古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

いわゆるヒミコについてのまとめ  その5.  大和姫  その2 

2021年05月18日 15時17分29秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

いわゆるヒミコについてのまとめ  その5. 大和姫  その2

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出雲国には古くから粟島坐伊射波神社(あわしまにいますいざわじんじゃー秋鹿郡伊農郷)がありました。

現在の松江市秋鹿町にはこの神社はありません。粟島とは 八重波津身(出雲王朝第八代副王ー少彦の事で

記紀では事代主と書き換えられた)が 美保関の沼川姫といるところを 徐福の部下の矛卑の息子のタケヒナドリや

海童たちに「大名持(大国主と書き換えられた出雲王朝第八代主王の八千矛)が行方不明です」と騙されて拉致され 

王の海(中海)を西へ向かったまま行方不明になりました。結果は大国主は出雲北部日本海に面した猪目洞窟に

事代主は王の海の弓ヶ浜半島の西の粟島の洞窟にそれぞれ幽閉殺害されました。

このため粟島は事代主を祀る聖地でもあります。

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八千矛王が幽閉されて殺害された猪目洞窟です。

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松江市美保関神社の モロタ舟神事です。

美保関の王宮に沼川姫といたところへ大国主行方不明の知らせに駆けつけた早船を模した神事です。

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王の海の粟島です。周りの海は江戸時代に干拓されました。

正面が志都の岩屋洞窟で最上部に粟島神社があります。

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事代主が幽閉殺害された志都の岩屋です。

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大汝とは大名持つまり主王の八千矛で、少彦名は間違い表記で副王の役職名の少彦で 八重波津身

つまり事代主の事です。

奈良時代の都の貴族豪族は 渡来系の物部家、尾張家、海部家を除けばほとんどが出雲系の

登美家やその親族の人たちでしたから 大国主と事代主が 洞窟に幽閉殺害されたことは

よく知られていました。

その祟りをおそれて 二人の霊を鎮めるために あちこちに大国主や事代主が祀られました。

後になって 大国主を大黒様、事代主を恵比寿様とよばれるようになり、事代主が沼川姫と暮らした

美保関の宮殿跡の美保神社(沼川姫が皇子の建御名方をつれて実家の越の国へ帰られた後 二人の娘の

御穂須須美(みほすすみ)姫が事代主の霊を祀り続けました。)は全国の戎神社の総本社となっています。

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このため粟島坐伊射波神社には古くから 事代主が祀られていました。

志摩の国の伊雑宮(いぞうのみや)は出雲から勧請されたと考えられます。  

また現在の松坂市にも伊射波(いざわ)神社や伊佐和(いざわ)神社がありますが いずれも

出雲系の志摩国造家の影響と考えられます。しかしいずれの神社も 残念なことに現在は祭神に事代主は

全く触れられていません。伊射波神社には井沢富命も祀られています。

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大和姫は伊勢からさらに志摩の国へ行き 伊雑宮の社家井沢富彦の支持を受けます。

彼は名前からもわかるように ヤマトの登美家出身と言われています。

 

大和姫は井沢富彦の協力を受けて 伊勢の国五十鈴川のほとりに内宮を建て そこに太陽の女神を祀り

最初の伊勢斎宮(斎王)の役を務めました。

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上の2枚の画像は 三重県明和町の斎王祭りの画像で 明和町の公式ホームページからお借りしました。

なお2021年の祭りは武漢ウイルスのため中止だそうです。

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伊勢内宮の太陽の女神は 三輪山から移されたので 大和姫の没後彼女の遺体は 三輪山の西麓の

賀茂家(登美家)に送られました。加茂田田彦は登美家なので 当然出雲系で野見宿祢の子孫たちとも親しく

古墳造りに慣れていました。

賀茂家当主加茂田田彦は土師家から養子に来た人で、当然土師家の古墳造りの技術者たちとも親しく

大和姫の墓は土師氏により作られました。そのため人々は大和姫の墓を土師氏が作った墓「土師墓」と

呼んだといいます。しかし 記紀はなぜかこれが気に入らないと見えて 土師墓の代わりに箸墓(はしはか)と

名前を変えてしまいました。

おまけにこの墓をモモソ姫の墓にしてしまい、しかもモモソ姫が箸で陰部を突き刺して死ぬという

異常な死に方をでっち上げました。

おまけにこの土師墓をどうしてもモモソ姫の墓にしたかったと見えて 「ヤマト、トトビ、モモソ姫」という

わけのわからん姫を作り出して モモソ姫と大和姫を合体させてしまいました。

モモソ姫と大和姫という約百年離れた時代の 別々の姫巫女で しかも両姫ともれっきとしたヤマトの大王とその后

でありながら この二人を合体させるという無茶苦茶なことをしでかしました。

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向こうに見えるこんもりとした丘が箸墓古墳です。

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箸墓古墳と隣接しているホケノ山古墳の模型です。

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出鱈目をしている宮内庁の案内看板があります。

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モモソ姫と大和姫を合体させた上にこの合体姫は磯城王朝第七代孝霊大王(フトニ大王)の娘だと言っています。

まるで出鱈目ですね。

モモソ姫は第八代クニクル大王(孝元)の娘であり、大和姫は初代物部王朝のイクメ大王の娘です。

お二人の姫君の生きた時代は約百年ほど離れています。なぜこんなバカなことをしたのでしようか。

二人の姫君にもそのご両親の大王、皇后たちにも失礼極まりないですね。

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おまけに 石碑の文字の「大和」の文字に支那人が日本人を蔑んで付けた 卑字蔑字が使われています。

矮小の意味合いがあるこんな卑字を日本人が使ってはいけません。江戸時代の朝鮮通商使節が「和国の将軍に

奉る」と書かれた親書を差し出したときにこの字を見た幕府の重鎮は親書を投げ返して書き換えさせたそうです。

江戸幕府はそれほど和国に誇りを持っていたのです。

ほんまに 今の宮内庁は日本人の誇りも尊厳もなく 支那人の家来のまま、支那人の言うがままでほんと馬鹿ですね。

こんなに卑字蔑字は いい加減直しましょうよ。我々の税金で作った石碑ですからね。

日本人として、また出雲王国民として 全く恥ずかしい限りです。宮内庁の無知さ加減、愚鈍さ加減は。

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いわゆるヒミコの時代、ヤマタイコクの時代は和国が魏の属国となっていた時代です。記紀編集指示者

の持統女帝や不比等は 魏書の内容を読む日本人が 魏書の内容を間違いだと思わすためにわざと大王や

姫の名前をぐちゃぐちゃにしたと思われます。

架空の大王の神武や皇子のヤマトタケルは論外ですが、地方の王で終わったのにヤマトの大王にしてもらった

イニエ王(崇神)や和国になんの貢献もしていない地方の豪族で終わった豊前中津彦(仲哀)は

「ラッキー」と思っているでしょうが 大王としての名前を消された「天の村雲」、「日子坐大王」、

「彦美知宇斯大王」などの大王さんたちや 別々の姫君なのに合体させられた「モモソ姫」、「大和姫」

さんなどは 全く浮かばれませんね。

それと息長姫の要請に応えて 大船団を組織して三韓征服を成功させ 和国に膨大な富をもたらした

日向襲津彦大王(長江襲津彦大王)も存在を消されて 浮かばれませんね。

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いわゆるヒミコのまとめを終わります。

ヒミコのまとめのページへはここからも戻れます。

モモソ姫 その1モモソ姫 その2 、モモソ姫 その3

宇佐豊玉姫 その1宇佐豊玉姫 その2宇佐豊玉姫 その3

サホ姫 その1サホ姫 その2

豊来入姫 その1豊来入姫 その2

大和姫 その1大和姫 その2

 

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※歴史内容は斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

斉木雲州著 古事記の編集室、出雲と蘇我王国、出雲とヤマトのあけぼの、飛鳥文化と宗教争乱

      万葉歌の天才(人麻呂の恋)、おとぎ話とモデル

勝 友彦著 親魏和王の都、山陰の名所旧跡

谷戸貞彦著 幸ノ神と竜

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尚 日本の歴史を書き換えた持統女帝や藤原不比等、およびその末裔の藤原家、近衛家に対する

私の個人的な嫌悪感は 斉木雲州先生はじめ 上記の書籍とは関係ありません。

また秦国人徐福やその末裔の物部王家、徐福の部下の矛卑やその末裔の出雲国造の果安、韓比佐、

その末裔の今の出雲大社宮司家にたいする 私の個人的な嫌悪感も上記の本とは一切関係ありません。

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いわゆるヒミコについてのまとめ  その5.  大和姫  その1 

2021年05月17日 15時57分10秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

5.大和姫 その1

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ヤマトの大王となったイクメ大王(後の贈り名を垂仁)は 魏との関係を断とうと思いました。

豊玉姫女王の使節団として 自らも魏に行ったことのあるイクメ大王ですが(幼名のイサチ五十狭茅、伊佐地の名前で行った)

いざ自分がヤマトの磯城王朝を倒し和国の大王になってみると 和国が魏の属国になっていることを 潔しとしない考えが

でてきたのでしょうか。

 

記紀の編集を指示した持統女帝や編集責任者の不比等、および編集者たちは いわゆるヒミコを

徹底して隠します。ヒミコに触れることは つまり魏との関係に触れざるを得ず 和国が魏の属国に

なっていたことに 触れなければならないからでしょう。

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和国の戦乱が納まった ということにして魏の和国駐在武官の張政を魏に送り返すことにしました。

そこで和国の使節団が張政(伊都国に駐在している魏の武官)を送っていくことになりました。使節団の団長は 

イクメ大王の異母弟の八坂入彦がなりました。彼は243年の使節団に続いて 2度目の使節です。

「三国志 魏書 東夷伝 和人条」には次のように書かれています。

※魏志倭人伝なる書物は存在しません。

 

「台与(とよー豊玉姫の後任として魏に承認された豊来入姫)は率善中朗将ヤサク(八坂入り彦の事ですが

字があまりにも軽蔑の汚い字なので書けません)ら20人を遣わして張政らを送って来た。

男女奴隷30人や青い大勾玉2個、珍しい模様の和錦鯉20匹などを貢物として差し出した。」

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丹波攻略を終えて大和に帰ったイクメ大王は 旧都和邇の地付近を直轄地としました。

そしてそこに石上神宮を建て それまで物部族が崇めていた 建布都大神社のご神体の剣が

石上神宮(いそのかみじんぐうー現奈良県天理市)に移されて祀りが行われました。

その新しい社が和邇の地に建ったことは 旧王朝を倒した物部王家が新しい王家になったことを天下に

知らしめました。 

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稲葉国造となった彦多都彦(元彦美知宇斯大王)の没後 遺体の一部は娘たちの一部が住んでいた丹後半島の

網野に運ばれて 地方には珍しい大きな古墳が作られたといわれています。

そしてヒバス姫は晩年になり 父である彦美知牛大王の古墳造りを始めました。

それが和邇の地の東大寺山古墳と言われています。

東大寺山古墳は管理できていないから 竹藪で覆われています。堀はほとんど埋められて酷いことになっています。

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古墳全体が現在は公園になっています。

記紀は磯城王朝最後の彦美知宇斯大王を隠しています。磯城王朝から物部王朝への政権交代は

なかったことにしているので 磯城王朝最後の彦美知宇斯大王そのものを隠したのです。

したがって天皇家の詳細を記紀に全面的に頼っている宮内庁はこの古墳を 天皇陵として管理できないのです。

しかし その割には 九州を一歩も出ずに日向で無くなったイニエ王をヤマトの大王に格上げして

登美家の古墳を崇神陵としてでっち上げたり、息長姫の部下で 物部王朝になんの貢献もせずに

豊後で戦死した 豊前中津彦も登美家の古墳を横取りして 仲哀陵としてでっち上げたり

やることがでたらめですね。独自のポリシーも考察もないので 記紀の小説内容を丸のみなのです。

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和邇の地を歩いていると あちこちに「和邇坐赤坂彦神社」への標識が建っているので

この神社はひょっとすると彦美知宇斯大王を祀っているのかなあと期待して歩いて行きました。

もしそうなら記紀で隠せなかった神社がまた一つ発見できるからです。

記紀で隠せなかった一つ目の神社は熊野古道小辺路の浜街道に立っている浜王子神社で

物部稲飯と三毛入りの兄弟を祀っていました。ウマシマジとか磐余彦のモデルの兄弟で

第一次東征で 紀国で戦死した物部五瀬の弟たちです。この二人が実際に登美家の先導で大和入りしたのですが

記紀には書かれていません。神武なる架空の大王がでっち上げられたのです。

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和邇の集落は複雑で道行く人に片端から聞いて回って ようやく神社にたどり着けました。

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現在の和邇の地(天理市和邇町)の集落のはずれに「和邇坐赤坂彦神社」にようやくたどり着けました。

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主祭神を見ると 不比等の祖先だとでっち上げた天の児屋根の命とか 出雲王家の分家宗像家を始めた吾田片隅や

その娘市杵嶋姫(徐福の二度目の来日で后となり 九州物部王家の始祖 穂穂出見を生んだ方)や誉田別(応神)など

ごちゃまぜの御祭神でした。登美家第八代当主の方も吾田片隅と言い、和邇の地を開発した人という事なのですが

どちらの吾田片隅なのか分かりません。いずれにしても 彦美知宇斯大王の名前はありませんでした。

奈良の都に近いこの場所で 記紀にないお方を主祭神にすれば 時の最高権力者の不比等ににらまれて

恐ろしいことになるので できなかったのでしょう。

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神社の隣には「富の森」という子供広場がありました。

桜井市には 出雲系豪族の登美家にちなむ とび、富、登美 外山(トビ)、鳥見山(とみやま)などの地名が

たくさん残されています。

この富の広場もそのうちのひとつかもしれません。

※登美家の加茂田田彦を追い出して一時豊国軍が三輪山周辺を占領していたので 桜井市には

「豊」の付く地名もあちこちにあります。

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こちらは石上神宮の立派な神門です。

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広い境内の正面が拝殿です。

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石上神宮境内には 出雲建雄神社があり いろいろと興味深い神が祀られています。

 

天の村雲の剣の御霊  これは初代大和大王、天の村雲(徐福の長男五十猛の皇子で記紀では神武と書き換えられた)

                                     の即位祝いに出雲王家が送った出雲型の銅剣と言われる「天村雲の剣」で 記紀では草薙剣と

           書き換えられました。天の村雲大王の実家の海部家から尾張家へ持ち出されて現在は

           熱田神宮に納められているといわれます。

 

ウマシマジの命    これはすでに述べましたが 物部の第一次東征で大和入りした稲飯と三毛入りの

           どちらが兄の大将か分からないのでこんな名前の架空の皇子を作りそれを磐余彦としました。

           いわゆる架空の大王の神武の別名です。というか神武は後から付けられた贈り名です。

 

イニシキの命     この方はイクメ大王の長男で 次男の忍代別(おしろわけ)が大王(景行)となりました。

           この方は和泉の国でタタラ製鉄をして鉄剣を千振り石上神宮に奉納したといわれています。

 

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新しくヤマトの大王となったイクメ大王はヤマトの旧支配者の彦美知宇斯大王の娘の

ヒバス姫を后に迎えました。それがヤマトを支配する効果的な方法でもありました。

大王ではなくなった 彦美知宇斯王は娘たちを連れて丹波北西部の網野に移り住みそこに網野神社

を建て、父の日子坐(ひこいます)大王を祀りました。

その後稲葉国造に任命された彦美知宇斯王は 幼名の彦多都彦を名乗り 武内宿祢と共に稲葉へ移り住みました。

 

※その後イクメ大王が武内宿祢に放った刺客の事をヒバス姫が父の彦多都彦に知らせ武内宿祢が

出雲王家へ逃げ込んで命を救われたことは 前述しました。

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イクメ大王の后となったヒバス姫はイクメ大王の娘、大和姫を丹波竹野郡で生みました。

大和姫は信仰心が篤く 自ら志願して丹波国竹野社に奉仕していました。

そののち竹野郡の奈具社に行き月読の神に加えて 太陽の女神日霊女貴(ひるめむち)も祀るようになりました。

その後宇良社に移り 日霊女貴を祀っていましたが 彼女は朝日信仰を大切にするようになりました。

そして朝日を拝むためには 東向きの海岸がいいと考えて 伊勢の国に移住して 信者を増やすために

伊勢の各地を転々としました。

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大和姫 その2へ続く

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第四のヒミコ 豊姫(豊来入姫) その2

2021年05月08日 10時08分12秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

豊姫(豊来入姫) その2

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イクメ大王によりヤマトから追い払われた豊彦の子孫が 下毛野国の開発に成功して国造家となりました。

またイクメ大王に敗れて武内宿祢は彦美知宇斯王と共に稲葉に住んでいました。

しかし イクメ王が武内宿祢に刺客を放ったという彦美知宇斯王の娘でイクメ大王の后であるヒバス姫からの知らせに 

武内宿祢は急遽 出雲王家に逃げ込み、出雲王家が武内宿祢を匿い命を助けたことで 武内宿祢の子孫の日向襲津彦と

イクメ大王の孫の后である息長姫が結ばれました。

二人はともに住み、二人で三韓征服に成功するも、その二人の皇子ホムタワケ(誉田別)皇子は7歳で夭折しました。

豊彦の子孫の下毛野国造家の御曹司の竹葉瀬の君が 秘密裏に息長帯比売の養子となり 誉田別皇子として

成長し ホムタ大王として即位します。

豊玉姫の項で述べましたが イクメ大王、豊来入彦王、武内宿祢(武内臣太田根)は若い時は一緒に働きましたが、

年を取るにつれて別々の道を歩みますが、不思議な運命の糸で繋がっています。

また宇佐家が 宇佐家の血を引く大王誕生(ホムタ大王)に大喜びしたのもよくわかります。 

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豊来入姫は月読の神の布教のため竹野郡船木里に移り奈具社を建てて 豊受神の名前で月神

を祀りました。その後与謝郡伊根の宇良社に移りました。宇良社の社家は本庄村の島子だと言われています。

シマとは海岸近くの集落を意味する古語で 子はそのあたりの首長を意味する尊敬語です。

つまり本庄村の村長なのです。

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宇良社は今の浦島神社です。

この神社の社家は彦美知宇斯大王の子孫ということです。

※写真は浦島神社の公式ホームページよりお借りしました。

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 一方伊勢の国の一宮は椿大神社(つばきおおかみやしろ)で そこはサルタヒコ大神本宮

と称していました。

その椿大神社から誘いを受けた豊来入姫は 宇良社の島子が連れて行き そちらに移ります。

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豊国の宇佐から来た豊姫は「宇佐女の命」と呼ばれましたが、イクメ大王が豊姫の行方を追っている

ということがわかり 宇佐女ではわかりやすいのでウズメの命と呼ばれるようになったということです。

椿大神社の奥に椿岸神社が建てられて そこで豊姫は月読の命を祀り 鈿女(うずめ)本宮と呼ばれました。

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椿大神社の拝殿前には「伊勢一宮」と大きく書かれています。

一宮とはその地方で 一番古く、権威のある神社といういみで、伊勢一宮は伊勢神宮ではなく

この椿大神社です。

ちなみに出雲の国 一宮は出雲大社(杵築大社)ではなく 松江市の熊野大社です。

第二次東征軍に敗れた東出雲王家が 熊野に引きこもり熊野大社を建てたからです。

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椿大神社の立大きくて派な拝殿です。さすが一宮です。

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拝殿の千木は 出雲式の縦削ぎです。

出雲王朝国教の幸ノ神三神の皇子神サルタヒコを祀っているので当然ですが。

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椿大神社の拝殿の向こうには 内拝殿があります。

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境内には 大黒様と恵比寿様が祀ってあります。つまり大国主と事代主のお二人です。

まあサルタヒコを祀るのですから当然と言えば当然ですか。

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ウズメの命が「芸能祖神」とあるのは 記紀では天照大神が天の岩戸に隠れたときにウズメの命が

上半身裸で踊り 神々を笑わせたと書かれたのが原因です。太陽の女神に比べて月神は一段と扱いが

低いですね。それと記紀では 鈿女の命が胸をあらわにしてサルタヒコを誘惑したと書かれて

あまりウズメの命はよい扱いを受けていませんね。

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椿大神社の境内にある 鈿女本宮椿岸神社です。

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椿岸神社の拝殿です。

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しかし豊来入姫は イクメ大王の放った刺客に命を奪われて この地で亡くなります。

すると月神の信者たちが集まり、遺体をヤマトへ運びホケノ山古墳に埋葬したと伝えられています。

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ホケノ山古墳を復元したものです。

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棺の埋められていた場所を復元したものです。

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ホケノ山古墳から隣の箸墓古墳(大和姫が埋葬された古墳)をみたところです。

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豊来入姫を終わり次は大和姫です。

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第四のヒミコ 豊姫(豊来入姫) その1

2021年05月07日 16時14分36秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

豊姫 その1

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239年6月に魏へ出発した、物部十千根や田道間守の使節団は翌年初めに帰国しましたが、魏の役人

テイシュンが付いてきました。北九州の伊都国において 魏の皇帝からの詔書と金印は直接 

親魏和王の認定を受けた宇佐豊玉姫に手渡されました

そして豊玉姫亡き後 大和が第二次東征軍と磯城王朝との混乱時期に、九州の伊都国に滞在する 

魏の和国駐在武官、張政によって 親魏和王の宇佐豊玉姫の後継者に 豊玉姫の娘の豊姫が指名されました。

魏書では 台与トヨ と書かれました。ヤマト国と書かれたのを ヤマタイ国と間違えて

読んだ人がいるようですが 台与はタイヨではありません。トヨです。

豊姫は傘縫村の檜原神社で月神を祀り若日霊女貴(わかひるめむち)と呼ばれます。

また豊の国から大和へやってきた征服王朝の御姫様なので 豊来入姫(とよきいりひめ)と呼ばれます。

 

※豊来入彦、豊来入姫では豊の国からやってきた征服王朝ということがバレルので 記紀は

「豊鍬入彦(とよすきいりひこ)」「豊鍬入姫(とよすきいりひめ)」と書き換えます。

豊の国から鍬(すき)を持ってきた王と姫???  なんのこっちゃ。

 

当時は陰暦を使う時代だったから、月も満ち干を見て月日が決められました。それで月神は

月読の神(つくよみのかみ)と呼ばれました。

毎月の満月の夕方に月読の命の礼拝が行われ、春秋の満月の夜には大祭が行われました。

その大祭には多くの人が参列し信者が次第に増えていきました。

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豊姫は笠縫村の檜原神社で月読の神を祀りました。

神社の鳥居は古代出雲式の二本柱の鳥居です。豊姫は出雲王家の血は入っていませんが

檜原神社が大神神社の末社となっているために、大神神社の鳥居様式となっています。

三輪山の麓の大神神社(おおみわじんじゃ)は登美家はじめ出雲族が 八千矛王を祀るために建てました。

八千矛王は古代出雲第八代大名持(主王)で、八重波津身少彦(副王で記紀では事代主と書き換え)と共に、

秦国からの渡来人徐福とその部下の矛卑(ほひ)により幽閉殺害され、記紀では大国主と

書き換えられました。

 

※ちなみに矛卑の子孫が今の出雲大社宮司家です。

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檜原神社境内の「豊来入姫宮」です。

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ちなみに我が家の神棚の神様の御札です。

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親魏和王の認定を受けた豊玉姫の後任として魏の承認を得た豊来入姫女王と豊来入彦王に このままでは

ヤマトの政治権力が奪われてしまうと危機感を抱いたイクメ王は 出雲の富家に密使を

送りました。内容は「出雲兵を大和に送り 豊国軍を追い出したら、三輪山方面と磯城郡界隈の

領地を与える」というものでした。

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イクメ王はまずその前に豊国軍を利用することを考えて 豊彦王に佐保彦追討を命じます。

豊彦軍は 佐保彦軍を破り ヤマトから東国へ追いやりました。

サホ姫は佐保彦軍と共に 近江の国へ逃れ、更に尾張の国の丹羽郡に隠れたといわれます。

佐保彦はさらに東へ行き 甲斐の国で日下部連と名を変えました。

 

豊彦軍は佐保彦軍を山城の国まで追いかけましたが、そこから転進して彦美知宇斯大王を

攻めるため丹波国に向かいました。

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豊国軍がヤマトから離れ、山城、丹波へ向かった隙に ヤマトから豊国軍によって 

追い払われて 山城の国にいた賀茂家(登美家から賀茂家へ名前を変えていました)当主の

加茂田田彦は出雲からの援軍と共に 三輪山へ向かって進軍し 三輪山周辺の旧領地を回復して

さらに磯城王朝家の領地の一部も手に入れました。

笠縫村にいた豊来入姫女王は 加茂田田彦軍、出雲軍に追い出されて 兄の豊来入彦のいる

丹波へ逃れました。

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丹波では前述したように 彦美知宇斯王と武内宿祢の軍が 豊国軍とイクメ王の物部軍に

取り囲まれて降伏し、イクメ王は名実ともに大和の大王となるのです。

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しかし勝利したはずの西軍も不仲になります。豊国軍は「今度は自分たちがやられる」と

疑いだして 東へ移動しました。近江の国に住み着いた豊国軍は「豊郷」の地名を付けました。

尾張の地に移住した兵士は 武豊や豊明の地名を付けました。

豊明は月神のあかりを意味したそうです。

 

豊国勢はさらに関東へ逃げ、下毛野に落ち着いて その地の開発に成功して豊彦の子孫が下毛野国造家

となっていたのです。

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下毛野国赤城神社の広い境内です。

追われた豊来入彦は この地まで逃げてきてこの地の開拓発展に大いに貢献したという。

それで祀られているのです。

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赤城神社の立派な拝殿。その奥に本殿があります。

しかしこの神社の由緒書きには 「崇神大王が東国に豊来入彦将軍を派遣してこの地を平定した」

「この豊来入彦将軍を祀っている」


などと、記紀の御伽噺をそのまま載せているので 困ったもんです。

イニエ王(崇神)は九州から一歩も出たことはなく、したがって大和の大王ではないし、豊彦王は

イクメ大王(垂仁)によって大和から追い払われたのだし。偽書も困ったもんだ。


追放された豊来入彦が 大王に派遣された将軍になっている。記紀は政権交代で追放された前王朝の

大君や皇子は すべて大王が派遣した将軍にされています。

つまり記紀は歴史書ではなく、持統や不比等らが自分たちの立場を正当化するための偽書(ぎしょ)、おとぎ話なのです。

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その2へ続く

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第三のヒミコ サホ姫 その2

2021年05月03日 11時41分57秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

サホ姫 その2

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田道間守を大和から追い払った野見太田彦は ヤマトの添下郡(今の奈良市菅原町、秋篠街方面)

を領地にもらい その管理を長男と次男に任せて 連れてきた出雲兵と共に 出雲に帰ることになった。

一行は播磨を通り 日下部の野に宿泊した。

日下部には日下部一族が住んでいて、日下部氏はヤマトの登美家の分家であり、富太田彦の親戚でもあった。

その日下部氏から太田彦は招待されて もてなしの食事を提供された。

しかしその食事には 毒が盛られていて太田彦は急死しました。

後で知らされたことですが 日下部氏の家には 卑ボコの子孫の者がいて そいつが毒を盛ったと

云うことでした。旅先で亡くなったので 太田彦の遺体はその地に埋葬されることとなり

出雲から大勢の人が駆けつけて 古墳造りに立ち回ったということです。

たくさんの人が その野に立ち回ったので その地は「立つ野」と名付けられました。

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現在の兵庫県龍野市に、「野見の宿祢の古墳」があります。

(上の写真と下の説明文は 龍野市の公式ホームページから借用しました。)

龍野市野見の宿祢神社の写真と説明文です。

相撲の元祖であり、殉死の代わりに埴輪を考案したことで有名な野見宿禰は、大和の国から

故郷の出雲へ帰る途中この地で病死しました。

宿禰の死を悲しみ、出雲から多くの人が来て川からリレー式に石を運び墓を建てました。

野に人が立ち並んだことから、「野に立つ人」「立野」と言い、いつしか「龍野」になったそうです。

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また遺体の一部は 出雲にも持ち帰られて松江市宍道町にもお墓があります。

2015年12月13日の記事と2021年2月2日の記事に松江市の太田彦の古墳の記事があります。

※なお現在は その古墳の敷地に太田彦の子孫の菅原道真の菅原天満宮も建てられています。

菅原道真の生家も松江市宍道町です。

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さて田道間守がヤマトから追い払われて イクメ王が安堵したのもつかの間、今度は磯城王朝の

彦美知宇斯大王の誘いに応じた 武内宿祢が 紀国からたくさんの兵を集めて磯城王朝側に参加します。

かれは宇佐豊玉姫に冷遇され、魏から官位がもらえず失望し、かつ怒りが こみ上げてきて、物部軍から離れて

紀州に帰り機をうかがっていたのです。

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彦美知宇斯大王の軍に 武内宿祢の紀州軍が加わると 佐保彦の軍と合わせて東軍の勢力が

がぜん優勢になりました。西軍はこの状況に非常に落胆したといわれます。

イクメ王は 十千根をはじめとして 様々な物部軍関係者から武内宿祢に密使を送り物部軍に帰るように

勧めたそうですが 武内宿祢は がんとして聞き入れませんでした。

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しかしこの後 宇佐豊玉姫の葬儀を終えた豊国勢が 瀬戸内海から河内へ上陸しました。

この時点から 豊彦、豊姫は「豊来入り彦」、「豊来入姫」と呼ばれます。しかし記紀は

豊来では 豊の国からやってきた征服王朝というのがバレルので 「豊鍬入り彦(とよすきいりひこ)」

「豊鍬入り姫(とよすきいりひめ)」と書きました。なんのこっちゃという感じですね。

ちなみに 記紀は 九州から一度も出ていないイニエ王(イクメ王の父君)の事を「御間城(みまき)入り彦大王」

と書き換えて あたかも朝鮮の和国領土の任那(みまな)からやってきたように見せかけていますが

任那ができるのは 襲津彦大王と息長姫が三韓征服したそのあとなので 時代が全然合いません。

やることが無茶苦茶ですね、記紀は。

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豊彦と豊姫は イクメ王が磯城王朝と休戦したことを知り、しかもイクメ王がサホ姫と結婚して

サホ姫が三輪山で 太陽の女神を祭祀する姫巫女であることを知り 大いに不満を感じます。

宇佐家は代々月読の神を祀る家柄であり、豊玉姫も豊姫も月読の神を奉じているのに

サホ姫が司祭する 太陽の女神 すなわち大日霊女貴が政治の中心となっているので

自分たちの立場がなくなるのを恐れたのです。

そこで豊彦達豊国軍は 河内から突然大和南部へ進軍して登美の霊畤や三輪山を占領し、登美家の勢力を追い払ったのです。

登美家はヤマトの大豪族でしたが 突然の豊国勢の乱入に 対戦できず登美家当主の大賀茂津身は

山城の国南部の岡田(現京都府木津川市加茂町)へ地盤を移します。

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宇佐豊玉姫は亡くなる前に 親魏和王の金印と紫帯を娘の豊姫に渡していました。

そして伊都国に駐在している魏の和国駐在武官の張政は 豊玉姫の後任にトヨを文書で指名します。

トヨは魏書に台与と書かれています。これはタイヨではありません。トヨです。

ヤマト国と書かれた字を誰かが ヤマタイ国と間違えて読んでそれが広まったようですが台はトと読みます。

タイではありません。つまりヤマト国、トヨヒメです。

当時の和国が魏の属国である以上 張政の檄文書は絶大なチカラがあります。そこでイクメ王の物部軍と

豊国軍は再び合流します。すると俄然西軍が優勢になります。

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魏から親魏和王と認められた豊玉姫は 豊彦にとって自分の母であり、自分の妹の豊姫が母、豊玉姫の後継者なので

自分こそが和王であり、妹が和国の祭祀を司る姫巫女なのだと豊彦は思い 自分を王と名乗ります。

豊姫は三輪山の麓の笠縫村の檜原神社で月神を祀り 人々から「若日霊女貴」と呼ばれます。

そして若日霊女貴も次第に人気が出てきます。

 

そして豊彦はイクメ王にサホ姫と手を切ることを求めます。魏の和国駐在武官の張政が

豊姫を親魏和王の後継者と定めたので これに従わなければならないのです。 

イクメ王は佐保姫と手を切りサホ彦を攻めることを決意します。

これを知ったサホ姫は幼いホムツワケの皇子を抱いて夜更けに兄のもとへ逃げ込みました。

サホ姫は兄のもとからさらに護衛を付けられて 東国へ向かい 尾張の国丹羽郡に隠れたといわれます。 

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イクメ王のもとで 三輪山で太陽の女神を奉じ「大日霊女貴(おおひるめむち)」と呼ばれた

サホ姫は これで歴史の表舞台から姿を消します。

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奈良市の狭岡神社です。

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境内には記念碑があります。

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サホ姫伝承地と書いてあります。

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記紀を引用した割には正確です。サホ姫はたしかに大日々大王の孫です。

そして一時はイクメ王の后でしたから。しかし当時はイクメ王はまだ大王になっていませんでした。

記紀は第10代日子坐と第11代彦美知宇斯大王を隠していますから、サホ姫の父親を書けなかったのです。

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狭岡神社にはサホ姫の社はありません。

ネットで調べると近くの常陸神社境内にあると書いてあったので訪ねました。

確かにサホ姫大神と書いた社がありました。

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優勢になった西軍は 豊彦の息子八綱田(やつなた)が将軍となりイクメ王軍と共に佐保彦軍を

打ち破りました。さらにイクメ王は磯城王朝の都である和邇の地へ総攻撃を指示し、豊国軍と

イクメ王の物部軍が総攻撃をかけました。

彦美知宇斯大王軍と武内宿祢軍は破れて 丹波へ逃れました。

これでイクメ王は名実ともに ヤマトの大王となりました。

さらにイクメ大王は 彦美知宇斯王と武内宿祢のいる丹波への総攻撃を仕掛けて 彦美知宇斯王を

取り囲みます。

観念した彦美知宇斯王は 降伏し ここに約300年続いた磯城王朝は終わります。

大王の資格を失った彦美知宇斯王は幼名の彦多津彦を名乗り 娘たちや武内宿祢を連れて

丹波の網野の地に行きそこに網野神社を建てて父の日子坐大王を祀りました。

さらに 彦多津彦王は 稲葉国造に任命されて 武内宿祢を伴って稲葉の地に赴任しました。

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サホ姫の項 これで終わり 次は豊姫(豊来入姫)です。

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