「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-7」のつづきです。
京都市内の中心部にあって、深い緑に包まれた京都御苑は、東西約700m、南北1,300mのほぼ長方形をしており、このうち御所などを除いた約65haが「国民公園」として終日開放されています。苑内には約5万本の樹木が生育し、外周九門や、かつての公家屋敷の遺構も多く残っています。
だそうで、とにかく広い そして、真っ平ら
この広大な公園の中に、京都御所のほか、大宮御所・仙洞御所、京都迎賓館などが大きな面積を占めて鎮座(?)しているのですが、これらを除けば、そのほとんどが、日本一幅広と推察される玉砂利敷きの歩道と、木の植わった緑地体で、また、クルマも通らず、なんとも平穏な公園です。
昔から御所などの他には何もない場所だったのかと思いきや、そんなことはなくて、
京都御苑が現在のような公園として整備されたのは明治以降のことで、それまでは左図のように約200軒の公家屋敷を形成していました。
明治2年(1869)の東京遷都に伴って御所周辺は荒廃し、明治10年(1877)、京都に還幸された天皇は、この状況を悼み、整備の御沙汰を下されました。
これを受けて「大内保存事業」が進められ、皇室苑地として整備されたのが現在の京都御苑の始まりです。
というわけです。
ところで、東京の皇居前広場は、広い車道と、松が点在する緑地体で構成されていますが、こちらも、江戸時代には大名屋敷が建ち並ぶ一角だったのだとか。
現在の皇居前広場付近を江戸時代末期の割絵図で見ると、
こんな、現在の佇まいからは想像できない街並みだったのだそうな。
宮家やお公家さんは京都の御所周辺から東京に移住し、東京では元大名たちがお屋敷の土地を明治政府に没収された(大名屋敷は幕府から借りた土地に建てられていた)というわけです。
明治維新期の同じ時期に、東京と京都の両方の中心のちょっと外側が大変革を経験したというのが、なかなか面白いですな。
それにしても、宮家はまだしも、摂家の近衛・一条・九条・鷹司のお屋敷の広いのなんのって…
京都御所の内部を歩いた後だと、その広さが身に染みます
と、残るもう一つの摂家・二条家のお屋敷はどこにあったんでしょ?
Wikipediaによれば、
江戸初期には京都御所南部にあったがのちに北部に移転した。現在は同志社女子大学今出川キャンパスの敷地の一部となっている。
だそうで、納得…
そういえば、2015年7月に京都を歩いた時(記事はこちら)、今出川御門から近い同志社女子中学校・高等学校の敷地で、「二條家邸(幕末期)検出の井戸」というのを見ましたっけ…
さて、宜秋門を今度は外から眺め、
かの有名な蛤御門を内側から眺め、、、、、
って、あれ? 蛤御門は、
御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて「蛤御門」という俗称が付けられたとされる。(Wikipedia)
という話を聞いたことがありますが、想像していたような、固く閉じられる堅固なものとほど遠いスカスカの門でした。
もっとも、京都御苑の門は、京都御所の豪壮な門と違って、みんな蛤御門同様に簡素な造りだったんですが…。
おっと 「『蛤御門』名前の由来に『待った』 新資料発見」という記事を見つけました
なんでも、「宝永の大火(1708年)の際に開門された様子を、焼けて口を開けるハマグリにたとえて命名されたとの説が有力だった」けれど、17世紀頃に書かれた複数の文書に、蛤御門は普段から開門されていたという記述が見つかったのだとか。
そもそも「新在家御門」という立派な名前がありながら、なぜ「蛤御門」と呼ばれるようになったのか、これから研究を続けるのだそうですが、私の直感では、「その手は桑名の焼き蛤」つながりで、桑名藩が絡んでいるのではないかと考えたりして…。
なにせ、蛤御門の変が起こった元治元年7月19日(1864年8月20日)、京都守護職の会津藩主・松平容保の下で京都所司代に就いていたのが桑名藩主・松平定敬(松平容保の実弟)だったのですから、直感とはいえ、ありそうな話にも思えます
そういえば、5月の南東北ドライブ旅行のとき、会津若松の鶴ヶ城で、幕末期のこの付近の街割が描かれた「御所九門の図」の説明パネルを見ました。
このパネルには、蛤御門の変に先立つ八月十八日の政変について説明が書かれていまして、
公武合体を望む孝明天皇の意向を受け、会津藩と薩摩藩が中心となって、長州藩と、それに近い立場の公家七名を京都から追い出すことに成功した。このことを喜んだ孝明天皇から、容保は御製などを賜った。
とあります。
松平容保と会津藩にとって、この時期が絶頂期だったわけで、まさか4年後には朝敵となって、かつての盟主・薩摩藩を含む新政府軍に「討伐」されることになろうとは思わなかったでしょうねぇ…
ところで、この説明パネルを良く見ると、上に書いた二条邸もしっかりと描かれています
その部分を拡大しますと、、、
なるほど… です。
さて、京都御所の南東角の十字路のど真ん中に大きな木がありました。
説明板によれば、これは「清水谷家の椋(むく)」だそうで、
この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。樹齢は約300年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。
とのこと。
それはともかく、とにかく観光客が少ない
上の写真は、御所(左)と京都迎賓館(奥)と大宮御所(右)が向き合う四つ角なんですが、外国人観光客がチラホラと見かけられる程度です。
当日のダイジェストに書いたように、この日は祇園祭の宵山の山鉾巡行当日で、祇園祭以外を観光するには最適の日だというのは、ホントのことです
さて、私は、建礼門の前を通り、
京都御苑から退出しようとしたのですが、とにかく暑い
ついつい、「氷」の幟に誘われて、富小路休憩所に入り(休憩所のハシゴ)、
今年2度目、2日連続でかき氷を…
前日のように時間に追われる状況(記事はこちら)ではありませんでしたので、のんびりと完食(完飲?)できました
こうして涼をとった私は、京都御苑から出て、次なる目的地へと向かいましたとさ。
つづき:2017/11/07 暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #3-9
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