よのなか研究所

多価値共存世界を考える

日本人のコミュ力は低いのか

2013-02-05 08:03:34 | 比較文化

                                                  Photo ( ギリシャ時代の遺跡、ヒエラポリス、トルコ ) 

日本人は国際舞台での情報発信力がないとかコミュニケーション力が弱いとか言われる。しかし、状況は変わってきている。かつてのように日本人が外国語下手ということではなく、ビジネス会話には不自由しない人が多くなっている。彼ら彼女らはフォーラムやシンポジウムの場でも身振り手振りを交え見た目には遜色ない。プレゼンテーション技法はむしろ秀でているといえる。残念ながら、映像とことばのスマートさに比しその内容がなかなか聴衆には響かない。聞いているものが途中で席を立つことは、こういう場では失礼ではなく、意思表示とみなされる。

今日のフォーラムの源流は古代ギリシャのアゴラに行きつくとのことだ。たしかにフォーラムもシンポジウムの由来の通り響宴がついてまわることが多い。この饗宴こそがわれわれの不得手とするところだ。

80年代後半から業務の延長で欧州でのいくつかのフォーラムに参加した。それらは、慣れない男の眼には、男女入り混じってのシャンパン・パーティの合間にほんの少し、もっともらしい討議をする催し物のように映った。美術展やコンサートなど文化イベントでは動員数よりも、その社会的意味づけ、歴史的位置づけの方が主催者にとっては重要であり、開催に先立つフォーラムでの討議内容をプレスと観客に公開をし、また議事録を報告書に記載するのであった。

サロンはヨーロッパの古い貴族制度の延長にあるものだが、むしろその影響力を強めている感がある。オリンピックもワールドカップ・サッカーもサロンの場で公共的目的で始められたものである。

経済や国際情勢を語り合うフォーラムとして80年代半ばから「ダボス会議」の名は通っていた。同様なフォーラムが時期をずらして幾つかあり、筆者は初夏にクラン・モンタナという、ダボスと同じく冬はスキーリゾート、夏は避暑地として知られるスイスの町でのフォーラムに参加した(取引先との関係で参加させられた)。各国から800人ほどが参加しており、セッションがたくさんあり、各自の関心ある会場を渡り歩く。これら会議ではスピーカーとして登場するとひとたちは自費でやってくるのであり、講演やシンポジウム参加の対価支払いもなく(つまり低コストの運営)、一般聴衆からは数百ドルの参加料をいただくというシステムで、その仕組みを軌道に乗せたのがクラウス・シュワブだと聞かされた。時期はハイ・シーズンを外し、地元のホテルや観光業も潤うようにもなっている。いわば、自分が呼びたい人やその仲間との討論の場を公開することでビジネスに仕上げたのであった。それゆえ、彼は「ドクター・シュワブ」と呼ばれていた。

「ダボス会議」”World Economic Forum”が知れるようになり、わが国からも毎年のように参加して発言し、また討議に参加している。残念ながら、現地でさほど話題になることはなかった。今年は甘利経済再生担当相が出席し、円の為替問題でドイツのメルケル首相から質問攻めにあったことがニュース映像で各国のニュースでも流れされた。

ダボス会議に限らず、ヨーロッパの会議の場では晩餐会は一回のみで、他は立食パーティが中心であり、自由に移動しながら目指す相手と直接話ができるところにその意義がある。ティータイムの場や、廊下を移動しながら、夜の個別の会食の場で重要なことが話され、また決められて行く。壇上に並んで討議をしているのは、フォーラムとしての表向きの、プレス向けのものであり、そこで本当に自社の、自国の重要な方針を提示することはむしろ少ない。

筆者が晩餐の場で隣り合わせた人びとは、スイスの紙幣印刷会社の代表、某国総領事、某銀行現法代表、シーメンス社の営業部長などであった。打ち解けて話ができたかどうかはともかく、彼等の趣味の豊かさと人脈の広さは知ることができた。

ヨーロッパのフォーラムやシンポジウムの場では、日本人より中国人の方が目立つ傾向にあるようだ。なにしろ世界第二位の経済大国である。中国のビジネスマンは英語やフランス語の上手下手にかかわらず堂々と喋る人が少なくない。 中国の宴席は円形のテーブルに腰の高い椅子であり、たけなわとなると席から立ちあがり移動して別の席の人と話をしても失礼ではない。長らく料亭で密会をしていた日本の政治家や小さなテーブルで小人数で会食したがる日本のビジネスマンよりは行動的である。

ヨーロッパの企業人は仕事の場と個人の遊びの場との垣根を低くし動き回るが、一方、時間的には仕事と自由時間とを明確に線引きする。勤務時間が終わればさっさと切り上げるし、二週間から三週間、長い国では四週間のバカンスを取って当然とされている。日本は空間的に仕事と遊びを線引きするが時間的にはあいまいさが残る。サービス残業や過重労働は低賃金の裏返しでもある。有給休暇の消化率の低さが問題となるほど経営者も従業員も取りきめの日数すら休むことをしない。自由度の低い労働環境にあると受け取られても仕方がない。

日本の発信力が低いとすれば、国家が自前の軍を持てず、政治・外交・経済の面で米国の影に隠れていることに依るのではないか。首相や大臣の顔写真がたびたび間違えられるわけである。各国の指導層は日本の立ち位置を良く見ている。個々のコミュニケーション力の問題ではないような気がするのだが。

(歴山)