古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

60. 旧出雲王国領の稲葉(因幡)の国を歩く 2017.10.12 その1宇部神社

2017年10月19日 23時01分11秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
古代出雲王国は紀元前6世紀頃成立し、当時和国で唯一の王国でした。
特に第七代主王(役職名は大名持ち)の臣津野(おみつぬ)の時代は
領土が大きく広がり、臣津野は「国引き王」と尊敬されました。

上の絵は「国来(くにこ)、国来(くにこ)」と人々を励まして 国土を引き寄せる臣津野王です。
(臣津野を祀る 出雲市長浜神社)
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当時は東は越の国(第八代副王 八重波津身に御輿入れされた沼川姫も越の国の方です。)から西は
宗像王国(臣津野王の皇子吾田片隅が移住して造りました)まで広範囲でした。当然伯耆、稲葉の国も
出雲王国でした。

当時の出雲王国は 各地を武力で制圧したのではなくて、国教「幸の神三神」の信仰を媒体にして各地の豪族を
束ねた宗教国家でした。

その稲葉の国の出雲王国の名残を尋ねます。
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その1 宇部神社 武内宿禰が住んだ場所が起源の神社
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記紀で武内宿禰と書かれた 武内臣太田根(たけしうちのおみ おおたね)はもともと物部武内彦だった。
西暦232年頃 九州物部王家のイ二エ王(記紀では崇神)が大和の磯城王家を倒すべく東征を開始して
とりあえず日向に 都萬王国を立て宇佐王家の宇佐豊玉姫(魏書ではヒミコとかかれた)と都萬宇佐連合王国を
打ち立てて 東征の準備に掛かり、各地から旧物部家の重鎮を呼び寄せ始めた。

紀の国にいた 物部彦布都押も息子の物部武内彦と共にかけつけた。才能溢れる武内彦はイ二エ王にかわいがられて
物部家の重鎮の称号「宿禰(すくね)」を貰う。このときから武内宿禰家を名乗る。
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しかし宇佐豊玉姫はイ二エ王の皇子イクメ(記紀では垂仁)やわが子豊彦(記紀では豊鍬入彦)より武内宿禰が
頭角を現すのを恐れた。 魏へ何回も献朝に行った武内宿禰、田道間守、イクメ皇子のうち 渡来朝鮮人の子孫但馬の
田道間守やイクメ王(魏書ではイサチと書かれた)は魏から中朗将という役職をもらっているのに ヒミコが親書に
何も書かなかったばかりに武内宿禰は 無官のままだった。

失望した武内宿禰は 東征戦争のさなかに イクメ軍を裏切り 磯城王朝側に付く。しかし磯城王朝軍はイクメ軍
に破れて 最後の磯城王家彦道主大王は娘のヒバス姫をイクメ王に差し出して 降伏し稲葉国造として 武内宿禰と共に
稲葉の国に住む。この時点でイクメ王は 名実共に大和の大王となり、石上神社で執政を行う。

武内宿禰はこの地に暮らしていたが ある日ヒバス皇后から「イクメ大王が武内宿禰に刺客を放った」と連絡を受けて
衣服を農民の姿に変えて 直ちに 旧出雲王家の向井家に助けを請う。向井家は武内宿禰を匿い 意宇の森に住まわせて
王家の娘を嫁がせて 出雲王家の称号 「臣」を与え 武内の臣太田根と名乗り意宇の森で生涯を終える。
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この旧出雲王家が武内宿禰の命を救った事が 後の和国の歴史に大きな影響を与えます。

息長帯姫(おきながたらしひめ記紀では神功皇后)と共に三韓征伐に大成功して 大君となった襲津彦王やその後の
ホムタ大王、(記紀では応神)、オオサザキ大王(記紀では仁徳)やそれに続く魏書にいう和の五王などの大王や
蘇我臣家、平群臣家などの豪族を生み出し 和国の歴史を動かすのです。
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武内宿禰の系列です。和国の中心となる錚々たる人物の祖先です。
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宇部神社参道入口です。一宮なので恐らくここら当たりに一の鳥居があったのではないでしょうか。
私の個人的な感想ですが。
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これが現在の一の鳥居です。昔は二の鳥居だったのかもしれません。
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今の二の鳥居です。この鳥居を潜ると長い石段へ続きます。
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長い石段を登ると
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なにやら大きな垂れ幕が掛かっていました。酉年にちなみ鳥戦ーちょうせんと読むのでしょう。
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広い境内です。
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拝殿の前には 御所に似せて右近の橘、左近の桜が植わっていました。武内宿禰から沢山の大王が輩出した事
を暗示しているのでしょう。ちなみに左近の桜は枯れたのか、今は三春の滝桜の娘桜が植わっていました。
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拝殿とそれに続く本殿です。
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残念ながら 本殿は大社造りではありませんでした。しかし千木は出雲式の縦削ぎです。
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拝殿のちょうちんの菊の紋も大王の祖先を暗示しているのでしょう。
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境内の池と赤い端の由緒は不明でした。
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拝殿から境内を見たところです。この右手に面白いものがあるので見に行きました。
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宇部神社の由緒書きです。作り話の記紀のとおりです。五代の大君に使えて齢360歳で あの世へ旅立ったとか、
応神の成長を見守ったとか、デタラメブリに笑ってしまいますね。360歳まで生きた人間が古今東西いるのでしょうか。
応神の父親は襲津彦大王です。記紀ももう少しまともな嘘を造ればいいのに。
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其処から少し丘を登ると双履石成る者がありました。武内宿禰がはいていた草履をここに脱いであの世へ旅立ったそうです。
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武内宿禰は イクメ大王が放った刺客のことを聞くと 急いで衣服と草履を脱ぎ捨てて 農民の姿に変装して
出雲の向家へ逃れました。その草履が石になったそうです。
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神社の脇の山道を進むと伊福吉部徳足姫の墓所があるというのでいってみました。
たまたま通りかかった地元の方に道を聞くと「ここから歩いていくとお墓だが、今は放置された梨畑の
有刺鉄線や倒木が道を塞ぎ 人間は通れないよ。猪の巣だけん」と言われました。
少し進みましたがあまりにも酷い状態で 進めませんでした。

伊福吉部家は宇部神社の社家で 出雲王家の親戚で、徳足姫は文武天皇に采女として仕え従7位の官位を貰っていたと
墓碑に書いてあるそうです。
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次は稲葉神社です。
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61. 旧出雲王国領の稲葉(因幡)の国を歩く 2017.10.12 その2稲葉神社

2017年10月19日 22時04分13秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
その2 稲葉神社 日向襲津彦が三韓征伐の折に戦勝を祈念してこの地に旗を立てたのが始まりとされる。
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三韓征伐について
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オキナガタラシ姫(息長帯姫)は 1世紀後半に朝鮮半島辰韓から渡来した辰韓の王子ヒボコの子孫です。

ヒボコは最初出雲王朝の直轄地に上陸しようとしたが、出雲の法律を守る事を拒否したため 出雲王に
上陸を拒否され、当時誰も住めなかった 丹波円山川上流の湿地帯に上陸し 苦労して開拓したという。

オキナガ姫はイクメ大王の孫 ワカタラシ大王の后になり、後の贈り名は神功皇后です。

そのとき辰韓が滅び新羅となりました。オキナガ姫皇后は新羅に対し辰韓の財産の分与を要求したが拒否されます。

夫君のワカタラシ大王に朝鮮出兵を持ちかけるが拒否されました。そのあとワカタラシ大王は戦死されます。

そこでオキナガ姫は当時の豊前の大豪族、豊前中津彦に相談されるが これも拒否されて かつ中津彦も戦死します。

記紀はイクメ大王に始まる物部王朝が三代で終わった事を隠すため中津彦を大王に格上げして「仲哀」としているが
豊前中津彦は大王ではなく、オキナガ姫皇后の部下で 単なる豊前の豪族の王です。

次にオキナガ姫皇后は日向ソツ彦に相談されてソツ彦は 朝鮮出兵を快諾されます。

ソツ彦大王は初代大和大王「天の村雲大王」の異母弟高倉下(たかくらじ)の子孫の武内宿祢のひ孫で
武内臣ソツ彦といい 日向の王となられていたので日向襲津彦とも呼ばれていました。
高倉下の母姫は出雲王家の大屋姫だからソツ彦大王も当然出雲王家の血を引くお方なので臣を名乗っておられたのです。

襲津彦王は華麗な人脈を生かして紀伊家、尾張家、丹波海部家など全国から水軍を組織して三韓征伐の総大将となり、
朝鮮半島に向われた。

海上を埋め尽くした夥しい軍船を見た新羅王は戦わずして降伏したという。その後百済も降伏させたという。
三韓征伐に大成功を収めた結果、和国には朝鮮から莫大な税が入ってくるようになりました。
そして襲津彦王は大和に凱旋し 大王となられました。

また物部王朝を長く存在したように見せるため、九州から一度も出ずに病死したイクメ大王の父君イニエ王を
大和の大王に格上げして「ミマ来入彦イニエ大王」とでっち上げて 任那からイニエ王がやってきた事にしています。
しかし 任那ができたのは ソツ彦大王とオキナガ姫の三韓征伐が成功したずっと後の話なのです。
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襲津彦大王の活躍舞台の変遷を曽祖父の武内宿禰からまとめました。
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記紀ではホムタ大王は息長姫と中津彦の子だとしていますが、ホムタ皇子が生まれたのは三韓征伐の後なので
当然 ホムタ大王の父親は襲津彦大王です。

しかし実際のホムタ皇子は7歳にして夭折されました。息長姫は困り果てられました。お世継ぎが居ないと
新羅が年貢の支払いをしなくなるのは目に見えているからです。

そこで親交のあった上毛野国造家の竹葉瀬ノ君が同じ7歳と知り 秘密裏に呼び寄せて息長家の皇子としました。
竹葉瀬ノ君は 宇佐豊玉姫が生んだ 豊彦(記紀では豊鍬入彦と書かれた)がイクメ大王に追われて東へ逃げた
子孫である。その話を聴いて 一番喜んだのが 宇佐八幡宮である。

もともと宇佐八幡宮は 豊玉姫(魏書でヒミコと書かれた一番最初の姫)を祀っていたが その竹葉瀬ノ君の話を聴いて
急遽ホムタ大王とおまけにホムタ大王の母親とされる 息長姫を祀り 現在も主祭神 はこのお三方です。
一般的には 宇佐八幡と何の関係も無い ホムタ大王、息長姫が主祭神 に成っているのは こんな意味があったのです。

そして でっち上げの歴史小説である 記紀は 物部王朝を長く存在したように見せるため、九州から一度も出ずに
病死したイニエ王(イクメ大王の父君)を大和の大王に格上げして「ミマ来入彦イニエ大王」とでっち上げて 
任那からイニエ王がやってきた事にしています。

しかし 任那ができたのは ソツ彦大王とオキナガ姫の三韓征伐が成功したずっと後の話なのです。

また不比等や持統たちは、魏書に何度も登場している「ヒミコ」を無視し続けていますが、どうも
神功皇后をヒミコと思わせようとしていたのではないでしょうか。武内宿禰が偽書に何回も書かれていますが
彼を300年以上長生きさせて 息長姫の時代まで活躍させたのは その表れだと思います。

※偽書では武内宿禰を載斯烏越(さいしうえつ)と書いていますが戴斯烏越(たいしうえつ)の戴と載の写し間違いと思われます。
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また襲津彦大王の弟武内臣若子の娘岩野姫はオオサザキ大王(仁徳)の皇后となり、イザホワケ大王をお生みになった。
それで当分ソツ彦王家が続くのです。
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稲葉神社について
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三韓征伐の準備中、襲津彦王は親族の住む紀州、日向はもちろんの事、尾張や丹波但馬若狭で勢力を持つ
名門海部家の建振熊(たてふるくま)宿禰からも協力を取り付けて 多くの漁船軍船を集めました。

その途中 この地に立ち寄り稲葉山の麓にある金亀にある祖先の墓所にお参りしたあと この地に旗を立てて
戦勝を祈ったといわれます。それがこの稲葉神社のはじまりです。
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稲葉神社の表参道は分かりづらくて 近寄れませんでした。裏側には大きな道路が走っていて、隣には稲葉小学校が
あり、そこの駐車場に勝手に車を止めさせてもらいました。ごめんなさい。
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境内は比較的広く、良く整備されていました。
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拝殿です。近所の方が何人か御参りされていました。
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本殿です。残念ながら大社造りではありませんでした。しかし千木は出雲式の竪削ぎなので安心しました。
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本殿と拝殿の間に 大きな石がありました。
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説明書きを読むと なんと武内宿禰が 三韓征伐のときにこの地に旗を奉納して 戦勝を祈願したときに腰掛けた石だとあります。
まあでっち上げの記紀の内容に従っているので しょうがないですが武内宿禰の日孫の襲津彦の活躍が
武内宿禰と混同して書かれているのは 理解出来ませんね。おまけに武内宿禰は 玄孫(やしゃご)のホムタ大王にも
仕えたと書いているので数百年も生きた事になるのです。もう少しまともな嘘を並べれば良いのに 記紀の編集者は
なにか 思惑があってそうしたのでしょうね。作者の太安万侶も出雲王家の血を引くお方ですから 何かしら暗示
したかったのでしょう。 
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境内には変わったものがありました。古代出雲の 鳥居の原型です。二本の丸太を立てて その間に注連縄を渡すものです。
やがて幸の神三神信仰が盛んになると 三つ鳥居に変化します。

※ 三つ鳥居は 出雲市長浜神社や奈良県櫻井市檜原神社に現存します。
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次は白兎神社です。
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62. 旧出雲王国領の稲葉(因幡)の国を歩く 2017.10.12 その3白兎神社

2017年10月19日 22時03分24秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
その3 白兎神社
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白兎神社は 九州物部軍の大和への東征時イクメ王本体が瀬戸内海を東進して吉備王国と激戦を繰り広げていたときに
別動隊は 日本海を北上東進して 出雲王国を激戦の末降伏させて、更に東進する途中、稲葉の国の伏野に
しばらく滞在した。その前進基地の跡が 宇佐社となり、更に白兎神社と名を変えた。
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まず 古代出雲王朝の王制に付いて

古代出雲王朝は東と西の二つの王家があった。西は「神門臣家」で東は「向家」でそれぞれ交互に 主王
(役職名は大名持 おおなもち)と副王(役職名は少彦 すくなひこ)を出していました。
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九州筑後平野に和国へ2度目の上陸をした秦国人徐福(記紀では素戔嗚)の子孫が打ち立てた「物部王家」は西暦232年に
イニエ王(記紀では崇神と表記)は第2次東征を決意し南下を始めました。

そして日向の地に「都万(つま)王国」を作り 宇佐の豊王国から豊玉姫を迎え「都万豊連合王国」を作った。
皇子のイクメは瀬戸内海を東進し 吉備で吉備王国の激しい抵抗を受けていました。

別動隊の曙立王(あけたつおうー大和の登美家の分家)と菟上王(うのかみおうー宇佐家)が日本海を東進して
西出雲王家を急襲した。第17代大名持ちの「山崎帯王(やまさきたらし)」は当時智井宮宮殿(出雲市神門町)に居たが 
慌てふためいて背後の山に逃げ込んだ。そこに新宮を建て 抵抗したがやがて降伏しました。

その新宮で講和条約が結ばれ 物部軍が西出雲に駐留することとなった。新宮は後々まで(江戸時代頃まで)も
「和評り(わはかり)の宮」と呼ばれたが、現在は「久奈子神社」となっています。

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一方 都万豊連合王国の別動隊が日本海を進み 東出雲王家を急襲した。

西暦80年頃に渡来した朝鮮人(辰韓の王子)ヒボコの子孫 田道間守(たじまもり)が東出雲王家(第17代少彦 野見彦)
の宮殿の田和山神殿(松江市田和山町)を襲い破壊した。田道間守は直ちに日本海を東進続け 既に大和入りしていた
都万豊連合王国 イクメ王と合流する。

その後武諸隅(たけもろずみ)率いる物部軍が伯耆の国日野郡から大量に侵入し東出雲王家も降伏する。
野見彦は宮殿を物部軍に明け渡し、向家は八雲に移る。進駐軍の大将が 物部の十千根です。

物部軍は宮殿の建物に駐留し それが今の松江市「神魂(カモス)神社」であり、向家の住まいが今の松江市「熊野大社」である。

と言うことで第17代大名持ち「山崎タラシ王」、少彦「野見彦」で古代出雲王朝は終わりとなる。
※田和山神殿跡は 現在公園として 整備され、誰でも見学できます。
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白兎神社と兎神について
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稲葉の国伏野にしばらく滞在した菟上王は豊王国宇佐家の御子だったから 宇佐の兎神(月神)を信仰していた。
月の中に兎がいるので 「月読みの神」を兎神とも称した。

うさぎ神宮の「ぎ」を省略した発音が「宇佐神宮」になったと宇佐神宮社家の伝承にあるそうです。
そして宇佐王家の人は名前に菟の字を入れるのが 仕来りでした。菟上王(うのかみおう)がその例です。

豊国軍の一部は伏野の占領軍として残り、そこに宇佐社を建てた。祭神は月神(兎神)と豊玉姫である。

※イ二エ王が都萬王国の西都原で病死した後 東征軍最高指揮者として頑張った宇佐豊玉姫も東征途中安芸の宮島で
病気になりその地で病死します。遺体は宇佐に運ばれて宇佐神宮に祀られます。
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一方もともと 稲葉の隣、伯耆の国の中山に兎の話があった。川の流木に乗った兎が海に流された話です。
また物部東征軍が大和へ進撃し 大和から追い出した大和朝廷は 磯城王朝で櫻井市和邇(わに)にありました。

そして古代出雲王朝では 龍蛇神信仰が盛んでしたが、ワニ(鮫のこと)も恐れられて 神として崇められていました。
稲葉の伏野に住んだ豊国系の人々は 和邇王国や出雲人が尊敬するワニに対抗心を燃やして、伯耆の民話を
作り変えて ワニが兎に害を与える悪者にして、かつ兎神が大国主より偉いという話にしました。

当時の和国には 白い兎は存在しませんでしたが「稲葉の白素(はだか)ウサギ」の話に作り変えました。
そして宇佐社を白兎神社に名前を変えました。
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記紀の作り話では、大国主は兄達と八上姫にプロポーズしにこの地を通りかかったという。そして悪い鮫に皮を
剥かれたウサギを助け、そのウサギは 大国主に「兄達は八上姫を得ることは出来ないだろう。兄たちの荷物を
背負った お前が比売を得るであろう。」と宣ったという。
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紀元前2世紀末の 当時和国唯一最大の王国 出雲王国の第八代主王 八千矛王には兄は居ません。
まして当時の王が人の荷物を背負って旅するなどありえません。そして一地方豪族の娘「稲葉の八上姫」に
わざわざプロポーズには来ません。王には何人も后が居て 地方豪族がこぞって娘を王に差し出している
状況です。稲葉のハダカウサギの話は 正に出雲に敵愾心を抱いていた奴らが作った話だと直ぐ分かります。
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現在の白兎神社
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白兎神社一の鳥居です。
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鳥居を潜ると長い石段を登ります。
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石段の左右には ウサギの置物があります。
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石段の上の小屋には砂像があります。
大国主が八上姫にプロポーズしているように見えてそれをウサギが見守っています。
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境内のイチョウは色づき始めています。ハート型の絵馬は恋愛成就の祈りのようです。読んではいませんが。
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立派な注連縄の下がる拝殿です。立派な注連縄は出雲族のまねをしています。豊国人は兎神を信仰しているくせに
出雲人の信仰する龍蛇神を真似しています。この注連縄は 子供を孕んだおめでたい大蛇を現しています。
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この拝殿の屋根の反りは宇佐八幡宮の屋根の反りに似せたといわれています。
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本殿と千木は 出雲式の竪削ぎと大社造に見えます。それもそのはず 宇佐王家はもともと出雲王朝第六代
主王で国引き王の臣津野の次男吾田片隅が九州へ移住して始まった宗像家が元になっていますから。
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境内にある「不増不減」の池です。皮を剥かれたウサギがこの池で体を洗ったそうです。
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本殿の柱の基礎は菊の花の紋章が掘り込んであります。何故かわかりませんが。
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神社の由緒看板です。古事記の神話の話しかかいてません。菟上王も宇佐豊玉姫も全く出てきません。
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本殿に付いている神紋は遠いので良く見えませんが 亀甲剣花菱のようです。
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こちらは 今の出雲大社(大国主こと八千矛王を祀る)や出雲市阿須岐神社(徐福やその部下穂日
ー今の出雲大社宮司の祖先たちに幽閉殺害された八千矛王の御子味鋤高彦を祀る)の神紋で二重亀甲剣花菱紋です。
出雲王族だけが使用できる紋を なんとウサギが使っています。戦争に勝てば豊国人もやりたい放題ですね。
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白兎神社一の鳥居の前には なんと「恋人達の聖地」の看板と橡が。白兎神社もなかなか客集めの商売上手だこと。
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