萩の散策とグルメシリーズの第12回となります。
昨日のNHKテレビ大河ドラマ「花燃ゆ」では安政元年(1854年)、伊豆下田港にて、
再航したペリー艦隊に金子重之輔と二人で赴き、密航を訴えるが拒否される。
密航が失敗に終わった後、そのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され
野山獄に幽囚される。(金子重之輔は岩倉獄へ)
上記に刺激され本日は萩市の野山獄と岩倉獄について綴っていきます。
を写真で紹介していきます。
過去11回の萩の散策とグルメシリーズの記事内容は以下のとおりです。
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4 松浦松洞誕生地
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑 in 松陰神社
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その10 萩八景 遊覧船めぐり
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その11 萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)
まず、野山獄・岩倉獄跡の所在地について紹介していきます。
上の写真は現地にあった説明板に書かれているものです。萩市今古萩町にあります
Goo地図はこちら
野山獄・岩倉獄跡は萩藩の牢獄跡で、武士が野山獄、町人や農民は岩倉獄に入れられました。
吉田松陰は野山獄、従者の金子重之輔は岩倉獄に投獄されました。
上の写真は野山獄跡の遠景です。
上の写真は入り口右手の「野山獄址」と書かれた石碑
上の写真は現地説明版です。
野山獄跡
正保2年(1645)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組・禄高200石)は酒に酔って道を
隔てた西隣の藩士野山六右衛門(大組・禄高200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。
この事件のため、岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になった。
野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。
なお、現在の指定地は獄の一部分である。
幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者金子重之助(重輔)
は岩倉獄に投ぜられた。松陰はここで仲間の囚人を教化するという前例のない
教育活動を行っている。
野山獄はまた、維新前夜の藩内抗争の中で、正義派(革新派)・俗論派(保守派)
双方の藩士が投ぜられ、処刑された場所でもある。
萩市
上の写真は野山獄・岩倉獄の配置図(現地説明板より)
上の写真は野山獄十有一烈士之碑
大正13年(1924)に建立された碑で上部には毛利元昭の篆額で「野山獄十有弌烈士
之碑」と書かれ、元治元年(1864)12月19日正義派の11名が禁門の変の責任を
責められ、俗論派によって処刑された追悼碑として11名の功績が原田貞男の撰、
安藤紀一の書によって刻されています。
碑文の全文は下記のとおり
(碑文)
正二位勲二等公爵毛利元昭篆額
贈正四位前田孫右衛門君、諱ハ利済、性廉直才ヲ愛シ衆ヲ容ル、藩主忠正公父子勤王ノ業ヲ翼ケテ功多シ、元治元年京師ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年四十七
贈正四位宍戸左馬之助君、諱ハ真澂、性沈黙重厚ナリ、公父子ノ勤王ノ業ヲ翼ケテ日夜懈ルコトナシ、元治ノ変ニ因リ十一月十二日野山獄ニ於テ斬ラル、享年六十一
右ノ二士ハ明治二十四年四月八日特旨贈位ノ典アリ
贈正四位毛利登人君、諱ハ武、性重厚母ニ事ヘテ孝ニ文武並ニ長シ公父子勤王ノ業ヲ翼ク、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年四十四
贈正四位山田亦介君、諱ハ公章、性明敏兵事ニ通シ藩ノ兵制改革ニ与リテ力アリ、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年五十五
贈正四位竹内正兵衛君、諱ハ勝愛、性沈毅果決武芸ニ長ズ、公ノ王事ニ勤メラルルヤ国費殆支ヘズ、君拮据シテ金穀ヲ調発シ絶乏ノ憂ナカラシム、元治ノ変ニ因リ十一月十二日野山獄ニ於テ斬ラル、享年四十六
贈正四位中村九郎君、諱ハ清旭、人ト為リ雄偉気ヲ負ヒ夙ニ盛名アリ、公父子勤王ノ業ヲ翼ク、元治ノ変ニ因リ十一月十二日野山獄ニ於テ斬ラル、享年三十七
贈正四位佐久間佐兵衛君、諱ハ義済、状貌秀偉鋒快利胆気アリ、尊王ノ大義ヲ唱ヘテ一藩ヲ風励シ、公父子ヲ佐ケテ国事ニ力ム、元治ノ変ニ因リ十一月十二日野山獄ニ於テ斬ラル、享年三十二
贈正四位大和国之助君、諱ハ直利、性温厚克ク尊攘ノ事ニ奔走ス、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年三十
贈正四位楢崎弥八郎君、諱ハ清義、性謹厳志操アリ克ク尊攘ノ事ニ奔走ス、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年二十八
贈正四位渡辺内蔵太君、諱ハ暢、躯幹壮偉剣技ニ長シ克ク尊攘ノ事ニ奔走ス、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年二十九
贈正四位松島剛蔵君、諱ハ久誠、性豪爽縄墨ニ拘ラス夙ニ蘭学ヲ修メ海軍ノ興隆ヲ以テ自任ス、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年四十
右ノ九士ハ明治二十四年十二月十七日特旨贈位ノ典アリ
大正十三年十二月 原田貞雄 撰
従六位勲六等 安藤紀一 書
上の写真は吉田松陰先生筆蹟の文字を組み合わせて作られた「合霊碑」の石碑。
昭和49年(1974)11月に、今古萩町町内会によって建立(左手奥)
上の写真は右手奥にある十一烈士絶命之處と書かれた石碑
動画も添付しておきます。
次に岩倉獄跡の話題に移ります。
上の写真は岩倉獄跡の左手の「合霊碑」と書かれた石碑(大正13年(1924)9月建立)
上の写真は「金子重輔君絶命之處」の碑 揮毫は萩出身の首相 田中義一。
大正13年(1924)9月、吉田潤一氏が建立
上の写真は吉田松陰詩碑 「獄中聞渋木生赴」
昭和8年(1933)8月、吉田潤一氏が建立
昨日のNHKテレビ大河ドラマ「花燃ゆ」では安政元年(1854年)、伊豆下田港にて、
再航したペリー艦隊に金子重之輔と二人で赴き、密航を訴えるが拒否される。
密航が失敗に終わった後、そのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され
野山獄に幽囚される。(金子重之輔は岩倉獄へ)
上記に刺激され本日は萩市の野山獄と岩倉獄について綴っていきます。
を写真で紹介していきます。
過去11回の萩の散策とグルメシリーズの記事内容は以下のとおりです。
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4 松浦松洞誕生地
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑 in 松陰神社
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その10 萩八景 遊覧船めぐり
城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その11 萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)
まず、野山獄・岩倉獄跡の所在地について紹介していきます。
上の写真は現地にあった説明板に書かれているものです。萩市今古萩町にあります
Goo地図はこちら
野山獄・岩倉獄跡は萩藩の牢獄跡で、武士が野山獄、町人や農民は岩倉獄に入れられました。
吉田松陰は野山獄、従者の金子重之輔は岩倉獄に投獄されました。
上の写真は野山獄跡の遠景です。
上の写真は入り口右手の「野山獄址」と書かれた石碑
上の写真は現地説明版です。
野山獄跡
正保2年(1645)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組・禄高200石)は酒に酔って道を
隔てた西隣の藩士野山六右衛門(大組・禄高200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。
この事件のため、岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になった。
野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。
なお、現在の指定地は獄の一部分である。
幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者金子重之助(重輔)
は岩倉獄に投ぜられた。松陰はここで仲間の囚人を教化するという前例のない
教育活動を行っている。
野山獄はまた、維新前夜の藩内抗争の中で、正義派(革新派)・俗論派(保守派)
双方の藩士が投ぜられ、処刑された場所でもある。
萩市
上の写真は野山獄・岩倉獄の配置図(現地説明板より)
上の写真は野山獄十有一烈士之碑
大正13年(1924)に建立された碑で上部には毛利元昭の篆額で「野山獄十有弌烈士
之碑」と書かれ、元治元年(1864)12月19日正義派の11名が禁門の変の責任を
責められ、俗論派によって処刑された追悼碑として11名の功績が原田貞男の撰、
安藤紀一の書によって刻されています。
碑文の全文は下記のとおり
(碑文)
正二位勲二等公爵毛利元昭篆額
贈正四位前田孫右衛門君、諱ハ利済、性廉直才ヲ愛シ衆ヲ容ル、藩主忠正公父子勤王ノ業ヲ翼ケテ功多シ、元治元年京師ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年四十七
贈正四位宍戸左馬之助君、諱ハ真澂、性沈黙重厚ナリ、公父子ノ勤王ノ業ヲ翼ケテ日夜懈ルコトナシ、元治ノ変ニ因リ十一月十二日野山獄ニ於テ斬ラル、享年六十一
右ノ二士ハ明治二十四年四月八日特旨贈位ノ典アリ
贈正四位毛利登人君、諱ハ武、性重厚母ニ事ヘテ孝ニ文武並ニ長シ公父子勤王ノ業ヲ翼ク、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年四十四
贈正四位山田亦介君、諱ハ公章、性明敏兵事ニ通シ藩ノ兵制改革ニ与リテ力アリ、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年五十五
贈正四位竹内正兵衛君、諱ハ勝愛、性沈毅果決武芸ニ長ズ、公ノ王事ニ勤メラルルヤ国費殆支ヘズ、君拮据シテ金穀ヲ調発シ絶乏ノ憂ナカラシム、元治ノ変ニ因リ十一月十二日野山獄ニ於テ斬ラル、享年四十六
贈正四位中村九郎君、諱ハ清旭、人ト為リ雄偉気ヲ負ヒ夙ニ盛名アリ、公父子勤王ノ業ヲ翼ク、元治ノ変ニ因リ十一月十二日野山獄ニ於テ斬ラル、享年三十七
贈正四位佐久間佐兵衛君、諱ハ義済、状貌秀偉鋒快利胆気アリ、尊王ノ大義ヲ唱ヘテ一藩ヲ風励シ、公父子ヲ佐ケテ国事ニ力ム、元治ノ変ニ因リ十一月十二日野山獄ニ於テ斬ラル、享年三十二
贈正四位大和国之助君、諱ハ直利、性温厚克ク尊攘ノ事ニ奔走ス、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年三十
贈正四位楢崎弥八郎君、諱ハ清義、性謹厳志操アリ克ク尊攘ノ事ニ奔走ス、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年二十八
贈正四位渡辺内蔵太君、諱ハ暢、躯幹壮偉剣技ニ長シ克ク尊攘ノ事ニ奔走ス、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年二十九
贈正四位松島剛蔵君、諱ハ久誠、性豪爽縄墨ニ拘ラス夙ニ蘭学ヲ修メ海軍ノ興隆ヲ以テ自任ス、元治ノ変ニ因リ十二月十九日野山獄ニ於テ斬ラル、享年四十
右ノ九士ハ明治二十四年十二月十七日特旨贈位ノ典アリ
大正十三年十二月 原田貞雄 撰
従六位勲六等 安藤紀一 書
上の写真は吉田松陰先生筆蹟の文字を組み合わせて作られた「合霊碑」の石碑。
昭和49年(1974)11月に、今古萩町町内会によって建立(左手奥)
上の写真は右手奥にある十一烈士絶命之處と書かれた石碑
動画も添付しておきます。
次に岩倉獄跡の話題に移ります。
上の写真は岩倉獄跡の左手の「合霊碑」と書かれた石碑(大正13年(1924)9月建立)
上の写真は「金子重輔君絶命之處」の碑 揮毫は萩出身の首相 田中義一。
大正13年(1924)9月、吉田潤一氏が建立
上の写真は吉田松陰詩碑 「獄中聞渋木生赴」
昭和8年(1933)8月、吉田潤一氏が建立
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