よのなか研究所

多価値共存世界を考える

日本語の未来とは

2011-03-22 17:02:30 | 比較文化

 

                                                        (かつて和歌に詠まれた琵琶湖畔)

 

日本語の話者は一億二千万人余で、世界各国の言語の中でも七番目に話す人が多い。世界に流通している文字情報としては上位五位に入るだろう。インターネットの言語別利用者数では四位に位置するそうだ(”internet World Stars 2009” )。世界に流通している情報の一割強は日本語による、との説もある。

それでも日本語は国際的な言語とはみなされていない。国際連合の文書は英・仏・中・ロの戦勝国の言語にスペイン語とアラビア語が加えられて六つの言語で発行されている。United Nationsが「連合国」(中国、香港、台湾では「聨合国」と表記)のことであるからこれは仕方がない。

 

日本人は自ら外国語が下手だというが、体験的に言えば先進諸国の中で最も外国語の習得能力が劣っているのはアメリカ人、次いてイギリス人であると言って間違いないだろう。そのことを米国人も英国人も少しも恥ずかしいとは感じていない。彼らの日常使用していることばが「リンガ・フランカ(世界共通言語)」としてほぼ認知されているから外国語を学ぶ必要性が低いのだ。両国の学生に「第二外国語」の単位取得という考えはほとんどない。

同様に考えれば、日本人が外国語とくに英語が喋られないのもその必要性が低いからであり、別に恥じ入ることではない。なにしろ、世界でも二位か三位の大きさのエコノミー(経済単位)の中で日本語だけで生活して不自由はないからである。最近は近隣に中国人や韓国人、フィリピン人やタイ人、ブラジル人やイラン人が住んでいる地区が増えたが、かれらの大半は必要な範囲で懸命に日本語を覚えている。

 

日本人が英語が苦手だからと言って小学校から無理に教えることはない。必要な人間だけが必要な範囲で覚えればいいだけのことだ。無理に教えることで、今でも多い「英語嫌い」がますます増えて行くことだろう。

どこの国に行っても誰もが英語くらいは喋っているように伝えられるが、そんなことはない。航空会社や旅行会社の社員、銀行や郵便局の窓口の担当者、売店の店員や道端の物売り、などは確かに英語らしきことばを喋るが、それらはレベルはまちまちであり、中には少ない単語をただ並べているだけのものもいたりする。それを堂々としゃべるところがわれわれと少し違うところだ。

 

そうは言っても、やはり各国に出ていく機会のある社会人は相応の英語で会話する能力を持ってもらいたい。特に学術論文を書く研究者や契約交渉を行うビジネスマンたちには英語を日本語に準じて喋り、書く能力が求められる。首脳サミットや財政・経済大臣会議などの映像がテレビで流れるのを見ることがあるが、冷や汗ものである。軽いジョークを言えないまでも、こんにちは、久しぶりですね、その後変わりはないですか、わたしは元気ですよ、ありがとう、くらいの会話はこなしてほしいと思う。現実にはそれすらもできない閣僚、政治家、官僚が多い。英語が苦手ならフランス語や中国語を習得するのもよいだろう。

  

近年、外国と日常的に接点のある社会人の間では「英語プラスワン」という考えが広まっている。英語ともう一つの言語を習得する、という意味だ。かつて学んだ第二外国語のレベルを上げるでもよい、またはまつたく新しく言語を学ぶでもよい。英語を75点から90点に挙げるために要する時間と労力を他の言語にも向けて、たとえば英語80点、もうひとつが40点となることのほうが望ましい、という考えである。どちらがいいかは置かれた立場によることであり、一概に優劣はつけがたい。

 

日本語は単に話者人口が多いのみならず、これを学習する外国人も増加している。新聞の発行部数、図書の刊行部数はもとより、いまや学術論文の点数、ネット上の文字情報量、eメールやブログやツィッターの流通量の点でも世界の他の言語に引けをとらない。

多国籍の人間の集まる場、つまり産業界の会合や民間企業や労働組合の集会や、NGO活動、文学、芸術、舞台公演の世界でも日本語がもっと使われるようになる可能性は高い。すでに東アジアではJポップが流れ、ヨーロッパでは日本製アニメーションの人気が高い。CG作家や工業デザインや建築の世界でも若手の日本人の活躍は目を見張るものがある。彼らにあこがれる外国の若者たちが日本語を学んで少しでも日本文化を理解しようとしている現場にも立ち会ったことがある。

もっと日本人が自信を持って日本語をしゃべり、世界で幅を利かせてもいいのではないか。そのためにはあまりに安易で粗雑で不明瞭で喋り方は考えてもらいたい。ことばは変化していくものであるが、若者には、語尾の〔ai〕音を〔e:〕音にする(あぶない→あぶねぇ)など一様に怠惰へと流れる傾向を止めてもらいたい。意味のない「とか」、「みたいな」を多用してもらいたくない。大人には商品や建物の名前をむやみにアルファベットに置き換えることの愚に気づいてもらいたい。その国の言語の未来は結局、その国民の自覚と自信にかかっている。

(歴山)