古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

大阪府羽曳野市大塚山古墳、奈良県天理市東大寺山古墳、和邇神社、大和神社、石上神社 2015年7月20日

2015年07月22日 18時59分28秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
今回訪ねたのは
1.大阪府羽曳野市 河内大塚古墳 日向ソツ彦(オキナガ姫と共に三韓征伐を成功させた王)の墓

2.奈良県天理市東大寺山古墳 イクメ大王の皇后ヒバス姫が造りなおした父上のミチヌシ大王の墓稜

3.天理市和邇に坐(わににいます)赤坂彦神社(和邇家始祖出雲王家分家の阿田賀田須を祭る)

4.天理市石上神社 イクメ大王が政治を行ったところ

5.天理市大和神社 大国主を祭り 戦艦大和に分祀された神社  以上である。
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1.河内大塚古墳
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宮内庁の石碑が立っている。
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後から付け加えたと思われる通路があった。
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要するに誰の墓か分からないと書いてある。明治時代に数十軒の民家をどかしたらしい。
宮内庁が「陵墓参考地」としたと言うことは つまり皇族の墓らしいといっているのだ。
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大きな古墳の周りの堀は未だ健在である。堀の周りは車で一周できる。
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このお墓は日向ソツ彦(武内ソツ彦)大王の墓である。

オキナガタラシ姫(息長帯姫)は 1世紀後半に朝鮮半島辰韓から渡来した辰韓の王子ヒボコの子孫である。

ヒボコは最初出雲王朝の直轄地に上陸しようとしたが、出雲の法律を守る事を拒否したため 出雲王に
上陸を拒否され、丹波円山川上流の湿地帯に上陸し 苦労して開拓したという。

オキナガ姫はイクメ大王の孫 ワカタラシ大王の后になり、後の贈り名は神功皇后といわれる。
そのとき辰韓が滅び新羅となった。
オキナガ姫皇后は新羅に対し辰韓の財産の分与を要求したらしいが拒否された。

夫君のワカタラシ大王に朝鮮出兵を持ちかけるが拒否される。そのあとワカタラシ大王は戦死される。

そこでオキナガ姫は豊前中津彦に相談されるが これも拒否されて かつ中津彦は戦死する。

記紀は物部王朝が三代で終わった事を隠すため中津彦を大王に格上げして「仲哀」としているが中津彦は
大王ではなく、オキナガ姫皇后の部下である。

また物部王朝を長く存在したように見せるため、九州から一度も出ずに病死したイクメ大王の父君イニエ王を
大和の大王に格上げして「ミマ来入彦イニエ大王」とでっち上げて 任那からイニエ王がやってきた事にしている。
しかし 任那ができたのは ソツ彦大王とオキナガ姫の三韓征伐が成功したずっと後の話なのだ。

次にオキナガ姫皇后は日向ソツ彦に相談されてソツ彦は 朝鮮出兵を快諾される。

ソツ彦大王は初代大和大王「天の村雲大王」の異母弟高倉下(たかくらじ)の子孫の武内宿祢のひ孫で
武内ソツ彦といい 日向の王となられていた。高倉下の母姫は出雲王家の大屋姫だからソツ彦大王も
当然出雲王家の血を引くお方だ。

ソツ彦王は華麗な人脈を生かして紀伊家、尾張家、丹波海部家など全国から水軍を組織して
三韓征伐の総大将となり、朝鮮半島に向われた。

海上を埋め尽くした夥しい軍船を見た新羅王は戦わずして降伏したという。その後百済も降伏させたという。
三韓征伐に大成功を収めた結果、和国には朝鮮から莫大な税が入ってくるようになった。
そしてソツ彦王は大和に凱旋し 大王となられた。


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ソツ彦の弟武内臣若子の娘岩野姫はオオサザキ大王(仁徳)の皇后となり、イザホワケ大王をお生みになった。
それで当分ソツ彦王家が続く。

そのソツ彦大王の陵墓が恵我之荘の河内大塚山古墳なのだ。
作ったのはもちろん出雲系の土師集団だという。

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2.東大寺山古墳
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かつては古墳の周りに堀がめぐらされていたと思えるが、今は部分的に数箇所の池が
残るだけだ。
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古墳全体が公園になっている。
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遺跡の説明看板がある。この地に勢力のあった「和邇族」の首長の墓だと書いてある。

この墓はイクメ大王の皇后ヒバス姫が父君「彦道主大王」のために晩年作り直したものだ。
記紀がでっち上げた和邇族なるものは存在しない。出雲王家大和分家の富美(トビ)家第八代当主アタカタスの分家が
和邇に住み和邇家を名乗ったのだ。
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古墳全体はは竹藪に覆われていて、手入れされていない。

約300年続いた磯城王朝最後の大王「彦道主大王」は  万世一系をでっち上げた藤原
不比等らにより、さりげなく 大王から降ろされて和邇族なる豪族の王に格下げされた。

王朝交代がバレて 自分たちが渡来人の子孫の征服王朝だということを隠すため
政権交代なぞ 無かったことにして 隠さなければならなかったのである。

宮内庁も この古墳を管理したいけどできないのだろう。
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東屋があり 天理市内や巻向が見下ろせる。
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イクメ大王が乗り越えてきた生駒山地もすぐそこの 右端にみえる。
磯城王朝の反撃で長い間生駒山地にとどまっていたイクメ大王にちなんで「イクメ(生駒)山地」と名づけられた山並みだ。
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イクメ王との戦いに敗れた道主大王は 娘のヒバス姫をイクメ王に差し出し、因幡の国造となられて
部下の武内宿祢とともに因幡の国へ着任された。

その時点でイクメ王はやっと 大王となられたのである。そして道主前大王は その地因幡で生涯を終わられた。


ヒバス姫皇后は晩年 父の終焉の地の因幡の国に住まわれた後、この和邇の地に父君の陵墓を 
大王にふさわしく作り直されたという。

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3.和邇坐赤坂彦神社(わににいますあかさかひこじんじゃ)
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東大寺山古墳のあちこちに「和邇に坐ます赤坂彦神社」への案内標識があちこちに出ていた。
どうも気になって 案内のとおりに 炎天下の道を歩いたら和邇の集落に入ってしまった。
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この集落の奥に神社があると書いてある。しかし集落の中は迷路だった。
一軒の家のチャイムを押して教えていただいた。
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その神社は集落のはずれにあり、かなり大きな神社だった。
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拝殿も立派だ。
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拝殿から遠くに本殿が見えるが近づけない。
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神社の由緒が気など どこ名もないので 主祭神 を探していたら、とんでもないお方の名前が書いてあったので
びっくり仰天した。なんと「アタカタス」と書いてあるではないか。出雲王家の方なのだ。
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この神社の隣の敷地には子供広場があり、「富の森」と書いてありまたまたびっくり仰天だ。
登美家の名前は桜井市や天理市のあちこちに残されていて、登美家が色彩を行った「登美の祭場の山」は
もともと登美山と呼ばれていたが 現在は鳥見山(とみやま)とよばれていて 登美家の名残の残るそのひとつだ。
桜井市の宗像神社など「登美に坐ます宗像神社」と石碑に大きく書いてある。(宗像家ももちろん出雲王家の分家)
その他「とび」と言う地名が桜井市のあちこちに残る。

その富の森もその名残かもしれない。
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主祭神の天の児屋根とは春日大社の主祭神で鎌足や不比等などの藤原家の祭神とされる。
鎌足などどこの輩かわからないので どうせ後の世に作り上げたものだろう。

阿田賀田須は出雲王家大和分家の登美家第八代当主でその分家が和邇家の始まりと言われる。
つまりこの和邇の地の豪族和邇家の始まりが阿田賀田須なのである。

一方徐福(秦国からの渡来人で記紀ではスサノオと書かれた)の二度目の和国上陸後 后に迎えたのが
宇佐王家の宗像三姉妹の末娘市杵島姫である。

市杵島姫が生まれたホホデミ(穂穂出見)が九州物部家を起こし 物部王家は二度の東征の結果大和大王となるのである。
この姫の父君もまた 吾田片隅(あたかたす)とおっしゃり、この方は出雲王朝第六代主王の臣津野(おみつぬ)
の皇子で 九州宇佐に移住して 宗像家の始祖となられたのだ。

また最後のホムタワケ大王は宇佐八幡に祭られていて、この方はソツ彦とオキナガ姫のあいだに生まれたとされているが
実際はホムタワケ皇子は七歳で早世されたため オキナガ姫が親交のあった上毛野国国造家の竹葉瀬の君が
七歳なので急遽秘密裏に呼び寄せて 養子として育てホムタ大王として即位させられた。

オキナガ姫に跡継ぎがいなくなれば せっかく三韓征伐で毎年入ってくる莫大な税金が朝鮮から
入ってこなくなるからである。

竹葉瀬の君は豊玉姫の長男 豊来入彦(記紀では豊鍬入り彦とかウガヤ葺きあえずと書かれた)の子孫で 
つまりは宇佐豊玉姫の子孫である。

豊玉姫は宇佐豊連合軍の東征で イニエ王亡き後君臨した皇后で 魏書に書かれた二番目のヒミコである。
豊玉姫は宇佐王家の姫なので死後宇佐八幡に祭られていたが、ホムタワケ大王の素性を知って一番喜んだのが
宇佐八幡と宇佐王家だという。

そこであわててオキナガ姫とホムタワケを祀る本殿を増築し、豊玉姫は二の御殿に移されたという。
※現在は二の御殿は 宗像三姉妹が祀られている。
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という事でもう一度 主祭神の表示を見てみると 春日大社の天の児屋根、宇佐八幡のホムタワケ
(八幡大神といわれている)と市杵島姫、そしてこの神社のアタカタスは和邇家の
始祖の阿田賀田須と思えるのである。

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4.石上神社(いそのかみじんじゃ)
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参道を歩いて行く。広く長い参道だ。
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鳥居をくぐってさらに歩いていく。
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珍しい種類の鶏がたくさん歩きながら 大きな声で鳴いている。

記紀の御伽噺では太陽の女神イザナミ(ヒバス姫がモデルといわれている)がスサノオの乱暴に困り
岩戸にかくれてしまい、世の中が真っ暗になったという。そこでなんとかしてイザナミを岩戸から
出てきてもらうべく、鶏を無理に鳴かせて朝がきたとイザナミに勘違いさせようとしたという。
そんな作り話をモデルにして 鶏を神の使いとして たくさん放しているらしい。
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楼門にやってきた。
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門の前に立つと拝殿が見える。
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楼門を潜り、回廊から境内を見たところ。正面に見えるのが拝殿である。
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この神社の神宝とされる七支刀は有名で、百済から謙譲されたという。説明文があり、剣に銘文が
象嵌してありそれを読み解くと 日本書紀の年代を訂正する必要がある云々と書いてある。
詳しい事はよく読めなかったが もともと嘘で固めた記紀だから訂正するもないだろうと思うけど。
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境内には出雲建雄神社というのがあり、その祭神を見てびっくりした。
主祭神は「天の村雲の剣の御霊」と書いてある。

天の村雲の剣とは 大王家の三種の神器の一つで、徐福の長男で五十猛(のちの香語山)の皇子の
天の村雲が初代大和の大王に就任したときに 出雲王家からお祝いに贈られた出雲型の銅剣といわれる。

記紀ではスサノオがヤマタノオロチを退治したときに大蛇の尾から出てきた剣で「草薙の剣」と書き換えられた剣だ。
その剣は天の村雲の実家の海部家から分家した尾張家により持ち出されて、今は尾張熱田神宮に安置されているという。

その剣の神霊が出雲建雄神社として 物部初代王朝の地に祭られているのだからびっくりだ。

徐福の長男 五十猛(後の香語山)の皇子天の村雲が初代大和大王となったが、徐福の次男穂穂出見の子孫の
物部家イクメ大王が 村雲の子孫磯城王朝を倒して物部王朝を打ち立てたのに、磯城家の家宝を祀っている
のだから なんかおかしい。まあ元を辿れば 兄弟の親父は徐福なのだから。
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主祭神はフツノ御霊など物部家の霊剣の御霊とされている。架空の大王の神武がどうのこうのとかいてあるので
おそらく記紀ができた後からくっつけた話だろう。

もともとこの神社はイクメ大王が大和入りして大王として政治を行った地なのだ。

また配祀神として「ウマシマジ」、「イニシキ」が書いてありとても驚いた。
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ウマシマジの尊とは架空の皇子である。

九州物部王家の彦渚建王(魏書にも名前が載っている)の長男物部の五瀬(いつせ)を大将に第一次東征が西暦80年頃
に開始される。

瀬戸内海を通り 紀ノ川河口に到着して上陸しようとすると 紀の国の大豪族で
高倉下の子孫たちが猛烈に反撃してきた。大将の五瀬は毒矢で戦死する。

五瀬の弟たち、稲飯と三毛入りたちは南紀へ迂回して新宮に上陸するがここでも高倉下の子孫たちに攻撃されて
熊野川の中洲から身動きできなかったという。そこで大和へ密使を送り登美家の当主に案内を頼む。

登美家当主 加茂建津野身は 戦乱に明け暮れている大和の平定統一を物部軍と共に行おうと決心する。

そこで加茂建津乃身が出向いて物部軍を先導して今の国道169号線沿いに大和入りし 登美家の領地の
磐余(いわれ)の地に落ち着き 稲飯たちは磐余彦と呼ばれる。

物部軍は登美家の当主に感謝して「ヤタガラス」と崇拝して末代まで感謝したという。
(※当時の支那の神仙思想に基づくヤタガラスの起源に着いては別の機会に説明したいと思います)

つまり 記紀の編集者たちは五瀬亡き後の大将が 稲飯か三毛入りかわからないので「ウマシマジ」という架空の皇子を
考え出したらしい。
(※武内宿禰の異母弟にウマシウチの宿禰と言う人物がいて 記紀の編集者はそれからウマシマジの名前を考え付いたという)

ちなみに私が熊野古道中辺路の熊野灘道を歩いていた時 新宮市の「浜王子神社」に立ち寄るとそこの主祭神は
「稲飯と三毛入」でこのお二人がこの地に上陸されたと書いてあり、びっくり仰天した記憶がある。

記紀のでっち上げの作り話の「神武東征」に毒されていない 歴史の事実が残っていて 
しかも神社の由緒書きに堂々と書いてあり大いに感銘を受けた。

記紀ではその150年後の九州物部王家第二次東征(イクメ王ー贈り名は垂仁)
と第一次東征をあわせて「神武東征」と 無茶な作り話を書いた。

そして神武の即位を古代出雲王家初代主王の八井耳の時代(紀元前六世紀)まで引っ張ってさかのぼらせたものだから
各大王の年代がむちゃくちゃになったのだ。150年くらい生きた大王が何人もいらっしゃることになった。
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また「イニシキ」とはイクメ大王の長男でこの方はイクメ大王の王位を後継せず、
次男の「オシロワケ」が大王を継いで「景行」と贈り名をつけられた。

長男のイニシキは河内の国でタタラを行い鉄剣を百振り造り 石上神社に奉納したといわれているお方だ。

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5.大和神社
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たまたま前を通りかかった大和神社(おおやまとじんじゃ)に立ち寄った。長い参道を歩く。
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鳥居を潜ると神社名が大きく書いてある。なんと戦艦大和ゆかりの神社と書いてある。
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主祭神を見て大仰天した。なんと八千矛とかいてある。おまけに歳神様の名前もある。
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拝殿に到着して早速八千矛王に参拝する。
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奥をよく見たが 残念ながら本殿が大社造なのかどうかわからなかった。

しかしここ大和の中心地で大国主を祀る神社は大神神社をはじめたくさんある。
しかし 出雲王家の第八代主王(大名持)を 本名で祀る神社があるとは思っても見なかった。

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「八千矛」とは出雲王朝第八代主王の本名である。

秦国からの渡来人徐福らに主王八千矛と 副王八重波津身の二人がほぼ同時に幽閉殺害された。

徐福の子孫の物部家の王たちは 徐福らに殺された二人のたたりを恐れて 全国に二人の霊を祀る神社を建てた。
記紀で書かれた二人の名前は 大国主と事代主だ。

主王の役職名は 大名持ちと言うので 大国主のほかに 「大汝」とか「大名ムチ」とか言う名前で祀られ、
副王は役職名を少彦というので、事代主と言う名前のほかに少彦名とか恵比寿という名前で 祀られた。

二人が幽閉殺害された 稲目洞窟と志都の岩屋を尋ねた記録は このブログの2013年3月13日の記事にあります。


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古代出雲王朝は 主王(大名持)と 副王(少彦)の二人体制の王たちで統治されていた。


紀元前3世紀の末に 秦国人徐福は 秦の始皇帝の命を受け 不老不死の薬を求めて 蓬莱島(和国)に
沢山の海童(少年や少女)と技術者を連れて 出雲王国の石見の五十猛海岸に上陸した。

その1年ほど前に 徐福は忠実な部下の穂日と穂日の息子夷鳥(ひなどり)を出雲王家に派遣して
上陸の許可を取っていた。そのときの献上品の銅鐸が 出雲王家に神宝として長く保管されていたという。

また穂日の子孫が今の出雲大社宮司の家系である。

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このオオヤマト神社のご祭神を八千矛の本名で祭るのは今まで全国の神社をいろいろ見てきたけど、
初めてだったので 衝撃を受けた。

この神社のもう一人のご祭神 御歳神は古代出雲で信仰された歳神様で 新しい歳を迎えるときに必ずお祀りをしたという。

八千矛王や八重波津身が徐福らに幽閉殺害されたあと、皇子の味鋤高彦やクシヒカタたちは秦国人たちとの共生を嫌い
大和葛城地方へ移住した。

高鴨神社、鴨津波神社、一言主神社などを建てて 父君の霊を祀ったが その中に御歳神社もあり今も御所市に現存する。

また八千矛王の御霊は分祀されて あの戦艦大和の艦長室に祭られた。戦艦大和の乗組員や仕官たちは出撃前にこの神社へお参りして出征
したという、戦艦大和ゆかりの神社でもある。

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古代出雲王朝のトップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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