古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

6.スサノオ新婚生活の須我神社

2010年10月20日 00時14分10秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

ヤマタノオロチを退治したスサノオはクシナダ姫と結婚し、須我神社に

住んだそうです。古事記で言う須我の宮です。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣造る その八重垣を」

須我の宮で詠んだこの歌が、和歌の始まりといわれ、この宮を「和歌

発祥の地」と言われていて、石碑が立っています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

22

須我神社鳥居です。この右脇に「和歌発祥の地」の石碑があります。

20

須我神社から2キロほど離れた八雲山の中腹にある

須我神社奥宮の盤座(いわくら)です。

祭神は、もちろんスサノオとクシナダ姫です。

大きい磐がスサノオでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この奥宮の参道には、和歌発祥の地らしく、沢山の和歌の記念石碑がたっています。知人の句碑を偶然発見し、びっくりしました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

実際にはスサノオは「クシナダ姫」なるお方と結婚したことはなく、ヤマタノ

オロチ退治もしていなく、ただ古代出雲王国内で 秦国からつれてきた部下の

穂日や 海童(秦国人の青年)たちと 暴れ回ったに過ぎない。

須我神社の詳しい記録はここから入れます。

「松江の四季」2010年10月15日 http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-matsuesiki/e/cb04efa77aeb64a05fe6d4e1a4c56fc8

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 秦国からの渡来人「徐福」は記紀では「素戔嗚」とかかれたが、 石見の五十猛海岸に上陸する前に 部下の「穂日」に命じて 前もって出雲の第八代主王(大名持ち)の「八千矛王」に上陸の許可を取っていた。 五十猛海岸に上陸してから、和名を「火明かり(ほあかり)」と名乗り 出雲王家の高照姫を娶り  長男 五十猛(後の「香語山」)をもうけ、一旦秦国へ帰国する。 そして「不老長寿の薬」を求める為、秦の始皇帝に 更なる資金と海童、それに技術者を貰い和国(蓬莱島)へ 再出国する。 多数の秦国人たちを 引き連れて、今度は北九州佐賀の『浮杯」後に再上陸して 今度は「饒速日にぎはやひ」と名乗る。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー つまり クシナダ姫とか稲田姫なる姫は、記紀の作り話である。 記紀を作るように命じた方、その命を受けて太安万侶らを幽閉監禁して、記紀を書かせた人たちは 自分たちの祖先が 渡来人で しかも征服王朝だということを 絶対に隠したかったのである。 そのために自分たちの祖先は天から降りてきただとか、出雲の王から国を譲ってもらっただとか さまざまな作り話をつくりだしたのだ。 それには穂日の子孫も大いに関係しているのだが それはまたいずれゆっくりとゆかりの地を訪ねてみようと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」トップページはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

全体のトップページへはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4.スサノオが降り立ったという船通山

2010年10月19日 22時36分26秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

古事記によれば、スサノオは最初新羅の牛頭山に降り立ったけど

「ここはあまり気に入らない」と言い、次に出雲の「船通山」に

降り立ったと言われている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Photo

昔は鳥上山と呼ばれていた。その名舞うの由来となった「鳥上の滝」。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Photo_2

5

船通山山頂。スサノオがヤマタノオロチを切り裂き腹の中から

取り出したという「叢雲の剣」(後の天皇家の三種の神器の一つ

「草薙の剣」)がここで取り出されたという記念石碑が立っていた。

※石碑の漢文を私が勝手に解釈した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

藤原不比等が書かせた記紀には、紀元前二世紀末に秦国から

渡来して 出雲王国の大国主や言代主を殺して大暴れした徐福は「スサノオ」と書かれ

た。そして徐福は 高天原からこの山に降りてきたと書かれたのである。

それを見た 出雲の人たちは、仰天した。

徐福は 出雲の国の隣 石見の五十猛海岸に 大船団でやってきたことは、

出雲の人々の記憶に強烈に残っているからである。

この山はもともと 鳥髪山(とりかみやま)と呼ばれていた。

そこで出雲の人は 徐福が船に乗ってこの山にやってきたことをからかって

「船通山」と呼んだらしい。

自分たちの国が 徐福に依り 引っ掻き回され、挙句の果てに徐福の子孫の

海部王朝の末裔どもに 国を滅ぼされたことを恨んでいて こう呼んだ

のかもしれない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

船通山の記録はここから入れます。 「ブログ島根の山を歩く」船通山http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-shimaneyama/e/4e8a6d4d9aad57e3e8d48a1ac43b0647

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」トップページはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

全体のトップページへはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3.スサノオ終焉の地と言われる日御碕神社

2010年10月19日 22時19分55秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

日御碕神社は、出雲大社北西部 島根半島西端部にある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Photo

日御碕神社遠景。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Photo_2

権現造りの神門。

古代出雲王朝の建物は妻入りで、縦削ぎ千木の「大社造り」だ。

徐福らの渡来人を祀る建物は、この限りではない。

この神社は 徳川が建てたと書いてある。権現とは家康のことだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Photo_3

日の沈む宮、これは「アマテラス」を祀っているという。

古代出雲王朝とは 直接関係が無い。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Photo

スサノオの「神の宮」は、彼がやってきたと言われる海の向う「新羅」

のほうを向いて、建てられている。

しかし、スサノオと記紀に書かれた人は、実は秦国からやってきた

徐福なのである。徐福は秦の始皇帝の命に寄り、山東半島から船出したと

支那の歴史書に書いてあるので、西を向くのは間違いで 南東を

向いて建てられるべきだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

徐福(スサノオ)は一度目の渡来時には 石見海岸の五十猛海岸に上陸し

たと言われている。彼が出雲王家の高照姫との間に生まれた長男は

「五十猛 いそたけ」と名付けられ その子「天の村雲 アメノムラクモ」

は大和入りして初代大和大王となった。(海部王朝)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一旦秦国に帰り 二度目の渡来時には九州 筑後地方に上陸して

宇佐の宗像家 市杵島姫との間に生まれた子の子孫が大和入りして

海部王朝を倒し、大和政権を打ち立てた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

したがってスサノオ終焉の地は一般的には 筑後だといわれている。

それに徐福が来たのも 新羅からではなく、シャントン半島山東半島からであり、この神の宮もシャントン半島を向いているのかもしれない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

オオクニヌシの出雲大社、スサノオの日御碕神社は「チャリ日記」に載せています。 ここから入れます。 http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-chari1/e/27a2e6706dacbe8c14c6e457af177253

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※6世紀のヒロニワ大王の時代に 旧東出雲王家の向家の山代彦がなくなった。 そのときの葬儀の勅旨として「日置志毘」が参列した。 ヒロニワ大君は古代出雲王朝を良く覚えていて、尊敬していたと伝えられている。 そして蘇我王朝の祖先 武内宿禰がイクメ大王に殺害されそうなときに 東出雲王家に助けられたことも、よく覚えていたという。 武内宿禰が生きながらえて、その子孫が 平群王朝や蘇我王朝を作った事も良く知られたことである。 そしてヒロニワ大王の父君の オホド大王はもともと旧東出雲王家のオホドの君なのである。 「日置志毘」はそのまま都には帰らず出雲にとどまり、山代二子塚古墳を初めさまざまな古墳を築いた。 また出雲郡杵築郷に 御前の社(みさきのやしろ)を建てた。これが後の日の御崎神社となるのである。 出雲大社(杵築大社)よりも期限はずっと古いのである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」トップページはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

全体のトップページへはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2.古代出雲王朝の終焉 美保神社諸手舟神事

2010年10月18日 23時25分38秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

松江市の東にある美保神社に伝わる「諸手舟神事(もろたぶねしんじ)」

は古代出雲王朝の終焉を暗示させる祭りです。

大和から、強力な武闘派「タケミカヅチ」が派遣され、出雲王朝は「国譲り」

を強要されます。

出雲王朝の急変を告げるため、美保関沖で釣りをしていたオオクニヌシの

息子コトシロヌシ(エビスさん)のもとへ早舟が駆けつけたという「記紀」に書かれた作り話に

基づいて昔から連綿と行われています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Photo_2

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

諸手舟神事の見学記はここから入れます。 http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-matsuesiki/e/e29f0c4cd80031e6f49bc4e80ad0b890

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ウェブページの「季節の風景トップページ」へはここから入れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/kisetsu/index.html

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」トップページはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

全体のトップページへはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1.熊野大社、美保神社、佐陀神社

2010年10月18日 19時17分40秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

古代出雲王朝ゆかりの社 2009年11月9日

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一昔前まで「古代出雲王朝なんて、神話の世界の話だ」とみんなに思われていました。その王朝の存在を示す遺跡や物証に乏しかったからです。

ところが、数年前に島根県出雲市で「加茂岩倉遺跡」や「荒神谷遺跡」からそれまでに日本で発掘されていた銅剣の総数を一挙に上回る数の銅剣が発見され、またおびただしい数の銅鐸が発掘されました。

また出雲大社境内からは直径1.2メートルの大丸太を鉄帯で 3本束ねにした巨大な柱が発掘されて、伝説の巨大神殿が現実味をおびて、古代出雲王朝の存在が一気に熱を帯びてきました。

それらの発掘物は 出雲市の「古代出雲文化博物館」に陳列されています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

20_2

芸術新潮10月号には「梅原 猛」先生が出雲王朝の栄枯盛衰を解説していらっしゃいます。なかなか読み応えがありました。 先生は今まで「法隆寺ー隠された十字架」「水底の歌ー柿本人麻呂論」など多数の歴史論で歴史学会に話題を提供してこられました。私も読みましたが、新しい斬新な視点で書かれ、とても面白く読ませて頂きました。

※表紙は出雲大社拝殿で微笑む梅原先生

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先月にこのブログページで紹介した、松江市南部の天狗山(天宮山)は、出雲の国一ノ宮(出雲の国で一番古く権威のある神社)の元宮(もともとはお社が置かれていた)と呼ばれています。 その天狗山に登った後立ち寄った、熊野大社と八重垣神社の写真です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

朝鮮(新羅)からやってきた「スサノオ」は出雲の斐伊川の川上から流れてきた箸を見て川を遡り、オロチに食べられようとしている「稲田姫(クシナダヒメ)」を「ヤマタのオロチ」から救います。「古事記」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

熊野大社は古代出雲王朝の創始者「スサノオ」とその妻「クシナダヒメ」ゆかりの社です。  ※記紀による

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

21

熊野大社参道です。この橋が架かっている川が「意宇川」で天狗山中腹にあった「意宇のミナモト」から流れ落ちた川です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

22

神門にも巨大な注連縄がかかっています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

23

堂々とした熊野大社拝殿の注連縄です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

24

熊野大社の案内文です。「熊野大社は古代、現在の天狗山にありました」と書かれています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

25

ここが「鑚火殿」で、スサノオが新羅から持ち込んだ火起こしの道具が神具としてあるそうです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

出雲国造(くにのみやつこー出雲大社宮司)が新任するとこの鑚火殿で火継ぎの儀式を行わなければ、新しい宮司には なれないそうです。

また毎年新年に出雲大社の宮司がこの熊野大社にご挨拶に、お餅を持って来なければならず、その時には熊野大社宮司がそのお餅をいかに悪く言うのかが千年以上続く伝統神事だそうです。

それほどこの神社は格式が高く、出雲一宮といわれる所以です。

 ※ 後年、不比等らにより 造られた記紀神話にあわすため

   徐福(スサノオ)がここに祭られたので、徐福の忠実な部下の穂日の

   末裔の出雲国造(出雲大社宮司)はここに挨拶をせざるを得なかった

   のだろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

239年に都万国の 物部王国と宇佐の豊王国との連合王国イニエ大王と

豊玉姫は 魏の洛陽へ使者を遣わして 魏から8本の幡を受け取った。

その後 連合国は 瀬戸内海を東進し 第二次東征を開始した。

同時に 物部豊連合国は日本海を進み 出雲王国を攻め落とし、出雲

王朝は降伏した。ここに 古代出雲王朝は終わりを告げた。

出雲王朝第17代少彦の大田彦は、東出雲王宮を物部進駐軍の将軍 

物部十千根に明け渡した。それが今の 神魂神社だという。

向王家の大田彦は、八雲村熊野に引き上げて、そこに住んだ。

それが 今の熊野大社という。

  ※ 斎木雲州著 「出雲と蘇我王国」 大元出版 による。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここからは八重垣神社です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

スサノオがヤマタノオロチからクシナダ姫を、この境内の奥、佐草の森に匿い、オロチ退治のあと新婚生活を送った場所です。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を」

 と妻を娶った喜びを歌いました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

30

鳥居と神門の向うに 拝殿が見えています。縁結びの神の本家だそうです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

31

元は拝殿の板壁に 「スサノオ」と「クシナダ姫」の絵が描かれていました。今は宝物殿に保存されています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

32

佐草の森のなかにある「鏡の池」。ここに匿われた「クシナダ姫」が姿を映して化粧したという池です。森の中にひっそりと 静まり返っています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

33

境内には「山ノ神神社もあり、子授けの神として有名です。若いご夫婦が一心に、お祈りしていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※ 本当にこの神社は胡散臭い。記紀により造られた神話にあわせて

  後年御利益にあやかろうと造った神社なのが見え見えだ。

  徐福(スサノオ)は 石見の五十猛海岸に上陸後、「火明ほあかり」と

  名乗り 古代出雲王家第7代主王(大名持)天の冬衣の娘さんの 

  「高照姫」を娶ったので、 この神社がスサノオと稲田姫(?)の新婚生活 

  の場なんて 後世の作り話なのに 嘘の上塗りで 上の写真の陽根を

  飾り、子授けの神なんて いかがわしいにも程がある。

  まあ人気のキャラクターにアヤかって客集めをしようとする神社や

  お寺は 全国に沢山あるが。

  私の高校時代 この神社の神主のSというおっさんが 先生をしていた。

  いつもへらへらして下ネタが多く胡散臭いおっさんだった。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

佐陀神社(さだじんじゃ)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

40

松江市の佐陀神社は三連の大社造の壮観な社です。

全国から神様が出雲に集まる「神在り祭」は、出雲大社で執り行われた後この佐田神社に場所を移して、引き続き執り行われるという、由緒ある神社だそうです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

美保神社

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

41_2

美保関神社は島根半島の東の端にあり、「オオクニヌシ」の息子

「コトシロヌシ」(ゑびすさん)と「ミホツ姫」を祀っています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

43

「コトシロヌシ」は「ゑびすさん」として尊敬されていて、全国の2400社の「ゑびす神社」の総本社です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

44

境内の鳥居からは海が見えます。鳥居の額には 「沖の御前、地の御前」 と書いてありますが、意味が分かりません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

梅原先生の論旨は

1 朝鮮から来た「スサノオ」により出雲王朝は始まった

2 その子孫の「オオナムヂ」の時に領土は最高に広がり大国となって、「オオ クニヌシ」とよばれるようになった。新羅、越(こしー越前あたり)、播磨などが支配下に置かれた

3 その後大和の国に「出雲の国譲り」を強要され、差し出した。

このあたりまでは、今まで歴史作家とかほかの先生も本に書いておられたのですが、次の2点は今までの本にはなく 新しい意見だと思いました。

4 出雲王朝は一時 大和や山城をも支配下に置いた。

 その理由 京都周辺には「出雲」と名の付く地名が多く、出雲系の神を祀る神社が京都、奈良に多い。(下に赤字で注釈しています)

5 全国の神々が出雲に集まる10月は出雲では「神在り月」と呼ばれるがこれは国譲りの時に「黄泉の国の大王」になった(つまり殺された)オオクニヌシの葬儀に全国から神々(王)が集まったことの再現である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上が梅原先生の本の論旨ですが、昔に比べると かなり前進はしたけど

まだまだ 不勉強が否めない。だって梅原先生は 古代史の先生ではなく

哲学の先生なのに なぜ専門外の古代史に こだわられるのかなあ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私の知っているだけでも 祇園祭で有名な八坂神社はスサノオとクシナダ姫を祀っていて、清水寺奥の地主神社はオオクニヌシを祀っています。

日本最古の神社といわれる奈良県桜井市の大神神社や、大和の神奈備(神のおわす山)で山自体がご神体で有名な 三輪山はオオクニヌシを祀っています。

私の住む河内の最高峰で河内、大和を見下ろす金剛山山頂の葛城神社にはオオクニヌシの息子コトシロヌシ(一言主 または ゑびすさん)が祀られていて社はご丁寧に大社造です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※ 古代出雲王家 代8代副王(少彦)の八重波都身(記紀では言代主と

  書かれた)は この地美保関で 越の国からやってきた「沼川姫ぬなかわ

  ひめ」と暮らしていたが、徐福(スサノオ)の部下 穂日とその息子

  夷鳥(夷鳥)らに 諮られて米子市の粟島洞窟に幽閉され、殺された。

  前もって誘い出して幽閉した 第8代主王(大名持)の八千矛(記紀では

  大国主)の行方不明を知らせに来た 早舟を再現した祭りが今も続く

  「諸手舟神事もろたぶねしんじ」である。

  

  上記の金剛山頂 葛木神社は 後日訪問しますが、言代主の子孫が造った

  神社なのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」トップページはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

全体のトップページへはここから戻れます。 http://yochanh.sakura.ne.jp/

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする