2016年3月16日(水)
五百羅漢駅(大雄山線)・・・久野古墳群・・・龍泉寺観音堂(欠ノ上)・・・
・・・いこいの森・・・辻村植物公園・・・水之尾毘沙門天・・・小田原駅
箱根外輪山を形成する明神ヶ岳~明星ヶ岳~塔ノ峰の東側に広がる丘陵地帯には多くのハイキングコースが整備されています。ウォーキングにはうってつけの場所といえるでしょう。 今回歩いたところは標高およそ150m前後の所で、厳しいアップダウンはないのですが、奥行きが広いせいかどうしても距離が長めになってしまう傾向にあります。 「小田原駅まで歩いて戻る」をプランの柱にした事もあって長時間の歩きになってしまいました。
五百羅漢駅(伊豆箱根鉄道 大雄山線)
五百羅漢駅前は県道74号?・720号?線 南足柄市方向に進みます
小田急線ガード 歩行者は左側の上多古歩道トンネルへ
トンネルを抜けるとすぐに上多古(かみたこ)交差点 左折
大雄山線の踏切を渡ると丘陵への登りが始まります。 この辺りはこれから歩く久野諏訪原丘陵の東端に当たる所と言ってよいでしょうか。
踏切の左手に大雄山線と小田急線が交差している様子がみられます。
一気に丘陵を登って
急な坂道を登りきると、あとは緩やかな坂道が続きます。
県道74号線
県道左側の風景 右寄りに大観山方面 左手電柱のすぐ右に小田原城天守閣を望む
「坂下児童遊園地」の看板 地形図によるとこの辺りに、神社がある筈・・・
良く見ると、広場の奥に説明板らしきものも見えたので中へ
神社の境内であることがわかりました。
説明板「久野古墳群」より
久野諏訪ノ原丘陵には、「久野百塚」や「久野九十九塚」と言われるなど多くの古墳が点在していた。久野古墳群の中で、一番目を引くのが「百塚の王」とも称される久野1号古墳です。この古墳は本格的な発掘調査は行われていないが、神奈川県内でも最大の円墳といえる規模だそうです。
山神神社(さんじんじんじゃ)
児童遊園地を出て元の坂道に戻ったところ 神社の角地が分岐点になっていて、私はそのまま直進しますが、県道74号線は左方向(小田原駅方面)に向かうようです。ここまでは交通量が比較的多かったのですが、殆どの車は県道を行き来します。
分岐指導標
久野古墳1号100m、4号1,800m、15号2,100m ⇔ 五百羅漢800m、小田急足柄駅1,000m 左、小田原駅方面
すっかり車が通らなくなった道を少しばかり進むと
久野1号古墳 その1 右手に県下最大の古墳と言われる1号古墳が現れます。
久野1号古墳 その2
久野1号古墳 その3 説明板1「久野諏訪ノ原丘陵の方形周溝墓群と中世墓」より
久野丘陵とは、久野字諏訪ノ原を中心に東に延びる丘陵で、他の尾根と区別して久野諏訪ノ原丘陵とも呼ばれている。 ・・・この一帯で縄文時代初頭から近世に至る様々な遺跡が確認されているが、この辺りは特に方形周溝墓が集中している地域だそうです。
方形周溝墓とは弥生時代から古墳時代初頭に造られた墓で、このあたりで見つかっているのは約2,000年前頃の弥生時代中期のものであることが確認されている。また、鎌倉時代初頭の墓も分布している。
久野1号古墳 その4 説明板2「久野一号古墳」より
この古墳は久野古墳群の一基で円墳です。 久野配水地内の発掘調査で、幅約12mの周濠が確認され、周濠までを含めた規模は直径60m以上と推定される。
箱根外輪山明神岳東側の裾はいくつかの洪積丘陵を形成しているが、この古墳はその丘陵上に展開する古墳群の中で最大規模をもっている。以前は4、5基の陪塚(ばいちょう)かと思われる小円墳が存在したと言われる。 ・・・内部主体については未調査であるが、六世紀前半までには築かれていたものと考えられる。 小田原市教育委員会 中央の石碑には「小田原市指定 第一号古墳」
久野1号古墳 その5 古墳の右手から裏側に回ってみたところ 左が古墳の斜面で遠景は松田山方面
久野1号古墳 その6 前掲写真の右手 足柄平野を挟んで中央の大山から右寄りに曽我丘陵方面
久野1号古墳 その7 裏側から見た古墳ですが、これでは近すぎて何だか分かりませんね(苦笑)
1号古墳を後にして、小田原市の水道施設の脇を進みます。
指導標 久野4号古墳1,600m 久野15号古墳1.900m 総世寺2,600m ←《久野遺跡巡りコース》→ 久野1号古墳100m 五百羅漢1,000m 小田急足柄駅1,200m
ほぼ丘陵地の尾根筋を進んでいるといって良いでしょうか
左手に足柄平野と曽我丘陵
道端の馬頭観音
このルートは西北西方向にほぼ一直線にのびる分かりやすい道で、正面に明神ヶ岳を仰ぎ見ながら歩きます。 道路は傷んでいる所もありますが、車はほとんど通らないのでのんびりと歩くことができます。 市道らしいのですが、広い農道といった雰囲気です。
これは後ろを振り返って撮ったものですが、この辺りで縄文遺跡が発見されたそうです。
前掲写真のところにあった説明板「久野諏訪ノ原丘陵の縄文遺跡」より
久野諏訪ノ原丘陵は小田原市内でも屈指の縄文遺跡が発見されている場所で、草創期(15,000~9,000年前)から晩期(3,000~2,400年前)までのものが確認されている。
ちょうどこの辺りは、縄文早期(9,000~6,000年前)から後期(4,000~3,000年前)を中心とした久野一本松遺跡があった場所で、80軒以上の住居跡が見つかっています。 この辺りは日当たりも良く、居住域としては良好な場所であったと考えられ、狩猟、採集の生活をしていたものと思われる。
さらに少しばかり進むと、右手にまた説明板が
2号古墳の説明板だったので、一応付近を見渡してみたのですが見つけられず、早々とあきらめてしまいました。遺跡と農地という事でむやみに歩きまわるのもどうかと思われたからです。
説明板「久野2号古墳」より 2号古墳は久野古墳群の中でも久野1号古墳に次ぐ規模の円墳だそうです。1号古墳と同様に有力な首長の墓であった可能性が考えられます。この古墳からの出土遺物(大刀4点、玉類、土師器など)は小田原市郷土文化館で展示・公開されているそうです。
この辺りに三角点がある筈なので、正面の小道に入ってみると
三角点の標柱がすぐに目に入り
三角点の所へ行く途中で、左手に少しばかり盛り上がった所があったのですが、まさかこれではないでしょうね(苦笑)
三等三角点
三角点を後にして、
指導標 久野1号古墳1,100m 五百羅漢2,000m 小田急足柄駅2,200m ←《久野遺跡巡りコース》→ 久野4号古墳600m 久野15号古墳800m 総世寺(そうせいじ)1,500m
四叉路 左側の指導標によると、4号古墳まであと100mの地点
前掲写真の右側には少々古そうな指導標があって
「これより左 四号古墳百三十八メートル・十五号古墳三百七メートル」とありました。
指導標 左、4号古墳
久野4号古墳 その1 左に入るとすぐに見つかった4号古墳
久野4号古墳 その2 説明板「久野四号古墳」より
この古墳は古墳時代後期(6~7世紀)に築かれた円墳で、昭和26年に発掘調査された。大きさは直径20m、高さ3.5mで本来の形はお供え餅を二つ重ねたような二段式の円墳であったようです。 内部は幅1.5m、長さ約7mの横穴式石室が南に向かって開口している。 玄室には、二体以上の人骨が認められ、玉類、鉄製鏃、直刀、土師器(はじき)等が副葬されていた。
久野4号古墳 その3 玄室入口
久野4号古墳 その4
久野4号古墳 その5 内部のようすですが
久野4号古墳 その6 裏手、北側から見ると
4号古墳を後にして
指導標 左、久野15号古墳50m
細い小道を50mほど進むと
右手に「久野15号古墳」説明板
説明板より ・・・この古墳は昭和33年の発掘調査の結果「舟型古墳」の代表的骨格を残している事を確認したので、永久保存することとし、ここに見られるように石室のみを復元して古墳の石組構造が見られるようにした。
久野15号古墳
神奈川県 小田原市北西部の丘陵地帯を歩く(2)へ
No.487
五百羅漢駅(大雄山線)・・・久野古墳群・・・龍泉寺観音堂(欠ノ上)・・・
・・・いこいの森・・・辻村植物公園・・・水之尾毘沙門天・・・小田原駅
箱根外輪山を形成する明神ヶ岳~明星ヶ岳~塔ノ峰の東側に広がる丘陵地帯には多くのハイキングコースが整備されています。ウォーキングにはうってつけの場所といえるでしょう。 今回歩いたところは標高およそ150m前後の所で、厳しいアップダウンはないのですが、奥行きが広いせいかどうしても距離が長めになってしまう傾向にあります。 「小田原駅まで歩いて戻る」をプランの柱にした事もあって長時間の歩きになってしまいました。
五百羅漢駅(伊豆箱根鉄道 大雄山線)
五百羅漢駅前は県道74号?・720号?線 南足柄市方向に進みます
小田急線ガード 歩行者は左側の上多古歩道トンネルへ
トンネルを抜けるとすぐに上多古(かみたこ)交差点 左折
大雄山線の踏切を渡ると丘陵への登りが始まります。 この辺りはこれから歩く久野諏訪原丘陵の東端に当たる所と言ってよいでしょうか。
踏切の左手に大雄山線と小田急線が交差している様子がみられます。
一気に丘陵を登って
急な坂道を登りきると、あとは緩やかな坂道が続きます。
県道74号線
県道左側の風景 右寄りに大観山方面 左手電柱のすぐ右に小田原城天守閣を望む
「坂下児童遊園地」の看板 地形図によるとこの辺りに、神社がある筈・・・
良く見ると、広場の奥に説明板らしきものも見えたので中へ
神社の境内であることがわかりました。
説明板「久野古墳群」より
久野諏訪ノ原丘陵には、「久野百塚」や「久野九十九塚」と言われるなど多くの古墳が点在していた。久野古墳群の中で、一番目を引くのが「百塚の王」とも称される久野1号古墳です。この古墳は本格的な発掘調査は行われていないが、神奈川県内でも最大の円墳といえる規模だそうです。
山神神社(さんじんじんじゃ)
児童遊園地を出て元の坂道に戻ったところ 神社の角地が分岐点になっていて、私はそのまま直進しますが、県道74号線は左方向(小田原駅方面)に向かうようです。ここまでは交通量が比較的多かったのですが、殆どの車は県道を行き来します。
分岐指導標
久野古墳1号100m、4号1,800m、15号2,100m ⇔ 五百羅漢800m、小田急足柄駅1,000m 左、小田原駅方面
すっかり車が通らなくなった道を少しばかり進むと
久野1号古墳 その1 右手に県下最大の古墳と言われる1号古墳が現れます。
久野1号古墳 その2
久野1号古墳 その3 説明板1「久野諏訪ノ原丘陵の方形周溝墓群と中世墓」より
久野丘陵とは、久野字諏訪ノ原を中心に東に延びる丘陵で、他の尾根と区別して久野諏訪ノ原丘陵とも呼ばれている。 ・・・この一帯で縄文時代初頭から近世に至る様々な遺跡が確認されているが、この辺りは特に方形周溝墓が集中している地域だそうです。
方形周溝墓とは弥生時代から古墳時代初頭に造られた墓で、このあたりで見つかっているのは約2,000年前頃の弥生時代中期のものであることが確認されている。また、鎌倉時代初頭の墓も分布している。
久野1号古墳 その4 説明板2「久野一号古墳」より
この古墳は久野古墳群の一基で円墳です。 久野配水地内の発掘調査で、幅約12mの周濠が確認され、周濠までを含めた規模は直径60m以上と推定される。
箱根外輪山明神岳東側の裾はいくつかの洪積丘陵を形成しているが、この古墳はその丘陵上に展開する古墳群の中で最大規模をもっている。以前は4、5基の陪塚(ばいちょう)かと思われる小円墳が存在したと言われる。 ・・・内部主体については未調査であるが、六世紀前半までには築かれていたものと考えられる。 小田原市教育委員会 中央の石碑には「小田原市指定 第一号古墳」
久野1号古墳 その5 古墳の右手から裏側に回ってみたところ 左が古墳の斜面で遠景は松田山方面
久野1号古墳 その6 前掲写真の右手 足柄平野を挟んで中央の大山から右寄りに曽我丘陵方面
久野1号古墳 その7 裏側から見た古墳ですが、これでは近すぎて何だか分かりませんね(苦笑)
1号古墳を後にして、小田原市の水道施設の脇を進みます。
指導標 久野4号古墳1,600m 久野15号古墳1.900m 総世寺2,600m ←《久野遺跡巡りコース》→ 久野1号古墳100m 五百羅漢1,000m 小田急足柄駅1,200m
ほぼ丘陵地の尾根筋を進んでいるといって良いでしょうか
左手に足柄平野と曽我丘陵
道端の馬頭観音
このルートは西北西方向にほぼ一直線にのびる分かりやすい道で、正面に明神ヶ岳を仰ぎ見ながら歩きます。 道路は傷んでいる所もありますが、車はほとんど通らないのでのんびりと歩くことができます。 市道らしいのですが、広い農道といった雰囲気です。
これは後ろを振り返って撮ったものですが、この辺りで縄文遺跡が発見されたそうです。
前掲写真のところにあった説明板「久野諏訪ノ原丘陵の縄文遺跡」より
久野諏訪ノ原丘陵は小田原市内でも屈指の縄文遺跡が発見されている場所で、草創期(15,000~9,000年前)から晩期(3,000~2,400年前)までのものが確認されている。
ちょうどこの辺りは、縄文早期(9,000~6,000年前)から後期(4,000~3,000年前)を中心とした久野一本松遺跡があった場所で、80軒以上の住居跡が見つかっています。 この辺りは日当たりも良く、居住域としては良好な場所であったと考えられ、狩猟、採集の生活をしていたものと思われる。
さらに少しばかり進むと、右手にまた説明板が
2号古墳の説明板だったので、一応付近を見渡してみたのですが見つけられず、早々とあきらめてしまいました。遺跡と農地という事でむやみに歩きまわるのもどうかと思われたからです。
説明板「久野2号古墳」より 2号古墳は久野古墳群の中でも久野1号古墳に次ぐ規模の円墳だそうです。1号古墳と同様に有力な首長の墓であった可能性が考えられます。この古墳からの出土遺物(大刀4点、玉類、土師器など)は小田原市郷土文化館で展示・公開されているそうです。
この辺りに三角点がある筈なので、正面の小道に入ってみると
三角点の標柱がすぐに目に入り
三角点の所へ行く途中で、左手に少しばかり盛り上がった所があったのですが、まさかこれではないでしょうね(苦笑)
三等三角点
三角点を後にして、
指導標 久野1号古墳1,100m 五百羅漢2,000m 小田急足柄駅2,200m ←《久野遺跡巡りコース》→ 久野4号古墳600m 久野15号古墳800m 総世寺(そうせいじ)1,500m
四叉路 左側の指導標によると、4号古墳まであと100mの地点
前掲写真の右側には少々古そうな指導標があって
「これより左 四号古墳百三十八メートル・十五号古墳三百七メートル」とありました。
指導標 左、4号古墳
久野4号古墳 その1 左に入るとすぐに見つかった4号古墳
久野4号古墳 その2 説明板「久野四号古墳」より
この古墳は古墳時代後期(6~7世紀)に築かれた円墳で、昭和26年に発掘調査された。大きさは直径20m、高さ3.5mで本来の形はお供え餅を二つ重ねたような二段式の円墳であったようです。 内部は幅1.5m、長さ約7mの横穴式石室が南に向かって開口している。 玄室には、二体以上の人骨が認められ、玉類、鉄製鏃、直刀、土師器(はじき)等が副葬されていた。
久野4号古墳 その3 玄室入口
久野4号古墳 その4
久野4号古墳 その5 内部のようすですが
久野4号古墳 その6 裏手、北側から見ると
4号古墳を後にして
指導標 左、久野15号古墳50m
細い小道を50mほど進むと
右手に「久野15号古墳」説明板
説明板より ・・・この古墳は昭和33年の発掘調査の結果「舟型古墳」の代表的骨格を残している事を確認したので、永久保存することとし、ここに見られるように石室のみを復元して古墳の石組構造が見られるようにした。
久野15号古墳
神奈川県 小田原市北西部の丘陵地帯を歩く(2)へ
No.487
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