よのなか研究所

多価値共存世界を考える

人力と原発

2011-03-28 15:49:35 | 時事

 

東北太平洋岸大震災(東日本大震災、東北関東大震災とも)と東電福島第一原発事故はまだまだ被害の全体像すら把握できていないようだ。無常の世のことは言え何とも悲しいできごとだ。朝夕合掌して犠牲者のご冥福を祈っているが心は安まらない。

特に原発事故はこの先どうなるのか、論者がいろいろなことを説いていてわれわれにもよく分からないことが多い。記者会見場での政府説明は「子どもの使い」のような応答で信用されるにはほど遠い。なんとか沈静化してほしい、という国民の思いとはうらはらに事態は難しい局面を迎えているようだ。

原子力発電についてはその効率性と低公害性がうたわれてきた。発電単価は限りなく「零」に近づき、国民の利益にかなうと説明されてきた。一方で、その使用済み燃料の処分が容易ではないこと、一度事故が起こった場合の放射性物質の拡散、汚染が指摘されてきた。これらの不安を払しょくすべく、あちらこちらに立派な広報施設が建設され、各種パンフレットが配られ、「原子力発電なくして近代生活は成りたたない」という説明を小学生から一般市民までが教え込まれてきた。そこへ今回の事故である。電力会社や経済産業省や原子力安全・保安院では〈事故〉」とは呼ばず〈事象〉と呼ぶらしい。日本人の『言霊』信仰はいまも健在なのだろう。〈事故〉という用語を使うと、〈事故〉が多発することになりかねないから、他のことばで代用するということだろう。大戦中に〈敗退〉を〈転戦〉と書き、戦後に〈占領軍〉を〈進駐軍〉と呼んだのと同様な心理作用だろう。

原電は巨大なシステムである。大型の土木工事であり、建設工事であり、高価格で特殊な材料を多く使用し、複雑な機械と回線と配管を組み合わせ、それを運用するために、そこにかかわっている組織を統一して管理することが求められる。何より一度火を点すと高温の炉を長年にわたり維持し続けなければならない。今回の事故を報ずるテレビ画面や新聞記事を見て、原発の複雑さを初めて知った人も多いことだろう。

自然界では複雑さ(complexity)には限界があるといわれている。オウム貝の貝殻の螺旋模様は四億五千年前から変化していないとされる。複雑さの限界に達したものは、それ以上の進化を試みて滅亡する運命にあるというわけだ。今回の事件があからさまになれば、原子炉の複雑さと同時に、これを取り巻く既得権益集団の複雑さをも炙り出すことになるだろう。原発の導入審査、その決定、開発、製造、建設、運営、管理、検査、廃棄物処理、そのための土地収用、補償、移転先の確保、関連する大学や研究所、公益法人、自治体の担当部署、行政組織、などがからんでいる。当然、巨大なおカネが動いている。それらの規模と絡み具合は従来の水力発電、火力発電の比ではない。

近代生活は電気を抜きにしては考えられない。しかしいつの間にか過剰に電気に依存する社会が出来上がっていたことは否めない。まぶしすぎる照明のコンビニショップ、過剰な色彩のきらめくパチンコ店舗、ゲームセンター、ネオンサイン、省エネが叫ばれても他店よりよく効いた冷房をサービスする店舗など。われわれの生活もまた然り。誰もいない部屋の照明、見る人もいないのに点いているテレビ、使用してしないのに抜かれていないコンセントなど、反省することも多い。

東洋の知恵は、「吾唯足知」(吾、ただ足るを知る)と諭してきた。 諸葛公明は「静以修身、倹以養徳」(『誡子書』)と説き、貝原益軒は「畏れ、慎み、惜しむ」(『養生訓』)と書いた。現実には一個の人間の欲求には際限がない。集団としての人間もまた、より便利で効率化された豊かな社会を求める。それを煽るかのような雰囲気が日本中に充満していた。そこに原発事故とそれに続く計画停電がやってきた。

冒頭の写真はジョグジャカルタ(インドネシア、ジャワ島)の街頭を走るペチャ(人力車)だが、このような乗り物は近代化都市化に伴い交通の邪魔、として各地で排除れさてきた。だが、エネルギー低消費のこんな移動手段、運搬手段が市民の足として他の交通機関と共存している光景は、これからむしろ各国で増えてくることになるかも知れない。

原子力発電は世界中で新規建設の停止、古い既存炉の廃炉へと向かうことになるだろうか。日本の関係者の間では「まだ楽観はできません」との声があることも記しておきたい。

(歴山)