大阪の自宅でテレビを見ていたら、島根県出雲市の山中の「韓竈神社(からかまじんじゃ)」を放映していた。
占い師の江原 啓之氏が ここを訪ねて「ここは凄いパワーの満ち溢れているスポットだ」と言ったとかで
一気に有名になったらしい。それがいつの間にか 「若い女性の間で「縁結びの願いがかなうパワースポット」
になったという。その韓竈神社へ行ってみた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
韓竈神社 出雲市唐川町後野
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/dd/0fb9060686a1bc854c8c14723ce22f98.jpg)
駐車場の周りは茶畑が広がる山間の谷だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/fd/cc2fda1daa3db653ad374d7b7e2f5edb.jpg)
林道入口に「車で入らないでください」と書いてある。15分ほど林道を歩いていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/3f/95ad28997ddd3e59feda99da7d7577a5.jpg)
周りの黄葉を楽しみながら歩く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/6f/46cc906575f9f8ffbaf3c7f6d34023e3.jpg)
やがて鳥居が現れた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/62/58731f2fe4163d67941dbcf54b85d0cc.jpg)
韓竈神社の説明看板だ。素戔嗚が(秦国から)朝鮮半島へ渡り、(出雲に)やって来たと書いてある。
韓竈とは朝鮮からわたって来た釜のことだと書いてある。
この韓竈の竈と言う字は特殊だ。以前物部の五瀬を祀る和歌山市の竈山神社の竈の字と同じだ。
五瀬は徐福の子孫なので、竈の字は徐福か物部と関係があるのかもしれない。
秦国人の道教信仰と関係があるかも知れない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/af/a47976b725494b97208092dd7202387e.jpg)
鳥居を潜る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/a5/d2d3bf22a6006168c5968fe56aadb1fe.jpg)
古い石段が続く。苔むして滑りそうな場所もある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/4f/b6415215a210e0aa8e23660c7b00b6c1.jpg)
暫く石段を登って振り返ると 鳥居が小さく見える。石段はまだまだ上へ続くようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/92/ee86d9d658b9eb567cf46257e5342110.jpg)
息を切らしながら石段を登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/ab/a6a824f3d06a25f00c279c52c6873693.jpg)
巨岩を削った階段が現れて、その先に木の根階段が続く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/01/e331379d2bd46647dfab1b787d57791f.jpg)
そこを曲がると 突然岩の隙間が見えた。ここを潜るようだ。割れ目の向こうに石垣が見えている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/ea/9be4c8d000b9a1610b3c0212f90c7ada.jpg)
割れ目を潜り抜けると 石垣の上にお社が見えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/31/007d98861647f972742b2944b11a99d3.jpg)
なんの看板も無いが、ここが韓竈神社のようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/8c/4ab7cbeee173fb4d39a630e0baa021fa.jpg)
沢山のノートが積み上げられていて、パラパラっとめくると沢山の方が全国から参拝に訪れているようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/9a/ec659606a20dc1be7b32b4da3434ca83.jpg)
再び岩の割れ目を潜って下山する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/5e/dfbc5866a3ddc3ed43be6d02daa64098.jpg)
鳥居の脇に 竹の杖がたくさん置いてあったが、杖を借りてきて正解だった。
石段は長くて急で、滑りやすく とても危険だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4f/ab99dcd39e5a1d954665d98c25b846d5.jpg)
鳥居の先に標識があり、それには「ここを進むと出雲北山弥山登山口」と書いてある。
いつかここから弥山へ登ってみよう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/28/504d5be5bc3f7017616101cf8d77d42f.jpg)
その横には「岩船」と書いた巨岩があり、徐福(素戔嗚)がこれに乗って朝鮮からやって来たと書いてある。
徐福の子孫の秦国人たちは 巨岩の舟が好きなようだ。徐福の子孫である九州物部王家の第二次東征で
イクメ王が河内から大和へ入るとき 越えた山は「イクメ」にちなんで「イコマ」と名づけられた。
その山中にもイクメが乗って来たという「岩船」が祭ってある。交野市の「岩船神社」だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/a8/bb6d90347a956607ad223bd420723a7f.jpg)
紅葉のちらほら見える林道を歩いて駐車場へ戻った。
引き返す途中で 沢山の若い女性が 雨の中三々五々林道を歩いて韓竈神社へ向うのにすれ違った。
紀元前3世紀末、沢山の海童たち(秦国人の青少年男女)を引き連れて石見海岸の五十猛海岸に上陸し、
部下の穂日やその息子夷鳥、それに連れて来た海童たちと出雲王国内で 大暴れして
果ては 第八代主王八千矛王、第八代副王八重波津身少彦を相次いで幽閉殺害した徐福が
縁結びの神様なんて どこでどう間違ったのか、恐ろしい事だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福(素戔嗚すさのお)のこと
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福ですが、日本書紀の神代の項に「素戔嗚の命の子の名前を五十猛(香語山)の命という」とあります。
五十猛は徐福と古代出雲王家の高照姫(第七代主王天の冬衣の姫皇女)との長男なので徐福が素戔嗚のことだと分かります。
また記紀のなかでは 徐福をスサノオと書きその娘をスセリ姫として 大国主と結婚させるという無茶苦茶なストーリーになっています。
徐福の娘という スセリ姫とか 徐福とけっこんしたという 稲田姫とかクシナダ姫とかはすべて記紀で作られた架空の人です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(架空の人を作り上げるのは記紀の特徴で だから記紀は歴史資料ではなく 歴史小説といわれるゆえんです。
このほか 神武やヤマトタケルなどが作られた人物で また 短命に終わった物部王朝を隠すために 記紀は
一度も大和へ来たことのない九州物部のイ二エ王(贈り名は崇神)を大和の物部王朝の大王としたり、
オキナガタラシ姫(神功皇后)の部下の豊前中津彦を仲哀大王と格上げしたり さまざまな作り事があります)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
紀元前三世紀末に徐福は 部下の穂日を出雲王国に遣わし 上陸の許可を得ます。
このときの出雲王家への献上品の銅鏡や銅剣が長く出雲王家に残されていたといいます。
石見の五十猛海岸に上陸した徐福は 和名を「火明り(ホアカリ)」と名乗ります。
そして第七代主王の「天之冬衣」の姫君高照姫と結婚し 長男五十猛を設けます。
だから 徐福の娘と大国主が出会うはずは無いのです。
ちなみに大田市の五十猛海岸は「素戔嗚が上陸した地点」として観光名所になっています。
私も一度訪ねました。ブログにも書いています。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/d07ad4f17ba2956bc314a0a50a26fa5b
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福と穂日その息子夷鳥と海童たちは 出雲王国内で大暴れして 村々の信仰の竜蛇神などを叩き壊して回ったそうです。
挙句の果ては、出雲王国の主王(八千矛ほ記紀では大国主)、副王八重波津身(記紀では言代主)を相次いで幽閉殺害します。
二人が幽閉殺害された場所の記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/f4ea65d35648dfaec19543d2603822d3
一旦秦国に帰国し 更なる資金と 海童たちを秦の始皇帝からもらいうけた後 二度目の渡来時には佐賀県の浮杯に上陸します。
このことは魏書に詳しく書いてあるそうです。再船出した場所もシャントン半島です。
そして 再上陸した徐福は 和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り、出雲王家の九州分家 宗像家の市杵島姫と結婚し、
次男穂穂出見(ほほでみ)と長女穂屋姫を設けま す。
そしてそのときには すでに大国主たちは 徐福の部下穂日と穂日の息子のヒナドリたちに幽閉殺害されていたので
徐福の娘と大国主が出会う事はありえないのです。
ちなみに徐福の長男五十猛の家系から初代大和大王の天の村雲が出ます(磯城王朝)。
しかし腹違いの次男の穂穂出見の家系から出た 九州物部王家のイクメ王に倒されます。
イクメ王は大和を平定し 大和の大王となり イクメ大王(贈り名は垂仁)となります。
その話が「山幸彦と海幸彦の兄弟喧嘩」の御伽噺になるのです。つまり兄が負けて弟の家来になるのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また記紀では 素戔嗚は乱暴物に書かれます。徐福や海童が出雲王国内で暴れまわったからでしょう。
「各地の神聖な場所に 糞尿をばら撒いたり、姉のアマテラス(古代出雲で信仰された太陽の女神です)の部屋に
馬の皮を剥ぎ取り、投入れてそのためアマテラスは 怒って窟の中に隠れて 世の中が暗黒になります。
その太陽の女神を窟から誘い大ためにさまざまな踊りを 天の菟津女の命(彼女は実在の宇佐王家のトヨ姫
つまり豊来入姫ー記紀では豊鍬入姫です)が踊ったりしたお話が作られました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そんな暴れ者の 殺人者の徐福が縁結びの神様だなんて どこでどう間違ったのでしょうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
占い師の江原 啓之氏が ここを訪ねて「ここは凄いパワーの満ち溢れているスポットだ」と言ったとかで
一気に有名になったらしい。それがいつの間にか 「若い女性の間で「縁結びの願いがかなうパワースポット」
になったという。その韓竈神社へ行ってみた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
韓竈神社 出雲市唐川町後野
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/dd/0fb9060686a1bc854c8c14723ce22f98.jpg)
駐車場の周りは茶畑が広がる山間の谷だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/fd/cc2fda1daa3db653ad374d7b7e2f5edb.jpg)
林道入口に「車で入らないでください」と書いてある。15分ほど林道を歩いていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/3f/95ad28997ddd3e59feda99da7d7577a5.jpg)
周りの黄葉を楽しみながら歩く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/6f/46cc906575f9f8ffbaf3c7f6d34023e3.jpg)
やがて鳥居が現れた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/62/58731f2fe4163d67941dbcf54b85d0cc.jpg)
韓竈神社の説明看板だ。素戔嗚が(秦国から)朝鮮半島へ渡り、(出雲に)やって来たと書いてある。
韓竈とは朝鮮からわたって来た釜のことだと書いてある。
この韓竈の竈と言う字は特殊だ。以前物部の五瀬を祀る和歌山市の竈山神社の竈の字と同じだ。
五瀬は徐福の子孫なので、竈の字は徐福か物部と関係があるのかもしれない。
秦国人の道教信仰と関係があるかも知れない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/af/a47976b725494b97208092dd7202387e.jpg)
鳥居を潜る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/a5/d2d3bf22a6006168c5968fe56aadb1fe.jpg)
古い石段が続く。苔むして滑りそうな場所もある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/4f/b6415215a210e0aa8e23660c7b00b6c1.jpg)
暫く石段を登って振り返ると 鳥居が小さく見える。石段はまだまだ上へ続くようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/92/ee86d9d658b9eb567cf46257e5342110.jpg)
息を切らしながら石段を登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/ab/a6a824f3d06a25f00c279c52c6873693.jpg)
巨岩を削った階段が現れて、その先に木の根階段が続く。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/01/e331379d2bd46647dfab1b787d57791f.jpg)
そこを曲がると 突然岩の隙間が見えた。ここを潜るようだ。割れ目の向こうに石垣が見えている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/ea/9be4c8d000b9a1610b3c0212f90c7ada.jpg)
割れ目を潜り抜けると 石垣の上にお社が見えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/31/007d98861647f972742b2944b11a99d3.jpg)
なんの看板も無いが、ここが韓竈神社のようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/8c/4ab7cbeee173fb4d39a630e0baa021fa.jpg)
沢山のノートが積み上げられていて、パラパラっとめくると沢山の方が全国から参拝に訪れているようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/9a/ec659606a20dc1be7b32b4da3434ca83.jpg)
再び岩の割れ目を潜って下山する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/5e/dfbc5866a3ddc3ed43be6d02daa64098.jpg)
鳥居の脇に 竹の杖がたくさん置いてあったが、杖を借りてきて正解だった。
石段は長くて急で、滑りやすく とても危険だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/4f/ab99dcd39e5a1d954665d98c25b846d5.jpg)
鳥居の先に標識があり、それには「ここを進むと出雲北山弥山登山口」と書いてある。
いつかここから弥山へ登ってみよう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/28/504d5be5bc3f7017616101cf8d77d42f.jpg)
その横には「岩船」と書いた巨岩があり、徐福(素戔嗚)がこれに乗って朝鮮からやって来たと書いてある。
徐福の子孫の秦国人たちは 巨岩の舟が好きなようだ。徐福の子孫である九州物部王家の第二次東征で
イクメ王が河内から大和へ入るとき 越えた山は「イクメ」にちなんで「イコマ」と名づけられた。
その山中にもイクメが乗って来たという「岩船」が祭ってある。交野市の「岩船神社」だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/a8/bb6d90347a956607ad223bd420723a7f.jpg)
紅葉のちらほら見える林道を歩いて駐車場へ戻った。
引き返す途中で 沢山の若い女性が 雨の中三々五々林道を歩いて韓竈神社へ向うのにすれ違った。
紀元前3世紀末、沢山の海童たち(秦国人の青少年男女)を引き連れて石見海岸の五十猛海岸に上陸し、
部下の穂日やその息子夷鳥、それに連れて来た海童たちと出雲王国内で 大暴れして
果ては 第八代主王八千矛王、第八代副王八重波津身少彦を相次いで幽閉殺害した徐福が
縁結びの神様なんて どこでどう間違ったのか、恐ろしい事だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福(素戔嗚すさのお)のこと
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福ですが、日本書紀の神代の項に「素戔嗚の命の子の名前を五十猛(香語山)の命という」とあります。
五十猛は徐福と古代出雲王家の高照姫(第七代主王天の冬衣の姫皇女)との長男なので徐福が素戔嗚のことだと分かります。
また記紀のなかでは 徐福をスサノオと書きその娘をスセリ姫として 大国主と結婚させるという無茶苦茶なストーリーになっています。
徐福の娘という スセリ姫とか 徐福とけっこんしたという 稲田姫とかクシナダ姫とかはすべて記紀で作られた架空の人です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(架空の人を作り上げるのは記紀の特徴で だから記紀は歴史資料ではなく 歴史小説といわれるゆえんです。
このほか 神武やヤマトタケルなどが作られた人物で また 短命に終わった物部王朝を隠すために 記紀は
一度も大和へ来たことのない九州物部のイ二エ王(贈り名は崇神)を大和の物部王朝の大王としたり、
オキナガタラシ姫(神功皇后)の部下の豊前中津彦を仲哀大王と格上げしたり さまざまな作り事があります)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
紀元前三世紀末に徐福は 部下の穂日を出雲王国に遣わし 上陸の許可を得ます。
このときの出雲王家への献上品の銅鏡や銅剣が長く出雲王家に残されていたといいます。
石見の五十猛海岸に上陸した徐福は 和名を「火明り(ホアカリ)」と名乗ります。
そして第七代主王の「天之冬衣」の姫君高照姫と結婚し 長男五十猛を設けます。
だから 徐福の娘と大国主が出会うはずは無いのです。
ちなみに大田市の五十猛海岸は「素戔嗚が上陸した地点」として観光名所になっています。
私も一度訪ねました。ブログにも書いています。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/d07ad4f17ba2956bc314a0a50a26fa5b
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福と穂日その息子夷鳥と海童たちは 出雲王国内で大暴れして 村々の信仰の竜蛇神などを叩き壊して回ったそうです。
挙句の果ては、出雲王国の主王(八千矛ほ記紀では大国主)、副王八重波津身(記紀では言代主)を相次いで幽閉殺害します。
二人が幽閉殺害された場所の記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/f4ea65d35648dfaec19543d2603822d3
一旦秦国に帰国し 更なる資金と 海童たちを秦の始皇帝からもらいうけた後 二度目の渡来時には佐賀県の浮杯に上陸します。
このことは魏書に詳しく書いてあるそうです。再船出した場所もシャントン半島です。
そして 再上陸した徐福は 和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り、出雲王家の九州分家 宗像家の市杵島姫と結婚し、
次男穂穂出見(ほほでみ)と長女穂屋姫を設けま す。
そしてそのときには すでに大国主たちは 徐福の部下穂日と穂日の息子のヒナドリたちに幽閉殺害されていたので
徐福の娘と大国主が出会う事はありえないのです。
ちなみに徐福の長男五十猛の家系から初代大和大王の天の村雲が出ます(磯城王朝)。
しかし腹違いの次男の穂穂出見の家系から出た 九州物部王家のイクメ王に倒されます。
イクメ王は大和を平定し 大和の大王となり イクメ大王(贈り名は垂仁)となります。
その話が「山幸彦と海幸彦の兄弟喧嘩」の御伽噺になるのです。つまり兄が負けて弟の家来になるのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また記紀では 素戔嗚は乱暴物に書かれます。徐福や海童が出雲王国内で暴れまわったからでしょう。
「各地の神聖な場所に 糞尿をばら撒いたり、姉のアマテラス(古代出雲で信仰された太陽の女神です)の部屋に
馬の皮を剥ぎ取り、投入れてそのためアマテラスは 怒って窟の中に隠れて 世の中が暗黒になります。
その太陽の女神を窟から誘い大ためにさまざまな踊りを 天の菟津女の命(彼女は実在の宇佐王家のトヨ姫
つまり豊来入姫ー記紀では豊鍬入姫です)が踊ったりしたお話が作られました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そんな暴れ者の 殺人者の徐福が縁結びの神様だなんて どこでどう間違ったのでしょうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー