古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

オホド大王(後の贈り名は継体)の足跡を訪ねる旅は越前桜旅になった 2018年4月5日 その1

2018年04月18日 00時04分43秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
オホド大王の足跡を尋ねる越前桜旅 その1
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西暦248年に始まる 九州物部王国の第二次東征により、わが国最初の王朝である出雲王朝は倒されました。
しかしその後も 出雲国教の幸の神は各地で信仰され、特に東出雲王家の祖神のこもる 聖なる山 熊野山
(松江市天宮山)を祀る集会は 毎年行われ 全国に散った出雲王家の兵士達の子孫は 「散家」と呼ばれて
熊野山祭りの集会に参加しました。
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しかし倒されたとはいえ 出雲王家はまだ相当の財力と兵力を持っていたことは事実です。

実際に 九州物部王家のイクメ王は大和に進攻して磯城王朝を大和からおいだしたとはいえ、部下の朝鮮人卑矛(ひぼこ)
の子孫の但馬守が葛城地方で王のように振舞うのを制御できずにいました。

そこでイクメ王は旧出雲王家の富家に 但馬守を撃つように頼み 富家の大田彦は 出雲兵を率いて葛城地方から
但馬守を見事追い払い淡路島へ逃走させました。これにより富家の大田彦と 出雲王家の大和分家の富美家
は 大和に領土を回復し、大田彦は物部の重臣の称号「宿禰」を与えられました。

ここにきて イクメ王は名実共に大和の「大王」(この時点ではまだ天皇なる言葉はありません)になるのです。

この事件は記紀では「野見宿禰」と「当麻蹴速」の相撲話に書き換えられました。この事件が大相撲の
起源だそうで、まったくのお笑いです。しかし考えてみると この戦争をそのまま歴史書として書くと
九州から来た徐福の子孫の物部王家が 大和に王朝を作っていた 出雲王家と徐福の子孫の連合王国の磯城王朝を
武力で制圧して 則ったという事実がばれて 持統や不比等がそんな事を許すわけが有りませんからネエ。

ちなみに 野見宿禰の「のみ」とは富家の「とび」のことで 「たいま」とは但馬のことです。また今の當麻寺
のある當麻は但馬守が地盤とした地域で 但馬(たじま)がなまって「たいま」となったものです。 
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一方 大和に進攻した物部王家の「イニエ王」は自分の部下だった武内宿禰が裏切り 磯城王家の彦道主大王
と連合した軍勢を破ります。彦道主大王は娘の燈バス姫をイクメ王に差し出して 武内宿禰とともに因幡の国へ
流されて 因幡国造家として余生を過ごします。

しかしイ二エ大王(後の贈り名は垂仁)は武内宿禰が許せなくて、刺客を放ちます。それを知ったヒバス姫皇后は
父親彦道主に知らせます。当時因幡の国に住んでいた武内宿禰は それを聞きとりもなおさず 農民の姿をして
西へ逃れ 出雲の富家に助けを求めます。

富家では 出雲王家の皇女大屋姫の子孫である武内宿禰を匿い意宇の森に住まわせます。
そして富家の姫を与えて結婚させ、出雲王家の称号「臣(おみ)」を与え「武内臣太田根」として
余生を過ごさせました。このことが将来の日本の歴史に大きな影響を与えます。
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武内臣大田根(たけしうちのおみ おおたね)の子孫からは日本史を動かす沢山の大王
(おおきみーまだこのころは天皇の称号はありません)が誕生しています。

武内臣大田根の曾孫が襲津彦大王で その後の平群王朝(支那の歴史書に言う和の五王)や蘇我の臣石川などが子孫です。
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ということで 話ははじめに戻りますが、蘇我総本家とイズモの富家は親戚関係なのです。
その蘇我総本家では振り比売の時代には 子供は振り比売一人になったといいます。そこで富家から次男の
彦太(ひこふと)を婿養子にもらう事になり、その年の熊野山の大祭に越前の蘇我総本家から振比売が訪れて
参加しました。そして大祭の後 彦太は振り比売を送って越前へ行き そのまま婿入りしたのです。
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富家に伝わる伝承によれば新婚の二人はまず 振り比売の祖先である「武内の臣大田根」を祀る「武内神社へ参拝しました。
今の松江市竹矢町です。
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そこから船に乗り阿太加夜神社へ向います。今の松江市東出雲町出雲郷(あだかえ と読みます)にあります。
其処は武内臣大田根が富家に匿われて 住んだ場所で意宇の森(おうのもり)と呼ばれる場所で
そこで命を全うしました。その屋敷跡に神社が建てられました。

※武内神社、阿太加夜神社の訪問記は 2014年4月10日の記事に載せています。
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そこからしばらく船を東へ進め、因幡の国で船を下ります。宇部神社に参拝する為です。
宇部神社は 武内宿禰が 因幡国造として大和から移り住んだ彦道主王(もう大王ではありません)に付き従い
移り住んだ場所で、イクメ大王が刺客をはなったという知らせで あわてて姿を消した屋敷跡に建てられました。

この神社の拝殿の前は 京都御所と同じく「右近の橘、左近の桜」が植えられています。
彼の子孫から沢山の大王が出たことを暗示しているのでしょう。
※宇部神社訪問記は 2017年10月12日の記事です。
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彦太と振姫は越前の福井で祝言をあげ 「オホドの君」と呼ばれて 活動を開始した。
水害の多かった九頭竜川の河口を切り広げて、三国港を整備した。そして日本海交易を盛んにし莫大な財をなした。

当時若さ、加賀、越の国には 出雲王家の親戚の磯城王家の大彦の子孫たちが国造家として住んでいて
「道の君」家と呼ばれていた。発展を重ねた蘇我総本家のオホドの君は それらの盟主となり
それらの国々はやがて蘇我王国と呼ばれるようになる。

次にオホドの君は敦賀の港から荷馬車で山越えして 琵琶湖と淀川を舟で運び瀬戸内海と日本海を継ぐ航路を作った。
そして難波から大和川を通り都へは直接往来で来たので 都にもオホドの君の名声は聞こえた。

蘇我オホドの君は淀川の中流域、乙訓今の三川合流地点(淀川、宇治川、木津川)に交易の拠点と広大な屋敷を作った。
その地の西は三島であり、かつて第八代出雲王家副王、言代主の八重波津身に嫁がれた玉櫛姫(活玉依り姫)
の実家があり 出雲王家領の一部もあった。そこには沢山の出雲族が移住しており、彼らの子孫も多数
乙訓屋敷に集り尾ほどの君の為に働き始めた。

また関東の国造家も ほとんどが出雲王家の子孫たちなので 彼らも乙訓の地に集り オホドの君の為に
働くようになり ますますオホドの君の名声はたかまった。

当時のオオサザキ(大雀)おうち用では親族の内紛が絶えず、王家の力は衰えるばかりであり、折りしも
オケ大王(仁賢)、ワカサザキ大王(武烈)が相次いで無くなり跡継ぎが絶えたという。

そこでオオサザキ王朝の重鎮二人が 乙訓の屋敷にオホドの君を訪ねて 大王就任を頼み込んだという。
重鎮二人は 大伴金村と巨勢の臣男人であり、巨勢の臣は襲津彦大王の子孫である。(上図参照)
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重鎮二人はオホドの君が大王就任の条件として 先々代大王のオケ大王(贈り名を仁賢)の皇女である
手白香姫(たしらかひめ)を后にするという時用件を持ち出した。オホドの君はこれを飲んで大君となり
オホド大王が誕生した。しかしこれがのちのち複雑な問題を引き起こします。

振姫との間には カナヒ、オシタテという二人の息子が居て 記紀ではこの二人を何故か大王扱いにして
それぞれ送り名を「安閑」、「宣下」としている。

しかし手白香姫との間には ヒロニワ皇子が誕生し のちにヒロニワ大王(欽明)となり この大王からの
系統が今の皇室に続く血筋です。
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※このブログの歴史内容は 斎木雲州著 「古事記の編集室」、「出雲と蘇我王国」、「出雲とやまとのあけぼの」
「万葉歌の天才」、「御伽噺とそのモデル」、「飛鳥文化と宗教争乱」  
勝友彦著「親魏和王の都」、「参院の名所旧跡」 谷戸貞彦著「幸の神と竜」 いずれも大元出版です。
またブログの内容に付いては 斎木雲集先生のご了解済みです。
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オホド大王の足跡を尋ねる越前桜旅 その2へ続く
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オホド大王(後の贈り名は継体)の足跡を訪ねる旅は越前桜旅になった 2018年4月5日 その2

2018年04月15日 23時31分53秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
オホド大王の足跡を訪ねる越前桜旅 その2
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足羽神社と足羽山公園 福井市足羽
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足羽神社の鳥居からは 名物の「足羽神社の枝垂桜」が見えます。
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拝殿は大きくて立派です。ちょうど結婚式の記念撮影が行われていました。
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足羽神社の由緒書きです。まあでっち上げ、歴史小説の日本書紀をそのまま鵜呑みにして
かかれていますので 神話風になっています。

記紀の作成を命じた持統女帝や不比等たちが 一番嫌がったことが「自分達の祖先の秦国人で
渡来人の徐福の子孫達が 倒した出雲王家の末裔の若様を 大和の大王に迎えた」と言うことでしょう。

そのため オホド大君は ホムタ大王の6世子孫だとしています。しかしこれは明らかに間違いです。
第一ホムタ大王とオホド大王に血縁関係はないし、それに作り話の記紀に拠ればホムタ大王から11代目がオホド大王です。

実際はホムタ大王の後はオオサザキ(仁徳)、イザホワケに始まる和の五王
(ミツハワケ、オアサヅマ、アナホ、ワカタケ)、オケ(仁賢)それにワカサザキ(武烈)その次がオホドで9代目です。

そして一番驚くのが オホド君は 振姫の里の高向(たかむく)で生まれたというのです。
後ほど 高向の郷へ行きます。
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神社を出て 少し岡を登ると岡の最上部にオホド大王の石造があります。
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満開の桜を眺めるオホド大王。視線の先は福井市内の市街地で 背中には
真っ白に輝く雪の白山が 桜の先に見えました。
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高向神社 福井県坂井市丸岡町
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高向神社はマイナーなのか近所の人に聞いてもご存知ありませんでした。カーナビが教えてくれました。
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鳥居と石碑は新しくて立派なのですが、社がかわいそうです。
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小さな本殿がポツンと立っていました。
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記紀では 大王扱いの「カナヒ(安閑)、オシタテ(宣化)」二人の母を祀る神社としては かわいそう過ぎます。
なんかこのあたりの村の鎮守様と言う感じです。
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そして説明看板を見てまたもびっくり、振姫がオホド君を生んだと書いてあります。
まあ日本書紀に拠ると という注意書きがありますが。
振姫を祀るのが 高向神社だと本で調べて来たのに これでは 振姫がかわいそうです。
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九頭竜川を河口の三国から少し遡ると 松岡と言う場所があります。そこが蘇我総本家の
屋敷があった場所です。その屋敷の川向に 古墳群がありますが その古墳が蘇我本家の
古墳群で その中の六呂瀬山1号墳が振姫の墓だといわれています。非常に大きい墓です。
まあ正式な皇后ではないけど、大王の奥様なのですから 古墳が大きいのはあたりまえです。
当時和国一の財力を誇った蘇我総本家の姫でもありますし。

それにしても この神社はかわいそう過ぎました。
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桜の名所花筐(かきょう)公園は 岡太神社の境内にあります。この神社の鳥居の前に立ったとき
ピンと来ました。岡太とは彦太のことではないかと。つまりこの神社は彦太の君に付いてきたイズモ族や
蘇我総本家の古墳作りを手伝いに来たイズモ族(出雲富家と祖崖では お互いの古墳作りに
技術者を お互いに派遣し合って造りました)が建てた神社と思いました。
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この神社の神事「蓬莱祀ーおらいし」の説明文です。やはりオホド大王つまり
彦太の君を祀っていました。
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境内の案内図を見るとイズモの国の縮図なのが分かります。あちこちに出雲の地名があります。
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神社の拝殿も立派です。
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岡太神社の本殿です。残念ながら大社造りではありませんでした。
そして立派な造りの本殿です。
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境内にある出雲社です。
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そしてこちらが 金刀比羅神社です。

これはもちろん 徐福らに幽閉殺害された出雲王家の第八代主王八千矛王(記紀では大国主と
書き換えられました)を祀る神社で、讃岐の金刀比羅宮にはその境内に美保津姫を祀る美保津姫神社もあります。

大国主とほぼ同時に幽閉殺害された第八代副王の事代主つまり八重波津身を祀る
ため 富家が建てた美保神社(松江市美保関町にあり全国の恵比寿神社の総本社)で、
父の八重波津身を祀る神社の巫女として過ごした事代主の皇女の美保須須美姫
を祀っています。美保須須美、または 美保津姫と書かれます。

つまり金刀比羅神社はイズモ族の神社なのです。
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松江市の美保神社の神門から拝殿をみたところです。八重波津身は 記紀で事代主と書かれ
そのうちに 恵比寿さんとも呼ばれるようになります。
そこでこの美保神社は全国の恵比寿神社の総本社となります。
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またこの岡太神社境内には琴弾山もあります。もちろん本家の琴弾山は出雲にあります。
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この写真は島根県奥出雲町の琴弾山(1180m)の山頂に建てられた琴弾神社です。
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と言うことで岡太神社は出雲族の建てた 彦太の君を祀る神社と言うのが良く分かりました。
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ちなみに 岡太神社を中心としたこのあたりの山に 桜を植えて花筐公園として整備されました。
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