古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

京都嵐山の松尾大社は徐福(ニギハヤヒ)と市杵島姫を祀る 2014年4月17日

2014年04月21日 22時22分18秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

京都嵐山の松尾大社で「山吹祭り」中と言うニュースを聞いて出かけてみた。

松尾大社には過去二度ほど出かけたことがある。2月2日の節分の日に、島根県の「石見神楽」が上演されるので、それを見に出かけたのだ。

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大鳥居を潜る。鳥居には注連縄に榊のような枝が沢山挿してぶら下がっている。河内長野市の「流れ谷八幡神社」の大注連縄にも 同じ様な枝が沢山ぶら下がっていた。

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手水は亀の口から水が出ている。ここでは亀が神聖な神の使いなのだという。

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広い境内。左手前が舞い殿で右奥が本殿。本殿は「両流れ造り」という。

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由緒書きを呼んでびっくりした。なんと宗像三姉妹の「市杵島姫(いちきしまひめ)」が祀ってあるではないか。もう一方の「大山咋神(おおやまくいのかみ)」とは誰なのだろう。

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境内のあちこちには「山吹の花」が満開だ。山吹祭りが行われているだけはある。

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重森三鈴の作庭「上古の庭」の上に宝物殿があるので入ってみた。写真の右端である。

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市杵島姫の像である。

※館内は写真撮影禁止なので、宝物殿パンフレットの写真である。

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その隣には「大山咋神」(おおやまくいのかみ)が鎮座している。この方は恐らく市杵島姫の夫の徐福だと思われる。

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秦の始皇帝に言い付かり、東洋の島国(和国を蓬莱島といった)に不老長寿の薬を求めてやってきた徐福は、第一回目の来日時は「火明かり」と名乗った。

出雲王家の「高照姫」と結婚し「五十猛(いそたけ 後の香語山)」をもうけた後一旦帰国し、始皇帝に莫大なお金と沢山の青年男女(海童と呼ばれる)を貰い受け、二度目の来日は九州築後平野に上陸した。今度は饒速日(にぎはやひ)と名乗り、宗像家の三姉妹の二番目の「市杵島姫(いちきしまひめ)」と結婚し、穂穂出見(ほほでみ)をもうける。

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徐福の長男 五十猛は丹波へ移住して香語山と名乗り、その息子「天の村雲」が初代大和大王となる。

徐福の次男穂穂出見は九州物部家を起こし、その子孫が二度にわたり東征を行い、長男の子孫の大和の王朝(海部王朝)を倒して、大和朝廷を打ち立てる。

つまり兄が弟にやっつけられたのである。童話「山幸彦と海幸彦の物語」のモデルとなったのである。(※斎木雲州著大元出版 御伽噺とそのモデル)

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松尾大社は701年に秦忌寸都理(はたのいみき とり)が秦氏の氏神として建立されたと書いてある。藤原京時代のことだ。

また大山咋神の伝説を調べると、「丹波の開拓に尽力した」というのもある。つまりそれは丹波へ移住した五十猛 後の香語山の成果を言っているのだ。辰韓の王子ヒボコが丹波の円山川流域の開拓に尽力したというのはもっと後のことである。

と言うことは五十猛や海童の子孫たち秦国人が秦氏として、丹波から山代へ移住してきて、養蚕、醸造、精錬などの先進技術で太秦界隈に大きな力を持ち、松尾大社を建立したのであろう。

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徐福(素戔嗚)が五十猛海岸に上陸し、出雲王国で暴れ周り、大名持ちの八千矛(大国主)や、少彦(すくなひこー副王)の八重波都身(事代主)たちを幽閉殺害したことは、この万葉の時代になっても(徐福上陸から900年以上経っても)人々は記憶していた。だからその万葉歌にも事代主が「志都の岩屋」で幽閉殺害されたことが歌われているのである。

※志都の岩屋はこちらです。http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/d/20130318

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秦忌寸都理たち、徐福と市杵島姫夫婦の子孫たちは、先祖の両親を祀るにあたり、徐福(素戔嗚、または火明かり、または饒速日)の名前を出すのをためらい、大山咋神の名前で祀ったのだろう。

あるいは、もっと以前から秦氏集団は「徐福」の名を隠して「大山咋神(おおやまくいのかみ)」と名を変えて 徐福を祀っていたかもしれない。

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