古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

甲斐の国を訪ねて 河口湖町、笛吹市  その1  2023年11月20日 

2023年12月28日 23時19分43秒 | 古代史の舞台を訪ねて

古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

今回は甲斐の国を訪ねました。

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甲斐の国 その1 富士河口湖町

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河口湖湖畔の紅葉を楽しんで 散歩道を歩いていたら 小高い岡に祠がありました。

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屋根の下には 石の祠が一つポツンとありました。

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神社の前からは河口湖越しに富士山が正面に見えます。

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祠の横に神社の由緒が書いてあります。

山彦と乙姫は海の国から帰り、この岬に産屋を造り ウガヤフキアエズを生んだとあります。

それでこの地を 産屋ヶ崎というと書いてあります。

 

産屋(うぶや)とは 住居とは別に出産のために 造られた小屋のことです。母系社会の古代では

出産は神聖なものとされていたようです。

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主祭神は 穂穂出見(ほほでみ) 俗名 山彦。それと 豊玉姫 俗名乙姫とあります。

これは古事記の竜宮神話のお話がもとになっています。

 

神話では 弟の山彦は 兄の海彦から 釣り針を借りて 釣りをしますが 大きな魚に

針を食いちぎられて海の底に持っていかれてしまいます。

兄の海彦は 山彦に釣り針を返せ返せ としつこく迫ります。思い悩んだ山彦が 海辺で

悩んでいると 塩筒の翁が現れて 目無しかごを造り それに山彦を乗せて海底の

海神の宮に行かせました。海神の宮で 山彦は乙姫に見染められて 仲良く幸せに暮らしました。

ところが 兄の海彦の釣り針が気になっていて 海神に相談すると 魚を集めて 針を持っていた

魚を見付けてくれました。

 

そこで釣り針をもって 和邇(ワニーサメのこと)に送られて 地上の国に帰って来た。ワニを返すときに

お礼に刀剣をワニに渡したという。これが ワニがサヒ持ち(刀剣もち)の神と言われる所以です。

以後ワニは 山彦の助けをするようになります。

 

また この時身ごもっていた乙姫が 山彦に付いてきましたが 急に産気づきました。

乙姫は 山彦に産屋を造るように言い 出産の準備をします。そしてくれぐれも小屋の中を

覗かないように 念を押します。

 

ところが 小屋の屋根に鵜の羽や萱を葺き終らないうちに 乙姫は出産します。山彦はそれを覗いて

しまいますが なんと 姫はワニの姿になって出産していたと言います。

そして生まれてきた王子は 鵜の羽や萱を葺き終らないうちに生まれたということで

ウガヤフキアエズ と姫が名づけたということです。記紀では 彦渚武ウガヤフキアエズの命という

長い名前になっています。

 

姫は出産の様子を見られたことを怒り 竜宮に帰ってしまいました。

神話はさらに続きます。海の宮に帰った乙姫は 妹の玉依姫を生まれた王子の養育のために

地上に遣わします。 玉依姫は 成長したウガヤフキアエズと結婚して 生まれたのが

神武大王だと言うのです。

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この神話には重要なキーワードが いくつか登場します。

ワニ、渚武(なぎさたけ)、穂穂出見(ほほでみ)、ウガヤフキアエズ、豊玉姫、玉依姫などです。

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まず豊玉姫です。彼女は 支那の歴史書に登場する第二のヒミコで 宇佐王家の豊玉姫です。

このお方こそ正真正銘の「ヒミコ」なのです。第一のヒミコのモモソ姫、第三のヒミコの豊姫

(豊玉姫の娘で 支那の歴史書では 台与「とよ」と書かれました)、第四のヒミコ大和姫 などは 

支那人が和人から聞いた 伝聞事です。

 

しかし宇佐豊玉姫は 支那人から 直接「親魏和王」の認定を受けたお方です。

しかも支那人が直接声をかけて 肩に錦のタスキを掛けた正真正銘の和国の女王なのです。

姫巫女であり 女王でもある いわゆるヒミコこと宇佐豊玉姫皇后に 和国駐在武官テイシュンは

伊都国で 魏の皇帝の詔書と金印、紫帯及び下賜品目録を直接手渡しました。

 

女王は正装の上に紫色の錦帯を肩から斜めにかけて 大いなる威厳を示したそうです。

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記紀はこのお方を 完全に無視しています。完全に無視する理由はあります。

一つは 和国が当時支那(魏)の属国だったことを潔しとしないことがあるでしょう。

そんなことは 記紀には間違っても書けませんよね。

しかしいわゆるヒミコの時代は 和国は支那の属国だったことは 事実、史実なのです。

もう一つのほうが大きな理由だと思いますが、記紀では神武が東征して大和入りして以来

大王家は連綿と続く万世一系としていることが 作り事だとバレてしまうからです。

 

九州物部王家と豊王家が連合し、物部豊連合王国が第二次東征して 東征の途上で別動隊が

古代出雲王朝を急襲し 多数の兵士の流血の末 出雲王朝は降伏したこと。

イクメ王が ヤマトへの 途中吉備に滞在し ヤマトから 吉備に逃れていたフトニ大王(贈り名を

孝霊)の皇子吉備津彦兄弟を平定したこと、またイクメ王が 大和入りしてそれまで約300年続いた

磯城王朝を滅ぼしたこと。磯城王朝第11代大王彦道主大王が イクメ王に降伏し娘のヒバス姫をイクメ王

に差し出して名前を彦タツヒコと 変えて稲葉国造になり ヤマトを去り イクメ王は 幾多の流血戦を

経て 名実ともに大和の大王となられたことは 絶対に秘密なのです。イクメ大王は後世 贈り名を

垂仁と名付けられました。

 

たくさんの血を流した結果、九州物部王家による物部王朝が始まったことなど、隠さなくては 

「万世一系」が崩れてしまうのです。

流血による政権交代など、記紀の制作を指示した持統女帝にとって 最も忌み嫌う事なのです。

ましてや 支那からの渡来人(徐福)の末裔の 征服王朝なんて国民は誰もそっぽを向きますからね。

そして大和政権の祖先は 天孫降臨したなどと 更に嘘の上塗りをしたのです。

 

つまり歴史上もっとも有名なヒミコの 宇佐豊玉姫女王は おとぎ話の 乙姫様に替えられたのです。

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次に彦渚武です。

記紀では九州物部王家の 80年ほど離れた前後二度にわたる東征を一つにまとめて書いています。

第一次東征は 165年頃 九州物部王家の彦渚武王の皇子たち三人による東征です。

物部五瀬を総指揮官として 紀ノ川から大和入りしようとしましたが 高倉下の子孫の名草の戸畔(とべ)

による迎撃で 五瀬は戦死します。

 

残った物部稲飯と三毛入りの兄弟は紀ノ川河口から南下して熊野川河口に着きます。

しかしそこでも磯城王朝の兵士たちにゲリラ戦で苦しめられて前に進めず 秘密裏に協力を求めた大和の

出雲系登美家当主加茂建津之身の案内で磐余の地に入り 一応は目的を果たしたかに見えましたが

結果的には失敗と言われます。

 

宗教的な式祭を取り行う姫巫女をもたない物部王家は 太陽の女神を崇拝し祭祀する姫巫女を擁する

登美家に取り込まれてしまいます。武力だけでは民衆の支持を得られなかったのです。

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230年頃に九州物部王家は 再び東征を実施します。これが第二次東征です。

イニエ王は南下して各地で兵力を集めながら 薩摩で地元の豪族の美しい姫と出会い その姫ととも

薩摩から日向へまわり そこで一時落ち着きます。

その姫は阿多津姫と言い イニエ王の皇子を生みます。

阿多津姫は記紀では この花咲くや姫と名前を書き換えられます。

阿多津姫が生んだその皇子がイクメ皇子です。「日向の橘の小戸で禊給いし」 と 現在各地の神社神職

による祝詞の中で 言われるのがこのイクメ王です。

阿多津姫は短命で日向の地でなくなります。

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イニエ王は宇佐王家から豊玉姫を皇后として迎え入れ、ここに物部、豊連合王国が出来上がります。

宇佐家は代々月読の神をまつる家柄でした。

物部の武力と 豊玉姫の月読の神を祀る宗教性で大和を征服しようとしたのです。

宇佐豊玉姫は豊彦と豊姫を御生みになります。のちに豊来入り彦、豊来入姫と呼ばれるお二人です。

この豊彦を神話では ウガヤフキアエズと呼びました。しかもご丁寧に 先祖の彦渚武王の名前まで

付けて彦渚武ウガヤフキアエズの命と名付けました。

 

後年 豊彦王は 結局イクメ大王(垂仁)と出雲族に追われて東国へ逃げます。

詳しくは当ブログの「2015年9月 上州日光を訪ねて」をご覧ください。

 

また記紀はイニエ王を大和の大王として でっち上げて 崇神大王としていますが イニエ王は

西都原で亡くなり 第二次東征は 豊玉姫、イクメ王、豊彦らが行ったので 九州から一歩も出ずに

この世を去ったので 大王ではありません。地方の王で終わったのです。

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次に ワニです。出雲地方では 現在も サメのことをワニと呼びます。

私が育った松江市のスーパーでは 今も「ワニの肉」が売られています。

特にお正月前には沢山並びます。

古代出雲では 幸ノ神三神が国教でした。

つまりクナト大神、佐毘売のミコト、それに皇子神のサルタ彦です。

ちなみに サルタとは古代インドのドラビダ語で鼻の大きいとか鼻の長いという意味で つまり今の

ヒンドゥーの「象神 つまり ガネーシャ」のことです。

クナト大神は 大神山(おおがみやま)に祀られました。そして大神山は いつの間にか「大山

(だいせん)」なんて俗っぽい名前に変えられて、「大神山神社(おおがみやまじんじゃ)」だけに

その名前が残っています。

佐毘売のミコトはもちろん佐毘売山に祀られました。明治時代の陸軍の陸地測量図にも「佐毘売山」


と書かれていたそうで、何時誰が 「三瓶山さんべさん」なんて陳腐な名前に替えたのでしょう。

2500年も続いた 出雲族に親しみのある佐毘売山(さひめやま)を復活して欲しいものです。

そして皇子神のサルタ彦は 鼻が高い山すなわち 出雲北山の鼻高山(はなたかせん)に祀られて

居ます。

サルタとは ドラビダ語で 鼻の長いという意味で つまりヒンドゥー

の象神ガネーシャのことです。

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古代出雲では 幸ノ神三神のほかに 竜蛇神も信仰されました。そしてワニも 神聖な生き物として

尊敬されたそうです。紀元前三世紀末に 石見の五十猛海岸に沢山の海童たちと共に上陸し

第八代主王の八千矛(大国主と書き換えられた)と副王ー事代主の八重波津身を相次いで

幽閉殺害したり 出雲王国内で 徐福やその忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社宮司家の祖先)

や海童たちとの共存を嫌った 出雲王家の皇子たちは 大和地方に移住しました。

その中の一人は 和邇を本拠地として 和邇家を名乗りました。現在の奈良県天理市和邇町です。

第一次東征で 熊野で苦戦して身動き取れなかった物部軍を ヤマトに引き入れたのが登美家の

加茂建津之身であり 和邇家の人も物部に協力しました。

 

記紀の執筆者は 制作指示者の不比等らに命令された事以外を書くと 即 死罪なので 本当の

ことは書けませんが 神話の中にそれとなく真実を忍ばせたと思われます。

乙姫様が ワニの姿になったということは彼女が 出雲系と思わせたかったのでしょう。

しかし宇佐家は 出雲系の宗像家とは血縁関係がないと思いますが 記紀が書かれた当時は

執筆者の太安万侶たちは 豊玉姫が 出雲王家の血を引いていると 知っていたからこそ

こんな神話をかいたのでしょうね。

 

宇佐王家と宗像家は 隣国ですから 婿入り、嫁入りで 血縁関係が出来ていたのかもしれません。

またワニが サヒ持ち(刀剣)の神として山彦を助けたということは 大和入りした物部家を出雲系の

登美家、和邇家が 支えたことをにおわせているのでしよう。

神話に真実をそれとなく におわせて書き入れたのは 執筆者たちの精いっぱいの抵抗だった

のでしょう。

後日 太安万侶は出雲の地に監禁幽閉されますが ひそかに出雲王家と連絡を撮り 真実を伝え

て 向家はそれに礼を言ったと 向家に伝わるそうです。

当ブログの 「2014年4月10日の松江市阿太加夜神社」に詳しく書いています。 

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次に 穂穂出見です。

徐福は 石見の国五十猛海岸に 初めて上陸した後は和名を「火明かりーほあかり」と名乗り

出雲王家の高照姫を娶り 長男五十猛(のちの香語山)を設けた後 いったん秦へ戻り皇帝から

更なる資金と海童たちをもらい 二度目は 佐賀の浮杯(ぶばい)に上陸して 饒速日(にぎはやひ)と

名乗ります。そして出雲系の宗像家の三姉妹の末娘の 市杵嶋姫を娶り 次男穂穂出見と長女

穂屋姫を設けます。穂穂出見が 九州物部家の始祖となり、穂屋姫は異母兄の五十猛と結婚して

天の村雲を生みます。雨の村雲は出雲族たちに助けられて 初代大和の大王となります。

ですから 神話で 穂穂出見が山彦となったことは 九州物部家を山彦としたのでしょう。

また香語山の子孫たちは 海部家や尾張家を名乗ったので 神話で兄の海彦に 弟の山彦が

喧嘩で勝ったと言うことは 兄の五十猛(香語山)の子孫に 弟の穂穂出見の子孫が勝ち

山彦が海彦を大和から追い出したという 事実を暗示しています。

※佐賀の浮盃訪問記はこのブログの78番の記事に詳しく載せています。 

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次に玉依姫です。

残念ながら 調べたのですが わかりませんでした。斉木雲州先生の本や大元出版の本を

調べたのですが 玉依姫は でてきませんでした。

記紀や神話では 乙姫こと豊玉姫の妹が 玉依姫であると書かれています。記紀の執筆者が

同じ漢字の「玉」をつけて 姉妹としたのか 分かりません。

もしかすると 活玉依姫(いくたまよりひめ) から 玉依姫を考え着いたのかもしれません。

活玉依姫は 古代出雲王朝第八代副王(事代主)の八重波津身のお后の一人で 三島国(今の

大阪府三島郡島本町から高槻市富の里あたり)から輿入れされたお方です。

姫を二人お産みになり 長女は踏鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)で 次女が五十鈴依姫です。

また長男は 天の日方奇日方(あまのひかたくしひかたー以後奇日方と略す)です。

徐福、矛卑、海童たちに事代主や大名持が幽閉殺害されたあと、活玉依姫(別名玉串姫)は

出身地の三島の国へお帰りになりました。息子の奇日方や大勢の出雲族が付いて行ったので

三島の国は 出雲王国の一部となったと言われます。

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奇日方は 大勢の出雲人や三島人を連れて 更に大和の葛城地方(今の御所市)へ移住します。

そして鴨都波神社を建てて父事代主を祀ります。

詳しくは 当ブログ 「12 葛城地方へ移住した出雲族」に書いています。

奇日方は 東出雲王家富家(とびけ)の出身だったので 自らを登美家と名乗ります。

また古代は神の事を「かも」と発音したので 賀茂王家とも呼ばれました。

 

遅れて葛城地方へ移住してきた 徐福の長男五十猛(のちに香語山と名乗る)と徐福の九州での

市杵嶋姫との長女穂屋姫との間にできた 天の村雲を 登美家が支えて初代大和の大王とします。

 

そして活玉依姫の長女 つまり奇日方の妹の 踏鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)を天の村雲の

后とします。さらに 踏鞴五十鈴姫の生んだ 二代目大和大王 沼川耳(後の贈り名を綏靖すいぜい)の

后に 同じく活玉依姫の娘の 五十鈴依姫を嫁がせます。

 

ですから初期大和政権に大きな役割を果たした 活玉依姫を 神話の世界で玉依姫として 記紀の執筆者

が、真実を伝えるためにそれとなく 登場させたのではないかと 思います。私見ですが。

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ちなみに雨の村雲を 記紀は消し去って初代大王を 神武という名前の架空の大王として 

しかもその時期を出雲王朝の初めまで引き延ばしました。二代目以後の大王の名前は おおむね事実と

合致していますが 大和政権が 数世紀も前倒して引き延ばされたために 大王の数をふやしたり

つまり大君でない人を大君にしたり (イニエ「崇神」、仲哀「息長帯比売皇后の部下」) 

大王の在位を大幅に伸ばさないとつじつまが合わなくなりました。

そのため 在位が 150年とか170年とかの 大王が何人も作られました。

ネットで大王一覧表を見ると100年以上の在位期間の大王が何人もいて 笑えます。

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その2 笛吹市一宮浅間神社へ続く

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※歴史内容は斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

斉木雲州著 古事記の編集室、出雲と蘇我王国、出雲とヤマトのあけぼの、飛鳥文化と宗教争乱

      万葉歌の天才(人麻呂の恋)、おとぎ話とモデル

勝 友彦著 親魏和王の都、山陰の名所旧跡

谷戸貞彦著 幸ノ神と竜

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尚 日本の歴史を書き換えた持統女帝や藤原不比等、およびその末裔の藤原家、近衛家に対する

私の個人的な嫌悪感は 斉木雲州先生はじめ 上記の書籍とは関係ありません。

また秦国人徐福やその末裔の物部王家、徐福の部下の矛卑やその末裔の出雲国造の果安、韓比佐、

その末裔の今の出雲大社宮司家にたいする 私の個人的な嫌悪感も上記の本とは一切関係ありません。

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日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)を訪ねて その1 2022年12月9日

2023年02月13日 15時24分39秒 | 古代史の舞台を訪ねて

去年末の甲州武州下野(しもつけ)山旅の最後に 日光二荒山神社本社を訪ねました。

日光は数年前に 男体山に登りましたが その時は二荒山神社中宮祠境内から登りました。

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日光二荒山神社は日光市内に三社あり、本社、中宮祠、奥宮です。

本社は日光市街地にあり、中宮祠は中禅寺湖畔にあり、奥宮は男体山山頂にあります。

二荒山神社は 下毛野国一宮と呼ばれる下毛野国(現在の栃木県)で一番古くて権威ある神社です。

その地方で一番古くて権威ある神社が 一宮と呼ばれます。

 

ちなみに伊勢の国一宮は 椿大神社(つばきおおかみやしろ)で伊勢神宮ではありません。

また出雲の国一宮は熊野大社であり、出雲大社ではありません。理由は簡単で 九州物部軍の

第二次東征で敗れた出雲王国のうち 東出雲王家の向家は王宮を物部軍に明け渡し 熊野大社の地に

移り住みました。その後徐福が連れてきた矛卑の子孫の矛卑家が 出雲国で仕事が無くなりかけたときに

旧王家の向家に 矛卑家が社家となれる神社を造営してくれるように頼み込み 向家と旧西出雲王家の

神門臣家が出資して 杵築大社 今の出雲大社が作られたのです。

※ 大元出版 斉木雲州著「古事記の編集室」他の書籍参照

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下野国の国造は日本書紀によれば 崇神天皇が東国につかわして治めさせた豊鍬入彦の子孫だそうです。

※ウイキペディアによる

 

しかし 記紀に崇神大神と記された九州物部家のイニエ王は九州から一歩も出たことはなく、したがって

大和の大王ではありません。

またイクメ大王(垂仁)の策略、指示により 出雲系の加茂田田彦や旧出雲王国軍によって 豊彦王

(記紀では豊鍬入り彦)はじめ豊国軍は大和から追い出されました。

 

豊彦や豊国軍は 豊彦王の妹である 四番目のいわゆるヒミコの豊姫(豊姫又は豊来入姫、支那の歴史書

では 台与とよ と書かれた)と一緒に大和から東国へ追い払われました

つまり下野国の国造の始祖 豊来入彦は大君により 派遣された将軍などではありません。

九州物部、宇佐豊連合王国の第二次東征軍内部の争いに敗れて東国へ逃げた 連合王国のれっきとした

王の一人なのです。

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北九州に本拠を置いた物部王朝のイニエ王は東征の準備のため南下します。そして薩摩に滞在したあと

薩摩の阿多津姫を伴い日向に移ります。阿多津姫との間にイクメ皇子をもうけ、西都原に都を造り各地

から豪族を呼び寄せて 着々と東征の準備を進めます。

しかし阿多津姫は短命で イクメ皇子を生んで亡くなります。そのあと宇佐王国から 豊玉姫女王を后と 

して迎え 物部豊連合王国が成立し 東征の準備をさらに進めます。

イクメ王と豊玉姫皇后との間に生まれたのが 豊彦、豊姫(豊来入彦、豊来入姫)なのです。

つまりイクメ皇子と豊彦皇子は異母兄弟なのです。連合王国軍が大和入りしてから 内紛が起き

豊彦王は 九州物部王国の東征総指揮者 イクメ大王との内部戦いに敗れて東国に逃れ、その子孫が

下毛野国の国造家となったのでしょう。

※詳しくは このブログのヒミコのまとめや 赤城神社訪問記にも書きました。

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日光二荒山神社中宮祠から男体山山頂の奥宮へ登拝しました。2015年9月14日

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中禅寺湖に面して鳥居があり ここから二荒山神社中宮祠への参道が始まります。

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鳥居をくぐり 石段を登っていきます。

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神社の境内です。

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これが本殿ですが、なんともはや出雲系の神社の雰囲気とは かけ離れています。

第一に社の造りが 大社造りとはかけ離れていて、瓦葺です。しかも妻入りでもなく、柱の本数も

ここからでは分かりません。神社というより お寺の感じですね、

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境内には何故か恵比寿様、つまり事代主もいらっしゃいます。

出雲系の社であるからなのか 単に商売繁盛の人を寄せ集めようとなさったのか。

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これはおろちなのでしょうか。それとも出雲族の信仰厚い 竜蛇神なのでしょうか、

説明書きがないのでわかりませんでした。

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社務所と拝殿です。ここで登拝の手続きをします。

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登拝料ーいくらだったか忘れましたがーを払うと巫女さんがお祓いをしてくれて このお守り御札

を下さり、「くれぐれもご安全にご登拝ください」とお声がけしてくださいます。

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ここが奥宮、つまり男体山山頂への登山道への入り口です。

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奥宮に着きました。2時間半から3時間くらいかかったような記憶があります。

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二荒山大神、つまり神社の主祭神の大己貴命(おおなむちのみこと) つまり大名持命(おおなもちの

みこと)です。大名持とは古代出雲王国の主王の役職名です。古代出雲王国では 主王と副王の

二王制であり、神門臣家と向家が交互に 主王と副王を出していました。

この場合の大名持は 紀元前2世紀末に 忠実な部下の矛卑(ほひ、今の出雲大社宮司家の祖先)とともに

大勢の海童たちを引き連れて和国に上陸した徐福に幽閉殺害された 第八代主王、大名持の八千矛王

(のちに記紀で大国主と書かれた)のことです。

 

ちなみに この時に同時に殺害された副王の八重波津身は 事代主と書き換えられ のちには恵比寿さん

と呼ばれるようになりました。

八重波津身の姫、御穂須須美(みほすすみ)により八重波津身が祀られた 美保神社(今の松江市美保関町)

が全国の戎神社の総本社です。

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標高2600mの山頂付近は雲が流れて 景色はほとんど見えませんでした。

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奉納された「御神刀」が異彩を放っていました。

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その2へ続く

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九州北部を回り 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その3 伊都国 2022年4月1日

2022年04月19日 18時44分20秒 | 古代史の舞台を訪ねて

伊都国は現在の福岡県糸島市です。

今回の古代出雲を訪ねる旅で 最も楽しみにしていた場所です。

なんせ古代和国の支那への玄関口であり  歴史の舞台でしたから。

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魏書には次の記述があるそうです。

「郡(魏領帯方郡)からの使者は(伊都国の)港に着くと 調べられる。文書と贈り物だけが

女王のもとに送られる。ごまかしは許されない」

 

つまり魏国の使者が女王の住む都に来ることを 女王豊玉姫は拒否しているのです。

豊、物部連合王国の女王豊玉姫は 魏に使節を送り 我こそはヤマト国(和国)の女王だと主張して

しかも大和地方には磯城王朝があり、それと対立していることは 内緒にしていたのです。

魏の使者は 港までか、それとも魏の大使館(魏の一大卒「魏国の官名」が常駐する伊都国の建物)までしか

行けませんでした。つまり女王豊玉姫のいる都万を秘密にして都が大和地方にあるように

見せかけていたのです。 

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西暦239年6月に豊、物部連合王国の使節団は魏領帯方郡へ出発しました。もちろん伊都国の港からです。

使節団団長は渡来朝鮮人ヒボコの子孫 田道間守(たじまもり)で 副団長は物部十市根(としね)でした。

魏へは帯方郡経由でしか行けず 朝鮮語の話せる田道間守が重宝されたようです。

帯方郡で待たされて 都の洛陽に着いたのはその年の暮でした。

翌年の正月に使節団は帰路に着き 中朗将に任命された田道間守と校尉に任命された物部十市根には

帯方郡で郡の長官から 青い錦帯と銀印が渡されました。そして郡の長官の指示で帰国する使節団に

魏の役人テイシュンがついてきました。魏の皇帝から女王ヒミコへの詔書と金印、それに贈り物は

直接手渡すことになっていたからです。

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伊都国に着いた十市根はテイシュンを伊都国に置いたまま すぐに都万に戻り 女王豊玉姫と

イクメ皇太子に伊都国に赴くよう伝えました。

テイシュンが伊都国までついてきて 親魏和王のしるしを直接手渡すと言っているので

直接に赴かざるを得ませんでした。

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伊都国でテイシュンは女王ヒミコ(二番目のヒミコの豊玉姫)に 皇帝の詔書、金印、紫帯と下賜品

の目録(五尺刀二振り、銅鏡百枚、高級織物など)を手渡しました。

女王は正装の上に紫帯を肩から掛けて大いに威厳を示したということです。

田道間守と十市根も青錦帯を掛けて参列しました。

 

と言うことで伊都国は古代史の重要な舞台だったのです。しかも魏書など支那の歴史書に記された

ヒミコの内実際に支那人が直接目にしたヒミコはこの豊玉姫女王一人なのです。

あとは みな間接的に聞いた事柄なのです。

 

※ちなみに日本でよく言われる「魏志倭人伝」なる書物は存在しません。誰かが間違えて言い それが

広まったのでしょう。正確には「三国志 魏書 東夷伝」です。

 それに ヤマタイ国もヤマト国を誰かがヤマタイ国と読んだ間違いでしようね。だって豊玉姫女王の娘の

豊姫は魏の和国駐在武官 張春により、親魏和王の豊玉姫の後継者に指定されましたが 魏書では

台与と書かれていて 「たいよ」ではなく「とよ」です。誰かが台をタイと間違えたのがひろまったのでしょうね。 

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243年に豊玉姫女王は魏へ再び使節を送りました。今度の使節団団長にはイクメ皇太子がなりましたが

イクメの名前ではなくて 「伊佐地」(いさち)の名前でした。和国の皇太子が直接出向くことをためらったのでしょう。

245年には 当時外交官として伊都国長官になっていた 田道間守が帯方郡へ行き 黄幢(おうどうー

黄色い吹き流し状の旗)を受け取って帰りました。

例の宇佐神宮でヒミコ女王が 八本の旗を立てて 戦士を鼓舞したと伝わる旗で八幡神社の由来の旗です。

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と言うことで 伊都国は古代の和国で重要な役割の表舞台だったのです。

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伊都国博物館の近くで こんな看板を見て感激しました。

「クイーンズヒル」と書いてあるではありませんか。

女王豊玉姫が丘の上に立ち、服の裾を風になびかせながら魏の役人を待っている情景が

目に浮かびました。

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伊都国歴史博物館です。この建物が建っている場所が伊都国の中心部だったそうです。

博物館の学芸員の方にお聞きしました。

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博物館の玄関に看板がありました。

だからあ、魏志倭人伝は無いと言ってるでしょう。

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こんな人が目の前に現れてびっくりしました。「わっ、びっくりした」と言うと後ろで掃除をされていた

清掃中のおばちゃんが笑い出して「私も初めて見たときはびっくりしました」とおっしゃっていました。

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展示物の説明です。

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左が装飾品、真ん中が鉄製武器、右が鉄製農具です。

※展示物はフラッシュをたかなければ 撮影オーケーでした。

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イヤリングです。今みたいに男の人(貴人)もつけたのでしょうか。

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ネックレスやブレスレットなどの装身具です。

出雲の四隅突出墳丘墓や巻向の古墳からもよく似たものが出土していますね。

詳しい違いは分かりませんが。

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伊都国の女王の着物だそうです。

女王がいたということは 伊都国は 豊物部連合国の一員だったのでしょうか。

豊玉姫もこのような姿をしていたのでしょうか。素晴らしく高貴な印象ですね。

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地元の人は伊都国の周りをこのような船で移動していたのでしょうか。

朝鮮や支那へは もっと大きな船だと思いますが。

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出雲の銅鐸のレプリカがありました。鳴らしてみたら 不思議な音色でした。

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現在の糸島市の地図です。赤い丸はこの博物館の場所で 伊都国の中心部だったそうです。

伊都国の港の場所を 学芸員の方にお聞きすると 「糸島半島の東側(右側)は海が浅く、西側のほうが深いので

おそらく西側の海だと思われますが、記録や出土品がないので断定はできませんが」と

おっしゃっていました。青い丸は私が書きました。

「港からこの中心部へ 広い道路がまっすぐに通っていたはずなのですが、残念ながらその間は

ほとんどが田んぼで、発掘できないでいます。道路が発掘できればいいのですが」とおっしゃっていました。

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博物館のすぐ裏手(南側)は背振り山です。あの山の向こうが吉野ケ里です。

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徐福が生涯を過ごしたと伝わる吉野ケ里です。

その奥の山が背振り山で 山の向こうが伊都国です。

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伊都国の海です。本当は伊都国の海も見たかったのですが、この後佐賀の浮杯へ向かうので時間が無くなり

残念ながら海は見れませんでした。

この写真は糸島市観光協会のホームページからお借りした伊都国の海です。

この海を越えて 朝鮮半島の帯方郡へ幾多の船が行き来したのですね。

機会があれば この海を将来ぜひ見てみたいものです。

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と言うことで 豊玉姫女王と同様に伊都国も記紀では完全に無視されています。

だって「渡来人徐福の子孫の九州王国が二度も大和へ攻め入り、挙句にヤマトの王国や、出雲王国を

血で血を洗う戦で責め滅ぼして新しい征服王朝を打ち立てた」なんてことは絶対に書けませんから。

持統、不比等らの 「自分たちの祖先は天から降りて来て出雲の国を譲ってもらい、その後万世一系の

王家である」という嘘がバレルので 絶対に無視せざるを得ないのです。

それに 伊都国のことを詳しく書けば 和国が魏の属国だった事実がばれて またも万世一系が

崩れるのです。

 

さすがに徐福は無視することができず、素戔嗚(すさのお)と名前を変えて記紀に登場させますが

ヒミコや豊玉姫など触れてはならないのです。もちろん伊都国にも。

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面白そうな本を伊都国歴史博物館で見つけました。

即購入しましたので 内容は後日載せようと思います。

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次は その4 徐福二回目の和国上陸地「浮杯(ぶはい)」です。

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第二のヒミコ 宇佐豊玉姫 その3

2021年04月25日 23時11分36秒 | 古代史の舞台を訪ねて

宇佐豊玉姫 その3

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話は宇佐豊玉姫に戻ります。豊玉姫は東征の途中滞在していた多祁理宮(たけりのみや、

または埃宮えのみやともいう)で病になり 養生していましたがそこで亡くなります。

遺体は安芸の宮島に仮安置されて その後宇佐宮へ運ばれて宇佐家の祖先とともに祀られます。

また遺骨の一部は宇佐宮から見える院内町の奥山に墳墓が作られて葬られたといわれます。

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今の厳島神社です。御祭神を読むとひっくり返ります。素戔嗚の三人娘の多岐津姫、田心姫、市杵嶋姫で

あると書かれています。素戔嗚こと徐福には市杵嶋姫がお産みになった穂屋姫一人しかいません。

この御三方の姫たちは出雲王家第六代大名持の臣津野(国引き王)の皇子吾田片隅が九州宗像地方へ移住して

始めた宗像家の姫たちで 吾田片隅の三人の姫たちであり 徐福の娘たちではありません。

恐ろしく出鱈目な由緒書きです。

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記紀制作者指示たちはこの豊玉姫の記録を読んだと見えて 架空の大王、神武東征にこれを利用しました。

すなわち 多祁理宮(埃宮)は神武が東征の途中で行宮を作り休憩した場所と書かれ、ご丁寧に現在はここに神社が

建てられていて神武顕彰碑なる石碑も建っているということです。

記紀制作指示者は調子に乗って ついでに イクメ王が行宮を作り吉備王国攻撃の拠点とした吉備高島宮も

神武の行宮だとしています。ホンマにずうずうしいですね。

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豊玉姫は宇佐家の祖先神と共に宇佐神宮の本殿に祀られます。

宇佐宮にはもともと 祖先神を祀る本殿一つでした。そこに豊玉姫も祀られました。

しかし現在は本殿は三殿あります。いつの間に本殿が増えたのでしょうか。

それは三韓征伐と息長帯姫、それと彼女が生んだとされる誉田別(ほむたわけ)の君が大いに関係します。

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イクメ大王が苦労に苦労して大和入りして打ち立てた 物部王朝は 残念なことに短命に終わりました。

イクメ大王が支配したのは近畿地方だけでした。

次のオシロワケ大王(のちの贈り名を景行ー大足彦忍代別おおたらしひこおしろわけ)も支配地域が少なく 

それを広げるべく自ら遠征軍を率いて九州に行き 祖先の地日向で父(イクメ)や 祖父(イニエ)の墳墓や神社を築きました。

 戦争に行ってくれる豪族が少なかったから、自ら戦に行かざるを得なかったのです。

 

また関東に出兵するにあたり 出雲王家に協力を求めてきました。旧出雲王家と登美家は相談して

これに応ずることにしました。磯城王朝時代 豊国軍が登美家領地に突然攻め入り 加茂田太彦などを山城へ追い払ったことや、

登美の霊畤や太陽の女神を祀る三輪山を占領し登美家を追い払ったことなどの恨みがあり、イクメ大王に追われて

東国へ逃げた豊国軍を探して攻撃する決意をしたといわれます。

 

出雲軍は三河周辺から東へ豊国軍の残党を探し出しては追い払いながら 関東各地まで進みそこを占領し開拓しました。

それで関東各地の国造は出雲系の人たちで占められ 第二の出雲とも呼ばれました。

相模、武蔵、秩父、安房、須惠、上海上、下海上などの国造家です。

しかし出雲系の国造家の当主たちは 物部系や豊国系の残党たちから 暗殺されることを恐れて 

矛卑家の子孫のふりをしたそうです。

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しかし忍代別(オシロワケ)大王(景行)も直接支配地域を広げることなく 近江の国、高穴穂宮で ヤマトに

帰ることなくこの世を去ります。

次の稚足(わかたらし)大王(成務)も 自ら各所へ遠征に出掛け ほとんど都のヤマトには住むことなくこの世を去ります。

記紀では 短命に終わった物部政権を隠すために また大王自らが 征服戦争に直接出向き大和に

ほとんどいなかったことを隠すために 架空の皇子ヤマトタケルを作り出して

この二人の大王が自ら行った遠征を ヤマトタケルの仕事にします。

 

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息長帯比売(おきながたらしひめ)は ワカタラシ大王(成務ー物部王朝第三代大王)の皇后でした。

息長姫は朝鮮の辰韓王子ヒボコ(1世紀半ばに渡来した)の子孫です。

息長姫が皇后となり、暫くして朝鮮半島で辰韓が滅び その家臣により新羅が起こりました。

その時息長姫は新羅に対して 自分は辰韓王家の子孫だから 辰韓の財産相続を請求したという。

しかし話がまとまらず、武力で朝鮮へ行こうというときに相談した夫君のワカタラシ大王に断られて 

落胆した息長姫は ワカタラシ大王とは疎遠となります。

その後ワカタラシ大王は豊前の国、岡県主に攻められて若くして戦死されました。

息長姫皇后は朝鮮出兵の準備のため 筑後国に香椎の宮を建てそこに住んで準備を始められました。

それため彼女は北部九州に支持を広げられました。

 

そして皇后は朝鮮出兵を次に豊前中津彦に相談しますが 彼にも断られ 中津彦も長門の国で若くして戦死したという。

つまり豊前中津彦は 息長姫の夫君や大王ではなく、息長姫皇后の単なる部下、臣下なのです。

しかもほとんど仕事らしい仕事はしなかった。

記紀はかってに息長姫皇后の部下の中津彦を大王(仲哀)に仕立て上げています。

架空の皇子ヤマトタケルの思い付きといい、皇后の臣下の中津彦の大王への格上げといい また九州のイニエ王を

大和の大王にするというでっち上げも 短命に終わった物部王朝を 隠して引き延ばす作戦が見え見えですね。

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この後 息長姫皇后は朝鮮出兵を 日向襲津彦王に相談されます。襲津彦王は武内宿祢の子孫です。

 

イクメ大王の放った刺客から逃れて 出雲王家に匿われた 武内宿祢は出雲王家の姫を娶り出雲王家の称号の

臣を名乗り 武内臣太田根と名乗ります。

彼の息子の武内臣波夛は九州八代に移住して 武内臣八代と呼ばれます。

武内臣八代の娘 久米マイト姫は日向に移住して 襲津彦を生みます。

襲津彦は成長して 西都原の王となり、日向襲津彦王と呼ばれます。

 

息長姫は その日向襲津彦王に朝鮮出兵、新羅征伐を相談されたのです。

日向襲津彦王は息長姫の遠征話を快諾し、息長姫と一緒に住みます。

襲津彦王は 出雲王家の血、高倉下の血と共に 物部の血も持っていてネットワークに自信があったのでしょう。

中津彦が何者なのか詳しくはわかりませんが 中津彦と違い 襲津彦王の人物スケールの大きさが感じられます。

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襲津彦王は 祖先の出身地の紀乃国や海部家、尾張家などへ協力を呼び掛けますが、各地の豪族たちも

協力を約束します。

襲津彦王と息長姫たち遠征軍は 襲津彦王を最高司令官として、和国の各地から集まった大船団を率いて新羅へ向かいます。

 

新羅に到着すると 新羅王は海上を埋め尽くした大船団におじけづき 戦わずに降伏し、

財宝を差し出して 年貢と人質を差し出すことを約束します。

遠征軍はそのまま 百済に向かい、百済も同じように戦わずして降伏し年貢を納めることを約束します。

そのあと同じように高句麗にも攻め入り 同様に征服します。

これが三韓征伐です。

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三韓征伐の立役者 襲津彦王は大和に凱旋し 摂津の国住吉郡桑津村に住まわれました。

その地に住吉神社を建てた後 葛城地方に移り長江に宮を建てて住まわれたので

長江襲津彦王と呼ばれました。

 

※摂津の国住吉郡桑津村は 今の大阪市東住吉区桑津で近鉄南大阪線北田辺駅とJR大和路線東部市場駅の間の地域です。

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三韓征服に成功した息長姫は 長門の国に住吉神社を津守連に建てさせました。

この神社の御祭神は後に摂津の国住吉郡の住吉神社に移されました。

その主祭神は 上筒の神、中筒の神、底筒の神の三神ですが 筒とはその形から

男神とされています。つまり息長姫とかかわりのあった御三方 つまりワカタラシ大王、中津彦、

襲津彦王の御三人と言われます。

現在の住吉大社には 本殿が一つ増えて四棟あります。息長姫の本殿が追加されたからです。

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息長姫は近江の国の息長家に帰られました。その後の和国は朝鮮からの年貢が入り 財政的に大いに

うるおい、それで巨大古墳が次々にできたといわれます。そのため和国では息長姫が大王とされたといいます。

しかし記紀では大君ではなくて摂政とされて、大王にはされていません。

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息長姫は古墳造りを始めます。

まずワカタラシ大王の陵を作りました。現在の奈良市山陵町です。早くして没したお方の霊を慰めました。

息長姫が皇后として権力をふるう基を作ってくれたお方です。

そしてその北にご自分の陵も作らせました。あの世でも添いたいと思われたのでしょうか。

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息長姫は三韓征服から帰国されて 出産されました。襲津彦王の皇子だと言われます。

一緒に暮らして、一緒に船で戦場へ行ったので おそらくそうでしょうね。

船で朝鮮へ三韓征服に出向いた時には お腹が大きかったといわれています。

ところがこの皇子「誉田別ホムタワケ」皇子は7歳で夭折されてしまいます。

これは大変なことです。

息長姫に後継ぎがなくなると 新羅をはじめ三韓は 年貢提出を渋るのに決まっています。

新羅王家の血筋が途絶えるからです。

当時和国にはすでに新羅の皇太子が 人質として滞在していました。 

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そこで息長姫は皇子の死を秘密にしました。そして当時息長家と付き合いのあった上毛野国造家の

竹葉瀬の君(たけはせのきみ)が同じ七歳であることを知り 秘密裏に彼を呼び寄せて息長家の養子にしました。

上毛野国造(かみつけのくにのみやつこ)家は宇佐豊玉姫の長男豊彦(ヤマトでは豊来入り彦と呼ばれ、

記紀では豊鍬入り彦と書かれた)の子孫です。

月読の神を祀る豊姫(ヤマトでは豊来入姫、記紀では豊鍬入り姫)の人気に危機感を持った

イクメ王が登美家の加茂田太彦に命じて 豊姫、豊彦、豊国軍を大和から追い出したので 豊国勢は関東へ逃げ

豊彦の子孫が下毛野国造家となっていたのです。

息長姫皇后は息長家で育ち成長した竹葉瀬の君をホムタ大王(のちの贈り名を応神)として即位させました。

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これに大いに喜んだのが宇佐家です。宇佐豊玉姫の長男の豊彦の子孫から 宇佐家で初めて大王が誕生したのです。

早速ホムタ大王のために本殿を追加しました。そして息長姫のためにも本殿を追加したのです。

息長姫は宇佐家とは縁がありませんが、息長姫のお陰で宇佐家から大王がでたのです。

それと息長家は 宇佐家と同じく月読の神を祀る家でもあったからです。

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ホムタ大王御陵や息長姫御陵には古墳の上に八幡宮が建てられたのはそういう意味だったのです。

現在はこれらの御陵の上から古墳のすぐそばに八幡宮は移されています。

記紀にはとてもこんなこと書くわけありませんが、ホムタ大王は第二のヒミコ、豊玉姫の直接の子孫なのです。

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現在の宇佐宮の配置図です。左上に本殿があります。

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中楼門の奥に本殿が三棟あり、左から一の御殿(ホムタ大王)、二の御殿は姫大神(もともと豊玉姫と先祖神が祀られていましたが

記紀が豊玉姫を完全無視しているので これに合わせるように現在は宗像三姉妹が祀られていますが宗像三姉妹と

宇佐家は関係ありません。宗像家は出雲王家第六代大名持の臣津野の皇子吾田片隅が宗像へ移住してた始めました。)、

三の御殿は息長姫(神宮皇后)が祀られています。

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南中楼門です。豊玉姫女王はこの門の前に豊国軍の兵士を集めて東征出陣式を行ったといわれます。

上の三枚の画像はいずれも宇佐宮HPよりお借りしました。

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上毛野国(かみつけのくに)にある赤城神社です。赤城山(黒檜山)のふもと、大沼のほとりにあります。

イクメ王や登美家の加茂田太彦に追われた豊彦たち豊国勢は この上毛野国に逃げて来てこの地の開発に

大いに貢献し、豊彦(豊来入り彦)はこの立派な神社の主祭神に祀られました。

この上毛野国造家の子孫の竹葉瀬の君が秘密裏に息長家の養子になり ホムタ大王となりました。

 

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次は第三のヒミコ サホ姫です。

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

また宇佐宮の写真三枚は宇佐宮のホームページから借用いたしました。

 

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第一のヒミコ モモソ姫 その3

2021年04月07日 12時22分14秒 | 古代史の舞台を訪ねて

モモソ姫 その3 

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大彦は銅鐸を飾り、農業神を祀ることを続けましたが 次第に物部勢に押されて ついに大和を出て

三島に退去します。三島は出雲王家第八代副王八重波津身(記紀では事代主と書かれた)の后の一人

玉櫛姫(別名活玉依姫)の出身家の三島家の領地でしたが 出雲王家の領地になっていて、

このころは登美家の領地になっていました。

三島にいたころに大彦は密かに出雲王家に来て 援軍を頼んだそうですが 出雲王家は

九州物部家が再度東征するという噂があり そのために兵力を避けない」と断ったそうです。

そして以後は富家の名前を使わないように申し入れたので、大彦は以後摂津国三島郡の阿武山に

ちなんで 「阿部」氏と名乗ることを富家に約束したという。

大彦は出雲王家の血を引いていることを誇りにしていて 一時は富彦と名乗ったこともあり、大彦の皇子は

事代主の后の一人沼川姫の名前を取り「沼川分け」と名乗りました。

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阿武山です。昔の摂津国三島郡の阿武山は 現在は高槻市になります。

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次第に強力になった物部軍は 幾度も大彦を攻めて、大彦はついに北へ向かって退却します。

大彦は野洲から北陸を通り 信濃へ行き更級郡布施に住みその地で亡くなり、邸宅跡には布施神社が建てられました。

布施神社は大彦と天の冬衣(古代出雲王朝第七代主王で事代主の父君ー出身は東王家の富家)が主祭神です。

また沼川分けは東海方面から伊豆に移り住みその地に 「三島」の地名が出来ました。

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負ければ賊軍となり、大彦達は蝦夷と呼ばれたり、葛城地方の曾大根(現大和高田市)で育ったので

幼名を中曽大根彦(なかそおねひこ)と名乗りましたので 記紀では「長脛彦(ながすねひこ)」と書かれて 

しかも数百年前の架空の大王の神武東征時の敵にされたり 無茶苦茶な扱いです。

大彦たちは 出雲国教の幸ノ神三神を信仰していたので その主神クナト大神の名前から自分たちの国は

「クナトの国」といったので 「クナ国」と呼ばれました。 

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話はヒミコに戻ります。

物部に抵抗し続けた大彦勢が大和から去り、クニクル大王の次に物部の血を引く大日々が大王となります。

大日々(のちの贈り名は開化)は物部の血を引くので 物部勢と妥協して添上郡春日(奈良市白毫寺町付近)

に宮殿を作り政治を行いました。

 

母クニアレ姫の跡を継ぎ 三輪山の太陽の女神を祀る姫巫女となったモモソ姫は 登美家勢力に守られて

司祭を続けました。モモソ姫の人気は次第に高まり、モモソ姫が司祭する春と秋の大祭には 

大日々大王をはじめとして大和中の豪族が参列し、遠方からも泊りがけでたくさんの地方の豪族が参列しました。

こうした政治方式が磯城王朝時代のヤマト王国の政治方式で祭政一致とよばれます。

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神武天皇像です。大台ケ原の山中に立っています。神武東征はこの地を通ったそうです。

地理を熟知していた八咫烏こと 登美家当主加茂建津之身は わざわざ大台ケ原の山中を通らずとも

熊野川沿いに北上して、伯母峰峠を越えて吉野川沿いに下り 磐余の地に入ったと私は思いますが。

まあ困難多くして大和入りしたと 言いたいのでしょう。

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磐余の地名は 今も桜井市に残っています。

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磐余の道もあります。

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「磐余の道」にはこんなレトロな雰囲気の場所もあります。

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大祭の前後の期間には 三輪山麓の扇状地(現桜井市太田)の巻向にはたくさんの宿舎が建てられて

遠方から来た各地の豪族が寝泊まりしました。その地はそれ以前から ヤマトの大豪族登美家の領地であり、

姫巫女の住む場所とされていて ヒミコの宮殿も建てられていました。

登美家第九代当主の太田田根子は出雲王家神門臣家から美気姫を奥方に迎え、登美家クニアレ姫の

愛娘のモモソ姫を支え続けました。太田の地名は太田田根子からきています。

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今の巻向駅周辺です。

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各地の豪族たちは自分たちの地元の土器に土産物を入れて持参し、巻向の神殿に捧げました。

神殿では 物部式と出雲式の折衷的な祭りが行われました。

榊を根から抜き取って 枝に鏡(物部式の神獣鏡)をぶら下げましたが 光る面を参加者に向けて

太陽の女神(出雲式の日霊女貴ーひるめむち)のご神体とされました。出雲国教の幸ノ神では

男神として根の付いた木を用い、根は男性器のシンボルでした。鏡の丸い形は女性器のシンボルであり、

女神のシンボルでした。

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「一人の女を選んで女王としヒミコと名付けた。神霊に通じた巫女で神託により国を治め人々を心服させた。

弟がいて 祭りごとを補佐した。」と魏書に書かれましたが 弟ではなく、登美家当主の太田田根子

のことです。

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当時は魏の駐在武官は九州の伊都国までしか入れず、和国の国情は通訳を通じてすべて聞かされたことを

記録したもので 駐在武官が直接会ったのは 二番目のヒミコ 宇佐豊玉姫だけです。

親魏和王とされたのは 二番目のヒミコの豊玉姫でモモソ姫ではありません。

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三輪山です。隣の大鳥居は大神神社の大鳥居です。

今はJR三輪駅周辺ですが 昔はこの辺りも巻向だったのでしょう。弧文板や弧帯石がこのあたりから

出土しています。(桜井市埋蔵文化センター資料)

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桜井市箸中の畑の中の畦道を歩いていくと 鳥居が建っています。
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宮内庁の立て札があり、それを読むと思わず噴出しました。

「大和トトビモモソ姫」の墓だと書いてある。なんのこっちゃ??。


しかもこのわけの分からん姫君は、磯城王朝第七代フトニ(考霊)大王の皇女だと書いてある。

大和姫とモモソ姫という 全く時代の違う二人の皇女姫巫女を並べてくっつけて書いてあるのです。

つまりこの墓が大和姫の墓なのか、モモソ姫の墓なのか分からないと宮内庁は公にしているのです。

 

今まで述べてきたように モモソ姫は磯城王朝第八代大王のクニクル(孝元)と登美家クニアレ姫との皇女であり

大和姫は初代物部王朝大王イクメ(垂仁)と磯城王朝最後の大王第十一代大王彦道主の皇女ヒバス姫との

皇女であり 約100年ほど離れてはいますが 二人とも父親が大王の れっきとした皇女です。

このお粗末な宮内庁の歴史観は なんとかしないといけませんね。

二人の姫にも失礼だし、二人の父親の大王にも失礼でしょう。

 

おまけに 宮内庁は 大和姫の漢字に 卑字を当てています。

宮内庁が れっきとした大王(後の天皇)の皇女に 卑字を使うなんて 信じられませんよね。

いまだに支那人たちが日本人を蔑んだ蔑字をありがたがっているようでは話になりません。

 

宮内庁の人たちも もっと日本の歴史を勉強して 日本人に誇りをもたなくちゃあ。

もう今は日本は支那の属国ではありません。イクメ大王が支那と連絡を絶ち和国が支那を離れて

もう1700年になろうとしているのに 宮内庁はいまだに大王家の姫に卑字を使い続けているなんて、

不謹慎ですよね。ある意味馬鹿ですけど。 
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以上が 一番目のヒミコ モモソ姫が登場した時代背景と 当時の状況です。

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次は第二のヒミコ 宇佐豊玉姫です。

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

またウワナリ打ち神事の絵は 雲州先生の本から引用しました。

また地図はMapionから引用しました。

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第一のヒミコ モモソ姫 その2

2021年04月03日 23時02分32秒 | 古代史の舞台を訪ねて

モモソ姫 その2

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親戚である出雲王家が 突然卑ボコ子孫勢に吉備、播磨を占領され、出雲王家の救援要請に

動かなかったくせに、フトニ大王は今度は突然吉備播磨に攻め入り、卑ボコ子孫勢を追い出して 

自分がその後釜に座りました。フトニ大王は それほど吉備の鉄が欲しかったのでしょうか。

それとも物部の東征情報を聞いて ヤマトから逃げ出したのでしょうか。

多分後者だと思われますが。

鉄が欲しいだけでは 大王自ら出陣しないとおもいますが。

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「真がね吹く」が吉備の枕詞になったのはそこで良質の鉄が取れて 盛んに野踏鞴(のだたら)で鉄が生産されたからです。

ちなみに「かね」とは出雲族の祖先ドラビダ族の言葉のドラビダ語で鉄を現し、「たたら」

とはドラビダ語で激しく燃える炎を現すそうです。また出雲国教幸ノ神三神のうち 皇子神の

サルタ彦大神のサルタとはドラビダ語で「鼻が長い、鼻が大きい」意味で つまりインドの

象神「ガネーシャ」のことです。

時代が下ると猿田彦と表現されますが 猿の神ではありません。

また鼻が大きいので 男性器の象徴とされ、子孫繁栄の生殖の神とされました。

建御名方(古代出雲王朝第八代副王八重波津身ー記紀では事代主と変えられたーと沼川姫との皇子)

が開拓した信濃諏訪地方では サルタヒコは子孫繁栄の生殖の神、夫婦和合の神とされ 今も道祖神として 

たくさん残っています。

※「諏訪地方を開拓した出雲族」については このブログの2019年12月21日の記事をご覧ください。

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信州白馬村の田頭という場所の手握り夫婦神像です。
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こちらは出雲王朝第六代大名持の臣津野を祀る、出雲市長浜神社の幸ノ神三つ鳥居の手握り夫婦神像です。

上の白馬村の手握り夫婦神像とそっくりですね。
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こちらは白馬村佐野中村という場所の祝言夫婦像です。
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こちらが 白馬村の道祖神です。
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石像は手を取り合っているように見えます。つまり手握り夫婦神像です。
それと直立した男根をもつ木の像がいくつか 奉納されていました。
これはまさしく猿田彦ですね。
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ということで 信濃の国には出雲族の風習文化が 色濃く残っていることを説明しました。

そのほかにも御柱の共通点とか、詳しくはこのブログの2019年12月21日の記事をご覧ください。
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そのころ九州物部王家は物部五瀬(いつせ)を大将として 第一次東征を決行し 紀ノ川河口から大和入り

しようとしますが 高倉下(たかくらじー徐福の長男五十猛と出雲王家大屋姫との皇子で初代ヤマト大王天の村雲の

腹違いの弟、)の子孫の豪族 名草の戸畔(なぐさのとべ)に撃退されて五瀬は戦死します。

 

五瀬の弟の物部稲飯、三毛入りたちは 熊野へ転進し 熊野川沿いに大和入りしようとしますが

磯城家の兵隊のゲリラ戦法で身動きが取れず 物部の大軍は熊野川の中州に留まり続けます。

その地が後に 熊野本宮大社になります。(今の場所ではなくて 明治の大水害で流された大斎原(おおゆのはら)です)

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竈山神社   五瀬は和歌山の竈山神社に祀られて その訪問記は2015年9月8日に載せています。

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大斎原 熊野川河口近くにあり かつてこの地に熊野本宮大社がありましたが

明治の大洪水で流失し、今は鳥居だけが建てられています。

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困り果てた稲飯と三毛入りは ひそかに登美家へ使者を送り大和へ 物部軍をひそかに案内してくれるように頼みます。

登美家当主の賀茂建津之身(かもたてつのみ)は戦乱の続く大和を物部とともに平定しようと考えて 物部軍を案内して

熊野川沿いに北上、磐余(いわれ)の地(登美家の領地)に案内します。これが第一次東征で 物部軍は加茂建津之身に大いに

感謝して彼を「八咫烏(やたがらすー支那の神話に出てくる太陽の中に住むカラス)」と呼び 各地に八咫烏神社を建てます。

※記紀の制作者は三毛入りと稲飯のどちらが物部軍の大将か分からないので 物部ウマシマジなる人物を作り上げて

そいつを磐余彦と名付けました。そして初代大和の大王「天の村雲」を消してその磐余彦と名付けられた

物部ウマシマジを初代大和の大王、神武大王としました。

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浜王子神社 説明看板を読むと 物部三毛入りと稲飯の二人を祀っています。

記紀では絶対に出てこない名前の二人です。

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八咫烏神社 奈良県宇陀市榛原

登美家当主 加茂建津之身に感謝した物部軍は各地に八咫烏神社を建てました。

これはその一つです。

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ヤタガラス神社の由緒書きです。


熊野に上陸した九州物部軍を磐余の地へ導いた、加茂建津之身(賀茂建角身)を祀っているとかかれています。


そして賀茂建角身は山代の加茂族の祖と書いてある。かなり正確です。

まあ記紀に迎合したところは 少しあるが、神社の由緒書きの中ではかなり上出来のほうです。
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記紀制作者たちにとり、困ったことに古代出雲王朝の存在を「なかったことに」しなくては 大王家が

万世一系の王朝とはならないのです。

記紀編纂者は不比等の指示で 前後100年近く離れた2回にわたる物部の東征を一つにまとめて神武東征

としました。そしてその東征を古代出雲王朝の最初の紀元前5世紀までさかのぼらせたので 数百年も

歴史が引き延ばされました。そのために 大王の在位期間が200年近い人が何人も出てきました。

そして足りない大王を補うために 九州を一度も出たことのないイニエ王(第二次東征を始めた九州物部の王)を

大和の大王にしてしまい ご丁寧にのちに贈り名を崇神とつけてしまい、ついでに嘘の上塗りで ヤマトにたくさんある

登美家の墓の一つを崇神陵としてしまいました。

また三韓征伐で有名な息長帯比売(神功皇后)の家来の豊前中津彦を 大王に格上げして大王を増やしました。

後の贈り名は仲哀です。そうしないとつじつまがあわないからです。一度嘘をつき始めると 嘘を嘘で上塗りしないと

自分で自分の首を絞めることになるのです。宮内庁の存在も記紀の内容そのものに 基づいているので

そうしないといけないのです。

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しかし三韓征伐の第一の立役者の日向襲津彦大王を記紀では大王にしていません。大王が足りないのに。

記紀では 魏書を読んだ和国民に 息長帯比売ー神功皇后を「ひみこ」と思わせるために 立役者の

襲津彦大王の存在を消して 息長姫が一人で活躍したように見せかけたのかもしれません。

私個人の考えですが。不比等のような陰険なやつは何を考えていたか分かりませんが。

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伯耆の国で出雲王国軍と戦争をしていた磯城王朝のフトニ大王はこの時点で ヤマトの大王ではなくなり

伯耆の国の王となりました。フトニ王軍と出雲王国軍とは自然に休戦状態になり、フトニ王は

皇后の細(くわし)姫を追い出して 地元の愛人と余生を送ります。

彼が住んだ土地の山は のちに彼の贈り名をとり 孝霊山と名付けられました。

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孝霊山山頂から弓ヶ浜半島の先に美保関がみえます。事代主の后の一人沼川姫が住まれたところです。

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高杉神社の「ウワナリ打ち神事」斉木雲州先生の「古事記の編集室より」

フトニ王亡き後このあたりで大飢饉が発生したそうです。人々はこれはてっきり フトニ王が

地元の愛人におぼれて追い出した本妻の細姫(くわしひめ)の祟りだと言って、付近に住む後家さんたちを集めて

棒で叩いて 細姫の恨みを晴らしたところ 飢饉は収まったそうで 以後毎年これを高杉神社の神事として

行うようになったということだそうです。「ウワナリ」とはこの地方で 後妻さんという意味だそうです。

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※孝霊山登山記録はホームページの「その他の山」からはいり「アウトドア日記」の2016年

11月22日の記録に載せています。

愛人と住んだその住居跡に建てられたのが 高杉神社です。2016年11月22日の記事に載せています。

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磐余の地に落ち着いた物部は態度を豹変させて 登美家や尾張家を迫害し始めます。

さすが秦国人徐福の血を引く 恩知らずの集団ですね。

伯耆の国へ去ったフトニ大王(のちの贈り名は孝霊)には 細姫以外に別の姫との間にクニクル皇子がいて 

クニクルが磯城王朝の第八代大王になります。

クニクル(のちの贈り名は孝元)は登美家のクニアレ姫との間に 大彦皇子、モモソ姫をもうけ、

物部の姫(ウツシコメ姫)をも迎え入れて その姫との間には 大日々皇子がいました。

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クニアレ姫は登美山の登美の霊畤で太陽の女神を祀る姫巫女でした。その娘のモモソ姫も信仰心厚く

クニアレ姫に続いて登美の霊畤の姫巫女に推挙されます。姫巫女は登美家か磯城家の姫しかなれませんでした。

モモソ姫の兄の大彦は 徹底した物部嫌いで 最後まで物部と戦い続けました。

戦闘の神「フツの御霊」を祀る物部と 銅鐸を吊り 農耕神を祀る大王家や尾張家との宗教戦争でした。

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モモソ姫 その3へ続く

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

またウワナリ打ち神事の絵は 雲秀先生の本から引用しました。

また地図はMapionから引用しました。

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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」のトップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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諏訪湖地方を開発した出雲族  その2

2019年12月21日 23時45分17秒 | 古代史の舞台を訪ねて
諏訪湖地方を開発した出雲族  その2
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美保神社と御穂須須美(みほすすみ)
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一方事代主(八重波津身)のもう一人の后の沼川姫は美保関に屋敷があったので美保津姫(三穂津姫)とも呼ばれていました。
そして事代主亡き後 沼川姫は 皇子の建御名方(タテミナカタ)を連れて実家の越の国、今の糸魚川に帰ります。 

しかし沼川姫の姫皇女の御穂須須美、または美保須々美(みほすすみ)は 沼川姫の住まいの美保関の邸宅に残り 
美保神社を建てて父の八重波津身を祀り 一生を美保の地で過ごされます。
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ちなみに八重波津身は記紀で事代主と書かれ 時代が下ると恵比寿様と呼ばれるようになるので
美保神社は恵比寿様を祀る神社ということで 全国の戎神社の総本社になります。

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松江市美保関町は美保神社の門前町です。青御影石の石畳が敷かれた道で土産物屋が並んでいます。
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美保神社の入り口です。
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立派な神門をくぐります。
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立派な拝殿です。全国の戎神社の総本社らしい重厚な造りです。
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拝殿の後ろに本殿があります。
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また美保神社は 美保津姫(沼川姫)と事代主を二柱祀るのでそれぞれ大社造りを二棟建てて それを「装束の間」
と呼ばれる建物で繋いだ形式の建物で美保造りと呼ばれています。

しかしもともとは御穂須須美(みほすすみ)の一柱のみを祀っていたと出雲の国風土記に書かれていたそうです。

しかし出雲風土記はイクメ大王が天下を取った時に都に駆けつけて大王に直談判して 出雲国造に決まっていた物部の十千根を
ひっくり返して 矛卑の子孫の果安が強引に国造にしてもらい 出雲風土記も果安らが作ったことを考えると
事代主と沼川姫の名前をあまり世に出したくないので 娘の美保須々美だけを祭神にしたとも考えられます。

だって事代主を殺して沼川姫を越の国へ追いやった犯人は 徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)ですからね。
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寒い12月に行われる美保神社「諸手舟神事(もろたぶねしんじ)」です。

美保の沼川姫の御屋敷に滞在していた事代主(八重波津身)のところに 大名持(大国主)が行方不明だという知らせが
早舟で知らされた 故事を現した神事です。
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松江市の駅前商店街には 「沼川姫」と書いたお店があります。以前から気になっていたのですが
何のお店か わかりません。多分おみやげ物屋だったような記憶がありますが。
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沼川神社のこと
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沼川姫と皇子の建御名方は越の国(今の糸魚川市)に帰りますが 建御名方は その後大勢の越の人や
出雲族を連れて諏訪盆地へ移住し諏訪地方の開拓に努力して成功します。

そして建御名方(タテミナカタ)は諏訪地方で絶大な尊敬を集めます。そして沼川姫も。

諏訪大社の主祭神 はもちろん建御名方(タテミナカタ)と 母親の沼川姫です。
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※ 記紀の製作者の持統女帝や不比等たち徐福の末裔たちは 諏訪の人たちから絶大な尊敬を集めた
建御名方が気に入らなかったらしく、記紀では 「出雲へ国譲りの交渉に出かけたタテイカヅチ
なる荒武者と 出雲の王子 建御名方(タテミナカタ)が力比べをして タテミナカタは負けて諏訪湖へ逃げ延びて
「ここから一生出ないからゆるしてくれ」と命乞いをしたと書きました。

ほんま支那人の末裔たち(大和王朝の王家とそれを千年に渡り支え続けて自らの私腹を肥やし続けた不比等の子孫藤原一族)は 
諏訪の人たちにも 出雲王国人の私たちにも失礼千万な スケールの小さな奴らなのです。というかあいつらは
記紀を作り それを国民にごり押しして 和国の歴史を歪めた超悪人なのです。

自分たちが渡来人で出雲王朝を倒して出来た 征服王朝の支配階級だという事を徹底して隠すため 
自分たちの祖先は天上世界から神様が地上に使わした神の子の子孫だなんて でっち上げて 
人民から尊敬されようとしたのですねえ。笑えますねえ。
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拝殿の中です。神社名の額には卑字がつかわれているため 私は沼川神社と書いています。
自分たちの郷土の英雄を祀る神社にこんな卑字をつかうなんて。やめましょうよ。

卑字といえば当時の支那人たちは自分たちが世界で一番優れた民族だと思い込んでいて、(今でもそうですが)
周辺の民族を蛮族と呼び 卑字や動物の字を当てて表記しました。

我が国の和国も卑字で表現したり ヤマト国に馬の字を当てたり 姫巫女や姫皇女のことをヒミコと省略して
卑字で表していました。その卑字を二千年も経った現在でも ありがたがって使っている歴史学者や 
地方の教育委員会の馬鹿たちがいます。

もっと日本人にプライドを持ってほしいものです。

ちなみに奈良県桜井市を訪ねた時に 町の中に大きな看板があり「ヒミコの里」と卑字で大きく書いてあり
唖然としました。日本人のプライドを捨てていますよねえ。

江戸時代に徳川幕府に李氏朝鮮から通商使節が来たときに 親書に和国のことを卑字でかいてあり これに立腹した幕府は
使節を追い返し 書き換えた親書を持ってきて初めて面会したといいます。日本にプライドがあったのですねえ。
現代の一部の馬鹿な歴史学者や教育委員会の人たちも少しは勉強して 日本にプライドをもってほしいものです。


沼川神社はとてもわかりにくかったです。町の人に聞いても皆さんご存じなくて、苦労しました。
そこで市役所の観光課に聞きに行くと なんと市役所の隣にありました。
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拝殿の裏手にあるこじんまりとした本殿です。
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ここにも卑字が使われています。自分たちの誇る郷土の英雄なのに なぜ卑字を使うのでしょう。
多分時の権力者、右大臣の不比等らに 気を使ったのでしょう。

もういい加減にやめましょうよ。 天皇制度を利用して千年以上私腹を肥やして 利益をむさぼってきた藤原家やその子孫の
近衛家に気を遣うのは。ちゃんと当たり前の字を使いましょう。
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屋根の鰹木についている紋は出雲王家の龍鱗紋ではありませんでした。
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本殿の屋根の千木は出雲式の盾削ぎではありませんでした。
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沼川姫の木造です。この神社に伝わっているそうです。
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諏訪湖と諏訪大社
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以前信州山旅をしていた時 諏訪湖畔で車中泊しました。
朝起きてみると湖の中に女の人が立っています。
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近くを散歩中の人に「あの方はどなたですか」と訪ねてもほとんどの方がご存じありませんでした。
年配の方に聞くと「あの方は沼川姫だと思います。悲劇の御姫様ということしか知りません」
とおっしゃっていました。
あとで調べるとやはり沼川姫でした。建御名方の母上です。
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まず諏訪大社上社を訪れました。
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城内配置図です。広いですねえ。諏訪大社には どの社にも本殿はありません。木や山がご神体なのです。
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大国主が祀られていて 建御名方の父神と書いてありましたが これはまちがいです。
大国主(八千矛王)は父ではなく 事代主(八重波津身)が父で 沼川姫が母です。
主祭神は もちろん建御名方と その奥様といわれる 八坂斗女姫です。
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こちらは下社秋宮です。

下社は春宮と秋宮の二社あります。これは出雲王国時代は 春分大祭と秋分大祭の二大宗教行事が出雲で行われて
全国の豪族たちが集まったことが 影響しているといわれています。そして古代出雲王国では 春分の日と秋分の日に
それぞれ1歳年を取ったといわれています。つまり1年に2歳年を取るのです。
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ここには沼川姫が祀られていました。安産の神だそうです。
普通偉人の母親が祀られると 安産とか女性の病気の神とされますね。

空海のご母堂が祀られている九度山の慈尊院境内には 女性のオッパイのぬいぐるみが山積みされて奉納されています。
安産とかお乳がよく出るようにとか 女性の乳がんの平癒とかいろいろいわれて たくさんの方が奉納しています。

役行者のご母堂白専女(しらとうめ)が祀られている奈良県天川村の母公堂(ははこどう)も安産の神とされています。
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下社秋宮にはなんとあの「建て雷(たていかづち)」も祀られています。出雲の国譲りの談判で
建御名方をコテンパンにやっつけたと記紀に書かれたあいつです。ということは 誰がこんなやつを祀らせたのか
すぐ分かりますよね。
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秋宮の手水は温泉が引いてあり 湯気が出ていました。
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下社春宮です。
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ここも立派な建物です。
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広い境内の正面は舞殿でしょうか。
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ここにも越の沼川姫が祀られています。高志とは越のことですね。
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もちろん建御名方も祀られています。
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諏訪湖地方を開発した出雲族  その3へ続く
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諏訪湖地方を開発した出雲族  その3

2019年12月21日 23時42分42秒 | 古代史の舞台を訪ねて
諏訪湖地方を開発した出雲族  その3
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出雲を原郷とする信濃人
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面白い新聞記事を持っています。

長野県中野市越の越智神社の主祭神は 御穂須須美(みほすすみ)だそうです。古代文字で書いてあるそうです。
場所名からして いかにも越の国とかんけいありそうですね。

松江市にも越の人がたくさん移住してきていたので 古志とか古志原とかいう地名が今もあります。
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御穂須須美(みほすすみ)とは事代主と沼川姫の娘です。記紀には絶対に出てこない名前ですね。
もちろん出雲族には おなじみの御姫様ですが。

事代主が徐福らに殺された後 松江市美保関に残り父の事代主(八重波津身)を祀り一生を終えられた姫です。
出雲族にとっては なじみの深い御姫様です。

ということはこのあたりに住んで 開拓したのは 建御名方に付き従って諏訪湖周辺へ移り住んだ
出雲族の子孫と考えられます。
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出雲族と御柱のこと
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上社の御柱祭の説明がありました。
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秋宮の御柱です。

諏訪大社の御柱祭について かの岡本太郎氏は「縄文人の血がそうさせるのだ」とほめたたえていました。

しかしそれは違います。

出雲族の血がそうさせるのです。
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これは出雲王の葬儀に墳丘墓に御柱を建てる古代出雲の人たちです。
殯の宮の建設と思われます。なんと似た風景なのでしょう。

出雲族は 古墳築造技術にも 土木工事にも長けていました。土師氏と呼ばれる人たちです。
大和の大王の巨大墳墓は ほとんど土師氏の制作です。

※この写真は出雲弥生の森博物館で私が撮影したものです。
このブログの2014年6月20日の記事に詳しく載せています。
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これは近年発掘された 古代出雲大社の宇豆柱(うずばしら)です。
直径が約1.5mの巨大な丸太材を3本束ねて それを巨大な宇豆柱として 高さ94mの巨大神殿を支えていました。

宇豆柱とは 大社造りの9本の柱のうち正面の妻側の中央の柱で 若干外部へはみ出していてその柱が
棟まで伸びて建物を支えています。

※出雲古代歴史博物館のパンフレット写真です。
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巨大神殿の模型です。

※出雲古代歴史博物館のパンフレット写真です。実際にこの模型も展示してあります。

平安時代のわらべ歌に「雲太、和二、京三 (うんたわにきょうさん)」と歌われていたそうです。
当時の日本一の高さの建物が 雲州の出雲大社(太は太郎の太で一番の意味です)で二番目が 大和の大仏殿、三番目が
京都の大極殿 という意味だそうです。

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この巨大神殿ができたのは 716年で旧出雲王家の向家と神門臣家が資金を出して 大国主を祀る
大神殿を建てました。記紀では 国譲りの代償として 大和王朝が建ててやったと嘘を書いていますが。

御柱を建てる技術や巨大墳墓を造営する土木技術は 出雲王国時代のものです。
その出雲の民の血が 御柱神事をさせるのでしょう。
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出雲王国の国教 幸ノ神三神のこと
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古代出雲王朝の国教は 幸の神三神でした。つまりクナト大神、佐毘売(さひめ)のミコト、それに皇子神の
サルタ彦です。

ちなみに サルタとは古代インドのドラビダ語で鼻の大きいとか鼻の長いという意味で つまり今のヒンドゥーの
「象神 つまり ガネーシャ」のことです。時代が下った古事記などでは 猿田彦などと書かれましたが。
くれぐれも 猿の神ではありません。

クナト大神は 大神山(おおがみやま)に祀られました。そして大神山は いつの間にか大山寺に集まったヤクザ坊主どもに
「大山(だいせん)」なんて俗っぽい名前に変えられてしまいました。須弥山の真似をしたのでしょうね。
そして今では「大神山神社(おおがみやまじんじゃ)」だけにその名前が残っています。

大神山神社の境内奥に 「行者の道登山口」、「三鈷峰登山口」があります。
※2013年6月12日の記事にも大神山神社訪問記を載せています。

佐毘売のミコトはもちろん佐毘売山(さひめやま)に祀られました。明治時代の陸軍の陸地測量図にも「佐毘売山」
と書かれていたそうで、何時誰が 「三瓶山さんべさん」なんて陳腐な名前に替えたのでしょう。

2500年も続いた 出雲族に親しみのある佐毘売山を復活して欲しいものです。

そして皇子神のサルタ彦は 鼻が高い山すなわち 出雲北山の鼻高山(はなたかせん)に祀られて居ます。

インドに侵入したアーリア人に押し出されて 南インドから移動を開始したドラビダ人の一派は
ゴビ砂漠からバイカル湖へたどり着き、ブリアートモンゴルと混血を繰り返しながら アムール川を
くだり 日本海を南下して 日本に住み着き、砂鉄の取れる斐伊川下流で 王国を築いたといわれています。
(※斎木雲州著 古事記の編集室 他の著書 大元出版)

ちなみにドラビダ人の一部は 海を渡り南のスリランカに移住して北部に住み着きタミール人となり、今も
スリランカの多数人種シンハリ人との間で内戦を続けています。私がスリランカで働いていた1980年代半ば
たびたび内戦が激化して外出禁止令が出て多数の人が亡くなられました。

ドラビダ語にはそのほか 古代製鉄法のタタラ(激しい炎)や カネ(鉄)などがあるということです。
※詳しくは「弥生文明と南インド 大野晋 岩波書店」を参照してください。

出雲王国の春分祭、秋分祭には王国内各地から豪族が集まり 大名持の司祭のもと クナト大神をはじめ
幸ノ神三神に祈りを捧げました。
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松江市内の嵩山から見た 大神山(今のダイセン)です。クナト大神の宿るとされた山です。
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東出雲王家の宮殿のあった松江市大庭町の高台には カラス天狗広場があります。
石碑には「大山大智明大権現」と読めます。

ここは旧出雲王朝宮殿のあった大庭の地にあり、国教の幸ノ神三神のうちクナト大神が祭られている大神山(今の大山)を
遥拝した場所つまり東王家向家の霊畤(れいじ 政事を行う遥拝所でもある広場)だったと思われます。
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佐比賣山です。三瓶山なんて陳腐な名前に変り果てましたが 「四季の宿 さひめ野」なんて国民宿舎の名前に残っていて安心しました。
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出雲市の出雲神奈備神社の鳥居の正面には 猿田彦を祀る鼻高山(はなたかせん)が見えます。
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出雲の古い神社の一つ 意保美神社境内には塞の神と山の神が祀ってありました。塞の神はサルタ彦が変化したもので、道祖神にもなりました。

村はずれや峠に安置されて、悪霊の侵入を防いだり、サルタ彦の鼻の形から男性自身を表して男女和合の神、子孫繁栄の神とされました。

山の神とはクナト大神のことです。クナト大神は伊弉諾尊(イザナギ)のモデルとされましたが 時代が下り大山祇の命(おおやみつみのみこと)とも
呼ばれるようになったという。(谷戸貞彦 幸ノ神と竜 大元出版)

記紀では 大山祇の命は咲くや木花姫(イニエ王との間にイクメ大王を生んだ阿多津姫のことを記紀はこう書き換えました)の父親と書かれた。
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出雲市の長浜神社は第六代大名持 八束水臣津野(やつかみずおみつぬ)を祀る古くて権威ある神社です。

この臣津野王は西出雲王家神門臣家の方で 第七代主王は東出雲王家向家の天の冬衣王そして
第八代主王が西出雲王家神門臣家の方で 悲劇の八千矛王(記紀では大国主と書かれた)です。

古代出雲王朝では 東出雲王家向家と西出雲王家神門臣家が 主王と副王を交互に出していたのです。

つまり臣津野王は 大国主ー八千矛王の祖父なのです。
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社務所で 臣津野の神のお札を頂いたときに写させていただいた「国来、国来(くにこ くにこ)」と叫ぶ
国引きの神 臣津野王のお姿です。越の国や新羅から 国土を引き寄せたといわれる神です。

この通称くにびき王の時代に出雲王国は領土を最大に広げたといわれて 松江市の大橋川にかかる橋も
くにびき大橋というくらい 出雲人にはおなじみの古代出雲王です。
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この長浜神社の三つ鳥居は古い形の鳥居の一つで 幸ノ神三神を祀る形です。
真ん中がクナト大神、左が佐比賣の命、右が猿田彦大神を祀るといわれています。

そしてこの鳥居形式は 大和にも移されて 魏書にかかれた二番目のヒミコの宇佐豊玉姫と
九州物部王のイ二エ王(贈り名は崇神)との間の姫 トヨ姫(豊来入姫で 記紀では豊鍬入姫とか天の菟津女の命
と書かれた姫皇女で魏書で台与トヨと書かれた三番目のヒミコ)が大和で月読みの神を祭った 檜原神社
(奈良県櫻井市三輪の大神神社裏手)の三つ鳥居にもなっているのです。

※檜原神社は2015年1月29日の NO30の記事に載せています。
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右側には 岐(くなと)の神を祀っていると書いてあります。これは道の分岐点や集落の入り口、また峠道に祀られる
道祖神のことです。つまり猿田彦を祀っているのです。
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この石像が上に載っています。この形はなんと信州各地でよく見る道祖神の一つ夫婦神(めおとがみ)の像です。

つまり夫婦和合と子孫繁栄を願う神で 猿田彦の変形です。

猿田彦は幸ノ神三神の中では若くて力強く、そして鼻の形が男性自身が強大になった時を現すと考えられて
夫婦和合、子孫繁栄の神として また悪霊の侵入を防ぐ神として いろいろな形で各地で祀られるようになりました。
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そしてこれも夫婦和合、子授け、安産の神だそうです。男性器と女性器の形の石が置いてあります。
つまりこれも猿田彦大神を祀っているのです。この石をさすりながら お願いしてくださいとかいてありました。
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伊勢一宮 椿大神社

伊勢で一番古く権威のある神社が椿大神社です。伊勢一宮は伊勢神宮ではありません。
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椿大神社の猿田彦と天の鈿女(あめのうずめ)の命

大和の出雲王家分家の登美家から分家した 宇治土公家(うじとこけ)により、はやくから伊勢に「椿大神社」
(つばきおおかみやしろ)が建てられて 出雲のサルタ彦が祀られていました。

その後大和統一が進むにつれて イクメ大王(垂仁)に追われた豊来入姫は 伊勢に逃れ
宇治土公家に保護を求めたという。

豊来入姫は 魏書に書かれた有名な二番目のヒミコ(宇佐王国の豊玉姫)の娘です。
(※ちなみに魏書に書かれた一番目のヒミコは「その姫皇女(ひめみこ)が女王に立つと長かった戦乱が収まり和国に平和が
訪れた」と書かれたのが 有名なモモソ姫です。磯城王朝第八代のクニクル大王と磯城家のクニアレ姫の娘で
磯城家当主大田田根子の世話で 三輪山の太陽の女神を祀る巫女として司祭し 各地から大勢の豪族が巻向に集まったといいます)

そして魏国の和国駐在武官の張政により豊玉姫(ヒミコ)の後継者に指名されたということは魏に認められた和国の女王ということです。
そして彼女は魏書に書かれた「トヨー台与」のことです。当時和国は魏の属国状態だったので 指名されれば正真正銘の和国女王です。

しかしイクメ大王が和国を統一すると たくさんの土産を付けて 魏国の和国駐在武官の張政を魏へ送り届けて
魏との関係を断ちます。そして邪魔になった異母兄妹の豊来入姫に刺客を放ち殺します。

彼女の亡骸は大和の登美家に運ばれて出雲族の土師氏により ホケノ山古墳(奈良県桜井市)に埋葬されました。
※ホケノ山古墳は2015年1月29日の NO29の記事に載せています。

豊来入姫は宇佐から来られた姫なので 最初は宇佐女(うさめ)の命と呼ばれたが イクメ大王が行方を追っているというので
宇佐女ではまずいので ウズメと呼ぶようになったといわれています。

記紀では天の鈿女の命(あめのうずめのみこと)が 胸を開いて乳房を猿田彦に見せて誘惑し、
猿田彦は彼女を伊勢へ連れて行ったと書かれました。なんのこっちゃ。

※伊勢の国一宮椿大神社は 2015年10月7日の記事に載せています。
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信濃の国の幸ノ神(さいのかみ)のこと
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信州山旅で白馬村の夕方散歩で見かけた白馬村の道祖神です。
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道祖神の説明看板です。
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田頭という場所の手握り夫婦神像です。
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こちらは先ほどの出雲市長浜神社の幸ノ神三つ鳥居の手握り夫婦神像です。そっくりですね。
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こちらは佐野中村という場所の祝言夫婦像です。
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こちらが 白馬村の道祖神です。
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石像は手を取り合っているように見えます。つまり手握り夫婦神像です。
それと直立した男根をもつ木の像がいくつか 奉納されていました。
これはまさしく猿田彦ですね。
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ということで 信濃の国には出雲族の風習文化が 色濃く残っていることを説明しました。
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信濃の道祖神の写真については 沢山の写真と解説が 「幸ノ神と竜 谷戸貞彦 大本出版」
に詳しく載せられています。
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※諏訪大社の分霊は のちに建御名方の生まれ故郷の出雲に里帰りしました。
出雲市斐川町名島の御名方神社です。
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古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて トップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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九州宗像家の祭祀の場 沖ノ島 (実際には行けませんがテレビ番組を見て仰天しました)2017年11月1日

2017年11月09日 10時17分03秒 | 古代史の舞台を訪ねて
沖ノ島が 宗像大社と共に世界遺産に登録されました。先日NHKテレビでその特集をしていました。

沖ノ島は 一般人は行きたくても上陸できませんので テレビでみるしかありません。
そこで先日NHKの番組で紹介しているのを見ていたら、とんでもない放送内容なので
びっくり仰天しました。


沖ノ島の映像です。
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1.宗像家は海の民である。

2.第二次学術調査で三角縁神獣鏡が発掘された。その三角縁神獣鏡は大和政権がシナから貰ったものなので 
 大和政権がこの島で 国家的な祭祀を行った

3また学術調査で 同時に鉄の板が発見された。宗像氏は鉄を求めて 朝鮮半島へ出かけた海の民である。

以上三つが番組で堂々と言っていた とんでもない事の代表です。他にもありましたがここでは省略します。
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1.宗像氏について
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平安時代(815年)に出来た「新撰姓氏録」には「宗形の君は大国主六世孫吾田片隅の子孫である」と書かれています。
つまり古代出雲王家第六代主王(役職名大名持ち)臣津野(出雲では国引き王と呼ばれる)の孫の吾田片隅(あたかたす)
が九州へ行き 起こしたのが宗像家です。

つまり宗像氏は当時和国最初の王朝出雲王家の由緒正しい王族なのである。決して海の民などではありません。

紀元前3世紀末に石見の五十猛海岸に大勢の秦国人海童を連れて上陸し、その後一旦秦に帰国して始皇帝から
更なる資金と海童を貰い 佐賀の浮杯の地に二度目の上陸した秦国人の道教師の徐福。

彼が連れてきた大勢の秦国人たちは 広範囲に広がり 漁民や船乗りとなりました。

一般的に 海の民とは 徐福が連れてきた秦国人海童の末裔達であり、宗像家は出雲王家の血を引く王族なのです。
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宗像家の始まりと 出雲王家の系図です。「新撰姓氏録」に書かれたのとは少し違い 正確には
大国主六世の孫ではなく、第六代大名持ち(主王のことで 記紀でいう大国主とは第八代大名持ちの八千矛のことです。)
臣津野の皇子(次男)なのです。

そして宗像家の三姉妹とその皇子、皇女たちが 古代史を大きく動かすのです。
※表は斎木雲集著の「古事記の編集室」、「イズモとヤマトの曙」他の本より私が作成しました。
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2.三角縁神獣鏡
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これが出土した三角縁神獣鏡だそうです。
NHKの番組では 歴史学者のじーちゃんが「三角縁神獣鏡は 和国が支那から貰ったものなので この島で 
大和政権が海上交通の安全を願い 祭祀を行った」と とんでもない事を言い出した。

あたかも 三角縁神獣鏡は 大和政権が直接支那から貰い、大和政権しか所持していなかったかのように聞こえました。
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確かに和国は魏から神獣鏡を貰っています。

当時和国には いくつかの国が乱立していて それぞれが魏に朝献していました。当時の和の大国は 出雲王国、
大和の磯城王朝、そして日向の都萬国つまり物部宇佐連合王国です。

魏書に登場する一番目の姫皇女(ヒミコと書かれた)はヤマトのモモソ姫で「その女王が立つと和国に平和が訪れた」
と書かれました。二番目の姫皇女は都萬国のイ二エ王亡き後女王となった「宇佐豊玉姫」です。

西暦240年に魏への朝献使節団が帰国するときに 魏領帯方郡から役人テイシュンが伊都に付いてきました。
ヤマト国の女王と言うヒミコに親魏和王の金印と詔書、錦帯、下賜品目録を直接手渡す為です。

自称ヤマト国の女王だという豊玉姫は大和から来たふりをして都萬国から出かけていき、テイシュンから直接肩に
紫錦帯をかけてもらいました。盛装したヒミコは左右に 使節団の田道間守(辰韓王子ヒボコの子孫)や物部十千根
に青錦帯を肩にかけさせて 大いに威厳があったと書かれました。二人とも魏の官位「中朗将」を与えられて
青錦帯を持っていたからです。この時点ではイクメ王はまだこの官位を持っていませんでした。後に使節団として
和の大君が直接魏に出かけて 中朗将の官位を貰いました。

魏書では イクメ王をイサチ(幼名)と書いています。
記紀ではイクメ王を活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと)と書いていますが和国の大王が直接魏へ朝献
に行ったとは書いていません。

※和国が魏の属国であった時代を記紀は一切触れていません。支那の歴史書に残っているのに。さすがに持統も不比等も
和国が魏の属国になっていたのを恥だと思ったのでしょう。 
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そして下賜品として神獣鏡が100枚下賜されました。しかし三角縁ではありません。
支那大陸で出土した銅鏡はすべて平縁の神獣鏡で、三角縁ではありません。

もともと支那では 道教の神仙思想に基づく神獣鏡が造られたのは平縁です。
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磯城王朝11代彦道主大王の頃 支那では 魏と呉が対立していた。魏の遼東方面には 公孫渕が太守として
大きな力を持っていた。公孫渕は独立しようと考えて呉の孫権に使者を送った。喜んだ孫権は公孫渕を独立させて
燕国王とした。そして235年(青竜3年)に大量の財宝を贈呈し、その中に沢山の銅鏡材料や工人がいた。

しかしそれを知った魏は公孫渕にたいして 強く復帰を求め いろいろ好条件を出したらしい。
寝返った公孫渕は 魏の使者の首をはねて魏に送ったという。

慌てふためいた呉の使節団の船は 逃げ出したもののあちこちで難破したという。逃げ遅れた工人達は和国に亡命して
最初は当時の大国都萬国に来たが、ヒミコ女王が魏と国交を開くと聞き あわてて今度はヤマトの磯城王朝へ行き
鏡を造った。それがヒミコが魏から銅鏡を貰う前のことです。

磯城王朝はそれらの銅鏡を支配下の豪族達に配りました。大阪府高槻市、京都府竹野郡、山梨県鳥居原などから出土した、
青竜3年や赤鳥元年の年号の入った銅鏡がそれらの和国製のものといわれます。

工人達が住んで鏡を造った場所に 「鏡作り部神社」が建てられました。
奈良県田原本市です。
※鏡作り部神社の訪問記は このブログ 45番2015年12月26日に載せています。
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一方何度も魏への使節団として行った、武内宿禰は自分より素性や育ちの悪い 田道間守や物部十千根が「中朗将」の
官位と青錦帯を持っているのに 自分には何ももらえ無いので不満に思い 都萬国を離れて磯城王朝に付く
ことを決めます。

武内宿禰の才能を恐れた女王ヒミコこと豊玉姫が 自分の息子(豊来入彦)やイクメ王より偉くならないように思い、
官位を授けるように魏に働きかけなかったからです。

以前から親しかった ヤマト磯城王朝の日子道主大君に秘密に頼まれていた武内宿禰は 魏の帰りに 大量の銅鏡材料と工人を
帯方郡で 仕入れて ヤマトへ送ります。

青銅をえた大和の大王は西軍(物部宇佐連合王国の都萬国軍)に対向する為 魏鏡より大きい鏡を大量に作り、
支配下の豪族達に配ります。大きい銅鏡は割れやすい為 三角縁にして強度を増したと言われています。

三角縁神獣鏡は300面以上作られました。また磯城王朝を支えた登美家の大賀茂津身も100面以上作りました。
それらは近畿や東海から400枚以上出土しています。

特に一つの古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土した ヤマトの黒塚古墳、ヤマシロの椿井大塚山古墳はそれぞれ
彦道主大王の父親の日子坐大王と 登美家の大賀茂津身の墓だと考えられています。

また武内宿禰も100面以上作らせて、自分が魏へ施設団としていった記念として景初三年の年号を入れました。
武内宿禰が葬られた 雲南市神原神社古墳から出土した 景初三年の年号入り三角縁神獣鏡がそれです。
※神原神社古墳を尋ねた記事は このブログ「42番、2015年12月13日」の神原神社の記事に乗せています。
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中国社会科学院考古学研究所所長の王仲殊が1984年にわが国に招かれたシンポジウムで「三角縁神獣鏡は
和国製である。中国ではこの鏡は一面も出土しておらず この鏡の笠松幡模様は中国のものには無い」と断言して以来
この鏡がどこ製かという議論は 決着したはずなのに未だに支那製だとほざいている学者がいるなんて 驚きです。

ちなみに笠松幡とは ヤマト磯城王朝が西軍(九州物部軍)に対抗して造った軍旗の模様です。

つまり沖ノ島の三角縁神獣鏡は 磯城王朝側の登美家から 同じ出雲王家の親戚筋の宗像家が手に入れたものと
思われます。宗像家が都萬国のヒミコから貰った銅鏡でもなく、まして大和王朝の磯城家がこの島で祭祀を
行ったものでもありません。
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3.鉄器について
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和国の鉄の歴史は古い。

偽りだらけの日本書紀の中で 「事代主の比売の名を タタライスズ姫という」とかかれています。
たまには本当のことを書くこともあるようです。この場合の事代主とは 徐福たちに殺害されたイズモ王朝
第八代少彦(副王)の八重波津身のことです。

紀元前3世紀末に石見の五十猛海岸に上陸した徐福とその忠実な部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)や秦国
から連れてきた大勢の海童達により 拉致幽閉されて殺害された事代主(役職名は少彦、本名は八重波津身)
と三島(今の大阪府高槻市、三島郡島本町)から輿入れされた活玉依り姫との間の姫君の名前をタタラ五十鈴比売
と言います。

つまり当時既に出雲王国内で製鉄が タタラにより行われていたことをうかがわせます。ちなみに五十鈴(イスズ)
とは古代イズモでは 砂鉄を意味したといわれています。

また福岡県曲り田遺跡から出土した鉄器は 国立歴史民族博物館チームが 2003年5月に発表した報告書では
AMS方式による年代測定で、従来の弥生時代の始まりより約500年遡り 鉄器は紀元前10世紀のものと
発表されました。

一方支那大陸の最古の鉄器は 「西周」の終わりごろの遺跡から発掘された鉄器で紀元前9世紀とされています。

つまり鉄器は支那から伝わったのではなく、出雲王家に伝わるように インドからクナト王が連れてきた技術者により
イズモの砂鉄で造られた公算が大きいのです。
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古代インドのドラビダ人が アーリア人の侵入により押し出され 南へ逃れた集団が今のタミール人であり、
クナト王を中心に北へ逃れてサハラ砂漠を越えてシベリアのブリアートから黒竜江(アムール)を降り和国に
やってきたのがイズモ族と出雲王家では伝えられています。ブリヤートの細石器刃が樺太や北海道に伝わったルートです。

そのためタミール語と日本語には共通するものが多いといわれています。(日本語とタミール語 大野晋著)

タタラとは古代ドラビダ語で激しく燃える火を意味するそうです。金属を示す「カネ」も金属を意味するドラビダ語であり、
古代イズモ王国の国教の幸の神三神のうちのサルタ彦のサルタとは「鼻が長い」と言う意味でつまりヒンドゥーの象神、
ガネーシャのことで 出雲北山鼻高山(はなたかせん)に祀られました。

北海道から日本海伝いに南下したイズモ族は島根半島周辺に大量の砂鉄を発見して そこに落着いたといわれます。
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タタラに拠る製鉄の遺跡です。(日立金属ホームページより)

イズモでは砂鉄を野踏鞴(のだたら)で精錬されました。アナの底に溜まったケラ(鉧)からはウメガイと
呼ばれる両刃の小刀が作られたという。

野踏鞴の近くには 大鍛冶場が作られて踏鞴から出た鍛鉄を加熱脱炭、精錬され、その近くの小鍛冶場で更に脱炭
して鉄製品が造られました。

現在、中国山地の島根県奥出雲町で日刀保たたらが再建されていますが、それは現在の日本刀を作る原料としての
玉鋼を供給するためなのです。

つまり祭祀が沖ノ島で行われていた時期には 和国で鉄が造られていたということです。
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出土した鉄の板です。
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4.その他の出土品など
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出土した銅剣です。

イズモ族が祭祀に銅鐸を使用したように、九州物部家は銅剣をシンボルにしました。
渡来秦国人徐福の次男穂穂出見に始まる九州物部家は各地の豪族達にこの銅剣を配りました。
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出雲王家は親戚の宗像家を通じてこの銅剣を入手して それをヒントに「出雲式銅剣」を作り出したといわれています。
※写真は斎木雲州著「出雲と大和の曙」のカバー写真の「イズモ式銅剣」
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イズモ族の龍蛇神信仰
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沖ノ島から出土した金銅製竜の頭の飾りか置物です。

イズモ族は海の鮫(ワニと言った)を神として尊敬したが 同時に龍蛇神をも 信仰した。宗像家もイズモ王族
なので 当然龍蛇神信仰を持っていたと思われます。
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松江市揖夜神社の竜です。胴体は後の木にまきついています。
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松江市阿太加夜神社の竜です。これも胴体は後の木に巻きついています。
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巨岩信仰
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巨岩にササゲ物をしている宗像家の貴人の想像図だそうです。(NHKテレビより)
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巨岩に対する信仰もイズモ族の特徴です。このブログ「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」でも各地の巨岩が
御神体になっている神社へ出かけています。
島根県雲南市琴弾神社、和歌山県新宮市神倉神社、三重県熊野市花の窟 そのほかです。
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古代イズモトップページはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
※このブログは大元出版の本すべてを参考にしています。ブログの訪問記の記事は この沖ノ島の記事以外は
すべて私が直接尋ねて調べました。
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徐福の長男 五十猛とその后の大屋姫を祀る五十猛神社と大屋姫命神社 2016年11月20日

2016年11月29日 11時23分56秒 | 古代史の舞台を訪ねて

五十猛神社と大屋姫命神社
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徐福は 周到に前もって出雲に 忠実な部下の穂日と息子の夷鳥たちを派遣して王家に
銅剣などの献上品を納めて 王家(八千矛大名持ち)から上陸の許可を取り付けていた。

徐福は和名を「火明(ほあかり)」と名乗り、出雲王家から 高照姫を向え入れて妻として王家の親族となった。
高照姫は 姪と共に徐福の屋敷の南側に 大きな屋敷を建てて出雲兵に守られて暮らした。

そして徐福の長男が生まれると 徐福と共に暮らすようになり 大きな屋敷には姪の姫が一人で住んだ。
その姪は「大屋姫」と呼ばれ 屋敷のある場所は「大屋」と言う地名がついた。 
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徐福の父親は 徐猛という名前だったので 徐福は長男に「猛」の字をつけて「五十猛」と命名した。
それで 徐福たちが上陸した海岸は 五十猛海岸と呼ばれるようになった。

成人した五十猛は 大屋姫と結婚して 大勢の秦国人たちと共に 丹波北部へ移住して香語山と名乗る。
そしてさらに大和葛城北部へ移動した。

そして大屋姫との間に生まれた皇子が高倉下(たかくらじ)で高倉下の子孫からは 武内宿禰が出た。
さらにその子孫からは オキナガタラシ姫(朝鮮の辰韓王子ヒボコの子孫でワカタラシ大王の后と
なったので神功皇后とも呼ばれる)とともに 三韓征伐で大活躍して実質的に 和国大王となった
「日向ソツ彦王」が出ている。さらにまたその子孫からは オオサザキ大王や平群王朝の大王が出ている。

徐福や穂日たちに幽閉殺害された 八千矛主王の皇子 味鋤高彦は秦国人との共生を嫌い
大勢の出雲族を連れて大和葛城南部に移住して 高鴨家を名乗り 高鴨神社、御歳神社を立てる。

また同じく徐福や穂日たちに殺された 八重波津身副王の皇子 奇日方(くしひかた)たちは
大和葛城中部に移住して 登美家を名乗り 鴨津波神社や一言主神社を建てた。  
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一方香語山と名前を変えた五十猛は 九州から 腹違いの妹(徐福と宗像三姉妹の末娘市杵島姫との間の皇女)
を呼び寄せて 次男の「天の村雲」を産ませた。

沢山の海童や 秦国人たちと共に 五十猛や 天の村雲たちは益々強大になった。

そこで 出雲族たちは 天の村雲を大和の王として認めて 奇日方の妹「踏鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)」
を天の村雲の后として ここに初代大和王朝が誕生しました。
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高倉下と母親の大屋姫は 最初葛木中部にすんでいたが(大屋の地名が残っています。奈良県葛城市大屋)、
紀ノ川の河口に移住して 地盤を築いて 紀の国造になりました。

和歌山には 高倉下が両親のために建てた 沢山の「五十猛」と「大屋姫」を祀る神社があります。
後ほど写真を添付します。
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この県道は 大屋姫の住んだ「大屋」と五十猛の名前が付いた 「五十猛」を結んだ不思議な縁結びの道です。
もっと観光にアピールしたら良いのになあ、もったいない。
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大屋姫命神社はなかなか分かりませんでした。付近の人に聞こうにも 誰も外に居ません。
やっと畑で 人を見つけたので 大声で「すみませせーん、お尋ねします」と叫んでも振り向きも
してくれません。3回ほど叫んだ後 やっと 是は案山子だと気がつきました。しゃれた案山子やなあ。
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結局誰も歩いていないので 民家のチャイムを押して聞き出してやっと分かりました。
県道から少し東へ入った場所に鳥居がありました。
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鳥居の先は石段が続きます。
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長い石段の両側には 何やら花が咲いています。
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白いツツジの花と
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ピンクのツツジの花でした。あれ、ツツジは今頃咲くのだっけ?
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長い石段を登ると 上にも鳥居がありました。
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拝殿がひっそりと建っていました。
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その先に出雲式のこじんまりとした本殿が建っていました。
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石段の上から見下ろした風景です。田圃が広がっています。
ここに大きなお屋敷があって 大屋姫は暮らしておられたのです。
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さあ次は五十猛神社へ向います。
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県道を南へ走り、JRの高架の手前に神社はありました。
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五十猛消防団の横の道が参道です。
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暫く歩くと神社が見えてきました。
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やがて五十猛神社の境内に着きました。
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大きな石碑がありました。
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石の鳥居です。その先に拝殿が見えています。
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大きくて立派な注連縄です。
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残念ながら 本殿は出雲式とは程遠いものでした。半分秦国人ではあるけど五十猛は出雲王家の血を引いているので
出雲式の建物かと思っていたのですが 違いました。
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徐福が上陸した五十猛海岸です。
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ここは観光名所になって居ます。
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参考写真
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和歌山県和歌山市の 大屋姫神社です。大和から紀の国へ母親の大屋姫をつれて移住した高倉下は
各地に大屋姫と父親の五十猛(香語山)を祀る神社を立てました。
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紀の国一ノ宮 伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)です。一宮というだけあって 大きくて立派です。
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ここの主祭神 は 高倉下の両親の 五十猛と大屋姫です。

※都麻津姫は良く分かりません。記紀には五十猛は素戔嗚(すさのお つまり徐福のこと)の子供で
その妹が都麻津姫だと書かれているので、ひょっとすると 都麻津姫とは五十猛の腹違いの妹で
徐福(九州に再上陸した徐福は 和名を饒速日にぎはやひ と名乗ります)と宗像三姉妹の末姫の
市杵島姫との間に生まれた 穂穂出見の妹 穂屋姫かもしれません。

またこの神社の近くの名草郡に 都麻津姫神社があるので ひょっとして 高倉下の子孫で 
五瀬軍を撃退した名草の戸部(その地域の女首長)の姫君のことかもしれません。
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次は 出雲市の富神社(出雲大社を建てた東出雲王家の富(とび)家の神社)と
鳥取県大山町の高杉神社(第七代大和大王のフトニ大王(贈り名は孝霊)を祀る神社)です。
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出雲王家、富家の富神社と出雲に攻め入った大和大王「フトニ大王」を祀る高杉神社 11月20日、22日

2016年11月29日 11時23分31秒 | 古代史の舞台を訪ねて
古代出雲王朝は 東出雲王家の富家と西出雲王家の神門臣家のニ家が
それぞれ主王(役職名は大名持ち)と副王(役職名は少彦)を交互に出し合って 維持されて来ました。
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この記事の直前の「物部神社」の項で 述べたように 九州物部軍の第二次東征の別同部隊の日本海東征
作戦で 猛攻を受けた西出雲王家「神門臣家」、東出雲王家「富家」とも降伏しました。

その後 出雲王国は物部軍侵入の手引きをした 穂日(徐福と共に渡来した徐福部下の)の子孫たちと、
物部進駐軍物部十千根などが管理する地域になります。
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富家は向家(むかい)と名前を変え 「熊野大社」に移り住みます。それまでの東王家の宮殿は物部十千根に
明け渡されて、後の神魂(かもす)神社となります。

その後716年に杵築大社(今の出雲大社)創建の話が出ると 旧王家の富家と神門臣家が財力を出したり
資金を集めて 大国主(徐福や穂日たちに殺されて 記紀で大国主と書換えられた第八代大名持ちの八千矛王)
を祀る 和国最大の杵築大社が完成するのです。
※当時のわらべ歌で 雲太、和二、京三(出雲の野しろが一番大きくて 大和の大仏殿が二番目、京都の
大極殿が三番目)と童に謡われたそうです。

そこで 富家は簸川郡簸川村にも別邸を構えます。それが 富村(とびむら)です。富家からは後に
有力大名家が沢山出て尼子家や毛利家から領地を貰い富村はひろがりました。

富家は熊野大社から 先祖神の一部を富村へ移して 「富神社」を創建しました。

ご祭神は稲田姫(初代大名持ち、菅の八井耳のお后)、八重波津身(第八代少彦で 八千矛と同時に
徐福や穂日らに志都の岩屋に幽閉殺害されて 記紀では事代主と書換えられた)、
鳥鳴海(事代主の長男で第九代大名持ち)、国押富(第十代大名持ち)などである。
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※ちなみに稲田姫は初代大名持ち「菅の八井耳」のお后であるが 記紀では素戔嗚(徐福)の
ヤマタノオロチ退治の話に利用されて 徐福と 松江市の須賀神社で新婚生活を送ったと書かれたが
稲田姫と徐福とは時代も数百年かけ離れていて、出鱈目ぶりもいいところで滑稽です。

やはり 記紀は歴史を題材にした小説です。神武やヤマトタケルなど架空の人物も沢山登場します。

また徐福の第一回渡来時は 出雲王家の高照姫と結婚し、二回目の渡来時は宇佐王家の市杵島姫と
結婚しています。数百年前の人、稲田姫ではございません。
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国道9号線の「富村」交差点を南へ入ります。
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すぐに鳥居が見えます。
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広い境内には 今は拝殿と本殿が残されて居ます。
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神社の由緒ですが、千数百年もたつと 記紀の話も随分入ってきたようです。
八束水臣津野王は第六代大名持ちで 「出雲王国の領土を飛躍的に広げた国引き王」として有名です。

しかしこの方は 富家(向家)の方ではなくて、西王家の神門臣家の方です。後から誰かが付け加えたのでしょう。
天の冬衣は 第五代大名持ちで富家の方です。

アシナヅチ、テナヅチとは 記紀の作り話のヤマタノオロチ退治の話の中で 稲田姫の両親として登場したはずですが、
松江市の須賀神社(物部進駐軍の物部十千根屋敷跡)にも 祀られて居ます。物部軍に協力した穂日の子孫たち
(韓日差や果安など 今の出雲大社宮司の祖先)が 時の最高権力者 不比等らに ゴマをすった
結果でしょう。

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広い境内に ポツンと拝殿がこじんまりと立っています。
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拝殿はこじんまりとしていますが、注連縄はさすがに大きくて立派です。
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本殿は 大社造とは かなり違うような。創建後に何回も建替えされているようです。
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境内にはいくつかの摂社がありますが、その一つに「歳神様」がありました。

事代主が殺害された後、皇子の奇日方たちは 大和葛城へ大勢の出雲族をつれて移住しましたが
事代主を祀る鴨津波神社とともに この歳神様を祭る 御歳神社(みとし)も創建しました。
(現在の奈良県御所市にあります)
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富神社の紋章です。「二重亀甲違い丁字」と言う紋です。出雲王家の関係した神社はこの二重亀甲紋
(ふたえきっこうもん)が多いようです。
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この紋は「二重亀甲剣花菱」紋で 味鋤高彦を祀る出雲市の阿須岐神社の紋です。
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富神社境内の藁蛇神様です。古代出雲族に信仰された幸の神三神と共に 龍蛇神信仰で沢山の藁蛇、藁龍
が各地で奉納されました。松江市の阿太加夜神社にも 大きな藁龍神様が今も奉納されて居ます。
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参考写真 松江市阿太加夜神社(大国主「古代出雲第八代主王 八千矛王」の皇后の多岐津姫を祀る神社)
     の藁龍神様の写真
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御神木に巻きついた藁龍神様
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大きく口を開けた藁龍神様
境内には 二匹の竜神様がいらっしゃるので 女夫神なのでしょうか
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高杉神社 鳥取県大山町
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高杉神社は大和の大王、つまり和国の王のフトニ大王(贈り名は孝霊)を祀っている神社です。
何故 和国の大王が ここに祀られているのかは、少し説明が長くなります。
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前々項の物部神社の項で述べたように、九州物部軍の第一次東征は 最初紀ノ川河口で高倉下の子孫に破れ
転進した熊野でもゲリラ戦で 身動きが取れなくなっていた。そこで大和へ密使を送り登美家に救援を求めた。

収拾の付かない内紛状態の大和を物部軍との強力で納めようと考えた、登美家の加茂建津之身の導きで 
無事に険しい伯母峰峠を越えて大和の磐余の地に落ち着いた物部軍は 次第に強大になって行き、
当時の磯城王朝と戦争が激化していきました。

次第に強力になる物部軍を恐れて、フトニ大王は皇子の大吉備津彦、若吉備津彦と細姫(くわしひめ)
を連れて西へ逃れて吉備に住み 吉備王国を造りました。

一方大和に残った別の皇子クニクルは第8代大王となり、磯城家のクニアレ姫を后とするも物部家からも
后を迎え入れて、物部と融和の姿勢を見せました。クニクル大王とクニアレ姫の皇子が大彦とモモソ姫です。

大彦は徹底した物部嫌いで 物部に抵抗して戦を続けたが、終には物部に大和から追い出されて北へ逃れた。
記紀にナガスネ彦と書かれて賊扱いされたのが大彦であり れっきとした大和の王子様で出雲王家の血を引き
渡来人の子孫と 格式が違うのに 負けた為族扱いです。

一方物部の血を引く大日日(オオヒビ)が第10代大王となり(贈り名は開化)次第に物部との争いは納まりつつあった。
オオヒビの妹皇女モモソ姫は母(クニアレ姫)に似て信仰心深く、磯城家第9代当主の太田タネコの保護を受けて 
三輪山に「富の霊畤」(祭祀場所)を設けて 太陽の女神(日霊女貴ひるめむち)を祭り人々の人気を得た。

※富の霊畤を訪ねた記録は 2015年12月25日の記事に載っています。

その祭祀には各地から大勢の豪族が訪れて 巻向には大きな街が出来、長かった内乱もようやく納まり
平和が訪れました。魏書に「その女王が立つと 和国の内乱は納まり 平和が訪れた」と書かれた 一番目の
ヒミコがモモソ姫です。
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ここでヒミコについて  支那人が卑字でヒミコと書いた女王は日本語で姫皇女(ひめみこ)で
何人も いらっしゃいます。
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※ちなみに2番目のヒミコは宇佐豊玉姫でこのお方はイ二エ王が日向西都原で亡くなられた後当時和国で尤も強大な王国
である物部宇佐連合王国の名実共に女王(皇后)で、魏の和国駐在武官テイシュンから直接和国印をもらい 
肩に直接錦帯を架けてもらいました。

魏の役人が直接会った唯一のお方(ヒメミコ)です。その他のヒメミコ方の話はすべて伝聞と書簡のはなしです。

3番目のヒミコは大日霊女貴(おおひるめむち)と呼ばれたサホ姫(第10代大王彦坐の皇女)で
このお方は最初大和入りしたイクメ王と組み 三輪山で日霊女貴(太陽の女神ひるめむち)を崇拝し人気を得ますが、
遅れて大和入りした豊国軍に追われ 兄皇子のサホ彦と共に敗走されます。近江から尾張へ さらに
日下部の連と名を変えて甲斐の国に隠れ住んだといわれます。


4番目が豊玉姫の娘豊姫(魏書では台与トヨと書かれ、記紀では豊来入姫とか豊鍬入り比売と書かれた)で、
イクメ王の侵入で大和が 戦乱状態に陥ったときに 当時伊都国に駐在していた魏の駐在武官 張政により
豊玉姫の後継者に指名されて 大和入りし 一時的に戦乱が納まりました。

豊来入姫は大和笠縫村檜原神社で月読みの神を奉じて 若日霊女貴とよばれました。しかし豊国軍の強大化と豊来入姫の
人気に 自分が追い出されるのを恐れたイクメ王が出雲系の加茂田田彦に 助けを求め、田田彦は三輪山や 
豊国軍に奪われた領地を回復すべく 出雲から援軍を得て 豊国軍を追い出すのに成功します。

豊国勢は大和を追われ、尾張方面へ闘争します。愛知県に数ある豊のつく地名はその名残です。
豊来入姫は 丹波、伊根と逃れて最終的に伊勢の出雲系の椿大神社(サルタ彦を祀る)
で保護されて 余生を送ったがイクメ大王が放った刺客に倒されて亡くなり遺体は大和へ運ばれて
ホケノ山古墳に葬られました。姫は最初宇佐から来られたので 「宇佐女の命」と呼ばれましたが
織ってを避けるため 「ウズメの命」と呼ばれるようになりました。現在 椿岸神社では
「ウズメノ命」として祀られて居ます。

※椿大神社(つばきおおかみやしろ)、椿岸神社訪問記は2015年10月7日です。

5番目のヒミコはヒバス姫です。イクメ大王に終に倒された約300年続いた磯城王朝最後の大王、道主大王の
娘皇女がヒバス姫です。

イクメ王に丹波まで追い詰められて降伏した道主大王は彦タツヒコと名前を幼名に戻して 因幡国造として
因幡に住みます。

ヒバス姫は一時因幡にも住んだので 中国山地の比婆山にほうむられたとか 神話が多く作られましたが
彼女の御陵は奈良市山稜町にあります。

また 彼女は西暦265年に晋へ使者を送り献朝し ヒミコとして記録が残されています。

6番目のヒミコがヒバス姫とイクメ大王との娘皇女 大和姫です。彼女は丹波の竹野郡で生まれ、宇良神社で
月読みの神とともに 太陽の女神の日霊女貴も奉じました。

そしてさらに志摩の国へ行き、そこで出雲系の井澤登美の命の保護を受け五十鈴川のほとりに内宮を建て
最初の伊勢斎宮として太陽の女神を祀ります。
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一方吉備王国のフトニ王は 中国山地を越えて 怒涛のように出雲王国に攻め込みました。
出雲の鉄が欲しかったらしい。出雲王朝は 磯城王家を親戚と考えていたが 突然の侵入に
大慌てだったという。次第に攻め込まれたが 反撃に移り、双方に大量の戦死者を出したという。

是が出雲王家に伝えられている「第一次出雲戦争」です。

出雲兵が立てこもった山を 吉備兵たちは「鬼林山」と呼んで今も名が残っています。
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大和の内乱、そしてこの第一次出雲戦争を 支那の歴史書「梁書」では 「和国大乱」と記して居ます。
(後漢霊帝の時代 178~183)

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出雲兵の必死の反撃で 戦況は次第に膠着状態になり 自然に休戦状態となったらしい。
大吉備津彦と若吉備津彦たちは 兵を引き上げて 今の日南町に住み、その屋敷跡は東と西の楽楽福神社となっています。

一方 大神山の北側今の孝霊山のふもとに住んだフトニ王は 土地の若い美女との生活に溺れて 
後から追って来た細姫を見向きもしなかったといわれて居ます。

失意の細姫は息子のところに引き上げてさびしく余生を過ごしたらしい。その細姫の死後 フトニ王が
住んだ今の大山町宮内では 大飢饉が起こり 人々は「細姫の祟りだ」と恐れて 土地の後家さんたちを
棒で叩くと 飢饉が治まり、平和になったといわれます。

後家さんのことを「うわなり」といったので「うわなり打ち」という行事が定着してフトニ王の住居跡に
建てられた 高杉神社の 神事として 今も伝えられて居ます。

フトニ大王の贈り名が「孝霊」とつけられたので その屋敷裏の山は孝霊山と呼ばれるようになりました。
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高杉神社を探すのは困難でした。和国の王の九電後に建てられた神社なので 大きな社を想像していました。

しかし近くの人に聞いても ほとんどの人がご存知ありませんでした。
ようやく探し当てて 宮内集落のはずれに鳥居を見たときはほっとしました。
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鳥居から境内を見たところです。
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拝殿も注連縄も 和国大和の大王の社にしては 質素です。
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拝殿と本殿を横から見たところです。
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本殿は 出雲式とは 程遠い建物ですね。
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これがうわなり打ちに使われる 叩き棒のようです。
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神社にはパンフレットが置いてあり、一部頂きました。
「うわなり」の字は 男の両側に女が二人いるので 「後妻」の感じがでています。
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「うわなり打ち」神事の起源もかなり正確に伝えられているようです。
「細姫の愛人たちに対する恨み」と言うのが「二人の愛人たちの正妻に対する恨み」というふうに
逆になってはいますが。
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都から来られた「やんごとなきお方」とはフトニ大王と名前まで書いてあるのにはびっくりしました。

この付近を歩いて フトニ大王の御陵を探したけど 分かりませんでした。
当然大王の御陵なので 宮内庁の管理の大きなお墓があると思い込んでいましたが 外れました。

大和に一度も来た事の無い 九州の 物部宇佐王国連合軍のイ二エ王を 大和の大王にして 
ご丁寧にこの墓を 宮内庁管理にしてでっち上げたり(奈良県櫻井市崇神稜)、ヒミコで有名な 
モモソ姫と大和姫のお二方をまとめて 「ヤマトトトビモモソ姫」として お墓を宮内庁管理ででっち上げたり
(奈良県櫻井市)やる事が出鱈目な宮内庁も ちゃんとしたお墓を フトニ大王に作って差し上げようよ。

たまには まともな事をやらなあかんぜよ、宮内庁さん。
小説に基づいてお墓を造るのではなくて ちゃんと歴史を勉強しましょうね。
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孝霊山の登山記は 「アウトドア日記」に乗せます。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh-outdoor
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島根半島の神社 2016年5月19日 伊奈頭美神社、爾佐神社、爾佐加志能為神社、加賀神社

2016年05月28日 22時40分08秒 | 古代史の舞台を訪ねて
島根半島の神社
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今回訪ねた神社です。
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1.伊奈頭美神社 松江市美保関町稲積
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主祭神 は宇加之魂命(うかのみたまー島根県神社庁による)
この「うかのみたまのみこと」とは日本書紀では 「倉稲魂命」と表記している。
「うか」とは穀物、食料の意味で 食べ物の神様という。

一方松江市教育委員会の立てた説明看板では 「主祭神 は稲倉魂命」(うかのみたま)で字の
順序が逆になっている。
そこで「いなくらたまのみこと」を調べると 稲の精霊の神とか 稲荷神(おいなりさん)とか
出てくるのであり混沌としてくる。

紀元前2世紀に石見五十猛海岸に渡来した徐福が持ち込んだのが 星信仰や稲荷信仰です。
徐福と共に渡来した 部下の穂日や沢山の海童たちと共に出雲王国で大暴れしました。

部下の穂日はこの地に住み着いて その子孫は出雲国造家となり 今の出雲大社宮司に続く
家系であるので 記紀が出来た後から 記紀に迎合するように主祭神 が変更された者と思われます。
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北浦海水浴場に面して神社はあります。
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拝殿の中を写しました。
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神社の説明書きです。
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本殿です。小さいながら大社造りで 千木も出雲方式の縦削ぎです。
と言うことは物部の天下になる前からこの地に鎮座していたと思われます。
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藁で作った龍蛇神に紙垂(しで)がお供えしてあります。古代出雲族の信仰は幸の神三神と共に
龍蛇神の信仰でしたから、この藁竜神は 出雲族の風習です。かなり古い神社と言うことの証明です。

松江市東出雲町の阿太加夜神社の藁竜神とおんなじです。
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この伊奈頭美神社のある地域は 松江市美保関町稲積(いなづみ)なので もともと大国主を祀った
この神社の名前が地名になったと考えられます。

お稲荷さんである 宇加之魂命はあとから物部や穂日家に迎合するように付け加えられたのでしょう。
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2.爾佐(にさ)神社 松江市美保関町千酌
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千酌(ちくみ)海岸に向って鳥居が多っています。
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鳥居を潜ると拝殿の奥に出雲式の立て削ぎの千木が見えてきます。
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本殿は立派な大社造りですが、主祭神 はちと変です。出雲とは関係の薄い神さんです。
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主祭神 の説明です。「都久豆美命」つくつみとは月津見(つくつみ)つまり月の女神の事なのではないでしょうか。
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出雲王家の分家 北九州の宇佐王家の豊玉姫(魏書にヒミコと書かれた2番目の姫皇女)の娘で
豊姫(豊来入姫 記紀では豊鍬入り比売と書かれた)は魏書では3番目に書かれた姫皇女ですが
(魏書に言うトヨのことです)、彼女は「月読みの命」(つくよみのみこと)を奉じて大和入りしました。

奈良県櫻井市の檜原神社で月読みの命を祀りますが、月を「つく」と発音しています。
また「津見」とは「海神ーわだつみ」のように神を現すので つくつみ とは月読みの神なのでしょう。

古代出雲王国では 幸の神三神、龍蛇神とともに 太陽の女神を祀っていましたので
何故出雲で 月神が祀られていたのか 良く分かりませんが 記紀に迎合すべくあとから
こじつけられたのでしょう。

魏書に「その女王が立つと ヤマトに平和が訪れた」と書かれた最初のヒミコは出雲王家の血を引く
磯城家のモモソ姫ですが、彼女は富の霊畤(櫻井市)から太陽の女神を三輪山に奉じて人気を集めました。
出雲族は古来太陽の女神を祀っていましたので、月の女神を祀る事はありえません。
※宇佐王家の豊玉姫は月読みの神を奉じていましたが。

島根神社庁によると 主祭神 は「イザナギ、イザナミ、都久豆美の命」となっているので
明らかに記紀の内容に迎合しています。記紀のよると イザナギとイザナミの皇女がツクツミだそうです。

また都久豆美がこのあたりの地名千酌(ちくみ)になったと説明看板に書いてあります。

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3.爾佐加志能為(にさかしのい)神社  松江市島根町野井
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神社入口の石段前の鳥居です。丸柱が2本左右に建てられていて これに注連縄が張られます。
古代出雲式の鳥居です。奈良県櫻井市の大神神社(おおみわじんじゃ)や檜原神社は出雲系のお社ですが
この鳥居と同じ鳥居が建てられています。
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これが 入口の鳥居です。
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本殿は 大社造のようですが、9本柱ではなくて4本柱のようです。
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拝殿の中を写させてもらいました。
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神社の説明です。爾佐加志能為神社の能為がこの地名の野井になったと書いてあります。
祭神は 大己貴 (おおなもち)の命 つまり大名持ちの命です。
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徐福や穂日たちに幽閉殺害された出雲王国第八代主王の八千矛は記紀では大国主と書換えられました。
大名持ちとは出雲王国の主王の役職名なのです。

ちなみにほぼ同時に幽閉殺害された第八代副王の八重波津身は記紀では事代主と書換えられましたが
役職名は少彦(すくなひこ)です。記紀ではわざと間違えて少彦名(すくなひこな)と書換えられましたが。
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神社の石段から見下ろした千酌海岸と集落です。赤い「石州瓦」の家並みが美しいですねえ。
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4.加賀神社  松江市島根町加賀
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加賀港に面した鳥居を潜ります。
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このあたりには珍しい神門があります。
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拝殿も桧皮葺で豪華です。なんかこのあたりの神社とは雰囲気が違いますねえ。
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本殿も桧皮葺です。しかしかなり風化が進んで屋根は傷んでいて 千木も腐って落ちています。
唯一残った千木は横削ぎで出雲様式ではありません。直線的、かつ平入り、2間3間の神明造り
に見えます。このあたり出雲地方では完全に異質な建物です。
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主祭神 は支佐加比売命とあります。それで納得です。
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記紀が出来た後に 各地の風土記は記紀に内容が合うように 不比等らに徹底的に修正させられたり
新たに編纂させられました。

特に出雲風土記は 徐福の忠実な家来の穂日の子孫の穂日家により編纂されました。そして自分たちの祖先が
出雲王国内で暴れた事実を隠し、物部王朝が 渡来人の征服王朝である事を徹底して隠したのです。

出雲風土記に寄れば 支佐加比売が 加賀の洞窟に居るときに金の矢が輝いて流れてきて
それが姫の体内に入り 受胎してサルタ彦が生まれたというのです。
やはり出鱈目の記紀に迎合してあわせているのです。

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古代出雲王国の国教は幸の神三神です。クナト大神、佐毘売の命皇后、それに彼らの皇子の
サルタ彦です。と言うことはサルタ彦の御母堂は佐毘売の尊です。

クナト大神は大神山(今の大山)に祀られ、佐毘売の尊は佐毘売山(戦後三瓶山などという
歴史と伝統を無視したつまらん名前に変えられました。残念な事です)に祀られて、サルタ彦は
出雲北山の鼻高山(はなたかせん)に祀られました。

サルタ彦のサルタとは出雲族の祖先といわれる古代ドラビダ族のドラビダ語で「鼻が長い、とか
鼻が高い」と言う意味で つまり今で言うヒンドゥーのガネーシャのことなのです。

この神社は 出雲族が作った神社ではない事が建築様式からも伺えます。
そしてなにより 支佐加比売、サルタ彦親子神を祭っていることは
完全に記紀の内容に迎合した出雲風土記にのっとっているので
記紀が作成された後から 造られた神社であるのが丸わかりです。

日向の都萬国と宇佐王国連合王国の総司令官として 苦労の末に大和入りして 初代物部王家を
樹立した イクメ大王(贈り名は垂仁)にうまく取り入って出雲国造家にしてもらった 
穂日の子孫の韓日狭(からひさ)たちにより この神社は作られたのでしょう。

※ちなみに穂日の子孫は今の出雲大社宮司の家系です。

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古代出雲王朝のトップページはこちらです。
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紀南の古代出雲ゆかりの地 新宮市と熊野市 神嵓(かみくら)信仰の地 2016年2月6日、7日

2016年02月10日 22時55分03秒 | 古代史の舞台を訪ねて
紀南の古代出雲ゆかりの地 新宮市と熊野市 神信仰の地 2016年2月6日、7日
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はじめに
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紀元前5世紀に成立した古代出雲王朝は 幸の神三神を国教とした。
クナト大神、佐毘売の命、および彼らの皇子神サルタ彦である。

そういう人格神の成立以前から 出雲族は自然崇拝をも同時にして来たといわれる。
神の宿る山、神奈備山信仰。神の宿る樹木、神籬(ひもろぎ)信仰。また巨岩に神が宿るとして
巨岩を神嵓(かみくら、またはかむくら)として崇拝した。
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島根県飯南町頓原地区の琴引き山地図です。
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山を登っていくと やがて巨岩の割れ目があり、社が祀られている。
穴神琴弾岩である。この岩は割れ目を「ホト」に見立てた女神様といわれている。
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さらに標高千メートルの山頂には立派な巨岩の割れ目があり、その割れ目の奥にお社がある。
大国主が祀られている「琴弾神社」である。

この割れ目を潜り お社にお参りする事を古代の人は「胎内潜り」ともよんだそうだ。
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古代出雲王国の主王、大名持ちはこれらの岩神を率先して崇拝したから 大名持ち
(記紀では大国主と書換えられた)を岩(伊和)の大神と呼ばれた事もあるらしい。

出雲王国支配下の播磨に伊和の地名が多く残り、播磨風土記には 大国主を伊和の大神と
記述されているらしい。
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また古代出雲族は割れ目のある巨岩を「琴」と表現したらしい。男神が琴を弾くように触れて
楽しむと考えたらしい。

また倉とは古代では御袋(子宮)を現したので 神とか岩倉と呼ばれる山や巨岩は
女神を現すとか。
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また割れ目のある「ホト岩」だけでなく、普通の巨岩も信仰の対象とされた。
出雲王国の王族の遺体は数年間「風葬」にされた。その遺体をつるした樹木を
末代まで「神籬ひもろぎ」として崇拝したという。

洗骨を終わったお骨は山頂付近の巨岩付近に埋葬されて、「お参り墓」とされ、王宮付近の山中に
巨岩を置いて 日常の「拝み墓」とされた。

以下の写真が東出雲王家向家の王宮のあった裏山に現存している拝み墓の巨岩である。
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ここが拝み墓の遥拝所で 現在はここまでしか入れない。
※「出雲大神訪問記」の詳細はこのブログの2015年12月13日の記事を参照してください。
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斜面に点在する大きな岩は 斎木雲州先生の「出雲王国と蘇我王国 大元出版」によれば
古代出雲王朝の大名持ち(主王)の数17個あるという。
ちなみに第十七代主王は山崎タラシ王で九州物部王家東征時に滅ぼされました。
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和歌山県新宮市神倉神社お燈祭 2016年2月6日 「熊野の火祭り」
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紀南地方に拡散移住した出雲族の神信仰で始まったとされる神倉神社は現在は 熊野三山の一つ
「熊野速玉大社 」の末社にされている。
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神倉神社の境内に入り 写真撮影を行うには まず速玉大社 に出向いて 千円を支払い
許可証が無いと境内には入れない。
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この神社に限らず 熊野三山はみな物部王家の始祖の秦国人徐福を祀っているので
本殿の千木は物部式の横削ぎだ。
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紀元前200年頃石見の五十猛海岸に上陸した徐福は和名をホアカリ(火明り)と名乗り
西出雲王家神門臣家の高照姫との間に長男五十猛(後の香語山)をもうけた後一旦秦国に
帰国して秦の始皇帝から更なる資金と海童たちを貰い 佐賀の浮杯の地に再上陸した。

再上陸後 和名を「饒速日(にぎはやひ)」と名乗ったので 後の子孫の物部家からは
「速玉大神」とか「ニニギの命」と祀られた。

新宮市内には 徐福が上陸したとして「徐福公園」なるものまでありますが 残念ながら
徐福は熊野には来ていません。徐福上陸地点は 石見の国五十猛海岸と佐賀の浮杯海岸です。

九州物部王家の東征で熊野に上陸したのは彦渚武王の皇子たち 物部稲飯と三毛入で徐福の子孫なのです。
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この神社には なんと出雲王家大屋姫の血を引く徐福の孫の高倉下(たかくらじ)
(香語山の長男で初代大和大王の「天の村雲」の腹違いの弟で香語山の次男 )も祀られている。

出雲王家の血を引くお方なので 千木も出雲式の縦削ぎの千木もあり、出雲王国民としては
うれしいかぎりである。

物部式の横削ぎ千木と出雲式の縦削ぎ千木の混在した「出雲物部融和社」
としては 全国の恵比寿神社の総本社美保神社(徐福らに殺害された出雲副王の八重波津身ー記紀では
事代主と書換えられたー を祀る神社)が有名だ。
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そして神倉神社へ向ったが なんと驚いた事に 神社へ入る太鼓橋の手前に出雲大社新宮分社があった。
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さすがに出雲族が始めたといわれる神倉神社の足元に出雲の神さんも祀られているのだ。
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そしてまたまた驚いた事に太鼓橋を渡ると 正面になんとサルタ彦神社があった。

古代出雲国教の「幸の神三神」のサルタ彦とは現在のヒンドゥーのガネーシャつまり象神のことである。

南部インドのドラビダ族がアーリア人に押し出されて拡散し アムール川まで逃げた一派が
ブリアートモンゴリアンと混血しながらクナト王に率いられてアムールを下り和国にたどり着いた。

そう伝わる出雲族はドラビダ語が多くのこされているという。その一つサルタ彦のサルタとは
ドラビダ語で「鼻の長い」とか「鼻の大きな」と言う意味で つまりガネーシャのことなのです。

またサルタ彦は鼻の長い天狗様のモデルにもなったといわれます。
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この鳥居が火祭りの写真に登場する鳥居で ここから石段が始まります。
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荒い石を乱雑に積み上げた石段は とても急で危険な山道だ。ここを真っ暗な時に上り下り
するので大変危険な祭りだ。
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山頂の鳥居を潜ると巨岩とお社が見えてくる。
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下から見上げた巨岩ー神とお社だ。
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出雲族の立てたお社は もちろん出雲式の縦削ぎだ。
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神に注連縄が巻いてあり 何故この岩が「ゴトビキ岩」と呼ばれるのか下からでは分からない。
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石段を上り ゴトビキ岩を近くで拝むと すぐに理解できます。

割れ目になったホト岩の間にご丁寧に 子宝岩までのぞいている。
これは正真正銘の女神である事は瞬時に理解できた。しかも 奥出雲の琴弾岩が少し訛って
「ゴトビキ岩」になった事も瞬時に理解できた。
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この祭りは 女人禁制だ。それもそのはず一般的には女神山には女性は入れないのだ。

しかも昔はこの祭りは「上り子(のぼりこ)」と呼ばれる男衆が松明で ホト岩をたたくという
所作を行ったらしい。つまり 「種付け」の所作が縁起だという。

今回は夜の祭りに 山頂にまでは行けなかったので 今でも行われているのか不明です。
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上り子の男衆の服装は白が基本だ。白は男の種水の色と古来されている。
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腰に荒縄を巻きつけて後で跳ね上げる。

古来荒縄は男のオハセの象徴とされたが、後ろの跳ね上がった結び目は オハセそのものだ。

つまり農耕民族の出雲族の五穀豊穣を願う種付け祭りだというのが ゴトビキ岩と、所作と衣装を
見ただけですぐに理解できる。
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祭りのほうはたいそう大掛かりで 約3千人の上り子たちが数時間かけて 神聖なる火を向かえて
それを松明に点火して各自の家へ持ち帰り その火で煮炊きをして一年の無病息災を願うというものだ。
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これが 入口の鳥居のところで撮影された写真で 社務所玄関の衝立に貼り付けてあった。

※ 祭りの起源などは「幸の神と竜 谷戸貞彦著 大元出版」62ページ「出雲族の岩信仰」
を参考にしました。
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三重県熊野市「花の窟神社」 
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この神社は 世界文化遺産「熊野参詣道 伊勢路」の熊野灘路にあり 本殿はありません。
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正面の巨大な一枚岩がご神体です。
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巨岩の上に数十メートルの巨大な注連縄が毎年架け替えられる神事が 執り行われるそうだ。
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この神社は 私が熊野古道伊勢路を歩いたときに数回立ち寄っていますが
岩を見上げるたびに 出雲族の岩信仰の一つだと いつも思いながら見上げています。
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イクメ大王(垂仁)を祀る往馬神社、事代主と美保津姫皇后を祭る村屋神社、そしてヤタガラス神社

2016年01月15日 22時34分35秒 | 古代史の舞台を訪ねて
ヤマトの出雲王家がらみの三社を尋ねて 2016年1月11日
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記紀の歴史作り話の「神武東征」は 九州物部家が前後70年離れて行ったヤマトへの東征を 一つにまとめた
無理な作り話だ。もう少し本当らしく創ればいいのに。

今回はその東征の 一回目に 熊野に上陸した九州物部軍をヤマトへ道案内した立役者
「ヤタガラス」こと 出雲王家ヤマト分家の登美家当主の加茂建津之身(かもたてつのみ)」を祀るヤタガラス神社。

そして2回目に大和入りして 大和の大王となったイクメ大王(垂仁)を祀る往馬神社(いこまじんじゃ、
正式名は 往馬に坐イコマツ彦神社)。

それと正真正銘の出雲王である、出雲王国第八代副王(少彦)八重波津身(記紀では事代主と書き換えられたお方)
とその皇后美保津姫(沼川姫の事)を祀る村屋神社(正式名は村屋に坐弥富津比売神社 むらやにいますみふつひめ)を訪ねた。
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1.往馬神社 往馬に坐往馬津比古神社 奈良県生駒市壱分町
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西暦246年に第二次東征を開始した九州物部と宇佐豊王国連合王国のイクメ王は河内に上陸してヤマトへ向う。
しかし立ちはだかる「生駒山地」に阻まれて 山を越えることができなかったと言う。

山の東側 葛城地方には ヤマト磯城王朝第十代彦坐大王の皇子サホ彦が大軍を率いて陣取り
それを越えられなかったという。

そのためイクメ王は長期間生駒山地に留まざるを得ず、そのためこの山地が後世「イクメ山地」と呼ばれて
それが「生駒山地」になったらしい。

大和入りしてヤマトの大王となられたイクメ大王は出雲王家宗像家の市杵島姫と徐福の皇子「穂穂出見」が
はじめた「九州物部王家」の子孫である。

彼はこの往馬神社に往馬津彦として祭られている。
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広い駐車場の脇に鳥居が立ち ここから参道が始まる。「往馬大社」と書いてあり、神社より格が上らしい。
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沢山の人が階段を登っていくが、後で分かるが今年から この神社の恵比寿祭りの日にちが変更されたらしい。
なぜ イクメ大王の社に 恵比寿様こと事代主が 祭られているのも後で分かる。
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立派な神門を潜るとさらに石段が続く。
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立派な拝殿で沢山の人がお祓いの順番待ちをしていた。お正月の稼ぎ時だ。
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その奥に本殿があった。しかし七棟ある。往馬津彦お一人のはずなのに、ハテナである。
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良く探すと 何故七柱なのか説明札があった。それを読んでたまげた。
往馬津彦(イクメ大王)と往馬津比売(一回目の皇后のサホ比売なのか二回目の皇后ヒバス比売なのか不明だが)
は 分かる。しかし全国の八幡神社お定まりの 仲哀(オキナガ姫皇后の部下の豊前ナカツヒコ)神功皇后
(オキナガタラシ比売)ホムタ大王(応神)の三柱セット、それに 朝鮮半島辰韓の王子ヒボコの子孫
オキナガタラシ姫のご両親まで祀られているのにはびっくりだ。
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それに二十柱もの末社があり、さまざまな人が祀られていて まるで神社のデパートだ。
たくさんの神々を祭り ご利益が沢山あるので どうか来て頂戴と言う感じなのだ。
あっけに取られた。
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広い境内ではトンドヤキの準備も行われていた。
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この神社の周りの森は 奈良県の文化財らしい。
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歩いて行くと 終に出ました「恵比寿神社」。事代主もびっくり、「なんでやねん」と言いたくなるほど
なんでもありの神社なのだ。毎年今日が 恵比寿祭りらしいのだ。それで人が多かったのだ。
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こういう石灯籠の字もあった。松江市生馬町の生馬神社を ヤマトに移住した出雲族が この地に
生馬神社を分祀したという説もある。(谷戸貞彦著 幸の神と竜 大元出版)
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この神社は お金儲けに忙しいのか「イクメ大王」の事が全く由緒書きに触れられていない。残念な事だ。
宮崎市でお生まれになったイクメ大王(垂仁)は宮崎の生目神社にちゃんと祀られていて 生目神社の由緒書きにも
「一説では生目入り彦イサチの命(垂仁大王)をおまつりしている」とちゃんと書いてあるのに。

イコマ山地由来のイクメ大王を説明せずして、縁もゆかりも無い八幡三柱セットを祀り しかも朝鮮半島
辰韓王子ヒボコの子孫のオキナガ姫のそのまたゆかりの無い両親までも祀り、その他事代主も含めて二十社
の末社を作り まるで神様の安売りデパートだ。見境が無いとはまさにこのことだ。

がっかりして この神社のデパートを後にした。
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2.村屋神社 村屋に坐弥富津比売神社(むらやにいますみふつひめ) 奈良県田原本町蔵堂426
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農村地帯の中ほどに こんもりとした森がある。
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鳥居を潜ると 想像も出来なかったほど広くて長い参道が続く。
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広い境内では トンド焼きの準備が行われていた。
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変わった注連縄だ。初めて見た。長い竹ざおにくくりつけられている。
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門松も本体が 砂に埋もれている。これも初めて見た。 
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村屋神社の由緒であるが、残念な事にあまりにも記紀に迎合し過ぎている。
せっかく 出雲の神様というか 実在の王族、古代出雲王朝第八代副王(少彦)の八重波津身(事代主)と皇后の
美保津比売(別名沼川姫)を祀っているのに、とても残念だ。
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イクメ大王がサホ姫と手を組み、ようやく大和入りし、サホ姫は登美の霊畤(前回訪ねた場所)で三輪山の
太陽の女神を礼拝する。しかし遅れて大和入りした豊来入彦、豊来入姫たち豊国軍に 三輪山と登美山を
占領されてしまう。

その後出雲王家の向野見彦(野見の宿禰 )の子孫や登美家11代当主加茂田田彦たちにより 三輪山は奪還
されて、田田彦は三輪山に事代主を「大物主」の名前で祀るのである。
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秦国からの渡来人 徐福やその部下穂日親子(今の出雲大社宮司の先祖)、および沢山の秦国人海童たちにより
拉致幽閉殺害された大国主と 事代主。事代主の奥方、美保津比売(沼川姫)は皇子を連れて出身地の越へ戻られた。

屋敷のあった 松江市美保関町には 姫皇子の美保ススミ比売が事代主を祀る美保神社に残られた。
沼川姫の皇子、タテミナカタは 越の姫川から 沢山の越の人たちや出雲族を引き連れて更に諏訪湖へ進み
諏訪湖の開拓に成功された。諏訪大社の主祭神 の「タテミナカタ命」である。

沼川姫は 諏訪湖の中ほどに 銅像でたたずんでおられる。

そういう 出雲王家に由緒あるお二人のことを 記紀に毒されて 高皇産霊神(たかみむすび天孫降臨に出てくるわけのわからん神)
のむすめだとか 大物主と 大国主と 完全に勘違いしたり、非常に程度の低い由緒書きで残念だ。

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本殿の前にも鳥居がある。
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本殿は朱塗りで二連棟だ。事代主(大物主)と 美保津比売皇后だ。
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末社に恵比寿神社があり、驚いた。主祭神 の大物主が この恵比寿神社の祭神の事代主と
別の神様と思っている証拠だ。恐ろしや、記紀の呪縛。
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神社横に立派な社家の建物があり、大いに興味を引かれた。
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表札は「守屋」と書かれていた。この地域は「村屋」なので 守屋が村屋になったのだろうか。
守屋家はこの地の豪族だったのだろう。出雲王家の血を引く方なのか 興味が沸いた。
機会があれば お話を伺いたいものです。
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3.村屋神社のすぐ近くの岐多志太(きたした)神社
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村屋神社のすぐ近くの田んぼの中に神社らしきものがあったので 気になって寄ってみた。
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近寄ると岐多志太神社と書いてある。 
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神社の由緒書きをみて 驚いた。なんと徐福の長男、香語山を祀っているのだ。

島根県大田市の五十猛海岸に 大勢の海童や事前に上陸した部下の穂日と共に 上陸した秦国人徐福は和名を
ホアカリ(火明かり)と名乗る。そして出雲王家第七代「天の冬衣」の姫皇子「高照姫」との間に長男五十猛を
設けるのである。

五十猛は成長して丹波の国へ移住し、香語山と名乗る。

香語山と穂屋姫(徐福が宗像家の市杵嶋姫との間に設けた姫で保保で見の妹)との間の皇子が
「天の村雲」で初代大和大王であり、香語山と出雲王家の大屋姫との間の皇子が高倉下(たかくらじ)である。

しかし記紀では 天の村雲の名を消されて「神武」と言う名に書き換えられた。
※2代目から9代目までの磯城王朝の大王名は そのまま採用している。
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由緒書きを読んで またまた噴出した。 香語山は歴史作り話の中で アマテラスが岩とに隠れた時、
おびき出す為に音楽を奏でた 音楽の神様らしい。ばかばかしいにもほどがある。

それとアメノコヤネも祀っているという。中臣氏の祖先といわれ 記紀では天孫降臨したと書かれた神だ。
やはり 記紀を書かせた藤原不比等に逆らえないので 迎合する由緒となったようだ。

それと やはりこの地は 物部氏や鏡作り部の土地なので 徐福の長男の五十猛(香語山)を祀ったのだろう。

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この拝殿の向こうに本殿がある。
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本殿には近寄れないが、二棟みえるので 五十猛とアメノコヤネを祭っているのだろう。

まあこんな小さな神社でも記紀の呪縛にのろわれていた。
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4.ヤタガラス神社 奈良県宇陀市榛原高塚42
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国道に面して立派な鳥居が立っている。
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駐車場から神社全体を見上げる。
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この鳥居を潜ると広い境内だ。
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この神社も境内でトンド焼きの準備がされていた。右が拝殿だ。
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拝殿の奥にさらに石段が見えている。
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石段をさらに登っていく。
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本殿が朱塗りの塀で囲われている。
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隙間から本殿を覗くと、広くて大きな神社に不釣合いな程 ごじんまりとした本殿だ。
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本殿は 出雲式とは程遠く、千木も物部式の横削ぎだ。
九州物部家を熊野から大和へ安全に引き入れてくれた登美家の「加茂建津之身」に感謝して 
物部族が建てた神社なので 物部磯城なのは あたりまえなのだが。
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ヤタガラス神社の由緒書きです。
熊のに上陸した九州物部軍をお的へ導いた、加茂建津之身(賀茂建角身)を祀っているとかかれています。
そして賀茂建角身は山代の加茂族の祖と書いてある。

まあ記紀に迎合したところは 少しあるが、神社の由緒書きの中ではかなり上出来のほうです。
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九州物部王家の第一回東征は 西暦165年頃筑後から薩摩への南下で始まった。
四国南岸を進み、紀伊水道から紀ノ川の下降に上陸しようとしたが、高倉下の子孫たち(名草の戸部たち)により
強烈な 反撃を受けて、総大将の物部の五瀬は戦死する。

※五瀬の遺体は和歌山市竈山神社に祀られて 家臣の人たちが今も守り続けていらっしゃいます。竈山神社訪問記は
このブログの2015年9月8日です。
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一旦船へ引き上げた物部軍は五瀬の弟の稲飯と三毛入を大将として 紀伊半島を南下して熊野へ上陸するが
熊野でも大和磯城王家の兵たちにゲリラ戦をし掛けられて全く動けなかったという。

彼らは 熊野川の中洲に陣取ったまま その地から動けなかったので、秘密裏に大和登美家へ使者を送り
大和への道案内を頼む。(その陣地の熊野川中州に最初の熊野本宮大社が建てられた)

※ちなみに熊野海岸の物部軍上陸地点に建てられた 稲飯と三毛入を祀る浜王子神社はこのブログの2015年11月14日です。

登美家の当主「加茂建津之身」は 戦乱に明け暮れていた大和を物部軍と共に平定しようと考えて 物部軍を
熊野川、吉野川沿いに案内して大和へ引き入れて 登美家地盤の磐余の地に 住まわせます。

記紀は 稲飯か三毛入かどちらが大将か分からないので 「物部ウマシウチ」なる人物を創り上げて磐余彦として
「神大和磐余彦」と書いて神武という贈り名をつけた。

この磐余彦を初代大和大王としたので 天の村雲の名は歴史から消されてしまったのだ。

しかも 記紀のでたらめは続き、古代出雲王朝も 存在自体を隠すため 磐余彦の大和入りを紀元前5世紀頃の
古代出雲王朝の初代大名持ち「菅の八井耳」の時代までさかのぼらせたものだから、磐余彦以後の大王たちは
150年くらい生存した大王が沢山居る事になった。

大和入りした物部軍は 加茂建津之身に感謝して 鴨と 鳥のように聞こえる彼の名をヤタガラス
(古代支那の神仙寓話の中で太陽の中に住む 三本足の神の使いの烏)と呼んで末永く祀ったという。

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吉野の地酒「ヤタガラス」が奉納されていた。この長家は昔から吉野の地酒で有名だ。
もちろん日本サッカー協会のエンブレムになるまえから 有名だ。
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あわてて付け加えた、真新しいモニュメント。サッカーボールを持っているところが笑わせる。
今の時代に迎合する姿勢が 記紀が書かれた当時に 時の最高権力者不比等に迎合する姿勢に通ずるものがある。
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境内から鳥居を通して外を見ると 伊那佐山が見える。
記紀によると 神武が熊野からこの地までやって来たところ、空腹を覚えたので この地の鵜飼に
食べ物を持って来いと仰せられたそうである。

物部の稲飯や三毛入たちは、険しい山岳地帯を ゲリラ兵たちに怯えながら 登美家の人たちに導かれながら
やっとこの地まで無事に辿りつき もうすぐ登美家の地盤なのでほっとしたのであろう。

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徐福(素戔嗚)を祀る韓竈神社が縁結びの神様だなんて 2015年11月13日  

2015年11月18日 09時56分35秒 | 古代史の舞台を訪ねて
大阪の自宅でテレビを見ていたら、島根県出雲市の山中の「韓竈神社(からかまじんじゃ)」を放映していた。
占い師の江原 啓之氏が ここを訪ねて「ここは凄いパワーの満ち溢れているスポットだ」と言ったとかで
一気に有名になったらしい。それがいつの間にか 「若い女性の間で「縁結びの願いがかなうパワースポット」
になったという。その韓竈神社へ行ってみた。
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韓竈神社 出雲市唐川町後野
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駐車場の周りは茶畑が広がる山間の谷だ。
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林道入口に「車で入らないでください」と書いてある。15分ほど林道を歩いていく。
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周りの黄葉を楽しみながら歩く。
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やがて鳥居が現れた。
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韓竈神社の説明看板だ。素戔嗚が(秦国から)朝鮮半島へ渡り、(出雲に)やって来たと書いてある。
韓竈とは朝鮮からわたって来た釜のことだと書いてある。

この韓竈の竈と言う字は特殊だ。以前物部の五瀬を祀る和歌山市の竈山神社の竈の字と同じだ。
五瀬は徐福の子孫なので、竈の字は徐福か物部と関係があるのかもしれない。
秦国人の道教信仰と関係があるかも知れない。
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鳥居を潜る。
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古い石段が続く。苔むして滑りそうな場所もある。
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暫く石段を登って振り返ると 鳥居が小さく見える。石段はまだまだ上へ続くようだ。
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息を切らしながら石段を登っていく。
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巨岩を削った階段が現れて、その先に木の根階段が続く。
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そこを曲がると 突然岩の隙間が見えた。ここを潜るようだ。割れ目の向こうに石垣が見えている。
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割れ目を潜り抜けると 石垣の上にお社が見えた。
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なんの看板も無いが、ここが韓竈神社のようだ。
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沢山のノートが積み上げられていて、パラパラっとめくると沢山の方が全国から参拝に訪れているようだ。
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再び岩の割れ目を潜って下山する。
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鳥居の脇に 竹の杖がたくさん置いてあったが、杖を借りてきて正解だった。
石段は長くて急で、滑りやすく とても危険だった。
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鳥居の先に標識があり、それには「ここを進むと出雲北山弥山登山口」と書いてある。
いつかここから弥山へ登ってみよう。
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その横には「岩船」と書いた巨岩があり、徐福(素戔嗚)がこれに乗って朝鮮からやって来たと書いてある。

徐福の子孫の秦国人たちは 巨岩の舟が好きなようだ。徐福の子孫である九州物部王家の第二次東征で
イクメ王が河内から大和へ入るとき 越えた山は「イクメ」にちなんで「イコマ」と名づけられた。 
その山中にもイクメが乗って来たという「岩船」が祭ってある。交野市の「岩船神社」だ。
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紅葉のちらほら見える林道を歩いて駐車場へ戻った。
引き返す途中で 沢山の若い女性が 雨の中三々五々林道を歩いて韓竈神社へ向うのにすれ違った。

紀元前3世紀末、沢山の海童たち(秦国人の青少年男女)を引き連れて石見海岸の五十猛海岸に上陸し、
部下の穂日やその息子夷鳥、それに連れて来た海童たちと出雲王国内で 大暴れして
果ては 第八代主王八千矛王、第八代副王八重波津身少彦を相次いで幽閉殺害した徐福が
縁結びの神様なんて どこでどう間違ったのか、恐ろしい事だ。
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徐福(素戔嗚すさのお)のこと
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徐福ですが、日本書紀の神代の項に「素戔嗚の命の子の名前を五十猛(香語山)の命という」とあります。

五十猛は徐福と古代出雲王家の高照姫(第七代主王天の冬衣の姫皇女)との長男なので徐福が素戔嗚のことだと分かります。

また記紀のなかでは 徐福をスサノオと書きその娘をスセリ姫として 大国主と結婚させるという無茶苦茶なストーリーになっています。
徐福の娘という スセリ姫とか 徐福とけっこんしたという 稲田姫とかクシナダ姫とかはすべて記紀で作られた架空の人です。
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(架空の人を作り上げるのは記紀の特徴で だから記紀は歴史資料ではなく 歴史小説といわれるゆえんです。
このほか 神武やヤマトタケルなどが作られた人物で また 短命に終わった物部王朝を隠すために 記紀は 
一度も大和へ来たことのない九州物部のイ二エ王(贈り名は崇神)を大和の物部王朝の大王としたり、
オキナガタラシ姫(神功皇后)の部下の豊前中津彦を仲哀大王と格上げしたり さまざまな作り事があります)

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紀元前三世紀末に徐福は 部下の穂日を出雲王国に遣わし 上陸の許可を得ます。
このときの出雲王家への献上品の銅鏡や銅剣が長く出雲王家に残されていたといいます。

石見の五十猛海岸に上陸した徐福は 和名を「火明り(ホアカリ)」と名乗ります。
そして第七代主王の「天之冬衣」の姫君高照姫と結婚し 長男五十猛を設けます。
だから 徐福の娘と大国主が出会うはずは無いのです。

ちなみに大田市の五十猛海岸は「素戔嗚が上陸した地点」として観光名所になっています。
私も一度訪ねました。ブログにも書いています。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/d07ad4f17ba2956bc314a0a50a26fa5b

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徐福と穂日その息子夷鳥と海童たちは 出雲王国内で大暴れして 村々の信仰の竜蛇神などを叩き壊して回ったそうです。
挙句の果ては、出雲王国の主王(八千矛ほ記紀では大国主)、副王八重波津身(記紀では言代主)を相次いで幽閉殺害します。
二人が幽閉殺害された場所の記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/f4ea65d35648dfaec19543d2603822d3

一旦秦国に帰国し 更なる資金と 海童たちを秦の始皇帝からもらいうけた後 二度目の渡来時には佐賀県の浮杯に上陸します。
このことは魏書に詳しく書いてあるそうです。再船出した場所もシャントン半島です。

そして 再上陸した徐福は 和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り、出雲王家の九州分家 宗像家の市杵島姫と結婚し、
次男穂穂出見(ほほでみ)と長女穂屋姫を設けま す。

そしてそのときには すでに大国主たちは 徐福の部下穂日と穂日の息子のヒナドリたちに幽閉殺害されていたので
徐福の娘と大国主が出会う事はありえないのです。

ちなみに徐福の長男五十猛の家系から初代大和大王の天の村雲が出ます(磯城王朝)。
しかし腹違いの次男の穂穂出見の家系から出た 九州物部王家のイクメ王に倒されます。

イクメ王は大和を平定し 大和の大王となり イクメ大王(贈り名は垂仁)となります。


その話が「山幸彦と海幸彦の兄弟喧嘩」の御伽噺になるのです。つまり兄が負けて弟の家来になるのです。
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また記紀では 素戔嗚は乱暴物に書かれます。徐福や海童が出雲王国内で暴れまわったからでしょう。
「各地の神聖な場所に 糞尿をばら撒いたり、姉のアマテラス(古代出雲で信仰された太陽の女神です)の部屋に
馬の皮を剥ぎ取り、投入れてそのためアマテラスは 怒って窟の中に隠れて 世の中が暗黒になります。

その太陽の女神を窟から誘い大ためにさまざまな踊りを 天の菟津女の命(彼女は実在の宇佐王家のトヨ姫
つまり豊来入姫ー記紀では豊鍬入姫です)が踊ったりしたお話が作られました。
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そんな暴れ者の 殺人者の徐福が縁結びの神様だなんて どこでどう間違ったのでしょうか。
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