伝統を守ることって必要ですか?
伝統を守ることの大切さが最近わからなくなってきました。
素晴らしい伝統を絶やさないために必死で努力するっていう伝統なら素敵ですけど、
現実的に伝統が作られたころと今とじゃ
変化してることもいろいろあるわけで
伝統を守ることが逆に重荷になってくることもあると思うわけです。
伝統だからとか、
OBの人がこういうからとか、
去年もこうやってたからとかで、
迷わずやってたり、
何とも思わずやらないでいたり。
僕は最近こういうのを変えられる人になりたいなーとは思いつつ・・
やっぱりなかなかできないもんです。
完全に前例踏襲。
前より悪くならないことを祈るばかり。
僕はいい伝統はできるだけ守るべき派だったんですが
道路公団の談合事件とかそんなのがまだまだごろごろしてるんだろうなーと思い、
伝統なんていいもんじゃないのではないかと
「伝統を守れ」なんて言葉は
伝統によって利益を得ている人が
自分の利益を守るためにある言葉なのではないかと
伝統なんてなくていいのではないかと思い始めたわけです。
いくら総理とかトップが変えたいと思っても、それをなかなか変えることができないほど
伝統によって利益を得ている人たちが大勢いるわけです。
必要でよいものっていうのは
伝統という言葉を使わなくても残る。
でも時間が経過することで、時代に合わない部分も出てくる。
談合だって昔はいい面もあったんだろうけど、今は誰が考えたって悪い。
それを伝統とか慣習とかで変えられないようなら、
そんな言葉はいらないんです。
伝統を守ることの大切さが最近わからなくなってきました。
素晴らしい伝統を絶やさないために必死で努力するっていう伝統なら素敵ですけど、
現実的に伝統が作られたころと今とじゃ
変化してることもいろいろあるわけで
伝統を守ることが逆に重荷になってくることもあると思うわけです。
伝統だからとか、
OBの人がこういうからとか、
去年もこうやってたからとかで、
迷わずやってたり、
何とも思わずやらないでいたり。
僕は最近こういうのを変えられる人になりたいなーとは思いつつ・・
やっぱりなかなかできないもんです。
完全に前例踏襲。
前より悪くならないことを祈るばかり。
僕はいい伝統はできるだけ守るべき派だったんですが
道路公団の談合事件とかそんなのがまだまだごろごろしてるんだろうなーと思い、
伝統なんていいもんじゃないのではないかと
「伝統を守れ」なんて言葉は
伝統によって利益を得ている人が
自分の利益を守るためにある言葉なのではないかと
伝統なんてなくていいのではないかと思い始めたわけです。
いくら総理とかトップが変えたいと思っても、それをなかなか変えることができないほど
伝統によって利益を得ている人たちが大勢いるわけです。
必要でよいものっていうのは
伝統という言葉を使わなくても残る。
でも時間が経過することで、時代に合わない部分も出てくる。
談合だって昔はいい面もあったんだろうけど、今は誰が考えたって悪い。
それを伝統とか慣習とかで変えられないようなら、
そんな言葉はいらないんです。
僕もただ前の先輩たちがやってたことを繰り返すのが嫌で嫌で(というか自分たちのやりたいことがやりたくて)、「これがいい」と思ったことをゼロから始める、なんてことに燃えてた時期があったよ。
でも学生の部活と、社会人になってからの諸々のこととは、ちょっと違うよね。なんたって僕ら新人だし。
今は「これは違うんじゃない?」って思っても、「こっちが正しい」って自信もって言える実力も経験もないわけで、でもやっぱおかしいことは色々あって、モヤモヤするのはすんごい分かる。だっけ、主査くらいになってちょっと周りが見えてくる時まで、その目を(芽を)養っていけばいいんじゃないかな。たぶん。そんときに創ってやろうぜ、伝統。
だよね。これまでやってきたものを否定するわけじゃないんだけど、それにとらわれすぎてる気がしちゃうのよね。
でも具体的に何が?ていわれるとうまく答えられないし、
自信もって"こう変えるべきです。"なんて言えないしね。
今よりいい伝統を創ろうと努力するのが、とりあえず俺らにもできることだね。