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兵庫運河の歴史

2014年06月15日 16時58分26秒 | 神戸情報
2014-6-11に薬仙寺付近の防潮堤水族園の魚の展示に混じって兵庫運河ができるまでの苦労を
物語風にたパネルが目にとまったのでそのまま引用紹介します。









上記の3と4のパネルで神田兵右衛門が新川運河を明治9年(1876)に作った内容が書かれています。

神田兵右衛門の顕彰碑は和田神社にあります(その写真を下に添付)


文章の内容は下記のとおり。
「神田翁彰徳碑
兵庫県知事正三位勲一等服部一三篆額

 求めて得ざる者は名にして、得て失ひ易き者は望なり。衆望の之に帰し、人之を服慕し令名益々盛なるは実に難し。神田翁の如き難ずる者も難ぜず。謙にして愈々顕はる。其積徳の致す所、偉と謂ふベきなり。翁、名は胤保(たねやす)、号は松雲、播州印南郡大塩村梅谷庄左衛門君の第三子。天保十三年二月十八日を以て生る.安政三年六月兵庫神田氏の養ふ所となる。(養子となる)慶応元年九月家を嗣承し父の称兵右衛門を襲ふ。明治元年二月会計宮御用掛となり東征の出納を掌る。時に姫路藩未だ順逆をつまびらかにせず向背決せず。岡山兵来りせまる。上下紛擾し藩老高須隼人、薩将岩下氏と謀り以って帰順す。翁此議に参与し周旋甚だ力む。盗を防ぎ暴をふせぐの法制未だ定まらず。翁即ち議して町兵隊を編し以て不慮を警す。又教育の急務たるを論じ、学堂を建置す。命じて明親館といふ。五年学制始めて定まる。すなわち小校十数を設く。又地を購ひ拡張す。今の兵庫尋常小学の地是也。港湾未だ全からず。新川杜を籾(はじ)め、新渠をうがち九年七月川成る。翁まさに区長たり。故に名を避け実を修めえ事に当り竣工す。地を得ること九千余坪、湊西区財産となし、又官に請うて、瀕海(海辺)の地一満有余坪を得、諸街(緒町)に分配し以って共有財産と為す。凡そ埠頭(はとば)の地船舶の遭難発する者あれば害の大小、貨の多寡に準じ費金を課賦し、俗に浦仕舞と呼ぶ。これ他人の禍難を利するなり。翁痛論して之を除く。翁天資忠恕(思いやりの心)敦厚(親切で手厚い)、謙(謙虚)にして克(自制する)。成人皆心服す。凡そ議会には悉く之に参じ町に於て市に於て県に於て長となり、或は常に員となる。郡区経済を分離し、社局を創立する等、諸の大項より以って学務衛生殖産、勧商に至るまで心を尽さざる所なし。その水利に於て最も力を致すと云ふ。(水道市設委員長として、神戸市水道布設に尽力) 三十二年九月官 藍綬褒章を賜ひ銀杯之に副ふ。四十二年十二月特旨を以って、従六位に叙せらる。今玄康戌翁年七十、市民同志相謀り碑を建て以て其徳を彰せんと欲して来りて余に文を請ふ。ああ名声■然(めいせいきょうぜん)。衆すなわちこれを後世に顕はさんと欲す。齢古希にのぼり(達し)衆すなわちいよいよ高きを祈る。其衆望を得るの厚きことかくの如し。以って銘せざるべからず。銘に曰く 摩耶の山 武庫の海 徳深く 衆以って相比ぶ 論を立てて 忠誠 勲功これ偉なり 理水殖財沢、都市に遍し望の帰する所 僉済美(みなさいび)を推す(父祖の業を承けて成功する事)上寿(長寿)奚(いずくん)ぞ疑はん 君子(やはらぎ)を楽しむ。

明治四十三年庚戌十月
浪華 南岳藤沢恒 撰
従五位勲四等大邨屯書」


詳細な紹介記事(小生のブログ)
  http://seiyo39.exblog.jp/10180127/









上記のパネルの文章とは違いますが同じ内容で兵庫運河ができるまでの過程を小生の
ブログでもまとめています。
  http://seiyo39.exblog.jp/17753032/

通常、船が兵庫の港に入るためには和田岬をまわらなければならなかった。
兵庫の和田岬付近では高い波が発生し、強い南風が吹く為、海難事故が多かった。
東西に大きな運河を掘れば、和田岬を回ることなく安全に兵庫津に入港することができる。
この運河計画は明治7年の兵庫新川(出在家町から島上町の半円形の新川運河)
開設の時からあったが、実行できなかったものである。
上記の新川運河の建設に功があったのが神田兵右衛門と島田重五郎である。

上記の構想を実現させたのが魚問屋や内国貿易で成功した八尾善四郎である。

八尾善四郎は東京の安田善次郎の支援を得て神戸の武井守正、石井村の谷勘兵衛
飾東郡の近藤薫、西尻池町の藻川豊三郎らが出資し明治26年(1893)11月に
資本金35万円の兵庫運河会社を設立し事業を実施した。
 明治29年(1896)1月30日に起工式。しかし、運河予定地の地主達からは
運河が耕作地を分断する上灌漑用井戸に塩水が混入するやも知れぬとの反対
(補償求める)や日清戦争後の地価高騰などにより土地の買収に困難を極めた。
しかも、運河口より100間ばかりのところが浅瀬であり、吃水の深い船が運河へ
近づくのは危険であり、そのため、運河を掘った土で浅瀬を埋め、島を作り
西南からの風波を防ぎ出入りの船の便宜を図りながらの工事で、大変な苦労をして
東尻池町から岬町を経て兵庫新川までを結ぶ大運河が完工したのが
明治31年(1898)4月のことである。
上記の島が現在の刈藻島である。

この困難を極めた事業では最初、八尾善四郎に協力していたものも次々と去り、
最後には八尾善四郎ただ一人で行ったといわれている。

八尾善四郎はこの事業に私財のほとんどつぎ込み完成に到った。
この兵庫運河の建設は明治34年竣工の湊川付け替え工事、明治38年に竣工の
烏原貯水池(水源地)と共に神戸における明治期の3大土木事業
と言われています。





上の2枚の写真は関連のパネルと2枚のパネルの遠景です。

新川運河のキャナルプロムナードには兵庫運河の歴史という表題のパネル解説がありそれらについても
そのまま引用紹介します。


上のパネルが兵庫運河の歴史を説明した文章です。



上の2枚の写真は詳細説明のパネルです。

改めて2014-6-11撮影の兵庫運河の写真と八尾善四郎の銅像の写真を添付しました。
(下の3枚の写真)











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