古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

徐福(素戔嗚)を祀る韓竈神社が縁結びの神様だなんて 2015年11月13日  

2015年11月18日 09時56分35秒 | 古代史の舞台を訪ねて
大阪の自宅でテレビを見ていたら、島根県出雲市の山中の「韓竈神社(からかまじんじゃ)」を放映していた。
占い師の江原 啓之氏が ここを訪ねて「ここは凄いパワーの満ち溢れているスポットだ」と言ったとかで
一気に有名になったらしい。それがいつの間にか 「若い女性の間で「縁結びの願いがかなうパワースポット」
になったという。その韓竈神社へ行ってみた。
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韓竈神社 出雲市唐川町後野
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駐車場の周りは茶畑が広がる山間の谷だ。
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林道入口に「車で入らないでください」と書いてある。15分ほど林道を歩いていく。
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周りの黄葉を楽しみながら歩く。
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やがて鳥居が現れた。
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韓竈神社の説明看板だ。素戔嗚が(秦国から)朝鮮半島へ渡り、(出雲に)やって来たと書いてある。
韓竈とは朝鮮からわたって来た釜のことだと書いてある。

この韓竈の竈と言う字は特殊だ。以前物部の五瀬を祀る和歌山市の竈山神社の竈の字と同じだ。
五瀬は徐福の子孫なので、竈の字は徐福か物部と関係があるのかもしれない。
秦国人の道教信仰と関係があるかも知れない。
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鳥居を潜る。
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古い石段が続く。苔むして滑りそうな場所もある。
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暫く石段を登って振り返ると 鳥居が小さく見える。石段はまだまだ上へ続くようだ。
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息を切らしながら石段を登っていく。
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巨岩を削った階段が現れて、その先に木の根階段が続く。
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そこを曲がると 突然岩の隙間が見えた。ここを潜るようだ。割れ目の向こうに石垣が見えている。
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割れ目を潜り抜けると 石垣の上にお社が見えた。
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なんの看板も無いが、ここが韓竈神社のようだ。
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沢山のノートが積み上げられていて、パラパラっとめくると沢山の方が全国から参拝に訪れているようだ。
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再び岩の割れ目を潜って下山する。
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鳥居の脇に 竹の杖がたくさん置いてあったが、杖を借りてきて正解だった。
石段は長くて急で、滑りやすく とても危険だった。
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鳥居の先に標識があり、それには「ここを進むと出雲北山弥山登山口」と書いてある。
いつかここから弥山へ登ってみよう。
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その横には「岩船」と書いた巨岩があり、徐福(素戔嗚)がこれに乗って朝鮮からやって来たと書いてある。

徐福の子孫の秦国人たちは 巨岩の舟が好きなようだ。徐福の子孫である九州物部王家の第二次東征で
イクメ王が河内から大和へ入るとき 越えた山は「イクメ」にちなんで「イコマ」と名づけられた。 
その山中にもイクメが乗って来たという「岩船」が祭ってある。交野市の「岩船神社」だ。
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紅葉のちらほら見える林道を歩いて駐車場へ戻った。
引き返す途中で 沢山の若い女性が 雨の中三々五々林道を歩いて韓竈神社へ向うのにすれ違った。

紀元前3世紀末、沢山の海童たち(秦国人の青少年男女)を引き連れて石見海岸の五十猛海岸に上陸し、
部下の穂日やその息子夷鳥、それに連れて来た海童たちと出雲王国内で 大暴れして
果ては 第八代主王八千矛王、第八代副王八重波津身少彦を相次いで幽閉殺害した徐福が
縁結びの神様なんて どこでどう間違ったのか、恐ろしい事だ。
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徐福(素戔嗚すさのお)のこと
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徐福ですが、日本書紀の神代の項に「素戔嗚の命の子の名前を五十猛(香語山)の命という」とあります。

五十猛は徐福と古代出雲王家の高照姫(第七代主王天の冬衣の姫皇女)との長男なので徐福が素戔嗚のことだと分かります。

また記紀のなかでは 徐福をスサノオと書きその娘をスセリ姫として 大国主と結婚させるという無茶苦茶なストーリーになっています。
徐福の娘という スセリ姫とか 徐福とけっこんしたという 稲田姫とかクシナダ姫とかはすべて記紀で作られた架空の人です。
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(架空の人を作り上げるのは記紀の特徴で だから記紀は歴史資料ではなく 歴史小説といわれるゆえんです。
このほか 神武やヤマトタケルなどが作られた人物で また 短命に終わった物部王朝を隠すために 記紀は 
一度も大和へ来たことのない九州物部のイ二エ王(贈り名は崇神)を大和の物部王朝の大王としたり、
オキナガタラシ姫(神功皇后)の部下の豊前中津彦を仲哀大王と格上げしたり さまざまな作り事があります)

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紀元前三世紀末に徐福は 部下の穂日を出雲王国に遣わし 上陸の許可を得ます。
このときの出雲王家への献上品の銅鏡や銅剣が長く出雲王家に残されていたといいます。

石見の五十猛海岸に上陸した徐福は 和名を「火明り(ホアカリ)」と名乗ります。
そして第七代主王の「天之冬衣」の姫君高照姫と結婚し 長男五十猛を設けます。
だから 徐福の娘と大国主が出会うはずは無いのです。

ちなみに大田市の五十猛海岸は「素戔嗚が上陸した地点」として観光名所になっています。
私も一度訪ねました。ブログにも書いています。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/d07ad4f17ba2956bc314a0a50a26fa5b

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徐福と穂日その息子夷鳥と海童たちは 出雲王国内で大暴れして 村々の信仰の竜蛇神などを叩き壊して回ったそうです。
挙句の果ては、出雲王国の主王(八千矛ほ記紀では大国主)、副王八重波津身(記紀では言代主)を相次いで幽閉殺害します。
二人が幽閉殺害された場所の記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/f4ea65d35648dfaec19543d2603822d3

一旦秦国に帰国し 更なる資金と 海童たちを秦の始皇帝からもらいうけた後 二度目の渡来時には佐賀県の浮杯に上陸します。
このことは魏書に詳しく書いてあるそうです。再船出した場所もシャントン半島です。

そして 再上陸した徐福は 和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り、出雲王家の九州分家 宗像家の市杵島姫と結婚し、
次男穂穂出見(ほほでみ)と長女穂屋姫を設けま す。

そしてそのときには すでに大国主たちは 徐福の部下穂日と穂日の息子のヒナドリたちに幽閉殺害されていたので
徐福の娘と大国主が出会う事はありえないのです。

ちなみに徐福の長男五十猛の家系から初代大和大王の天の村雲が出ます(磯城王朝)。
しかし腹違いの次男の穂穂出見の家系から出た 九州物部王家のイクメ王に倒されます。

イクメ王は大和を平定し 大和の大王となり イクメ大王(贈り名は垂仁)となります。


その話が「山幸彦と海幸彦の兄弟喧嘩」の御伽噺になるのです。つまり兄が負けて弟の家来になるのです。
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また記紀では 素戔嗚は乱暴物に書かれます。徐福や海童が出雲王国内で暴れまわったからでしょう。
「各地の神聖な場所に 糞尿をばら撒いたり、姉のアマテラス(古代出雲で信仰された太陽の女神です)の部屋に
馬の皮を剥ぎ取り、投入れてそのためアマテラスは 怒って窟の中に隠れて 世の中が暗黒になります。

その太陽の女神を窟から誘い大ためにさまざまな踊りを 天の菟津女の命(彼女は実在の宇佐王家のトヨ姫
つまり豊来入姫ー記紀では豊鍬入姫です)が踊ったりしたお話が作られました。
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そんな暴れ者の 殺人者の徐福が縁結びの神様だなんて どこでどう間違ったのでしょうか。
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出雲大社周辺の古代出雲王朝ゆかりの神社 意保美、出雲井、神奈備、長浜各神社 2015年11月13日

2015年11月18日 09時56分18秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
出雲市内の 出雲大社周辺の 古代出雲王朝ゆかりの神社を尋ねた。
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意保美神社
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韓竈神社駐車場の「出雲市観光案内看板」に「サルタ彦を祀る神社」と書いてあったので
帰りに立ち寄った。
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石段を登っていく。
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正面の拝殿に額が架かっている。
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その横に祭神が書いてあり、読んでみてびっくりした。サルタ彦と天の菟津女の命と書いてある。
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古代出雲王朝の国教は「幸の神三神」だ。
クナト大神、佐毘売の尊の夫婦神とその皇子神サルタ彦だ。

てっきりサルタ彦単体で祀ってあると思いきや、なんと天の菟津女の命と共に祀ってあり唖然とした。
記紀では サルタ彦が峠で神様のご一行を待ち構えていたら、先頭を歩いていた天の菟津女の命が
サルタ彦に胸を露にして 色気を見せたら、サルタ彦は 彼女を伊勢の椿大神社へ案内した。とされている。

つまりこの社は 記紀が出た後、時の最高権力者 左大臣藤原不比等の命令で編集された記紀の内容に逆らえない
出雲の人々が、やむなく サルタ彦と共に天の菟津女の命を祀ったのだろう。

出雲族の無念さが伝わってきそうな神社だ。

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本殿は一応大社造を装っているが、千木は物部方式の横削ぎだ。
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境内には塞の神と山の神が祀ってあった。塞の神はサルタ彦が変化したもので、道祖神にもなった。
村はずれや峠に安置されて、悪霊の侵入を防いだり、サルタ彦の鼻の形から男性自身を表して
男女和合の神とされた。

まあ形を変えたサルタ彦も祀られていて 安心した。
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出雲井神社
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出雲大社前の弥山広場に車を止めて歩き出す。
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国道山側の集落の真ん中にこの社はあった。
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こじんまりしたお社だ。
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立派な千木が付いている。出雲式の建て削ぎだ。
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岐神(くなどのかみ)を祀っていると書いてある。
久那土の神または岐の神とは 道の分岐点や峠に祀り、悪霊の侵入を防ぐ神、また「塞ぐ」意味から
男女和合の神ともされている。

つまりサルタ彦の神なのである。
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この小さなお社は 実は大変な神社なのである。 

古代出雲王家の大和の分家磯城家からさらに別れて伊勢に移住した宇治土公家(うじとこけ)
はサルタ彦を祀るべく この出雲井神社からサルタ彦を分祀されたという。

その神社は 「伊勢一宮」と言われる「椿大神神社」なのだ。
その訪ねた記録はこのブログにもあります。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/81a4abe591b1cea2022fd5bd731cacc6

あの大きくて立派な 伊勢一宮の椿大神社は「サルタ彦大本宮」と称しているが 元をただせば
この出雲井神社から 分祀していたのだ。
今は小さな祠がひっそりと佇む。

※岐神(くなどのかみ)とは サルタ彦とされていますが、私個人的には 発音がどうしても
「クナトの神」つまり古代出雲の国教の神様で 大神山と呼ばれた今の大山に祀られたクナト大神
の事に思えてならない。

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神奈備神社
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この神社も分かりにくかった。一畑電鉄高浜駅東にあり、車一台通るのがやっとの道沿いなので
近くのコンビニに車を止めて歩いていきました。(コンビニでちゃんと買い物しました)
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境内はこじんまりとして 綺麗に整備されている。
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正面には拝殿がある。
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ガラス越しに中を写させてもらった。今でも地区の行事がかなりあるようなので安心した。
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境内からも 入口の鳥居越しにも見えるのが 出雲北山の鼻高山(はなたかせん)だ。

サルタ彦のサルタとは古代インドのドラビダ語(現在は主に南インドのタミール人が使っている
タミール語に近い)の「鼻が長い」とか「鼻が大きい」とか言う意味で つまり今のヒンドゥーの
神様の像神様のガネーシャの事なのだ。

古代出雲族は 南インドのドラビダ族が アーリア人のインド侵入に伴い押し出されて 
北へ逃れた一族だと言われていて(南へ逃れたのがタミール人です)、ブリアートモンゴルと
混血を繰り返しながらシベリアから南下して 出雲の地に落ち着いたと言われています。

他にもドラビダ語から日本語になった言葉が タタラ、カネなどたくさんあります。

つまりこの神社は この地から サルタ彦の神を祭った神奈備山の鼻高山を遥拝した場所なのです。

しかし今の御祭神は サルタ彦とは縁もゆかりも無く、アマテラスとか大己貴の尊とか書いてある。
残念な事です。せっかく斎木雲州先生に教えていただいたのに。
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長浜神社  出雲市西薗町 上長浜4258
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この神社は大きくて 由緒ある神社なのに ネットの地図マピオンに乗ってなくて探すのに苦労した。
このページの神社はすべてマピオンに載っていたのに。
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この神社は 国引き王として知られる 古代出雲王朝第六代主王の「八束水臣津野」(やつかみずおみつぬ)
を祀っている神社なのだ。

そしてこの神社が建っている「薗の長浜」は出雲族にとり、忘れられない地名なのだ。
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徐福の部下とその息子夷鳥は 秦国から連れて来た沢山の海童たちを集めて この薗の長浜に
出雲族の崇める鰐(わにー鮫のこと)を引き上げて 当時の主王八千矛王をおびき出し、
王が 海童たちに鰐を開放するように言うと たちまち海童たちは八千矛王を取り囲み、船に乗せて
日本海に面した猪の目洞窟に幽閉殺害したのである。

つまり古代出雲第八代主王 八千矛王は この薗の長浜から姿を消されたのである。
記紀では 王は舟をひっくり返して その中にお隠れになったと書き 穂日たちの殺人を隠したのだ。

ちなみに穂日の子孫が出雲国造家となり、今の出雲大社宮司の家系に続く。

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長い参道を進んでいく。
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鳥居の先にもまだ石段がある。
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おおきくて立派な神門だ。
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境内の正面に拝殿がある。
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立派な拝殿だ。
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額に祭神が明記してある。真ん中が臣津野で左も「おみつぬ」であり、同人だ。「布帝耳」は不明だが
出雲王十七代の中にもいらっしゃらないし、おそらく 同じ人なのだろう。

この臣津野王は西出雲王家神門臣家の方で 第七代主王は東出雲王家向家の天の冬衣王そして
第八代主王が西出雲王家神門臣家の方で 悲劇の八千矛王(記紀では大国主と書かれた)である。

つまり臣津野王は 大国主ー八千矛王の祖父なのだ。
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本殿はもちろん正しい大社造で 千木も出雲式の楯削ぎだ。
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だいぶ探し回ったが 本殿の裏手に 有名な三つ鳥居があった。
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三つ鳥居は 古代出雲国教の塞の神三神(クナト大神、佐毘売の命、サルタ彦)を祀る鳥居形式である。

そしてこの鳥居形式は 大和にも移されて 魏書にかかれた二番目のヒミコの宇佐豊玉姫と
九州物部王のイ二エ王(贈り名は崇神)との間の姫 トヨ姫(豊来入姫で 記紀では豊鍬入姫とか天の菟津女の命
と書かれた姫巫女で魏書で台与トヨと書かれた)が大和で月読みの神を祭った 檜原神社(奈良県櫻井市三輪の大神神社裏手)の
三つ鳥居にもなっているのである。

そして大神神社の本殿横にも立っていると言われるが 本殿へはなかなか上がれないのでまだ見ていない。

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三つ鳥居の左にクナドの神が祀ってある。夫婦和合の神も安置されている。
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こちらは夫婦の神と書いてある。つまり夫婦和合の神ならば サルタ彦なのであろう。
ちなみに右の鳥居には納め社とかいてあり、家内安全、災難を防ぐ神と書いてあるので 
鳥居の三つともサルタ彦を祀っているのだろう。
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境内の一番奥に三つ鳥居があり、分かりにくかった。
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社務所で 臣津野の神のお札を頂いたときに写させていただいた「国来、国来(くにこ くにこ)」と叫ぶ
国引きの神 臣津野王のお姿だ。
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拝殿横に写真が飾ってあり、良く見ると ソフトバンクの携帯電話の宣伝の犬のお父さんたちも
撮影に訪れたそうだ。この神社の神主さんもうれしそうだ。
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古代出雲トップページへはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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武内宿禰の御陵に参拝しました。 2015年11月13日 雲南市神原神社と古墳

2015年11月17日 13時50分55秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
古代史の舞台で重要な働きをする一人に武内宿禰がいます。
九州物部王家の第二次東征で、最初物部イクメ王に着いていた彼は 都萬豊連合王国の女王豊玉姫(魏書に書かれた
2番目のヒミコです)に粗末に扱われて 物部軍から離反して大和の磯城王朝側に付きます。
しかし武内宿禰は磯城王朝とともに イクメ物部軍に敗れて出雲に逃れ 旧出雲王家の東出雲王家の向家に保護を求めます。

何故なら 武内宿禰の祖先の高倉下(初代ヤマト大王天の村雲の腹違いの弟)は 出雲王家の大屋姫と徐福
(記紀では素戔嗚と書かれた)の長男五十猛(後の名を香語山)との間に生まれたのです。だから武内宿禰は出雲王家の
血を引いているのです。

そして彼は向家の保護の下で松江市の意宇の森で生涯を終え御霊は 松江市竹矢町の武内神社に祀られています。

また武内の宿禰の子孫からはソツ彦を含め大王がたくさん出ているので 武内宿禰は 全国各地の神社でも祭られています。

その武内宿禰の御陵の神原神社へ行ってきました。
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神原神社は島根県雲南市加茂町神原にあります。
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神社名の石碑はかなり古くて読みづらい。
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二つ目の鳥居の先に神門が見える。
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神門の注連縄も大きくて立派だ。
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神門を潜ると広い境内だ。
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拝殿の注連縄も大きくて立派だ。
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拝殿の中を移写させていただいた。綺麗に整理されている。
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本殿は大社造のようだ。千木も縦削ぎになっている。
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1972年の斐伊川水系の河川改修工事で 河川敷にあった方墳が発掘調査された。その石室を移設保存したのが
境内にあり、屋根が掛けられている。
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出土品の説明写真。土器や剣など多数出土したと書いてある。
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魏書に書かれた二番目のヒミコが魏から貰った三角縁神獣鏡が出たと書いてある。
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これは明らかな間違いである。三角縁神獣鏡は支那大陸では一枚も出土していない。
中国の歴史学者は三角縁神獣鏡は魏の鏡職人を連れて来て 和国で生産されたものだとしている。つまり和国製なのだ。

武内宿禰は魏からの帰り、朝鮮の帯方郡経由で帰国しているが そのとき帯方郡で多数の銅鏡職人と銅鏡の材料を
大和磯城王朝のミチヌシ王に頼まれて 購入して帰国している。

彼らが住んで銅鏡を作ったのが 奈良県磯城郡田原本町の鏡作り神社の周辺で「鏡作り部」と呼ばれた。
そこで 磯城王朝や武内宿禰は 大量の銅鏡を作り 磯城王朝に付く豪族たちに配ったと言う。

つまり三角縁神獣鏡は 和国製なのだ。

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石室の内部も復元されている。武内宿禰が安置されていたところだ。
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石室の保存場所の隣には 遊具がおいてあり、付近の子供たちが遊びに来るのだろう。
子供たちの楽しそうな声が境内に響き渡り 御陵で武内宿禰も喜んでいるのかもしれない。
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この古墳を作ったのは 武内宿禰の腹違いの弟 ウマシウチの宿禰である。
彼は山代の国加茂付近にいたが、武内宿禰が出雲王家に助けられて 意宇の森に住んだのを知り、
加茂町から沢山の人を引き連れて移住して来た。

そのためこの付近も 加茂町と名が付いた。彼は出雲王家の姫と結婚し 臣の称号をもらい 
額田部の臣と名乗り その子孫たちも この地に住み続けた。

彼が兄の古墳をこの地に 方墳の形で作ったという。

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ここで武内の宿禰について 
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九州物部王家のイ二エ王は232年、築紫の国から南進を開始して 日向の国に都萬王国を打ち立てます。
そして「大和の磯城王朝を倒し、新しい大和国家を打ち立てる」と宣言したから全国から豪族が都萬国に集まってきました。

その中の彦布都押しはイ二エ王に特に重鎮として 扱われます。
彦布都押しは 紀伊の国国造家の山下影姫との間に 物部武内彦を設けていて彼も一緒に参上します。

武内彦もイ二エ王に尊重され物部の重鎮である称号「宿禰」を貰い 物部宿禰武内彦としてイ二エ王にかわいがられます。
そして 短命に終わったイ二エ王の先妻皇后 阿多津姫(記紀では咲くやこの花姫と書かれました)の皇子 イクメ皇子とともに活躍します。

イ二エ王(贈り名は崇神)は 宇佐の豊王国の豊玉姫と再婚し 都萬豊連合王国を形成しますが 東征直前にこの世を去ります。
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豊玉姫皇后は魏書に書かれた二番目のヒミコで、イ二エ王亡き後女王としてイ二エ王の意思を継ぎ 
物部豊連合王国の皇后として東征を進めます。

また彼女は 魏の大使館である 伊都国(今の福岡県糸島市付近)に駐在している ティシュンにより、親魏和王として
直接肩に絹の襷を掛けて貰い 親魏和王の金印を貰った唯一の和王です。絹のロングドレスで正装した彼女は
大いなる威厳を示したと魏書に書かれたそうです。
しかし豊玉姫皇后には 武内彦は尊重されませんでした。

彼女は数回にわたり 魏へ朝献使節を送りますが、イクメ王、田道間守などは団長としていった後 魏から中朗将の位をもらいます。

しかし武内彦は 団長としていったにもかかわらず無官で帰されます。有り余る彼の才能を恐れた豊玉姫がイクメや我が子豊彦
(記紀では豊来入彦とかウガヤ葺き合得ずと書かれました)より偉くならないように 位を授けるように親書に書かなかったからです。

落胆した 武内彦は 祖先の地 高倉下の地である紀の国に引き上げて「武内宿禰家」を名乗り 西側陣営から離れます。

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この当時和国は出雲王国を除き完全に支那の属国状態でした。しかし記紀はこのことに一切触れていません。

イクメが 磯城王朝最後の道主大王との戦いに大和で苦戦しているときに 武内宿禰が
紀の国から大軍を引き連れて東軍磯城王家に参戦し 俄然東軍が有利になります。

そのときに ヒミコ豊玉姫は東征の途中で安芸の宮島で病気で亡くなったのですが 魏の和国駐在武官の張正により 
ヒミコの娘のトヨ姫がヒミコの後継者に指名されます。魏書にかかれた「台与(とよ)」のことです。
トヨが女王に立ち再び和国の戦乱は納まったと書かれた トヨです。

ちなみに記紀にはトヨは豊鍬入姫とか 若ヒルメムチと書かれた姫です。

イクメ王の軍にトヨ姫、豊彦の豊国軍が合流し俄然優勢になった西軍は ついに道主大王と武内宿禰の軍を打ち破り、
道主大王は 娘のヒバス姫を差し出して伯耆国造として武内宿禰とともに伯耆の国へ引き下がります。
晴れて大和の大王となったイクメの皇后にヒバス姫がなりま す。
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伯耆の国で暮らしていた 道主王と武内宿禰のところへ ヒバス姫皇后から急使が来て「イクメ大王が刺客を放ち武内宿禰を殺す」というものでした。

あわてた武内宿禰は 西へ逃げ 出雲王家に助けを求めます。向井家は彼を匿い 意宇の森に館を建てて住まわせます。
(今の松江市阿太加夜神社です)

大和の大王となったイクメ大王は 旧出雲王家にまでは刺客をもぐりこみさせなかったようです。

以前 大和への東征の途中で 自分が大和の王となろうとした田道間守を イクメは物部十千根や旧出雲王家に助けを求め 
富家の大田彦は「野見大田彦」と名前を変えて大和へ軍勢を連 れて進撃し 田道間守を打ち破り イクメ王を助けます。
田道間守が神聖な「田和山神殿」をぶち壊した恨みを晴らすためです。

(とび を のみ と名前を変えたのは 大和内部にまだ出雲王朝への反抗心を持った豪族がいたからだといわれています。)

感謝したイクメ大王は大田彦に物部の重鎮称号「宿禰」を与えます。
記紀ではこの話が 当麻蹶速(たいまのけはや)と野見の宿禰 の相撲取りの話に書き換えられて 大相撲の起源だというばかばかしい話に置き換えられました。

櫻井市の相撲神社には大相撲力士と理事全員が集まり 相撲感謝祭をしたとその神社を訪れたときに知り 思わず噴出しました。

また田道間守が地盤とした大和葛城地方は タジマの地名が残り 近鉄タジマ駅となったり、タジマが訛り「當麻たいま」となり
當麻寺の地名にも残っています。最近當麻寺のある當麻町に「相撲博物館」なるものが出来て あまりのばかばかしさに唖然としました。
記紀の呪縛は 恐ろしいものです。

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ここで別のヒロインが登場します。朝鮮辰韓から渡来した辰 韓の王子 ヒボコの子孫 オキナガタラシ姫です。
彼女は 物部王家のワカタラシ大王(成務)に嫁ぎます。

丁度辰韓が滅び新羅が興ります。オキナガタラシ姫(神功皇后)は新羅の国へ辰韓の財産の分与を要求しますが 新羅は無視します。
彼女は夫ワカタラシ大王(成務)に新羅への出兵を要求しますが、ワカタラシは断り二人は疎遠になったといいます。その後ワカタラシは豊前の国で戦死します。

そこで彼女は次に豊前の豪族中津彦に朝鮮出兵を持ちかけますが彼も断り そのうち彼も戦死します。(記紀は短命に終わった物部政権を隠すため 中津彦を
格上げして仲哀大王としますが 彼は皇后の部下であり大王ではありません。)

次に彼 女が選んだのが 日向の国の王武内ソツ彦です。彼は日向ソツ彦と呼ばれていました。ソツ彦は彼女の要請を快諾し二人は一緒に住みます。
ソツ彦は彼の人脈を生かし 日向の水軍はもちろんのこと 故郷の紀伊や熊野水軍をはじめ 丹後の海部家、尾張の尾張家など
全国から水軍を集めて オキナガ姫とともに朝鮮へ出兵します。

海上に浮かんだ夥しい軍船を見て 新羅王は 戦わずして降伏し、毎年多額の税金と人質を送ることを約束します。
和国の大水軍はついでに 百済、高句麗も攻めて降伏させ、三韓から年貢と人質をとる約束をします。俗に言う「神功皇后の三韓征伐」です。

大成功を収めたソツ彦は河内の国恵我之荘に住まわれ 実質的な大王 として暮らされた。彼の古墳が羽曳野市恵我之荘大塚山古墳です。

オキナガ姫は朝鮮から帰るとともに出産されたといわれます。記紀では中津彦(仲哀)の子供で ホムタ大王と書かれましたが、出産時には 
既に中津彦は戦死しているので ホムタ大王は当然ソツ彦の子供です。

しかし ホムタの君は7歳で夭折されたので、オキナガ姫と親交のあった 下野の国国造家(豊来入彦の子孫です)の竹葉瀬の君を秘密裏に
養子にしたのが ホムタ大王といわれます。オキナガ姫に世継ぎがいなくなれば 朝鮮から税金が入らなくなるからです。

その後、朝鮮から入る莫大な税金が 和国を豊かにしたといわれています。各地の古墳造営にもそのお金が使われました。
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またソツ彦と日向髪長姫との間には、平群の臣都久、蘇我の臣石川、巨勢の臣小柄、紀の臣角など怱々たる人物が現れています。

ソツ彦の弟 武内臣若子の娘はオオサザキ(仁徳)大王に嫁ぎ イザホワケ大王を生んでいるし、蘇我の臣石川の子孫の蘇我家からは
オホド大王(継体)やその子 カナヒ、押楯、が大王となり オホド大王と 手白香姫の間の ヒロニワ大王が その後現在まで続く
帝の一族なのです。

と少々話が長くなりましたが この神原古墳の上にもともと建てられていた武内神社は とんでもなく和国の歴史にとり 
重要な神社なのです。今は神原神社と名前が変わっていますが。

そして松江市竹矢町の武内神社は 記紀の作成を指示した 時の最高権力者藤原不比等に逆らえず 主祭神 は 仲哀、応神、神功皇后と
平凡なものになり、隣の館に かろうじて武内宿禰が祭られています。

神武東征上陸のモデル熊野古道中辺路浜王子と出雲王の役職名をつけた吉野大名持ち神社

2015年11月08日 19時05分01秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
記紀に書かれた「神武東征」は前後100年以上離れた 2度にわたる九州物部王家の東征を
一つにまとめた作り話で かなり無理がある。
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紀元後165年頃に 九州物部王家の「彦渚武」の皇子 物部の五瀬、その弟稲飯、三毛入りが
第一次東征を開始、紀ノ川河口から大和入りしようとした。

しかし紀の国は 初代大和大王 天の村雲の 腹違いの弟高倉下の地盤で、高倉下の子孫たちに
手強い反撃、迎撃を受けて 五瀬は戦死、竈山神社に葬られる。

残った稲飯と三毛入たちは一旦紀ノ川から退却し、熊野へ回り熊野川を遡ろうとする。
しかしそこでも大和の磯城王朝配下の武人たちに攻められて 動きが取れずやむなく
熊野川の中洲に留まる。その地が 後に熊野本宮大社となる。

困った稲飯たちは ひそかに大和の登美家へ密使を送り 大和入りの道案内を願い出た。

当時大和は 磯城王家が弱まり、豪族たちが割拠していたので この状態を物部家と
共に 平定しようとした登美家当主の 加茂建津之身は熊野川から吉野川、高見川の川沿いの
山岳地帯を案内し、物部王家を登美家地盤の磐余の地に引き入れた。

これが第一次東征であるが 物部家は磯城家に飲み込まれてしまう。そこで起源248年から
物部イクメ王(垂仁)により 第二次東征が始まるのである。

磐余入りした物部家の王が 稲飯か三毛入か分からないので 記紀製作者は「物部ウマシマジ」
なる架空の人物を創り上げ、これを磐余彦と名づけたのだ。それゆえ記紀では稲飯とか三毛入
と言う名前は出てこない。

そして道案内をしてくれた登美家の加茂建津之身を秦国の神話に出てくる「ヤタガラス」と称して長く熊野本宮大社はじめ各地の物部系神社に祭るのである。

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以前、世界文化遺産熊野古道中辺路(なかへち)を歩いた事がある。(2015年 3月 8日)
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中辺路の中でも最終章、高野坂を越えて熊野灘の海の道を歩き ゴールの熊の速玉大社 へ行く道だ。
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綺麗な石畳の道を歩いていく。世界遺産の参詣道だ。
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やがて峠に差し掛かると 右手に熊野灘が見えてくる。
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この海岸を歩いていくのが「海の道」だ。
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潮騒を聞きながら、潮の香りを楽しみつつ約40分くらい歩く。
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やがて「浜王子」にたどり着く。
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鳥居を潜ると こじんまりした社があった。
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浜王子神社のご祭神を読んでびっくりたまげた。
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なんと物部の稲飯と三毛入を祀っているのだ。作り話の記紀では絶対に出てこない名前なのだ。
稲飯と三毛入たちは この海岸の近くに上陸したのだろう。
そして熊野川沿いに 大和へ向ったのだ。

記紀の作り話から漏れ落ちた真実がここにもあったのだ。

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ここからの熊野古道は新宮市内を歩く。まず眼に飛び込んで来たのは なんと徐福公園だ。
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こちらが徐福さんだ。最初は石見海岸の「五十猛海岸」に上陸し、部下の穂日に命じて出雲王家の主王と副王を
相次いで殺害し、自分が出雲王国の いや和国の王になろうとしたのだろう。
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五十猛海岸に上陸した徐福は「火明り(ホアカリ)」と名乗る。出雲王家の高照姫との間に息子五十猛をもうけて 徐福は一旦秦国に帰り、更なる資金と海童たちを秦の始皇帝に貰い受けて 二度目の和国上陸を九州佐賀の浮杯に再上陸し、饒速日(にぎはやひ)と名乗る。

そして 出雲王家の分家 宗像家の市杵島姫との間に 穂穂出見を設け 穂穂出見が九州物部家を起こすのだ。

この徐福上陸と言うのは、徐福が九州に再上陸してから 約350年後の 徐福の子孫の上陸を意味しているのだ。

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さらに歩いて行くと 街中の小さな神社にも面白い由緒書きがあった。
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この神社は徐福を祀っているのだ。
恐らく熊野に住み着いた物部の家臣たちにより、物部の始祖徐福が祭られたのだろう。
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さらに新宮市内を歩いていく。この道も熊野古道のマークが埋め込まれていた。
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ゴールの熊野速玉大社 だ。
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広くて立派な境内だ。この神社も 「世界文化遺産 紀伊山地の霊場と参詣道」の霊場になっている熊野三山の一つだ。他の二つは 熊野本宮大社と熊野那智大社だ。
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熊野三山の主祭神 は 熊野速玉の命 つまり徐福のことだ。二度目に上陸した徐福は 和名を「饒速日」と名乗る。物部王家に伝わる「先代旧事本紀」には物部の始祖として「火明り饒速日(ほあかりにぎはやひ)」と 二人の名前が一つに書かれているが 両方とも 記紀では 素戔嗚(すさのお)と書かれた徐福のことだ。

つまり 饒速日の「速」と言う字を取り 「速玉の命」という形で徐福を祀っているのだ。
平安時代に たくさんの都人、貴族たちが 熊野詣でをしたのだが、平安貴族のほとんどが
徐福の血を引く 子孫たちなのだ。つまり彼らはご先祖様に 詣でていたのだ。

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奈良県吉野町 大名持ち神社  (2015年 1月 15日)
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吉野町の町外れにこの神社は鎮座する。
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その名もずばり 大名持ち神社だ。
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古代出雲王朝は 主王と副王の二人の王で治められていた。東出雲王家の向井家と西出雲王家の神戸臣家(かんどのおみけ)が交代で主王と副王を出していたのだ。
その主王の役職名が 「大名持ち」である。そして副王は 「少彦」と呼ばれた。
紀元前三世紀末に秦国から渡来した 徐福やその部下の穂日たちに幽閉殺害された 出雲王家
第八代主王の八千矛王と 第八代副王の八重波津身は その祟りを恐れた 物部の子孫たちにより 全国に祀られたのである。

記紀では「大名持ち」は「大汝」とか「大己貴(おおなむち)」とか書かれ また個人名として大国主と書かれた。 また副王の役職名の少彦(すくなひこ)は 少彦名とか少名彦名などと悪意を持って書き換えられている。そして個人名は 言代主(ことしろぬし)と書かれた。

また時代が下がると 大国主と言代主は「大黒さん」、「恵比寿さん」と言われるようになり
全国の恵比寿神社は 八重波津身が沼川姫と暮らした松江市美保関町の美保神社であり、大国主は出雲大社に祭られている。

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拝殿から本殿を拝む。
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本殿は遠くからしか見えないが、妻入りの大社造ではないようだ。
ちなみに同じ奈良県の金剛山山頂の葛城神社は言代主を祭っていて ちゃんと大社造だ。
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祭神の説明書きだが、残念ながら 偽りの作り話の記紀の内容の影響をまともに受けている。
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大名持ちは いいとして少彦を少名彦名などと記紀の悪意ある書き換えをそのまま鵜呑みにしているし、最悪はスセリ姫も祀っている事だ。記紀のなかでは 徐福をスサノオと書きその娘をスセリ姫として 大国主と結婚するという無茶苦茶なストーリーになっている。

実際は徐福は 第七代主王の「天之冬衣」の姫君高照姫と結婚し 長男五十猛を設けているのだから 徐福の娘と大国主が出会うはずは無いのだ。

また徐福が一旦秦国に帰国した後二度目の渡来時には 出雲王家の九州分家 宗像家の市杵島姫と結婚し、次男穂穂出見(ほほでみ)と長女穂屋姫を設けているので、そのときにはすでに
大国主たちは 徐福の部下穂日と穂日の息子のヒナドリたちに幽閉殺害されていて 徐福の娘と大国主が出会う事はありえないのである。

と言うことは せっかく大国主のことを「大名持ち」と役職名で祀っているのに 記紀の作り話を鵜呑みにしているのだから この神社は出雲族が建てたものではないようだ。

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この日は政治式の日で吉野町の成人たちが この神社に集まっていた。
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吉野川の河原では 小正月の行事「トンド焼き」が行われるべく 準備中だった。
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このあと 吉野の料亭「平宋総本家」で吉野御膳を食べて帰宅した。吉野名物の鯖寿司、鮭寿司の定食でとてもおいしかった。
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