プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

★ボランティアの心~完~

2007-06-22 09:44:04 | 日記・エッセイ・コラム

 私達が、日常生活の中でごく自然に口にするボランティア活動。日本語では、”奉仕活動”だが、こう言うと何か古めかしく響く。「ボランティア活動が老後の生甲斐」というと、その人が善意の塊のように響く、不思議な語感をもっている。

 「ボランティア」の3原則は、”自主性、無報酬、公共性”。日本は農耕民族だから、語源の志願兵や宗教色抜きの相互扶助の精神が歴史的に息づいている。町内会や自治会、消防組織などは、地域社会の互助が土壌だし、民生委員や公民館活動なども地域奉仕活動のベースを成している。国民皆保険や年金制度なども、世界に誇る日本の相互扶助文化といえるかも知れない。

 ところが、最近では、自分の権利を主張するあまり、自己犠牲を強いる活動を拒否する人が増えつつある。反面、核家族化・超高齢化社会が進展するなかでは、ますますその必要性が高まっている。一方、行政機関では、財政の悪化からコストの一層の低減が求められ、有事の対応が迅速かつ的確に行える仕組みを維持することが困難になってきている。

 NPO団体が続々誕生した背景には、その機能を代替する効用もあるが、これもそれを構成するボランティアの存在が不可欠だ。日本社会全体がこの自己矛盾を如何にして解決していくのか。私達ひとり一人が、より住み易い社会にするために、自分の時間を少しずつ出し合い、公共性をシェアする気持ちを持たない限り、為政者でも解決出来る課題では無いように思える。


★ボランティアの心~その2~

2007-06-21 09:10:31 | 日記・エッセイ・コラム

 我が町内会に、待望の「防犯パトロール隊」が誕生した。ある知恵者の発案で、外出時に「防犯パトロール」と標記した腕章を巻くというもの。(写真)Epsn0004_5

 少子高齢化が急速に進む社会環境下では、交通事故防止や不審者対策は、住民自らの手で防御するのが賢明だ。とはいえ、活動がノルマ化されると、住民の意識の濃淡もあり、全体化が難しいのが現実。日常生活の範囲内で、ちょっとした心がけで抵抗なく出来る取組みは妙案だ。Epsn0001_18 私は、ジョギング時に着装しているが、全く違和感がない。

 さて、最近、世の中全体が、自助努力をしないで他人任せにする風潮が強くなってきている。スクール・サポート隊には、児童の父兄が参加しないで、高齢者が従事している。町会親睦会でのプール遊びは、町会役員の負担が大きいというので中止になった。楽しい筈の行事がリスク回避対策で実施出来ないのは、寂しい。

 「健康と安全は自らの手で」が基本だが、行政や他人の好意に甘える親が多い。自分の生活は不可侵で、利用できるものは何でも利用するとの心は、高度経済成長過程で日本人が置き忘れてきた「大切なもの」の一つだ。感謝の念を忘れ、協力の気持ちすら失せると、一部有志の負荷を増幅させる。この出口のないループに落ち込みもがいているのが、今の日本社会のように思えてならない。


★ボランティアの心~その1~

2007-06-20 10:48:19 | 日記・エッセイ・コラム

 「能登の皆さん、7月8日を楽しみに待っていて下さい」と、ラジオを通してパーソナリティが興奮気味に紹介した。続いて、ゲストのカリスマ・パティシエが自画自賛のコメント。

 曰く、3年前に中越地震が発生した際、被災者に美味しい物を提供しようと、現地に出向き、高級料理(寿司・フランス料理等)を振舞ったら喜ばれたとか。後日、国交省から感謝状をおくられ、その意図を汲んで、仲間とボランティア組織を立ち上げ資金集めを開始。その矢先、能登地震が発生したので、現地慰問をするのだそうだ。

 スタッフが事前調査に出向いたら、住民が仕事や後片付け作業に追われて昼間は不在の状況なので、昼の時間帯を空けておいて欲しいとラジオで呼びかけていた。東京からの日帰りになるので、住民に協力してくれというのがその理由。大物のボランティア活動って、凄いんだ!

 私のような天邪鬼は、つい勘ぐってしまう。「日頃、あまり高級な料理を食べる機会がないだろうから、私が腕を奮ってご馳走を並べましょう。食足りてこそ、パワーも沸いてくるというものです。有難いことでしょう。」と。その料理人が、どれほど高名な人物か知らないし、関心もない。単なるボランティア活動に名を借りた売名行為に映る。「好意から発した行為」と認めつつも、政府が浅はかさを助長しているようでもあり、素直に歓迎できないでいる。


★衝動買いはストレス解消策?

2007-06-19 15:36:26 | 日記・エッセイ・コラム

 寝返りをうつと、ふくらはぎが痙攣する症状が三日間も続くと、さすがに心配になって病院へ出向いた。手と足、腰のレントゲン撮影の結果は異常なし。「怪我をしてから2週間以上経つのに、治りが遅いですね」と医師に問うと、「年齢相応の回復状態だよ」と、笑われた。

 帰りに、理容店に立ち寄った。夏らしく、短めにしてもらうことにした。バリカンの音を聞きながら、水戸で理容店を営む妹夫婦の言葉を思い浮かべた。彼らは、ここ20数年間、毎月、老人ホームへ整髪のボランティアに出かけているので、介護の裏舞台をよく知っている。

 老人ホームの人の頭が短い髪なのは、「洗髪時に介護士の手間をはぶくため」だそうだ。個々の人の好みに応えてあげたくても、施設側から注文が付く。「テレビで紹介する介護の映像と実態は、天と地ほどの違いがある」と言った。だから、「にいさん達は、将来、施設に行くと言ってるけど、考え直した方がいいよ」とも。コムスンの事件は、この話を聞いた直後だったので、複雑な思いだ。

 頭がさっぱりしたせいか、もう一つ寄り道したくなり、某デパートの「北海道物産展」へ。しばらく行かないつもりだったのにと、自分でも不思議な衝動だった。観るだけのつもりが、わずか20分の間に持参したバッグが満杯状態に。身も心も懐も軽くなったが、帰宅したら女房から皮肉まじりの小言が飛ぶと思うと、足取りだけは重くなった。


★望外のよろこび

2007-06-18 09:25:09 | 日記・エッセイ・コラム

 世の中に「記念日」と名のつく日は、一体どれ位あるのだろう?今から15年位前になるが、某新聞のエッセー欄に原稿を依頼され調べたら1600前後だったが、現在の数は知らない。当時、企業広報を担当しており、毎月「19日」を「トークの日」と読み替え”トーク名画劇場”と題したイベントを開催していたので、記者がテーマに取り上げてくれたものだ。引き受けたものの、記念日の定義で悩んだことを記憶している。

 国民の祝日のように公的なものや、商業ベースに基づくもの等々、線の引き方により際限がない程、「○△記念日」が氾濫している。私的なアニバーサリーまで含めると、毎日が記念日になってしまい、記念日そのものの意味合いが希薄になる位だ。

 さて、昨日の「父の日」に贈り物をするかどうかを某メディアが事前調査した。「贈る予定」の人が27%で、「贈るつもりはない」人が圧倒的だった。数字的には、「母の日」と完全に逆転現象。「世のお父さん、何ももらえなくても落胆しないで下さい」のメッセージが余計、哀感を誘った。家庭における父親の存在感を象徴しているようで複雑な気分になる。Epsn0001_17

 夫たるものは、家族全員の生年月日や結婚記念日位は、正確に覚えておきたいものである。贈り物をするかどうかは二の次だ。心の中で、「今日は何の日」かを問い直し、かさばらない言葉の贈り物をするも良し、形にするも又、良しだ。昨夕、長時間にわたる町内の役員会から戻ると、長女から花籠(生花ブーケ)が届いていた。短い一言が添えられており、疲れが一気に吹き飛んだ。