「南東北ドライブ旅行記 #2-1」のつづきは、会津盆地と猪苗代湖の間にある背あぶり山から始めます。
「#2-1」で書いたように、とにかく寒かった背あぶり山。
ふと駐車場の脇を見ると、
残雪があるではありませんか
かなりの山道を登ってきたとはいえ、会津若松の市街から30分ほどで来られる場所だというのに、まだ初春の風情です。
ところが、猪苗代湖レベルまで下ると、サクラの季節の終わりが近づいていて、散り初めのサクラと、
桜吹雪の吹きだまりがあったりして、今の季節は何? といった風情です。
ところで、私が、この何のへんてつもないところにクルマを駐めて写真を撮ったのはなぜか、なんですが、この辺りで、ついに、というか、ようやく磐梯山がその全容を見せていたのですよ。
いやぁ~、よござんす
ここからほぼ平地を20分ほど走ると、鶴ヶ城(若松城)に到着です。
前日、福島県立博物館に行ったとき、鶴ヶ城の西口駐車場に隣接する博物館の駐車場が無料なのを知り、こちらを(ズルをして)使えば駐車料金が浮く なんて不埒な考えも浮かびましたが、そこは品行方正に西出丸駐車場にクルマを駐めました。
ゴールデンウィーク中とは平日(5月2日)ですし、時刻もまだ9:30になっていなかったこともあり、スルスルと駐車できました
駐車場から梅坂(知期理坂)を上って枡形を抜けると、帯郭(おびぐるわ)と呼ばれる平地に出ます。
そこで咲いていたサクラに説明板が添えられていました。
いや、説明板ではなく、綾瀬はるかさんのメッセージでした。
このサクラには「はるか」という名前がつけられているそうですが、せっかくなんだから一重ではなく八重桜にすればよかったのに…
それはともかく、鶴ヶ城天守
野面積みの石垣がかなりイイ
鶴ヶ城の公式ガイドブック(出色のデキの良さ)によれば、葦名氏の時代(1384年~)から城郭として存在していたそうで、伊達政宗の時代(1589~1590年)を経て、蒲生氏郷が1592年から本格的に城郭建設を始めて、現在の天守台の石垣はその当時のものだとか。そして上杉景勝の時代(1598~1601年)を経、蒲生氏のリバイバル(1601~1627年)の治政下で1611年の大地震によって「石垣が崩れ天守が傾く」状態になったものの、加藤嘉明が1627年から本格的な補修に着手して1639年に完成したそうな。
そして1868年の戊辰戦争で落城後、1874年に取り壊されたものの、1965年に鉄筋コンクリート造で復原されたという次第です。
ところで、鶴ヶ城を完成させた加藤嘉明といえば、伊予松山城(訪問記はこちら)を築いた武将。
鶴ヶ城天守の中に、松山市内でよく見かける、松山城のマスコットキャラクター「よしあきくん」が描かれた「俳句ポスト」が設置されているのには、こんな縁があるんですねぇ
と、鶴ヶ城主(会津の領主)として蒼々たる面々の名前・家名が登場しました。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、伊達⇒蒲生⇒上杉⇒蒲生⇒加藤⇒保科・松平と、めまぐるしく城主・領主が変わった訳ですが、まさに名門ぞろい。
会津の地政学的重要性を示す事実なんだろうな…
しかも、伊達政宗は米沢⇒会津⇒岩出山⇒仙台、上杉景勝は春日山⇒会津⇒米沢と、両武将が、米沢と会津を互いに逆向きに転封したというのが面白い
ちなみに、伊達家の紋の一つ「仙台笹」と上杉家の紋「上杉笹」はよく似ているのですが、
こちらのサイトによれば、
伊達政宗の大叔父に当たる伊達実元が越後守護大名の上杉定実に養子に入ることになり、婿入りの引き出物としてこの紋を与えられたのでした。
実元が養子に入る話は立ち消えになりましたが、家紋だけはそのまま使われているのです。
だそうな。
伊達家の家紋については、かつてこちらの記事で書きましたっけ…
「#2-3」では鶴ヶ城天守に入ります。