2013年9月19日(木)
天ヶ岳山頂より
富士山を眺めた場所から少しばかり戻ったところにトラロープが見えたので、取り敢えずそこから江川邸方面に向かう事にしました。このトラロープはハイカー用のものではないと思うのですが、要所に設置してあって結果的にとても役にたちました。(この山はハイキングコースとして整備されている所は一切ないようです)
すぐに現れた空堀(堀切りと言うらしい)で、危険そうですが問題なく通過できます。
かなり下って竹林が出てきました。ゴールは近いようです。実際のところ現在地はよく分からない状態でしたが、江川邸方面に向かう尾根筋を外さないように歩けば特に問題はないようです。
ここは尾根がばっさり切り取られたような深い空堀で、左手からこの堀に降りた時はどちらに進んだらよいか迷ってしまいました。右手に登り返して、今までと同じ尾根を歩くこともできそうだし、空堀から左右に抜け出してしまうこともできそうでした。結局あちこち探しているうちにここにもトラロープがありました(進行方向の尾根筋のやや左側)。こうなったら最後までトラロープについていこうという気持ちになりましたね(笑)。今まで降りて来た尾根筋をそのまま進めばよいようです。
右手に何かの建物の屋根が見えたのでそちらに向かってみると
神社のようですが、完全に閉鎖された状態でした。確かな事は分かりませんが、名称は鎮守社(八幡天神)と言われるお社かも知れません。
次に現れたのが鳥居です。
鳥居をくぐると下に屋根が二つ見えました。
間もなく何処かの家の庭のような所に出てしまいました。庭の中から見ると立入禁止の札が貼ってあり、一般の民家でもないような感じですが、私はまだよく分かっていませんでした。
この建物の前に立ってやっと・・・ そうです、いつの間にか江川邸の敷地の中(有料)に入っていたのです。あまりにもあっさりと目標地点に入ってしまったのでこれには自分でもビックリとしか言いようがありませんでした。
取り敢えず、出口専用門からいったん外へ
外に出た所に設置されていた江川家住宅の説明板より
現存の主屋は室町時代初期頃に建てられた部分と江戸時代初期頃に修築された部分とが含まれていて、昭和33年に国の重要文化財の指定を受けた。
江川氏は代々徳川幕府の世襲代官を勤めたが、その中で幕末に登場した太郎左衛門英龍(坦庵)は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場の築造の計画等を進めたことで知られている。また、徹底した質素倹約の生活を送ったそうですよ。
東側へぐるりと周り、正規の入場口から表門へ 右手のスペースは枡形(ますがた)
主屋(おもや)の玄関へ 右手の細長い実が下がった樹木は「きささげ」というマメ科の落葉高木で北条早雲が植えたと伝えられるほどの古木だそうです。
玄関内のようすを覗いたところ この後、主屋の北西側に回り土間へ
土間 この土間はおよそ50坪もあるそうで、現在もにがりによる湿り気があるのでてかてかと光っています。こんなに広い土間(たたき)は初めて見ました。
かまど
パン焼窯と鉄鍋 説明板によると、英龍(ひでたつ)の命によりこれで初めてパンが焼かれたと言われるが、パンといっても長期保存が可能なとてもかたい乾パン(兵の携行用)だったそうです。
初めてパンが焼かれた天保13年(1842)4月12日は現在「パンの日」になっている。
土間の天井のようす 高さ約12mにもなる茅葺き(現在は銅板葺き)の大屋根を支えてきた小屋組みの架構。地震などにも強いそうですよ。この後、座敷の方に上がって見学させてもらいました。
右、江川家の馬印 井桁菊という家紋がつけられている。
中央下、韮山竹花入 千利休が韮山竹で花入を造ったことで有名
下の銃は西洋砲術の教育に使用された鉄砲 ゲベール銃
江川太郎左衛門英龍自画像 他
玄関内
玄関内から外(表門)を見ました。
玄関を入って右側にある塾の間 幕末、全国から多くの者が西洋砲術を学びに来たという。塾生名簿には佐久間象山、大山巌、黒田清隆らの名前がある。
主屋を出て庭に出ると、一番最初に見た二つの米蔵が並んでいました。
とちの木 推定樹齢210年
パン祖の碑 「パン祖江川坦庵(たんなん)先生邸」
江川邸の西側に回って城池へ 正面が池の堤
この一帯は城池親水公園として整備されているようです。 堤の上を真っすぐ進むと
突き当たりに設置されていた指導標 右、韮山城跡へ
熊野神社鳥居 社殿は左に進みますが、本丸跡は石垣の上を直進して尾根筋に登ってゆきます。
熊野神社 社殿 祭神は伊邪那美神 北条早雲が韮山城の守護神として創建したといわれる。
熊野神社から緩やかな尾根筋の道を登って行くと、左手に二ノ丸跡
西側の眺望
階段を登りきると本丸跡
本丸跡 その1 説明板によると本城の最高地点で、標高は約42m、周囲の低地部との標高差は31mだそうです。
本丸跡 その2 説明板によると韮山城は北条早雲によって本格的に築城された中世城郭です。北条氏が小田原を本拠地とした後も防衛の重要拠点であったが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、4万を超える大軍に包囲され約3カ月の籠城戦の末小田原城と前後して開城したと言う。また、天ヶ岳には四つの砦が築かれ、これを守るために幾つもの堀切りが設けられたそうです。
本丸跡 その3 西側の眺望
本丸跡 その4 富士山と県立韮山高等学校 高等学校の辺りもかつては韮山城の一部をなし、城主が住んでいたのではないかと考えられている。
静岡県 天ヶ岳を歩く(3)へ
No.329
天ヶ岳山頂より
富士山を眺めた場所から少しばかり戻ったところにトラロープが見えたので、取り敢えずそこから江川邸方面に向かう事にしました。このトラロープはハイカー用のものではないと思うのですが、要所に設置してあって結果的にとても役にたちました。(この山はハイキングコースとして整備されている所は一切ないようです)
すぐに現れた空堀(堀切りと言うらしい)で、危険そうですが問題なく通過できます。
かなり下って竹林が出てきました。ゴールは近いようです。実際のところ現在地はよく分からない状態でしたが、江川邸方面に向かう尾根筋を外さないように歩けば特に問題はないようです。
ここは尾根がばっさり切り取られたような深い空堀で、左手からこの堀に降りた時はどちらに進んだらよいか迷ってしまいました。右手に登り返して、今までと同じ尾根を歩くこともできそうだし、空堀から左右に抜け出してしまうこともできそうでした。結局あちこち探しているうちにここにもトラロープがありました(進行方向の尾根筋のやや左側)。こうなったら最後までトラロープについていこうという気持ちになりましたね(笑)。今まで降りて来た尾根筋をそのまま進めばよいようです。
右手に何かの建物の屋根が見えたのでそちらに向かってみると
神社のようですが、完全に閉鎖された状態でした。確かな事は分かりませんが、名称は鎮守社(八幡天神)と言われるお社かも知れません。
次に現れたのが鳥居です。
鳥居をくぐると下に屋根が二つ見えました。
間もなく何処かの家の庭のような所に出てしまいました。庭の中から見ると立入禁止の札が貼ってあり、一般の民家でもないような感じですが、私はまだよく分かっていませんでした。
この建物の前に立ってやっと・・・ そうです、いつの間にか江川邸の敷地の中(有料)に入っていたのです。あまりにもあっさりと目標地点に入ってしまったのでこれには自分でもビックリとしか言いようがありませんでした。
取り敢えず、出口専用門からいったん外へ
外に出た所に設置されていた江川家住宅の説明板より
現存の主屋は室町時代初期頃に建てられた部分と江戸時代初期頃に修築された部分とが含まれていて、昭和33年に国の重要文化財の指定を受けた。
江川氏は代々徳川幕府の世襲代官を勤めたが、その中で幕末に登場した太郎左衛門英龍(坦庵)は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場の築造の計画等を進めたことで知られている。また、徹底した質素倹約の生活を送ったそうですよ。
東側へぐるりと周り、正規の入場口から表門へ 右手のスペースは枡形(ますがた)
主屋(おもや)の玄関へ 右手の細長い実が下がった樹木は「きささげ」というマメ科の落葉高木で北条早雲が植えたと伝えられるほどの古木だそうです。
玄関内のようすを覗いたところ この後、主屋の北西側に回り土間へ
土間 この土間はおよそ50坪もあるそうで、現在もにがりによる湿り気があるのでてかてかと光っています。こんなに広い土間(たたき)は初めて見ました。
かまど
パン焼窯と鉄鍋 説明板によると、英龍(ひでたつ)の命によりこれで初めてパンが焼かれたと言われるが、パンといっても長期保存が可能なとてもかたい乾パン(兵の携行用)だったそうです。
初めてパンが焼かれた天保13年(1842)4月12日は現在「パンの日」になっている。
土間の天井のようす 高さ約12mにもなる茅葺き(現在は銅板葺き)の大屋根を支えてきた小屋組みの架構。地震などにも強いそうですよ。この後、座敷の方に上がって見学させてもらいました。
右、江川家の馬印 井桁菊という家紋がつけられている。
中央下、韮山竹花入 千利休が韮山竹で花入を造ったことで有名
下の銃は西洋砲術の教育に使用された鉄砲 ゲベール銃
江川太郎左衛門英龍自画像 他
玄関内
玄関内から外(表門)を見ました。
玄関を入って右側にある塾の間 幕末、全国から多くの者が西洋砲術を学びに来たという。塾生名簿には佐久間象山、大山巌、黒田清隆らの名前がある。
主屋を出て庭に出ると、一番最初に見た二つの米蔵が並んでいました。
とちの木 推定樹齢210年
パン祖の碑 「パン祖江川坦庵(たんなん)先生邸」
江川邸の西側に回って城池へ 正面が池の堤
この一帯は城池親水公園として整備されているようです。 堤の上を真っすぐ進むと
突き当たりに設置されていた指導標 右、韮山城跡へ
熊野神社鳥居 社殿は左に進みますが、本丸跡は石垣の上を直進して尾根筋に登ってゆきます。
熊野神社 社殿 祭神は伊邪那美神 北条早雲が韮山城の守護神として創建したといわれる。
熊野神社から緩やかな尾根筋の道を登って行くと、左手に二ノ丸跡
西側の眺望
階段を登りきると本丸跡
本丸跡 その1 説明板によると本城の最高地点で、標高は約42m、周囲の低地部との標高差は31mだそうです。
本丸跡 その2 説明板によると韮山城は北条早雲によって本格的に築城された中世城郭です。北条氏が小田原を本拠地とした後も防衛の重要拠点であったが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、4万を超える大軍に包囲され約3カ月の籠城戦の末小田原城と前後して開城したと言う。また、天ヶ岳には四つの砦が築かれ、これを守るために幾つもの堀切りが設けられたそうです。
本丸跡 その3 西側の眺望
本丸跡 その4 富士山と県立韮山高等学校 高等学校の辺りもかつては韮山城の一部をなし、城主が住んでいたのではないかと考えられている。
静岡県 天ヶ岳を歩く(3)へ
No.329