新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

沖縄旅行最終日は降ったり止んだり(その7)

2012-06-27 22:24:09 | 旅行記

「沖縄旅行最終日は降ったり止んだり(その6)」のつづきは、「旧海軍司令部壕」の第二弾です。


丘の頂上にあるるビジターセンター・資料館から階段を下りたあとは、ほとんど真っ平らで、いくつかの「部屋」がほぼ標高差なく通路で繋がっています。


120626_1_01 通路も部屋も、「その5」で書いた幕僚室や右の写真の作戦室のようにコンクリートと漆喰で壁が塗り固められている部分と、


120626_1_02 下士官兵員室のように「掘ったまま」の部分が混在していて、いかにも急ごしらえの感が強い。


当初から中枢部だけを仕上げるつもりだったのか、壕のすべての壁面を漆喰で塗り固める予定だったのが、途中からそれどころではない戦況になったのか不明ですが、それにしても「掘ったまま」の部分が心に迫ってきます


悲壮感にあふれた交信文が行き交ったに違いない電信室とか、


120626_1_03


戦傷者がひしめいていたに違いない医療室とか、


120626_1_04


すれ違うのも大変な通路とか、


120626_1_05 こんなところに4000人もの兵士が立て籠もって、勝てる見込みのない戦いをしていたなんて、想像を絶します。


そして、まさか沖縄の海軍司令部最期の地が、地下壕だったなんて、、、


米軍が沖縄本島に上陸したのは1945年4月1日
その時点で、こちらのサイトによりますと、


日本海軍の水上艦艇実戦部隊は開戦以来の激闘に損耗し、わずかに残った動かせる艦艇は戦艦「大和」と軽巡「矢矧」、駆逐艦8隻「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」の合計10隻が残っているだけでした。他にも横須賀港には「長門」、瀬戸内呉軍港近隣には航空戦艦伊勢」「日向」、重巡「利根」「青葉」、軽巡「大淀」「矢矧」などが健在でしたが、燃料の重油が無くて訓練どころか空襲による回避行動もできない状態に陥っていたのです。


という惨憺たる状況
そして、虎の子「動かせる艦艇」すべてが沖縄戦に投入されたものの、4月7日、沖縄に近づくどころか、鹿児島からほど近い海域で行われた坊ノ岬沖海戦で、大和を始めとした艦隊はほぼ壊滅してしまい(帰投できたのは冬月、雪風、初霜及び涼月4隻の駆逐艦のみ)、もはや「海軍」としての体を成さなくなっていたのですから、地下に籠もるしかなかったのは仕方のないことだったのでしょう。


だんだん壕の中の空気が重く感じられてきました。


120626_1_06 壕の外に出ると、曇り空ながら、陽の光が明るい そして空気がうまい


でも、当時は砲弾や銃弾が飛び交い、硝煙の臭いが立ちこめていたのでしょう。

摩文仁の丘につづいて「旧海軍司令部壕」と、ほんの数時間の間に、なんと辛い歴史が染み込んだところをハシゴしてしまったのでしょうか…


どうして勝ち目のない戦争を続けたのか、沖縄での抵抗を長引かせること=本土への攻撃を遅らせることが、どれだけその後の悲劇を増幅させることになったのか、、、など、いろいろと考えてしまいます。


   


ちょっと寄り道
今日のニュース(東電の株主総会関連のニュース)で登場していた東京都の副知事・猪瀬直樹さんが著したこちら、


昭和16年夏の敗戦 (中公文庫) 昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)
価格:¥ 680(税込)
発売日:2010-06

ご一読を強くお薦めします


   


旧海軍司令部壕」を出た時点で時刻は13:30
レンタカーを返却する予定時刻まで30分しかありません
とは言え、「旧海軍司令部壕」からレンタカーの返却場所まではかなり近い
展望台から風景を眺め


120626_1_07


駐車場で悠々とシャツを着替えて(ここまで結構をかいていましたから…)、そして、私・初の沖縄旅行の本編に幕を引いたのでありました。


つづき:2012/06/30 沖縄旅行最終日は降ったり止んだり(最終回)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする