酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「けんかえれじい」の奇跡~清順が描いた青春

2005-05-16 03:18:10 | 映画、ドラマ

 今月は鈴木清順監督の作品に触れる機会が多かった。衛星第2で「けんかえれじい」、スカパーで60年代半ばの5作品が放映されたからである。

 まず、初見だった3作について。

 「関東無宿」(63年)は純粋さゆえ破滅する若いヤクザを描いている。小林旭の渋い演技が冴え、伊藤弘子と松原智恵子のダブルヒロインも魅力いっぱいだ。大藪春彦原作の「野獣の青春」(同)では、宍戸錠が破天荒な風来坊を演じている。暴力団の抗争に刑事の心中事件が絡むミステリー仕立てになっていた。「刺青一代」(65年)は、高橋英樹が流れ者の鉄を演じている。鉄が単身乗り込む場面の斬新な映像、繰り返し現れる赤い靴のイメージ、和泉雅子のおきゃんぶりが印象に残った。

 「けんかえれじい」(66年)は、邦画史に輝く青春映画の傑作である。リアルタイムで見た人は、違和感を覚えたかもしれない。任侠物などで男を磨いてきた高橋英樹が、ピンボケな少年を演じていたからだ。

 岡山の旧制中学に通うキロクは、スッポンという良き先輩の教えもあり、喧嘩では知られる存在になっていく。硬派を装うキロクだが、下宿先の娘に惚れている。道子を演じる浅野順子の可憐さも、作品の付加価値だ。純情さや不器用さと同時に、キロクの欲望がユーモラスに描かれていた。屹立した●●●でピアノを弾くシーンなど、「障子破り」に匹敵する名場面ではないだろうか。

 戦争へと突き進む時代、キロクは無数の画びょうを素足で踏んでまで、軍事教練の担当将校に反抗する。結果として、会津の中学に転校したキロクは、喧嘩を続けながらも大人への階段を登り始める。北一輝や退廃的な女流歌人との出会い、道子との別離……。2・26事件を知ったキロクは、戒厳令が敷かれた東京に向かった。

 俺が「けんかえれじい」に惹かれるのは、清順らしからぬオーソドックスな作品だから。画面で弾ける躍動感や滑稽さは、岡本喜八を彷彿とさせる。キロクと道子が桜並木を歩くシーンは、カラーなら息を呑むような映像になったはずで、少し残念な気もする。

 高橋英樹と中尾彬がトーク番組で共演した際、「『けんかえれじい』は邦画史上、五指に入る傑作」と中尾が話すと、高橋は照れ臭そうな表情を浮かべていた。公開当時は低評価に甘んじていたが、口コミで支持者を増やしていく。「この映画、知ってる?」「見てないと思うけど」と、何人もの映画通が異口同音に本作の存在を教えてくれた。俺も見た後、宣伝したのは言うまでもない。

 日活で撮った最後の2本は、清順の異才ぶりを示している。「東京流れ者」(66年)では、義理に縛られる一匹狼を渡哲也が演じた。テーマ曲が繰り返し流れる中、清順の美学が炸裂する。宍戸錠主演の「殺しの烙印」(67年)は、アヴァンギャルドというより、確信犯的にぶっ壊した作品。当時の日活には、作品はスターに属し、作家性は二の次というルールがあった。清順の過剰なまでの映像へのこだわりや常識破りは、制約の多い会社への反抗だったに相違ない。

 「殺しの烙印」完成後に日活を解雇され、次にメガホンを執るのは10年後になる。このブランクで「けんかえれじい」の続編が頓挫した。洩れ聞いたところでは、悲劇的な結末が用意されていたという。作られなくて良かったと思う。「けんかえれじい」は暗示的なラストとともに、清冽で切ない青春映画として、人々の記憶に残っているからだ。
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