酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「時間」~堀田善衛が問う南京大虐殺の真実

2017-09-08 13:02:23 | 読書
 〝戦争が出来る国〟に邁進する過程で、「侍」や「サムライ」が代理店の仕掛けもあり、プラスイメージに変わった。〝侍ジャパンが負けられない戦いに挑む〟なんて、出征兵士を送る戦前と重なり、寒気がする。<理想の武士道>を追求したのが「子連れ狼」で、拝一刀は「士たる志を持つ者こそが武士」と言い放ち、一揆に立ち上がった農民の側に立つ。

 だが、<武士の実像>は理想から程遠い。お上に従い、下と見做した者への残虐行為を繰り返す。侍の負の側面を受け継いだのが日本兵で、アジアに甚大な傷痕を残した。<侍=日本兵=スポーツ選手>と否定的に受け取る外国人も多いはずで、五輪に向けてこのキャッチを撤回するべきだ。

 80年を経た二つの情景が、脳内でショートしない。まずは現在……。日本各地を旅すると、中国人の群れと遭遇する。日本人客が減った観光地にとって、中国からのツアーが命綱になっているようだ。中国にはスケールの大きさと美しさに言葉を失う景勝地が無数に存在するという。それでも来日するのは、日本旅行がブランドなっているからだろう。中国人による爆買いも、商業施設を潤した。

 翻って1930年代……。日本軍が中国を蹂躙した。中国は<反日教育>で歴史認識を植え付けようとするが、効果は疑問だ。中流以上によるツアーだけでなく、映画「牡蠣工場」(15年、想田和弘監督)では、貧しい労働者や農民がブローカーの仲介で出稼ぎする構図が示されている。

 1959年、広島の原爆資料館を訪ねたゲバラは、「日本人はなぜ、アメリカを許しているのか」と同行したジャーナリストに詰め寄った。アメリカに従順な日本人が奇異に映ったようだが、中国人もまた、キリスト教徒やイスラム教徒の理解を超えた〝アジア的寛容〟を共有しているかに見える。

 南京大虐殺を直視した「時間」(堀田善衛、1953年/岩波文庫)を読了した。「海鳴りの底から」、「橋上幻像」、「方丈記私記」を読んだのは20代前半だった。距離を取って戦うアウトボクサーというイメージを抱いていたが、35年ぶりに堀田作品に接した「時間」は息詰まるインファイトで、日本人の罪障を突く兇器だった。

 海軍部に勤務する陳英諦の目を通して南京虐殺を描いている。日本軍が南京入りする直前、司法官の兄は「この家の財産を守れ」と厳命し、漢口に逃れた。ちなみに兄は東大で学士号を得たという設定だ。出産を控えた妻、幼い息子と家を守る陳の元に、従妹の揚が危険を顧みずやってきた。

 還暦の身に、「時間」は苦行だった。殺戮と強姦を繰り返す日本兵の振る舞いに、ページを繰る手は止まり、思念が小説の外に飛んでいく。日本人とは何か、戦争とは、戦争が育む狂気とは……。そして自問自答する。「その場にいたら、俺は同じことをしたのだろうか」と……。

 身重の妻は強姦されて殺され、息子も虫けらのように命を奪われる。揚もまた集団強姦の末、業病をうつされ、痛みを和らげるために打ったヘロインの中毒になる。生き延びた陳は同胞の死体処理に従事し、接収された自宅で諜報担当の桐野大尉の下僕になる。

 陳が正気を保っているのは、任務を負っていたからだ。スパイ網を活用し、桐野のファイルから得た情報を、地下室から国民政府に発信する。そして、日本、日本軍を怜悧に分析する。<天皇という神が現存するからこそ、称えることで残虐行為が許される>……。あるいは、<全世界の征服と全世界からの逃亡は、日本にとって同義ではなかろうか>……。

 <この時間は、われわれが普通想っているように、生から死へと向うだけのものではなくて、死への方からもひたひたとやって来ている、そして現在の時間は、いつもこの二つの時間が潮境のように波立ち、鼎の油のように沸き立っているという、そんな風に在るのかもしれぬ。その潮境には最初のものも終末も、戦争も虐殺も強姦も、一切が相接合し競合している>(251㌻)……。長々と引用したが、ここにタイトルの意味が集約されている。

 本作のテーマの一つはアイデンティティーの揺れだ。陳は国民政府の諜報員だが、共産党にシンパシーを抱き、抵抗→革命が正しい道筋と考えている。政府高官の兄は強欲な拝金主義者で、伯父は日本軍の協力者だ。長年の同志Kの心も、女性が原因で揺れていた。自軍の蛮行を知り尽くしている桐野は、陳の正体を知りながら捕らえない。回復すれば確実に敵になる揚の保護も受け入れた。

 病床の揚と、彼女を見守る刃物屋の青年が存在感を増していく。陳は繰り返し自殺を図る揚を〝真に闘う者〟と見做し励ます。その内発性に期待を寄せているからだ。一方で、何かに触発されてようやく闘う者をニヒリストと斬り捨てていた。

 読了後、「その場にいたら、俺も同じことをしたのだろうか」と再度、自問自答する。同調圧力に耐える自信はないから、恐らく「しただろう」……。だからこそ、自分を、そして全ての日本人を獣にしないためにも、不戦を謳う憲法9条は必要なのだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする