先駆的に示したのは「光る風」(70年、山上たつひこ)であり、その延長線上に位置するのが「オペレーション・ノア」には、野坂の社会に対する緻密な分析と情念が織り込まれている。

 商社マンの堂内は妻と娘を交通事故で亡くした後、冠がリーダーを務める藤平首相直属の「オペレーション・ノア」のメンバーに選抜される。<人縮>と<国家の縮小>を目指す秘密プロジェクトに立ちはだかったのは、アメリカからの独立と軍国化を説く南原だった。藤平は南原の意見に耳を傾け、「オペレーション・ノア」は頓挫する。堂内らは地下に潜った。

 安倍政権は北朝鮮の脅威を煽って〝失点〟隠しに懸命だが、本書では偽装された地震情報が治安強化、国民統合の具に用いられる。〝鈍牛〟イメージの藤平は安倍キャラに転じ、高い支持を背景に、福祉切り捨て、軍備増強、武器輸出を断行する。議会制民主主義は終焉を迎え、「機密防止条例」(≒秘密保護法)で規制されたメディアは沈黙する。藤平は安倍首相同様、「憲法9条に国防軍(自衛隊)を条項として盛り込む」ことを宣言する。

 日米安保破棄が決定的になる過程で、南原の正体も明らかになる。米ソと対峙する流れを急変させたのが、日本を崩壊の瀬戸際に追い込んだ金融テロである。コンピューターの持つ意味を、野坂は誰よりも理解していた。崖っ縁にゾンビの如く再登場した「オペレーション・ノア」はヒューマニズムを全否定し、ポル・ポト政権下のカンボジアを彷彿させるような〝静謐な逆行〟を目指す。

 野坂は本書で、自由と民主主義に馴染まぬ日本人の服従性と集団化を憂えていた。当時は〝絵空事〟と感じていたが、再読した今、36年後にタイムトリップして書いたかと思えるほどの野坂の予知能力に瞠目させられた。本書では原発について繰り返し言及している。<必然的に起きる原発事故で人口が減ることは、プロジェクトにとって好都合>という理由で、原発は推進される。

 展開上、主人公の堂内の存在感が希薄になっていくのは仕方がないだろう。ラストに堂内がフェードインした新宿は焼け跡闇市派の野坂の心象風景そのものだった。ジョージ・オーウェルの「1984」と匹敵するとはいわないが、「オペレーション・ノア」は21世紀の日本を見据えた預言の書といっていい。単行本も文庫も絶版なって久しいが、今の日本を憂える方には必読の書といえる。

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