「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-6」のつづきです。
京都御所の小御所と御学問所との渡り廊下(1954年の小御所の火災の頃にはこれを含む渡り廊下が戦時中に撤去されてそのままになっていて、それで類焼を防げたのだそうな)の凹んだ部分に「蹴鞠の庭」という立て札がありました。
ここで、皇族や公家の皆さんが蹴鞠に興じていたのでしょうね。
ここを観て思い出したのが、映画「ラストエンペラー」の一シーンです。
辛亥革命で清朝が滅亡して中華民国が成立してもなお、紫禁城で暮らしていた愛新覚羅一族が紫禁城内でテニスを楽しんでいると、直隷軍閥の一団がやって来て、溥儀たちに紫禁城からの立ち退きを命じるシーンなんですが、私、その撮影場所を実際に観たことがあります。
っつうか、15年前に紫禁城を見物しているとき、あっ 溥儀たちがテニスをしていた場所だ と気づいた次第…。
太和殿の北西側、中和殿との渡り廊下(と呼ぶには巨大すぎる) のスペースが、テニスコート跡地(?)でした。
もっとも、実際の撮影場所は、太和殿の北西側ではなく、反対の北東側ぽいのですが…
それはともかく、いかにも皇帝の住まいっぽく威圧感に満ちて派手な紫禁城と比べると、京都御所は平面的ですし、色がかなり地味です。飾り金具の金もありますが、屋根や柱、蔀戸の焦げ茶と壁や玉砂利の白ばかりが目に入り、外国人の人たちから見れば、とても天皇の住まいとは思えないのではなかろうか… (下の写真は、1867年に明治天皇(当時、満15歳 )が「王政復古の大号令」を発せられたという御学問所[おがくもんじょ])
でも、日本人の目からすれば、清々しい心持ちになるというかなんというか、やんごとない気配が感じられるのですよねぇ~。
広大な大名庭園に比べればこぢんまりとした庭もまた美しい…
もう1枚。
御学問所の北にあるのが、天皇のプライベートゾーンだった御常御殿(おつねごてん)です。
リーフレットによれば、
清涼殿に設けられるようになっていた常御所(つねごしょ)が、天正18(1590)年に建物として独立したものである。
天皇のお住まいであるとともに、南面に上・中・下段を備えて儀式や対面の場としても使われた。内部は、神器を納める剣璽の間、天皇がお休みになられた御寝の間(ぎょしんのま)など15室からなっておりすべて畳敷きになっている。
そうで、その上・中・下段を飾っている襖絵は、
おっと、また出た岸岱
それにしても、岳陽楼とか蘭亭とか十八学士とか、全部中国ネタです。
こちらで書いたように、紫宸殿の内部には中国の賢人聖人たちを描いた「賢聖障子絵」(げんじょうのしょうじ)が飾られているそうで、中国の(古代)に対する尊敬や憧れの念は延々と受け継がれたということなのでしょう。
さて、御常御殿前の庭、御内庭で満開のサルスベリを愛でたあと、
「七夕など内向きの行事に使用され」たという御三間(おみま)の横を通り、
ただ玉砂利が敷かれているだけの広場に抜けました。
そして、最初に入門証を受け取った受付を通り、京都御所の参観が終了。
ふぅ~、面白かった
清所門から御所の外に出た私は、近くの中立売北休憩所で涼をとりつつ、展示されていたジオラマを眺めて京都御所参観の復習をしました。
こうしてみると、京都御所って、ホント、真っ平らですな。
しかも、「#3-6」で引用した石川忠さんの文章に、
ながく天皇の居住されたいわゆる宮城であったのに宮城建築ではなく、君民和楽の平和の象徴ともいうべき簡素な様式が採用されている。
巨大な池と楼門、さては巨石を積み重ねた城郭様式の徳川時代の建て物であった東京の宮城といちじるしく差異があり、権力と武力を背景とした将軍家の居城と対照的であるといえる。
とあるのですが、まったく同感です。
ところで、この記事を書いていて知ったのですが、私が休憩した中立売北休憩所は、建て替え工事のため、10月23日をもって営業を終了したようです。
建て替え工事中は、南休憩所を従来どおり営業するとともに、11月17日(金)には仮設の休憩所が南休憩所の南側に併設されますので、ご利用の程よろしくお願いします。
だそうですけれど、私が拝見した見事なジオラマを、工事期間中(2019年12月頃まで)は南休憩所で観られるのかどうかは不明です。
そんな役に立たない話を書いところで「京都御所編」は完結といたしまして、「#3-8」では京都御苑について書きたいと思っています。
つづき:2017/11/06 暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-8