よのなか研究所

多価値共存世界を考える

「媚中」と「媚米」はおなじ思考の上にある

2011-10-12 00:35:52 | メディア

                              Photo(奈良、東大寺二月堂)

 

先日、新聞をすみずみまで目を通していると、よく目立つ広告見出しに行きあたりました。

新聞の記事の下段にある雑誌広告の一つに、大きな文字でこう書かれていました。

中国をつけ上がらせた歴代媚中大使の「大罪」

一瞬わが目を疑いましたが、劇画タッチのコピーが並ぶ中でも真ん中の目立つ所に白抜き文字で書いてありました。「惹句(じゃっく)」という言葉があるとおり、見出しや宣伝文句は「目を惹くフレーズ()」でなければ意味をなしません。それにしてもひとつひとつの言葉はやや問題ありですね。少なくとも上品な文章ではありません。

街に出たついでにこの雑誌を手にとってみました。さすがに本誌の見出しや記事はずつとおとなしいものでした。実際の記事タイトルと、その広告との文言が違うことにどういう折り合いが付くのかわかりませんが、編集者にしてみれば主旨は一貫しているのでしょう。

雑誌は新聞や放送に比べると制約の少ないメディアです。政府による補助や支援もほとんどありません。だからといって何を書いてもよいというわけではありません。スポーツや芸能に特化した雑誌ならいざしらず、時事問題を扱う定期慣行物の記者、編集者には報道人としての矜持があることと思います。そして、報道人としての基本的な知識、すなわち、不偏不党。自主独立、権力やおカネ(たとえば広告主、など)との間に一定の距離を保つこと、などを弁えているものと推測します。

さすれば、一主権国家を過度に貶める表現を慎むくらいの訓練は受けていると考えられます。また、特命全権大使である中国大使、それも歴代の大使を相手に「大罪」と形容することの重大さに気が付いているものと思われます。特命全権大使とは天皇が直接辞令を交付し、天皇の名代として相手国に赴任しているひとを指します。この人物を誹謗することはすなわち天皇に累を及ぼすことなりかねません。

かつてドゴールは「国家に真の友人はいない」と言いました。またチャーチルは「すべての外国は仮想敵国である」と述べたそうです。これがリアリストたちのものの見方というものでしょうか。今現在仲がいいとか、悪いとか、取引が多いとか少ないとか、といったことは、国家存続の命題の前には小さな条件のひとつにすぎません。

さきの記事を書いた記者、それ採用した編集部、そして大見出しに取り上げた編集長の方々は、別の雑誌の広告に次のような大見出しが出ていても驚くことはないでしょう。

米国をつけ上がらせた歴代媚米大使の「大罪」

これも上品な文章ではありませんね。しかし、先の編集者や発行人がこれに驚くようであれば、自分は公平性を著しく欠いているということを自覚する必要があります。「媚中」とか「媚米」とかいう用語を使う人たちは同じ思考、論理の上にあります。実は同じ種類の人たちなのです。

 

現在、日本の主要な月刊雑誌の発行部数は数万から数十万部で推移しています(ABCリポート)。他方、新聞各紙は数百万部の部数を誇っています(これは日本の特異現象ですが)。新聞の読者の大半はこの雑誌を手にすることはなく、新聞広告の見出しを読むだけと思われます。件の広告は複数の新聞に掲載されているようですから、恐らく全体で二千万部を超える紙に掲出されている計算になります。雑誌の発行部数か二十万部とすれば、その比率は百分の一ほどということになります(大きくは離れていないでしょう)。つまり、新聞でこの見出しを見る人の百人に九十九人は見出しを読むだけであり、それで何かを理解する、ということでしょう。ただし、新聞の読者が一紙当たり一人がこの広告を見るとの前提ですから、率はもう少し高くなるのかもしれません。それでも知れています。

もし、雑誌の広告の文案。レイアウトを制作している人たちが、多く人は雑誌を手に取ることはないが、新聞の見出しは読む可能性が高い、したがつて、本当に大衆に訴えたいメッセージは新聞広告の大見出しに掲出すればよい、というふうに考えているとしたら邪道というものでしょう。先の見出しもそのような計算から出てきたものかもしれません。そこに出版社、編集者、そしてライターの思惑が交差しているとしたら報道人としては大いに問題です。

 

仏典に「有質礙(うぜつげ)」ということばがあります。

中身の詰まったもの(murta)同士は同時に同じ位置を占めることはできない。互いに排除し合う。(『勝宗十句義論』)

という意味のことを説いています。こだわりを持つと、まわりの人と平穏に暮らすことが難しくなる、との解釈が可能です。

報道人たるものは、移り行く世の事象を先入観、特定のこだわりを持って見ていては客観的な視点を失ってしまいます。生きた人間たるもの、こだわりから逃れられませんが、社会の公器と呼ばれるメディアにあっては、できる限り偏りなくあることを望みたいものです。

(歴山)

 



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