マッハの貴公子 C1Runner の熱~い日記でつ(¬_,¬)b フフフ・・・

マッハの貴公子 天才タケスィが熱~く語るでつ( ̄ω ̄)ムフ~

神様とぼく 

2023-09-03 07:10:29 | ビジネス
経営の神さま松下幸之助さんによって、松下電器産業の3代目社長に大抜擢ばってきされた山下さん。
山下さんは、1977年、取締役26人のうち下から2番目だったから山下飛びと言われて社長に就任。

創業家とは無縁、大卒でもない。
定時退社を旨とし、権力欲はない。
社内に対し私は偉くないと言い放ち、9年間務めたでつ。




ジャパン・アズ・ナンバーワンと絶賛され、家電メーカーの売上が倍々ゲームで増え続けた80年代。
この時、危機の到来を予見していたのが、山下さん。
世界屈指の家電メーカートップだった山下さんは、絶頂期にあって「アクション61」と呼ばれた全社的な大改革プランを打ち上げたでつ。

A61は松下電器をGE、IBMに伍する巨大国際企業に押し上げる一本道。
巨大化への大号令を発した山下さんが、同時に見詰めていたのは、松下で最小最古、従業員30人弱の乾電池工場。
マンガン電池のキャップをコンテナ納入に切り替え、梱包代を節約して電池1個につき1銭の合理化。

思い切って燃費のいい小型ボイラーを導入し、3毛の投資効果。
吹けば飛ぶような零細工場が1円どころか、厘・毛の戦いを繰り広げ、Aランクの利益率を更新し続けてたでつ。

山下さんは言うでつ。
「ああいう体質を土台にしたい。
ああいう体質を獲得できなかったら、松下はダメになる
。それは、私の危機感です」。
小集団が「自主独立経営」するとき、最高の強さを発揮するでつ。

企業は巨大化すると必ず弱くなるでつ。
だから、小さいまま大きくなろう。

「A61」の2つのスローガン、「事業構造の転換」と「体質強化」にその思いを込めたでつ。
全社員にアンビバレントな視座を持つこと、言い換えれば、矛盾を生きる覚悟を訴えたでつ。

家電メーカーから産業エレクトロニクス・メーカーへの転換、国内企業からグローバル企業への転換を訴えたこの改革は、まさに先見の明をもつ改革。
仮に、松下がこの大改革を実行していれば、日本のエレクトロニクス産業の姿は、現在とはまるで違うものになっていたでつ。

現場の問題点をすくいあげ、危機を察知する。中期計画を導入し、VHSビデオ推進に重要な役割を果たすでつ。
新しい分野への進出=構造転換、拡大ではなく規模を変えずに生産性を上げる=体質強化、の二つを柱に同社を変えるでつ。
どれも、活力があって困難から逃げない会社にするために、山下さんが気負わずに成し遂げたでつ。

だから、山下さんが退いた後、松下というよりパナソニックの現状はになるでつ。
山下さんと似て非なる合理主義は株価だけを見でつ。

山下さんは、個のための全体という幸之助さんの考えを仕事で感動の場を社員に与えると読みかえたでつ。
そうやって部下を理解する上司はどこにいるのか。

山下さんは、バブルがまだ地平線に姿を現していないときに、「ほろびゆくものの最大の原因は奢りです」。
過去の栄光におぼれ、新しいもの、困難なものに挑戦する気迫を失ってはならない。
企業は生きています。
活力のある企業は栄え、活力を失った企業は衰えます。
一度守りの姿勢になった企業は衰退の一途をたどるのみ。

山下さんは「事業構造」の変革を、社員一人ひとりを揺り動かす「運動」として組織、経営とは感動を与えることでつ。
これが、山下さんの一貫した経営信念でした。会社が大きく変わること、そして社員が主体的にそこに関わっていくことでつ。
それが一人ひとりの感動の源泉になると考えたのでつ。

山下さんは不思議な経営者。
社長になるはずのない男。
学歴は工業学校止まり。
1度は松下電器を辞めた出戻り。
「経営の神さま」、幸之助翁の「教え」から最も遠い男。

社長に抜擢された後も「こんな迷惑はない」とぼやき続けたでつ。
ぼやき続けたのは、「教え」から最も遠い自分は、やがて幸之助さんと対峙することになる、とわかっていたから。
実際に一時期、「神さま」は激しくいら立つのでつ。

でも山下さんが自分を曲げることはなく、ついに幸之助さんとは山下さんを受け入れ、2人は大きく和解。
山下さんは権力欲のかけらもない人物。
山下さんの大きな無欲が、ブラックホールのように幸之助さんまで吸い込んでしまったでつ。

とある料亭でたまたま司馬遼太郎さんと話し込んだことがあったでつ。
後で司馬さんが言ったでつ。
何ですな。あれは珍しい社長さんですな。ぼくらの仲間に入れてもよろしいな。

山下さんの不思議な“力”をもう1つ。
現在、たった1社で日本エレクトロニクス産業の倍の売り上げを上げるサムスン電子の成功の秘密は2つあでつ。
1つは、日本が怖じ気づいた後も、果敢に半導体投資の手を緩めなかったこと。
もう1つは、携帯電話をはじめとした製品政策のど真ん中にデザインを据えたこと。
すでに述べたように、山下さんの「事業構造改革」の最大のテーマは半導体。

そして、サムスンがデザインの重要性に気づくはるか前、社内の無理解に悩むデザイナーに山下さんはこう言っているでつ。
「それでいいと思いますよ。何も経営者がわかることばかりやるのではなく、デザイナーでなければ理解できないことをやっていいと思うのです」。
もしも、山下さんという経営資源、経営思想が後の世代にしっかり継承されていたなら、と思わざるをえないでつ。

もしも、山下さんが継承されていたなら、かくも無残な日本エレクトロニクス産業の「敗北」はありえなかったでつ。
今とは違う「もう1つの日本」が生まれていたでつ。

そしてそのときの「もう1つの日本」は、アメリカのラウンドテーブルなどは及びもつかない、はるかに豊かで人間的な経営思想に貫かれた、
輝かしい日本のはず。
詮ないことと知りながら、そんな思いを抑えられないでつ。

松下電器の創業者は言わずと知れた経営の神様、松下幸之助さん。
61年、まだ66歳だった幸之助は、49歳の娘婿、松下正治を2代目社長に指名。
幸之助は退任会見の席で「早めに経営の第一線を退き、後継者を養おうと思った」と語り、正治の経営手腕を実地で試し、育てていこうと考えたでつ。

幸之助さんは、正治さんの能力を把握したでつ。
そして、正治さんは、期待に応えることができなかったでつ。
業を煮やした幸之助さんは、わずか3年後の64年に、代表取締役会長・営業本部長代行の肩書で前代未聞の前線復帰を果たすでつ。
これにより、松下電器の経営体制は二重構造が定着。

そして、幸之助さんが次に選んだのが山下さん。
当然ながら異例の抜てき人事で生まれた3代目社長の手腕には大いに注目が集まったでつが、山下の活躍は想像以上だったでつ。

就任以来、毎年のように最高決算を計上。9年間の社長時代に、松下電器を家電専業メーカーから総合エレクトロニクスメーカーに方向転換させ、
売上高、営業利益をそれぞれ2.6倍に押し上げたでつ。

いまでもパナソニックに山下さんの信奉者が多いでつ。
そりは、こうした慧眼と、経営に対する姿勢の厳しさ故。
幸之助さんに見いだされた立場にもかかわらず、創業家に忖度することなく、フェアなスタンスを貫いたでつ。

権力の二重構造の弊害を幸之助の相談役時代に痛感していたでつ。
重要事項を協議するのは新設した常務会とし、会長だった正治さんが常務会に出席することをきっぱりと拒否し、松下家とは距離を置いたでつ。
86年に社長退任した後は、新社長の邪魔をしたくないという思いから、会長職は辞し、取締役相談役に就任。

経営にはタッチしない一方、重要局面では“相談役”としての存在感を発揮。
その一つが、97年に、当時、副社長に就任したばかりの松下正幸さんについて、あるパーティーで記者に語った幸之助氏の孫というだけで、
副社長になるのはおかしいとの発言。

松下では経営課題としてくすぶっていた松下家の世襲問題に、批判的な立場を明らかにしたでつ。
山下さんの“アシスト”が効いたのか、正幸さんの社長就任はついえ、以降、松下家からトップが出されることはなかったでつ。
2008年には社名がパナソニックに変更され、松下の名すら消えたでつが、その種まきをしたのは山下さん。

山下さんのきっぱり感はマネシタ電器の改善もしたところ。
開発能力無、他社の技術で製品開発してたところに喝を入れたのが山下さん。
さらにVHSを世界標準にしたキッカケもしたでつ。

「いい報告はいらん。悪い報告なら聞く」。
山下さんの口癖。
忖度、追従の類いは一切、受け付けない。
部下が社長に上げるレポートはA4サイズ1枚。
報告が10分を超えると、山下さんは脇の時計に目をやるでつ。
報告が長引くと、時計に目をやる間隔がどんどん縮まるでつ。
居たたまれず報告者は早々に退出するでつ。

山下さんが社長に就任した1977年のこと。
日本ビクターに出向していた平田さんが社長室に顔を出したでつ。
「平田君、何か用か。君な、いい報告だったら、いらんぜ。悪い報告なら、聞く」。
平田さんは言ったでつ。
「悪い報告です」。

当時、松下電器は外様の子会社ビクターが開発した「VHS」を松下グループのビデオの統一仕様とすることを決定していたでつ。

ビデオはカラーTVの後の本命商品。そしてVHSはビクターの技術者たちが心血注ぎ、独自に完成した汗と涙の結晶だった。
ところが、松下電器サイドから「VHSは松下電器とビクターの共同開発」という話が流されているでつ。

平田さんは一気にまくし立てたでつ。
「とんでもない話です。
親会社だからといって、開発者の名誉まで取り上げるのか。
ビクターの技術者たちの士気は消し飛んでしまいます」。
社長に成り立ての山下さんは事情に疎かったでつ。
「そうか。調べてみる。しばらく待ってくれ」。

1週間後、山下さんから電話が来たでつ。
「厳重に調べた。
あれは共同開発とは言えんな。
今後一切、共同開発という言葉は使わせない」。
のみならず、山下さんはビクターの役員会に出向き、深々と頭を下げたでつ。

この時の、ビクターの社長さんが山下さんに非協力なことをした松野さん。
当然、ビクターに行けば顔を合わすけど全く出さなかったでつ。
この時の対応に、松野さんは、先の読めるいい人だと知っていたと言ったでつ。

平田さんは後々まで、この時の感激を忘れなかったでつ。
「これが山下さんですよ。
のこのこ、子会社にお詫びに行く。
そんなことを、どこの大会社の社長がやりますか」。

この山下さんの「謝罪」によってビクターを盟主とするVHSファミリーの結束が固まったでつ。
VHSは宿敵ソニーの「ベータマックス」を蹴散らし、1988年には、ソニーもVHSの生産に踏み切らせたでつ。
そのライフサイクルを通して松下グループに15兆円の売上げと2兆円の利益をもたらしたでつ。

社長は紛れない権力者だ。周囲には、権力者の意向を忖度することを旨とし、情報を改竄する輩が蝟集している。その中でいかにして「見たくないものを見る」力を保持できるのか。

アンビバレントな視座を持つこと。
山下さんは常に権力を相対化していたでつ。
「何と本社はつまらない。なくしてしまえ」と言い続けたでつ。

山下さんは、幸之助さんが編み出した松下独自の事業部制の信奉者。
松下の事業部制は事業部長が「自主独立経営」。

幸之助さんの思想は2本の縄が撚り合わさっているでつ。
1つは事業部制。

「僕はようやらん。君やってくれ」。
病弱だった幸之助さんは商品ごとに事業部を設定し、事業部長に自分の代行権、オーナーシップを与えたでつ。
事業部長という個人に「任せきる」ことによって「個」の能力を最大限に引き出すやり方。

もう1つは「使命感」。
いわゆる水道哲学。
生産に次ぐ生産を重ね、すべてのモノを水道の水のように安価ならしめ、社会から貧を一掃することこそ、企業の聖なる使命。
使命感というヴァーチャルな鞭を振るい、奔走する「個」を制御するでつ。
幸之助さんは「全体」(=企業)と「個」の矛盾を「全体」の側から統一。
使命感を徹底させ、社員を「金太郎アメ」にするでつ。

山下さんは違うでつ。
「個」の側から矛盾を統一しようとしたでつ。
社長就任2年目の年頭に高々と宣言。

「理想的な企業はいかにあるべきか。従業員一人ひとりの目標の延長線上に、会社の目標もある。そういう姿が一番望ましいわけです」。
使命感に異を唱えるわけではないが、「全体」ではなく、まず一人ひとりの「個」があるでつ。
山下さんは「個」のダイバーシティ、「個」の主体性を企業の基礎に置こうとしでつた。

日本的経営を遙かに超える、未来と世界を見据えた経営思想。
幸之助さんは激怒。
「松下電器の経営方針を批判したり、旧式やと言うたり、断じて許されない。いさぎよく松下を去れ」。

幹部が総結集する場で背教者と指さされたでつが、山下は怯まなかったでつ。

そして幸之助さんが根負けするでつ。
幸之助さんは思い知ったでつ。

自分に楯突くこの男には、我欲の一カケラもない。
あるのは、社員1人ひとりへの「思い」なのだと…

山下さんの学歴は工業学校止まり。
しかも一度は松下を辞めた出戻。
絶対に社長になるはずのない男を指名したのは、自分を超える可能性に賭けたからでつ。
幸之助さんはその初心に立ち返ったでつ。
幸之助さんは山下さんを大きく受け入れ、そして山下さんは幸之助さんの使命感に対する最大の理解者になったでつ。

山下さんを指名した時、幸之助は水道哲学の視野を日本からアジア、世界に広げていたでつ。
松下電器は、世界から貧を一掃し、「世界の繁栄を担って立つ」中核にならなければならない――そう宣言。

山下さんは社長最後の年、1986年の経営方針に「歩みを世界とともに」というタイトルを打っているでつ。
「国益のためにだけ働くことはもう許されない。
世界の経済の成長・発展のために動かねばいけない時期に来ています。
松下電器が率先してそういう行動をとらなければいけない」。
当時、貿易赤字が米国を押し潰し、自由貿易体制が揺らいでいたでつ。
輸出偏重を改め、グローバルな生産ネットワークを築くことで、自由経済を守らなければならない。
松下電器はその先頭に立とう、と訴えたでつ。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代。
不効率の海外生産などとんでもない、と考えられていた時、山下さんの中に幸之助さんの世界意識が確かに鳴り響いていたでつ。
1人ひとりの「個」の主体性に発し、世界のために行動する。山下の経営哲学は深く、大きな展開力を獲得していたでつ。

山下さんの凄さを改めて思い出させてくれた本だったでつ。
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