独創性がある人。
僕がちょっとあこがれる人です。
独創性ってのは何も知識がない状況で新しいものを考え出すこと。
かなと思うんですが、
僕は今まで自分で考えることを今まであまりしてこなかった。
考える代わりに、
誰か知識がある人に頼ったり、
情報を手に入れるために本やネットで調べたりしてたわけですよ。
たとえばレポートなんかでも、
誰かが書いた論文を適当に修正しただけで提出してみたり、
ネットでそれっぽい文献見つけてきて、つなげてみたり。
そんなことばっかりしてた。
まああまり僕が
独創っていう言葉を信用していないことも影響していると思うんです。
僕が考えに考えてひらめいたことでも、
きっともっと前に
誰か頭のいい人がどこかで思いついていて、
その何十年も後に僕が考えて導き出した答えなんて
意味がないと思ってたんです。
それなら自分で考える前に
その人から教えてもらったほうが早いや。
自分で考える必要性なんてないや。
っていう横着な発想が根本に張ってたんですね。
学校なんてそういう昔の人が考えてきたものを
手っ取り早く教えてくれる所っていう感覚もあったし。
「さあみんなで考えよう!」
って先生が言ってみんなが考えてる状況でも
「どうせあとで先生が答え教えてくれるんでしょ。」
って思ってた僕は、考える意欲なんてものは無いのですよ。
問題の解き方や、単語とか年号とか
教えてもらったのを覚えておけばテストの点数なんて結構取れるし。
でも考えた後に正解を教えてもらわないと、
自分の力にならないのかなーとも思うんです。
世の中正解なんてはっきりわかんないから、
正解を出すことはあまり重要じゃないけど、
正解に近づくために考えることはやたらいっぱいしなきゃいけない。
独創性からとんだなー。
僕がちょっとあこがれる人です。
独創性ってのは何も知識がない状況で新しいものを考え出すこと。
かなと思うんですが、
僕は今まで自分で考えることを今まであまりしてこなかった。
考える代わりに、
誰か知識がある人に頼ったり、
情報を手に入れるために本やネットで調べたりしてたわけですよ。
たとえばレポートなんかでも、
誰かが書いた論文を適当に修正しただけで提出してみたり、
ネットでそれっぽい文献見つけてきて、つなげてみたり。
そんなことばっかりしてた。
まああまり僕が
独創っていう言葉を信用していないことも影響していると思うんです。
僕が考えに考えてひらめいたことでも、
きっともっと前に
誰か頭のいい人がどこかで思いついていて、
その何十年も後に僕が考えて導き出した答えなんて
意味がないと思ってたんです。
それなら自分で考える前に
その人から教えてもらったほうが早いや。
自分で考える必要性なんてないや。
っていう横着な発想が根本に張ってたんですね。
学校なんてそういう昔の人が考えてきたものを
手っ取り早く教えてくれる所っていう感覚もあったし。
「さあみんなで考えよう!」
って先生が言ってみんなが考えてる状況でも
「どうせあとで先生が答え教えてくれるんでしょ。」
って思ってた僕は、考える意欲なんてものは無いのですよ。
問題の解き方や、単語とか年号とか
教えてもらったのを覚えておけばテストの点数なんて結構取れるし。
でも考えた後に正解を教えてもらわないと、
自分の力にならないのかなーとも思うんです。
世の中正解なんてはっきりわかんないから、
正解を出すことはあまり重要じゃないけど、
正解に近づくために考えることはやたらいっぱいしなきゃいけない。
独創性からとんだなー。
今まで知ることを考えることより優先させてきたわけだからね。
それを間違いだったとも思わないし。
でも知ることだけでは務まらないことが多くて、
考える力がないことを実感させられてたわけです。
知識を考えて使うことから、考える力をとりあえずつけていってみようかしら。
「結局、 独創性=知識量 なんじゃないかと不安になってしまってるわけですよ。ぜんぜん違うものだとは思うんだけど似てるような気がするんです。」
ん~。ぜんぜん違うものだと思うよ。例えば、本当に「知識がある」人っていうのは、その知識を使うときに(他の人に話したり、仕事で使ったりするときに)「この○○という考えは、△△っていう人が□□っていう本のなかで言っていることですが…」って言える人だと思う。言いかえれば、その知識を「どこ」で得たのかはっきり証明できる人。もうひとつ言いかえれば、その「知識」を知った別の人が、その「知識」の出自を辿れるかどうか。(ちなみにそういうことを内田樹や養老猛司や橋本治や筒井康隆が言ってたっす。いま見つけたのは筒井康隆『文学部唯野教授の女性問答』の「教養ってものは…」って箇所。)
なーんてすぐに言えたのは、僕も前からぐっさんと同じようなことを考えてたからなのでした。ちゃんちゃん♪
「知ること」はもちろんめっちゃ大事で、どんどん知ってもらって構わないと思う。でも、その知識を「これは自分だけが知ってるんだぜぃ」みたいに言っちゃうと、「独創性」どころか逆に「頭の悪い人」みたいに見えちゃう。おーコワイ。
何かを知ったら、知識を得たら、その出所(でどころ)までしっかり覚えておく。知識を使うときにはそれが「どこ」で得た知識だったのかを「考え」て使うクセをつけるといいんじゃないかな。
なんて思いました。そうすると「知識」=「考える」になってるじゃん?おぉ!(しかも「どこ」で得た知識なのかを明らかにすれば、周りの人も同じ知識を得られるよね。)
独創性を考えるときに知識があるかないかは関係ないわね。
おいらがそういう風に言ったのは、
その人が考えたことじゃなくても知識で知っていて、
それを周りの人が知らないときに、
自分で考えたことのように発言したとしたら、
独創性とはいわないけど、
周りの人からは独創的だと評価されることになるのかなー
と考えてしまったからでさ。
結局、
独創性=知識量
なんじゃないかと不安になってしまってるわけですよ。
ぜんぜん違うものだとは思うんだけど似てるような気がするんです。
もしそうなら
「考えること」と「知ること」
なら「知ること」のほうが楽だから、
考えることをおろそかにしてしまいそうなのよね。
多分俺はそうして来てしまっているのよ。
「僕が考えに考えてひらめいたことでも、きっともっと前に誰か頭のいい人がどこかで思いついていて、その何十年も後に僕が考えて導き出した答えなんて意味がないと思ってたんです」って、そうかもしんないけど、でも僕はその「考えに考えてひらめいたこと」が、ぐっさんがぐっさんの脳ミソをめいいっぱい使って使って本気で考えたことで、紋切り型じゃないぐっさんの言葉で言われたことなら、それはぐっさんの考えたことなんだと思う。それでいいと思う。それが1921年にチェコ郊外に住んでるフランツ・ミヒェルスさん(51歳・男・仮名)が夕飯の白身魚のフライを食べていた時にふと思いついたこととほとんど同じでも、それでいいと思う。それが16世紀末にアフリカのサバンナでインパラを追いかけていた…やめます。
「世の中正解なんてはっきりわかんないから、
正解を出すことはあまり重要じゃないけど、
正解に近づくために考えることはやたらいっぱいしなきゃいけない」って言えてるぐっさんが、僕はすげぇと思うよ。いぇい◎